祈りは依存 ― 再生前から始まっている主の訓練
- thewordforyoujapan
- 6月27日
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更新日:8月11日
2025.6.20_The Word for you 祈りは依存 ― 再生前から始まっている主の訓練
マルコの福音書 9章25~29節
1. はじめに:祈りってなに?
みなさん、「祈り」ってなんでしょうか?
「祈れば神さまが動いてくれる」「祈れば問題が解決する」――そう思っていませんか?
でも、それは聖書が教える祈りではありません。
祈りは、神を動かして自分の願いを叶えるための手段ではありません。
祈りとは、神にすがり、神の御心に従う者へと変えられていく「信仰の応答」そのものです。
2. 今日の聖書:マルコ9章25〜29節
ある父親が、悪霊に苦しめられている息子をイエスの弟子たちのもとに連れてきました。
弟子たちは、イエスから「悪霊を追い出す権威」を与えられていましたが…このときはできなかったのです。
イエス様はその子から悪霊を追い出しました。
その後、弟子たちはこう尋ねます:
「どうして私たちは霊を追い出せなかったのですか?」
イエス様の答えはこうでした:
「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」
3. 再生されていなかった弟子たち
ここで大事なのは、弟子たちはまだ「新たに生まれて」いなかったということです。再生とは、神が聖霊によって心を新しくされること。信仰も祈りも、再生がなければ生まれません。
弟子たちは祈れなかった。できなかった。それは当然のことでした。まだ新しくされていなかったからです。
4. ではなぜ、イエス様はできない弟子に権威を与えたのか?
それは、「失敗させるため」ではなく、「主が不在を教えるため」です。
弟子たちは「任命された」「力をもらった」ことで、自分たちの中に何かがあると思っていました。
でもそれは違いました。
イエス様は、あえて彼らを失敗させることで、こう教えようとされました:
「あなたは自分の力では何もできない。私が与えなければ、あなたは祈ることも、従うことも、信じることもできない。」
5. 訓練は再生される前から始まっていた
ここが今日のポイントです。
弟子たちはまだ再生されていない。祈れないし、信じられない。でもイエス様は、それでも彼らに訓練を与えていたのです。
・ 訓練は、再生を起こすための条件ではありません。
・再生されたときに、かつての訓練が「意味を持つようになる」ための神の備えです。
イエス様は弟子たちに、できないこと、祈れないことを体験させておられた。それは、将来祈る者とされるときの「燃え上がる種火」となるためです。
6. 祈りとは何か(本質的定義)
ここではっきりさせておきます:
祈りは、神を操作して、自分の目的を達成するための手段ではありません。
祈りは、自分が無力であることを神に告白し、神の御心に従う者へと砕かれていく応答です。
祈って癒されたから信仰があるのではありません。祈る者とされたのが神の恵みであり、それが「信仰」です。
7. 終わりに
祈りは、信仰者が自分からつくり出すものではありません。あなたが神を操作して、あなたが思う必要なものを与えてもらうため方法ではありません。
神は永遠の昔からご自身の時の中であなたのために祈りを準備していました。
もしあなたが、自分の意思で神に近づき、神にすがりついたと思っているなら、それは根本的な誤解です。神があなたの心を変え、砕き、祈る者とされたからこそ、あなたは祈ります。
祈りには、偽物と本物があります。
・偽りの祈りは、神を動かして自分の願いを叶えようとするものです。
・ 本物の祈りは、神ご自身が与える依存の叫びです。神にすがりつき、助け求める主の祈りの本質です。
神の栄光です。
弟子たちができなかったのは、祈れなかったからです。
祈れなかったのは、再生されていなかったからです。
主はその失敗を通して、後に祈る者へと変えられていくための訓練を始めておられたのです。
主は、あなたを祈る者とされるために、救われる前から、今も、将来もその訓練を行います。

