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福音の二重構造 摂理と 病・災害・死を考える
今日はヨエル書で学んだ福音の2重構造を復習します。
主は神。キリストとの永遠の結合。人間中心主義の誤った教えの否定。この3原則に基づいて講解します。
病気、災害、そして死。人が最も恐れ、最も避けたいと願うこれらの出来事は、すべて神の摂理のもとにあります。


コリント人への手紙 第一 7章13~15節 講解
"また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。
しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。"
「主語=神」、「結合が源泉」、「人間中心主義の完全否定」の三原則


ヨエル書2章28節、29節
ヨエル書2章28節、29節


天の御国は激しく攻められている
マタイの福音書11章12節「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、神の御国は激しく攻められています。そして激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」この言葉は、神の国がどのようにこの世に現れているのか、また人の心をどのように作り変えていくのかを示す大切な御言葉として理解します。


主語はゲラサの男ではない
マルコの福音書第5章1節から17節の全体シナリオの理解。 この章のテーマはキリストが闇の支配を断ち切り、魂を光の領域へ移す。主語はすべてキリスト、男、レギオン、2000匹の豚でもない。


聖なる光に貫かれる 再生と照明――聖霊が心を照らす恵み
神の聖なる光があなたの心に触れるとき、あなたは自分の罪の闇を知り、 同時に神の美しさと栄光を悟ります。
それは裁きの火であり、同時に再生の光です。 その光は人を砕き、同時に生かします。
真の信仰者は祈ります。
「聖なる、聖なる、聖なる主よ、 あなたの光は真実で、美しく、栄光に満ちています。」
Ⅱコリント4:6 「初めに『光あれ』と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光の知識を、 私たちの心に輝かせてくださったのです。」
人間の知恵によって神を知ることはできません。 神が聖霊によって、御言葉を通し、 キリストの真理を悟らせてくださいます。 そして、あなたは変えられていくのです。
私たちの再生と照明は、 すべてキリストとの結合から流れ出る恵みです。 キリストとの結合は救いの源であり、泉です。 聖霊は、 この結びつきを私たちの現実の歩みの中で 確かに働かせてくださいます。 だから私たちは―― 『恐れと喜び』で主に近づき、 御言葉により生かされ、生きるのです。


何から逃げるのか2- 1ペテロ5章8節「悪魔と罪の心の関係」
キリストと結ばれた者の勝利
サタンの働きは、社会や文化の見えない流れを通して起こります。彼のねらいは人の中の罪の性質であり、目的は信仰を壊すことです。
しかし――キリストと結ばれた人は、永遠の契約によって完全に守られています。その魂の中心は神のもの。聖霊が内に住み、サタンは外から火を投げても燃え上がることはできません。
「罪はあなたを支配しない。あなたは律法の下ではなく、恵みの下にいる。」(ローマ6:14)
「あなたがたのうちにおられる方は、世にいる者よりも偉大です。」(1ヨハネ4:4)
信徒は、サタンの吠え声を恐れる必要はありません。彼は吠えることはできても、かみつくことはできません。ただし、エペソ4:27の警告を忘れてはなりません。
「悪魔に機会を与えてはいけません。」
私たちは、すべてのことが神の主権の御手の中にあることを覚え、キリストの勝利のもとに歩む者として、常に上にあるものに心を向けていなければなりません。(コロサイ3:1)
それは、信仰の大盾となります。(エペソ6:16)


何から逃げるのか- 1ペテロ5章8節「悪魔と罪の心の関係」
選ばれた者の守りとサタンの限界
(1)神の守りの境界線
カルヴァンはこう言います。
「選ばれた者たちは堕落の中にあっても、神の秘められた御手のもとに保たれており、悪魔はその魂を完全には支配できない。」(『キリスト教綱要』II.4.2)
再生前でも、選ばれた人は完全にサタンの支配下にはありません。神の見えない御手がその人を囲み、堕落の只中でも保たれています。
(2)ヨブ記が示す制限
「では、彼のすべてをおまえの手にゆだねよう。ただし、彼自身には手を触れてはならない。」(ヨブ1:12)
サタンは神の許しなしには何もできません。攻撃できるのは外側――肉体や環境――の範囲に限られ、魂そのものには一切手を触れられないのです。
「神はサタンをも用いて御旨を成し遂げる」(創世50:20)
(3)神の鎖につながれた敵
R.C.スプロールは言います。
「サタンは神の鎖につながれた犬のようなものだ。神が鎖を伸ばさない限り、一歩も動けない。」(『The Holiness of God』)
サタンの「自由」は見せかけに過ぎません。


病、災害、死に対する神の主権 ヨブ記(ショート)
病 、災害、死に対する神の主権がどのようなものであるかを聖書から理解して行きましょう。
選ばれている人々と選ばれていない人々、それぞれに病、災害、死の意味は大きく変わります。このことを最初に心において忘れないようにしてください。
1. 神の主権を認めない考え方の主張
「病気は罪の結果である。だから悔い改めれば癒される。」
この誤った教えはしばしば「因果応報の教え(retribution theology)」と言われます。この教えは旧約のヨブ記の友人たちが代表として聖書の中に現れます。
ヨブ記の中で、ヨブの友人たち(エリファズ・ビルダデ・ツォファル)が「ヨブの苦しみは罪の罰」だと主張して責める場面がいくつもあります。


不品行を避けなさい
律法主義によって人の心のなかは、むしろ「やってみたい!」って欲望が強くなってしまうのです。
それは、人間が自分の力で罪の性質に勝とうとするやり方の結果です。
人間中心の律法主義、必ず、人間は罪の性質に負けるとパウロは教えています。
聖書はどう教えているのでしょうか?
日本語の新改訳聖書にはⅠコリント6:18にこう書いてあります。 注意して読みましょう。
「不品行を避けなさい」 この教えの意味を人間中心の考え方で読んではいけません。
ここで使われている「避けなさい」という言葉はギリシャ語では「φεύγε(フェブゲ)」、「逃げなさい!」という意味です。
新改訳聖書の「避けなさい」と言う表現は自分の意志の力で努力して避けるように聞こえてしまいます。それは原語から検証すると良い解釈ではありません。
何度も言いますが、自分の力で努力して良いことを行い、義を得ようとする行為は律法主義です。律法主義は自分の力で戦うように求めます。そして律法主義では、必ず、主語は「私」が主語、自分になります。
自分は律法主義に陥っているかどうかの見極め方はとても簡単


「代償を量りなさい」ってどういうこと? 福音構造と変わる心
イエスさまの「代償を量りなさい」とは、人間には無理だと悟らせる問いかけ。
本当の信仰とは「自分をあきらめてキリストに頼ること」。
神が聖書と聖霊を通してキリストの栄光を示してくださるとき、心は変わる。(パウロの回心)
そして 結合 → 再生 → 悔い改めと信仰 → 義認 → 聖化 の流れの中で、弟子として従う歩みが実現する。
イエスさまは「あなたのすべてを捨てなさい」と言われます。でも、それは自分の努力ではできません。
だからこそ、神が御言葉でキリストの栄光を見せ、聖霊が心を変え、「無理だったこと」を「従いたい心」へと変えてくださるのです。
「代償を量りなさい」という命令は、私たちを落ち込ませるためではなく、キリストの恵みに満ちた招きへ導く真実の問いかけなのです。


十字架の御業と本当の救い
「十字架の御業」、また「あがない」は救いにおける中心教義です。
これをわかっていないということは、その人は救われていないのか?
ここについて少し話したいと思います。
救いというのは、どのように私たちに来るのか?
聖書をしっかりと見つめて考えていくと、聖書はこのように言っています。
救いにおける一番重要な部分、それは「選び」です。
そして選びに基づいて何が行われているかというと、イエス・キリストとの結合の中において選びが行われているのです。
この選びの現れは、神の御指によって行われています。
決して私たちの意思によるものではありません。
また、決して私たちの知識によるものでもないということを理解する必要があります。


私は腐ってない! ― 信仰義認と聖化の土台
「私は腐ってない! ― 信仰義認と聖化の土台」
ローマ6:21 「ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。」
― 現代人の叫び「私は腐ってない!」
私たちは日常でよく耳にします。 「人を傷つけるようなことはしていないから、大丈夫。」
「悪い人もいるけど、自分はそこまでじゃない。」 「犯罪者と比べれば、私はまだマシだ。」
こうした声の根底にあるのは、まさに 『私は腐ってない!』 という自己主張です。
しかし、それは聖書から見れば全くの錯覚であり、神の御前では通用しない言葉です。


「いのちの御霊の律法」
キリストとの結合による「いのちの御霊の律法」とキリストのからだ
ガラテヤ5:16 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません。」
いのちの御霊の律法、原理は「御霊によって歩む」とは、「御言葉=信仰によって生きる」ことです。
信仰は、自分の力に頼らず、すべてを神にすがりつき生きること。
それは御霊によらない人間の方法や努力ではない。絶えず御言葉を通して神に、頼む生き方。
その生き方は個人的な生き方ではありません。それはキリストの体である選ばれ、召し出された人々の共同体、教会、交わり、説教、賛美、祈りの中にある生き方です。
コロサイ3:16は言います。
“キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。”
この理解はとても重要です。神は時の始まる前から人々を神の住まい、教会として選んだのです。
キリストとの結合による「いのちの御霊の律法」は真の信仰者の共同体となります。


キリストとの結合の教義は信仰者を異端から守る
【1】永遠の選び vs. 人間の決心
― すでに「キリストのうちに」置かれている者たち
(事例) 霊的戦いは、救いは地域を支配する悪霊との戦い「あなたの決断」や「断ち切りの祈り」が呪いや支配を破る鍵だと主張
「神から与えられる信仰を通して恵みによる救い」をすり替え
「人間の宗教軍事的な思想に基づく行為と意志に依存させる決断主義的異端」
しかし、聖書は語る:「神は世界の基が据えられる前から、キリストにあって私たちを選ばれた」(エペソ1:4)
この選びとは、私たちが神を選ぶのではなく、神が私たちを永遠のキリストに結合されており、その永遠の結合に選ばれたという主権的恵み
➡ この私たちの救いの完成はこの全知全能の神の主権の名誉と栄光にあります
したがって、守りも断ち切りも、すでにキリストのうちにある私たちに与えられている。
(事例)霊的戦いにおけるテーマ 「日本の救い」
霊的戦いでは「日本国家、民族の救い」を勝ち取ると言う考えにより、愛国思想と結びつく
<事例 霊的戦いの思想 > 神の主権、キリストとの結合は存在しない


神との結合「キリストとの結合」にある奥義
この結合について語るときに、どうしても見落としてはならない大切な側面があります。それは父なる神、御子キリスト、聖霊なる神についてです。キリストとの結合がその父なる神、聖霊なる神との交わりに結合する事実です。


表面的な言葉に騙されない
表面的には「信仰義認」「恵みによる救い」「聖霊の導き」などの福音的言語を用いながら、実際には決断主義・経験主義・自己吟味主義が混入している典型的な事例を挙げ、その欺瞞構造を明らかにします。
このような話は現代の多くの教会でそれが本当だと思って話されています。目を覚ましていてくだい。


聖書は誰のために書かれたのか神との結合 ルカ8:43–48における真の救い
1.聖書解釈の鉄則:神の主権の視点から読むこと
聖書解釈の第一の鉄則は、神の主権に立って永遠のご計画の視点から読むことです。救いも「信じる」ということも、すべて神の御意志と御業によって成り立っています。人間の信仰・意志・行いは、神の選びと摂理に基づく結果です(ローマ9:16)。


「神との結合1 ろうそくの火と部屋のたとえ」
「ロウソクと部屋の例え 結合」
聖霊によって三位一体の神と結ばれるとは? (R.C.スプロールの改革神学に基づいて)
ロウソクと部屋のたとえ:キリストは火、私たちは部屋
ある家に暗い部屋があります。中にロウソクの火が灯されると、火の光と熱は部屋全体をやさしく照らし、あたためていきます。
このたとえの中で
ロウソクの火はキリストを表しています。
部屋は信者の全存在――つまり、あなたの意志、感情、思い、身体、人格そのものを表します。
そして、聖霊は空気のように、火の光と熱を部屋中に届ける働きをするお方です。
部屋とは「あなたのすべて」
部屋はただの空間ではありません。
この部屋には――
あなたの意志(どこへ向かおうとするか)
感情(何に反応し、何を愛し、何を嫌うか)
思い(何を考え、何に価値を置くか)
身体と生活
そして、あなたという存在のすべて
――が含まれています。
この全体が「あなた」という「器」であり、「部屋」です。


キリストとの結合と摂理 ― 救いのすべてがそこから始まる ―
キリストとの結合(union with Christ)とは、神が選んだ者をキリストと霊的に結び合わせることです。この結合のうちで、私たちは「キリストにある者」とされ、そこから再生・信仰・義認・聖化・栄化といった救いのすべての恵みを受けるのです。
この結合を、3つの側面で理解します。
全人格的:真の信仰者の思い・感情・意志・存在すべてがキリストと結びづけられ、その思い・感情・意志・存在すべてはいつもキリストの影響を受けていきます。
契約的:永遠の約束です。神は永遠の救いを約束として信仰者に与えました。それはキリストと信仰者が約束によって結合しているからです。
有機的:ぶどうの木と枝のように、キリストに絶えず依存して生かされていると言う霊的事実の結合です。
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