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コリント人への手紙 第一 7章13~15節 講解
"また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。
しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。"
「主語=神」、「結合が源泉」、「人間中心主義の完全否定」の三原則


天の御国は激しく攻められている
マタイの福音書11章12節「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、神の御国は激しく攻められています。そして激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」この言葉は、神の国がどのようにこの世に現れているのか、また人の心をどのように作り変えていくのかを示す大切な御言葉として理解します。


光に照らされる悔い改め
もし、今あなたの心に、「主よ、あわれんでください」
という祈りがあるなら、それは弱さではありません。
それは、イエスの死と命が、聖霊によってあなたの魂に結びつけられている証です。
再生は神のわざ。照明は神の光。悔い改めはその実。信仰は向けられた心の向き。聖化はその心が栄光の前味をもって歩む生涯。
すべて同じ キリストの命 です。 アーメン。


聖なる光に貫かれる 再生と照明――聖霊が心を照らす恵み
神の聖なる光があなたの心に触れるとき、あなたは自分の罪の闇を知り、 同時に神の美しさと栄光を悟ります。
それは裁きの火であり、同時に再生の光です。 その光は人を砕き、同時に生かします。
真の信仰者は祈ります。
「聖なる、聖なる、聖なる主よ、 あなたの光は真実で、美しく、栄光に満ちています。」
Ⅱコリント4:6 「初めに『光あれ』と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光の知識を、 私たちの心に輝かせてくださったのです。」
人間の知恵によって神を知ることはできません。 神が聖霊によって、御言葉を通し、 キリストの真理を悟らせてくださいます。 そして、あなたは変えられていくのです。
私たちの再生と照明は、 すべてキリストとの結合から流れ出る恵みです。 キリストとの結合は救いの源であり、泉です。 聖霊は、 この結びつきを私たちの現実の歩みの中で 確かに働かせてくださいます。 だから私たちは―― 『恐れと喜び』で主に近づき、 御言葉により生かされ、生きるのです。


ハイデルベルク信仰問答(Heidelberger Katechismus)
ハイデルベルク信仰問答(Heidelberger Katechismus)は、プロテスタント(改革派教会)で最も広く用いられてきた信仰教育文書の一つであり、特に改革派神学(カルヴァン主義)に基づいた教理問答です。


なぜ、信じても苦しみが続くのか?2 すでに/いまだの救い
信仰者は「二つの世界」を生きている
前回(第1回)で学んだように、「上にあるものを思う」とは、努力して天を目指すことではなく、
外からサタンと罪の誘惑、うちにある罪の性質から神の完全な支配へと逃げ込み、とどまる信仰の姿でした。
しかし、その「上にとどまる」信仰生活には、
① 永遠の救いがすでに完成している現実と、
② 今も未完成の中を栄光に向かい生きている現実
① と②とのあいだに、ひとつの緊張があります。
それはすでに救いが完成していながら、
いまだその完成を待っている
と言う信仰者の生き方です。
それが、「すでに」と「いまだ」の間を生きるという現実です。
私たちは「すでに永遠に救われた」けれど、
「いまだ時の流れの中で完成へ進んで行く」。
この二つの現実が信仰の中で常に交差しています。


何から逃げるのか2- 1ペテロ5章8節「悪魔と罪の心の関係」
キリストと結ばれた者の勝利
サタンの働きは、社会や文化の見えない流れを通して起こります。彼のねらいは人の中の罪の性質であり、目的は信仰を壊すことです。
しかし――キリストと結ばれた人は、永遠の契約によって完全に守られています。その魂の中心は神のもの。聖霊が内に住み、サタンは外から火を投げても燃え上がることはできません。
「罪はあなたを支配しない。あなたは律法の下ではなく、恵みの下にいる。」(ローマ6:14)
「あなたがたのうちにおられる方は、世にいる者よりも偉大です。」(1ヨハネ4:4)
信徒は、サタンの吠え声を恐れる必要はありません。彼は吠えることはできても、かみつくことはできません。ただし、エペソ4:27の警告を忘れてはなりません。
「悪魔に機会を与えてはいけません。」
私たちは、すべてのことが神の主権の御手の中にあることを覚え、キリストの勝利のもとに歩む者として、常に上にあるものに心を向けていなければなりません。(コロサイ3:1)
それは、信仰の大盾となります。(エペソ6:16)


病、災害、死に対する神の主権1 ヨブ記
病、災害、死に対する神の主権がどのようなものであるかを聖書から理解して行きましょう。
選ばれている人々と選ばれていない人々、それぞれに病、災害、死の意味は大きく変わります。このことを最初に心において忘れないようにしてください。


十字架の御業と本当の救い
「十字架の御業」、また「あがない」は救いにおける中心教義です。
これをわかっていないということは、その人は救われていないのか?
ここについて少し話したいと思います。
救いというのは、どのように私たちに来るのか?
聖書をしっかりと見つめて考えていくと、聖書はこのように言っています。
救いにおける一番重要な部分、それは「選び」です。
そして選びに基づいて何が行われているかというと、イエス・キリストとの結合の中において選びが行われているのです。
この選びの現れは、神の御指によって行われています。
決して私たちの意思によるものではありません。
また、決して私たちの知識によるものでもないということを理解する必要があります。


律法による義、信仰による義-律法主義、霊的戦い神学、福音の三要素はなぜ十字架の御業を冒涜するのか
信仰による義がもたらす結果
ローマ10:1-11はキリストとの結合を源泉とする救いの実際的な適用を説明している。信仰から来る告白は義認の条件と言うより、むしろ、救われた結果の信仰が外的・継続的にその人に現れると言う聖化そのものである。
・ローマ10章の中核
救いの土台はすでに成し遂げられたキリストの御業
人は自分の努力で天に登ったり、死の陰府からキリストを引き上げたりすることはできない(10:6–7)。 これは「律法による義」の不可能性を示す。
すべてはすでに キリストの受肉・死・復活という完成された福音 による。
信仰による義は、人間の行為ではなく、神の恵みの絶対的主導。
信仰と告白は聖霊によって与えられた心の動機のあふれ
「心で信じて義と認められ、口で告白して救われる」(10:9–10)。
スプロールはこれを「救いを獲得する条件」とは理解しない。
むしろ、神が新しい心を与えたときに必ず現れる内的動機の外的表現。
したいこと=志しとしての告白であり、律法主義的な「しなければならない」ではない。


私は腐ってない! ― 信仰義認と聖化の土台
「私は腐ってない! ― 信仰義認と聖化の土台」
ローマ6:21 「ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。」
― 現代人の叫び「私は腐ってない!」
私たちは日常でよく耳にします。 「人を傷つけるようなことはしていないから、大丈夫。」
「悪い人もいるけど、自分はそこまでじゃない。」 「犯罪者と比べれば、私はまだマシだ。」
こうした声の根底にあるのは、まさに 『私は腐ってない!』 という自己主張です。
しかし、それは聖書から見れば全くの錯覚であり、神の御前では通用しない言葉です。


キリストとの結合と摂理 ― 救いのすべてがそこから始まる ―
キリストとの結合(union with Christ)とは、神が選んだ者をキリストと霊的に結び合わせることです。この結合のうちで、私たちは「キリストにある者」とされ、そこから再生・信仰・義認・聖化・栄化といった救いのすべての恵みを受けるのです。
この結合を、3つの側面で理解します。
全人格的:真の信仰者の思い・感情・意志・存在すべてがキリストと結びづけられ、その思い・感情・意志・存在すべてはいつもキリストの影響を受けていきます。
契約的:永遠の約束です。神は永遠の救いを約束として信仰者に与えました。それはキリストと信仰者が約束によって結合しているからです。
有機的:ぶどうの木と枝のように、キリストに絶えず依存して生かされていると言う霊的事実の結合です。


広さ、長さ、高さ、深さ
パウロは、エペソの信徒たちのためにこう祈りました。
「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、
あなたがたに知恵と啓示の御霊を与えて、神を知ることができるようにし、
心の目をはっきり見えるようにしてくださいますように。」
(エペソ1:17–18)
この「知る」とは、ただ情報を得ることではありません。
それは、心の目が開かれ、神の救いのご計画を全体として御霊により啓示され悟ると言うことです。


「私は絶えず罪人であり、義人である」
―― 私はいつも芯の芯まで腐っている。けれども、神は御前において私を完全に義と宣言される。この確信を与えてくださる神に栄光を捧げます。この逆説の恵みに、私はただ畏れ慄くばかりである。―


「イエスが教えた本物の信仰のしるし」— マタイ5章から学ぶ
「山上の説教」と「幸いの教え」は密接に関係していますが、範囲と焦点が異なります。以下に明確 な違いを示します。


人はどうして、キリストを信じるようになるのでしょうか?
2025年4月20日 みことばをあなたに みんなに、ひとつ大切な質問をします。 「人は、どうしてキリストを信じるようになるのでしょうか?」 自分でそう決めたから? それとも、何かが先に起こったのでしょうか? この質問は、じつはとても大事なことです。...


信仰義認―わかっただけじゃ救われない―救いの中心とは?
みなさん、こんにちは。 今日、とても大事なことを一緒に学びます。それは、「イエスさまのことを知っているだけでは救われない」「救いの中心は、自分が芯まで腐っていることを神に悟らされること」ということです。 聖書にはこう書かれています。...
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