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交わりについての学び
私たちが共に持つ礼拝後の交わりについて学びたいと思います。礼拝後の交わりを休憩やお茶菓子タイムと思っている理解の浅いクリスチャンは多くいます。多くの教会ではお茶菓子タイム、お食事タイムなどありますが、それを礼拝と理解している人々はいません。
礼拝後の交わりは単なる休憩や慰めの時間ではありません。礼拝の一部なのです。これは、神が御自身の民を建て上げるために与えてくださった聖なる恵みの手段です。したがって、交わりをどう理解し、どう実践するかは、神の御前でとても重要です。


日本における決断主義的伝道の歴史
世界的な流れと日本におけるキリスト教の歴史をみると明治時代から現代まで日本で伝道された福音は人間の自由意志とその選択により救われると言う決断主義の福音でした。SNSがない時代においては神の主権による福音を聞くことは極めて稀なことだったと言わざるを得ません。
神は語る者を再び立てる。神は今も生きておられ、御心にかなう者を必ず立てられます。
その者は、
人の承認を第一とせず、
制度に逆らうのではなく、
制度を福音のために改革し、
十字架と義認の真理を、何者をも恐れずに語ります。
「ただ主の召命と御言葉によって語る者」
それはRCスプロールやジョン・マッカーサーのように、福音の純粋性に生きた者たちです。
あなたは今、何をなすべきでしょうか?
語る召命を受けたなら、沈黙してはいけません。
教会の制度に仕えるなら、語る者を見分け、正しく立てなさい。
教会に属する信徒なら、語る者を支え、聖書の制度回復のために祈りなさい。


祈りは依存 ― 再生前から始まっている主の訓練
みなさん、「祈り」ってなんでしょうか?
「祈れば神さまが動いてくれる」「祈れば問題が解決する」――そう思っていませんか?
でも、それは聖書が教える祈りではありません。
祈りは、神を動かして自分の願いを叶えるための手段ではありません。
祈りとは、神にすがり、神の御心に従う者へと変えられていく「信仰の応答」そのものです。


十字架の血により贖われ罪と戦う
キリストはすでに贖いを完全に成し遂げられました。しかし、罪との戦いは今も続いています。それは、神が私たちをきよめ続けておられるしるしです。御霊が日々、戦いの中で私たちを支えてくださっています。


「この岩の上に、わたしはわたしの教会を建てる」
「私は芯の芯まで腐っています。イエス様、どうか助けてください。このような者をあわれんでください。」
この叫びが心の底から湧き上がるということは、いったい何を意味しているのでしょうか?
これは単なる悲鳴でも、芝居がかった感情表現でもありません。
これは、神によって砕かれた魂の叫びであり、聖霊によって与えられたまことの信仰告白なのです。
すなわち、これが信仰と悔い改めそのものです。
この信仰と悔い改めにより、神はその人を義と認めてくださいます。
これを信仰義認と呼びます。


「救いと教会 ― 教会との結合」
「教会に属していないと救われないのですか?」「救われたあと、自分に合った教会を選べばいいのでは?」この問いは、現代の教会、信仰者、すべての人々にとって非常に重要な問題です。


「私は絶えず罪人であり、義人である」
―― 私はいつも芯の芯まで腐っている。けれども、神は御前において私を完全に義と宣言される。この確信を与えてくださる神に栄光を捧げます。この逆説の恵みに、私はただ畏れ慄くばかりである。―


「ゆるすって、どういうこと?」――イエスさまとつながる者としての歩み
【はじめに】 みなさん、「ゆるす」って難しいと思ったことはありますか? 友だちにひどいことをされたとき、「ぜったいにゆるせない!」と思ったことがあるかもしれません。でも、聖書はこう言っています。 「神さまがあなたをゆるしてくださったように、あなたも人をゆるしなさい」(エペソ...
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