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相続人

  • 2 日前
  • 読了時間: 17分

2026.4.18 豊川の家の教会礼拝メッセージ

 今日は、ガラテヤ書3章26節から29節、そして4章1節から3節 を中心にお話しします。

 ガラテヤ書にはこう書かれています。

「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子ども です。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたは、みなキリストを着たのです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラ ハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」


  相続人とは、御国の相続人です。何を相続するのかと言えば、神の御国を相続します。 ここでパウロは、キリストにある者を神の子どもと言っています。そして、約束の相続人と呼んでいます。 この箇所は、特にガラテヤの諸教会に対して語られていますが、これは 信仰によって、キリストとの結合から流れ出る神の選び、神の主権によって与えられる信仰を通して義とされている者たちのことです。

 信仰義認のところで、信仰から始まって話してしまうと、どうして、その信仰がどこから来たのか、というテーマが抜けてしまいます。ですから、信仰と言ったときに、「信仰は神が与えてくださる。」というところからスタートしなければなりません。

  そして、相続人という身分は、人の努力や宗教的な達成から始まるのではありません。

 つまり、救いはすべて神から与えられているのです。


 「信仰を通して恵みにより義とされる」というこの御言葉の発端において、パウロはいつも神との結合、キリストとの結合に戻ります。そしてエペソ書は、その源泉をこう語っています。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされました。」 また、 「この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者とされました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的に従って、あらかじめ定められていたのです。」

 この並びによって、私たちにははっきり見えてきます。相続人の身分は、時の始まる前からすでに定められているということです。

 ですから、あなたが頑張って御国を獲得するのではありません。御国は時の始まる前から定められており、子どもとなる身分も、神が世界の基の据えられる前にすでに定めておられたのです。

 神の相続人は、この時間の中で頑張って受け継ぐということではありません。そういうものになるのではありません。あなたが強い信仰を持って相続人になったのではないのです。私たちは、相続人という身分を、時の始まる前、世界の基の据えられる前に、すでに神によって定められていたのです。 ここに戻ります。私たちは神のこの身分を、世界の基が据えられる前から、あらかじめ定められています。

 エペソ書では、「愛をもって定められていた」と言っています。 したがって、私たちのすべての出発点は、「私たちが信じた」ということではありません。私たちの信仰によって始まったのではないのです。 だから、信仰義認を学んでいる人に私は言いたいのです。信仰義認 は、あなたの信仰によって始まったのではありません。それは世界の基が据えられる前から、神によってあらかじめ定められていたのです。 出発点はキリストとの結合にあります。 神の民は、永遠においてキリストにあって選ばれており、キリストとの結合の中で相続人にあらかじめ定められていたのです。


 相続人という この身分は、神の永遠の定め、神が定めておられることです。 ガラテヤ書でパウロは、キリストにある者を神の子ども、相続人であると語りました。エペソ書では、世界の基の置かれる前から、神の子ども であること、そして相続人であることを、キリストにあって愛をもって定 めておられたということを、はっきり明らかにしています。

 ですから、「私が信じて義とされた」という言い方は、そのままでは不十 分です。私が信じて義とされたのではなく、神があらかじめ定めておられる子どもたちを時の中に置き、キリストとの結合の現れが時の中において実際のものとなり、その実際があなたの心を新しくするのです。それは新しい創造です。


 では、ガラテヤ書の真の中心は何でしょうか。信仰義認でしょうか。も ちろん信仰義認は重要です。しかしガラテヤ書の強調は、新しい創造です。 ですから、人は信じて義とされるというのは全く正しいです。しかし、その前提は「神の子であるということ」が最初から定められていた、という ことです。それが時の中で現れているということです。だからこそ、誰一 人、自分の力によって義とされたと誇ることができないのです。パウロ はエペソ書でそのように語っています。

 パウロのこのガラテヤ書を読むとき、土台は、キリストにあって選ばれていること、そして結合の中で相続人と定められていることです。ですから、聖書を読むときには、絶対に立つべき土台があります。それは、あらかじめ神が定められている人たちに、この書が書かれているということです。

 聖書は未信者のための学問書として書かれているのではありません。 聖書は、あらかじめ神によって定められている子どもたち、御国の相続人である人たちに書かれているものです。そこを絶えず基準にしてください。それが基準です。そしてその基準は、新しい創造です。創造は神の永遠の御国の始まりに基準が置かれました。それは新しい創造です。

 ガラテヤ書6章14節から16節を読みます。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとす るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対して十字架につけられ、私も世に対して十字架につけられたのです。 割礼を受けているか受けていないかは大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。この基準に従って進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」

 この基準とは、私たちの聖書の基準です。それは新しい創造です。パ ウロはこう言いました。「この基準に従って進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に」と。 この箇所で、パウロは二つの民族を語っているのではありません。強調しているのです。パウロはよくこの手法を使います。言い方を変えて強調するのです。 「この基準に従って進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に。」 これは、信仰によって義とされる、すなわち、神の選びの民のことを言っています。そしてその選びの民の基準は、新しい創造です。

 

 信仰は、あなたが始めたものではありません。信仰はキリストが始めてくださるのです。ですからヘブル書で、キリストが「信仰の創始者、また完成者」と言われているのです。あなたが信仰を始めたのではなく、 キリストが信仰の創始者なのです。それは神の新しい創造です。あなたのうちに与えられている信仰は、神の新しい創造なのです。


  戻ります。ガラテヤ書3章の終わりで、「あなたがたはキリストにあって 神の子どもである」と言っています。「あなたがたはキリストを着た」「あなたがたはアブラハムの子孫である」「約束による相続人である」と言 っています。

 つまり、神の相続人とは、キリストとの結合による選ばれた者、エペソ書に現れている人たちのことです。エペソ書の「世界の基の置かれる前に選ばれた人々」「キリストにあって愛をもって神の子どもと定められ た人たち」、相続人とはその人たちです。そしてその人たちの現れは、神の新しい創造です。 その人々は、神によって新たに創造された神の子どもであり、選ばれた人々です。それが神のイスラエルです。 しかし、新しい創造として創造された人々は、時の中において現れてきます。けれども時の中で、初めは幼い者として置かれていました。

 ガラテヤ書4章1節から3節を読みます。 「さて、相続人は、全財産の持ち主であっても、子どものうちは奴隷と少しも変わることがなく、父の定めた日までは後見人や管理者の下にあります。同じように、私たちも子どもであった時は、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。」 ここで言っていることは、3章の終わりとつながっています。3章の終わりでは、神の子どもであること、相続人であることが語られていました。 

 ここで、「さて」という言葉がきます。「さて」というのは、話が切り替わることを示しています。 何が変わっているのでしょうか。それは、その神の子どもである人たちに対して、一つ思い出させるように、一つ説明するために語っているのです。主語はあなたがたです。あなたがたは相続人です。

 パウロは、「あなたがたは相続人であり、全財産の持ち主ですよね」と言っています。 けれども、「子どものうちは奴隷と少しも変わることがない。父の定めた日までは後見人や管理者の下にあります」と言われています。すなわちこれは、罪の中で死んでいたあなたがたのことを言っています。

  エペソ書2章1節から3節を見ます。 「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつ てはそれらの罪の中にあって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、かつてはその中にあって自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、他の人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

 ガラテヤ書4章1節から3節と、エペソ書2章1節から3節は、同じことを言っています。言い方が違うだけです。 私たちは、永遠の結合の中において神の子どもとされ、御国の相続人という位置を与えられています。

 しかし、時の中にあったとき、私たちは 奴隷でした。全財産を持ちながら、私たちは罪の中に死んでおり、この 世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者の下にあり、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 ですから、ここでパウロが幼い者と言っているのは、捨てられた者という意味ではありません。最終的に相続を持たないという意味でもありま せん。本来は相続人であり、絶対的に神の子どもである者たちを、まだ時の中でその身分が顕在化していない段階にある人々として、「幼い者」と呼んでいるのです。  したがって、ここでの幼い者とは、相続人ではないという意味ではあり ません。絶対的に相続人なのです。しかし、まだ再生していない、新たに生まれていない状態のことを言っています。 私たちは、世の始めから神の子としての身分を受け、相続人とされていました。それは神の絶対的な選びの中で、神の主権の中でです。  しかし、私たちが新たに生まれていない段階では、罪の中にあり、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者に従って歩んでいました。その相続人のことを、パウロは「幼い者」と呼んでいるのです。 そして、「奴隷と変わりはない」と言っています。ここで言う奴隷とは、相続人ではないという意味ではありません。相続人であるのに、その相続人としての自由がまだ現れていない状態を示しています。身分としては相続人、状態としては奴隷であった、ということです。

 パウロは、子としての身分と、時間の中での状態を、「さて」という言葉で区別して語っています。ですから、ここでの奴隷は、再生前の拘束された状態を示しています。これがパウロの意図です。しかし、それは永 遠の神の定めの中で、相続人であることが前提です。 再生されている人たちは、相続人であることが時の中で現れている人たちです。再生されていない人たちは、幼い者たち、すなわち相続人で あるという身分を持ちながら、この世のもろもろの霊の下で拘束されている人たちです。

 では、「もろもろの霊」とは何でしょうか。パウロは4章3節で「この世のもろもろの霊」と言っています。これは、この世に属する初歩的で、外的で、拘束的な秩序のことです。わかりやすく言えば、この世の形式主 義、形式、規則、儀式、宗教的な枠組みのことです。 特に「日、月、季節、年」を守ること、それを守れば安全である、それを行えば義とされる、そういう外面的な枠組みの下に人が置かれている状態のことを言っています。要するに、キリストに取って代わるものです。キリストご自身ではなく、外側の決まりに見える秩序によって、安 全や救いを得ようとする、そういう枠に縛られている状態を言っています。これを「もろもろの霊」と言うのです。つまり、キリスト以外のものに頼ることです。

 偶像礼拝は、偽りの神々や被造物に縛られることです。しかし偶像礼拝とは、キリストに取って代わるものの名前です。存在しない神、それが偶像です。

 律法主義は、規定や形式や行いが偶像になります。どちらも結局は偶像であり、それに縛られることになります。それらが「もろもろの霊」と呼ばれるのです。この二つに共通しているのは、キリストではないものに人が服するということです。それをパウロは「この世のもろもろの霊」と呼んでいます。 ですから、この「もろもろの霊」は、単に日本のような異教的偶像礼拝だけを言っているのではありません。伊勢神宮のようなものだけではないのです。律法主義も偶像礼拝と同じ根から出ています。表面はキリスト教の形をしていても、根本は同じです。

 ガラテヤ書でパウロが語っている相手は、ユダヤ教的拘束の下に戻ろうとしている人たちです。彼らはユダヤ教のもとに戻ろうとする騙しの中に入っていっていました。異邦人たちの偶像礼拝とは表面は違います。しかし、根は同じです。キリストの外に戻っていこうとするのです。

 教会でも、キリストの外に戻っていこうとする人がいます。生活の中でそういうことが起こります。しかしガラテヤ書は、そのような人たちに、「もろもろの霊の下に行ってはいけない」と語ります。そのもろもろの霊とは、キリストではないものです。 この世の生活の問題もあります。職場での問題もあります。いろいろな問題もまた、「もろもろ」です。

 偶像礼拝はわかりやすいです。偶像が置いてあり、それを拝めば偶像礼拝だとわかります。しかし、自分の内にある宗教的欲望は見えにくいのです。


 「私は福音を伝えたい」と言う人がいます。その言葉自体は一見正しく見えます。しかし、その根底が神によって与えられたものか、人間から出たものかによって、全く変わってきます。 神はすべてを支配しています。神はすべてのものを与えます。福音を語ることさえ、神があなたに与えなければ、あなたは本当の意味で神の福音を語ることができません。

 同じように見える言葉でも、人間中心で語る福音はこうなります。

「イエス・キリストは十字架で死なれ、三日目によみがえられました。この方を信じますか。信じますね。あなたは救われました。」

 しかし、これは福音の外面を持っていても、福音そのものではありません。

 福音とは、神が永遠の昔にあなたをキリストと結びつけ、時の中で神があなたに新しい命を与え、神を信じる者に変えてくださったということです。なぜなら、私たちはまったくの罪人であり、何一つ貢献することがないからです。しかし神は、御子によって私たちを御前に罪なき者と宣言してくださいました。私たちには何も誇るものはなく、すべてはキリストのみなのです。これが福音です。

 ですから、どこに中心があるかによって、福音は福音でなくなります。人間主体の宗教に変わってしまいます。同じ宗教語を使っていても、結果はまったく変わるのです。 偶像礼拝も律法主義も、結局はキリスト以外を求めることです。それは 聖化の過程にある者にも関係します。信仰義認の時だけの話ではありません。神は絶えず、信仰義認の土台の上に、信仰者をとどまらせます。それは自分の力によらず、神の恵みと働きによって、私たちが御子のかたちに変えられるためです。

 ですから、このもろもろの霊とは、ガラテヤ教会の立法主義、日本における偶像礼拝、異教的宗教、異端、また生活の中のさまざまな支配、 そういうものすべてに通じます。その根は同じです。キリストの外で生きようとする古い世界の構造そのものです。それはアダムの違反から始まっています。 律法自体は悪くありません。律法はきよいものです。神が与えたものです。問題は、律法を用いて、キリスト無しに、義や安全や確かさ、自分の救いの身分を得ようとするその態度です。そのとき律法は養育係ではなく、キリストに取って代わるものとして機能し始めます。

 だからどちらも奴隷なのです。たとえば、あなたが日常の仕事の心配の下にいて、そこに居続けるなら、あなたは仕事の心配の奴隷です。 自己中心という思想の奴隷です。それは律法主義と変わりません。そこには自由がありません。

 しかし神は言われます。「御霊によって歩みなさい。」 御霊によって歩くとは、神がすべてを支配しておられるという現実の中を生きることです。神の支配は宇宙の果てまで及んでいます。その現実の中に、自分が置かれていることを認めて生きることです。

 また、御霊によって歩くとは、キリストとの永遠の結合に始まり、その結合が決して解かれることなく、永遠にあなたとキリストが結ばれている、その現実の中に生きることです。

 さらに、神の摂理の中を生きることです。すべての出来事、現象が、あ なたの信仰と結びつけられているということです。神の支配は、大きなことだけではありません。あなたが職場で行う一つ一つのこと、あなたの考え、病気、悩み、信仰上の課題、すべてに神の支配が及んでいます。

 ですから、「すべての道で主を認めよ」ということばは、まさに御霊によって歩くことです。すべての道で神を認めるとは、神の主権を認めるということです。神は、あなたに必要な知識も経験も、お金も判断も、時の始まる前から備えておられます。そしてあなたは、神が与えてくださったものを用いて、この世を賢く歩むのです。 「すべての道で主を認めよ。」それはあなたを自由にします。

  では、「キリストを着た」とはどういうことでしょうか。3章27節で「キリ ストを着た」とあります。これは永遠の結合そのものではなく、永遠の結合が時の中で現れたことを言っています。 キリストを着たということは、あなたの日常生活の中で、キリストを着たという現実が現れてくることです。再生していること、信仰へ導かれていること、義とされていること、神の子として現されていること、それを指しています。 すなわち、ガラテヤ書3章後半は、救いが現れている状態です。4章 1 節から3節は、まだ再生していないが、神の子としての身分を受けており、その救いは保証されている、しかし時の中では罪の中に死んでいた状態のことを言っています。 矛盾ではありません。

 パウロは、源泉と現れ、身分と時間内の状態を分けて説明しているのです。 ですから、皆さんはこの福音構造を理解してください。神のご支配は細かなところにまで及んでいます。「私は何もやらなくていい」というのは 間違いです。すべての道において神を認めなさい。神は、与えた知識や経験や責任を通しても働かれます。

 

 全体をまとめると、神の相続人とは、永遠においてキリストとの結合の中にある者です。その身分は神の永遠の定めによるものです。しかし、その相続人としての身分は、時の中では最初から自由な子として現れてはいません。この世のもろもろの考え、自己中心的な考え方、 風習、行い、判断に支配されているところがあります。それを奴隷の状態と言います。 再生されたからといって、一晩でそれがすべて変わるわけではありません。聖化という過程は、私たちの人生の終わりまで続きます。

 しかし 御霊によって歩く、それが新しい創造です。私たちはその新しい創造の中を歩みます。その中には試練があります。その試練の中で、私たちは絶えず神に頼らざるを得ない者とされます。 パウロはガラテヤ書6章16節で言います。「この基準に従って進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平 安とあわれみがありますように。」 割礼を受けているか受けていないかは大切なことではありません。大事なのは新しい創造です。御霊による新しい創造です。神は私たちのうちに新しい創造を起こしてくださる方です。この方に私たちは頼って生きていきます。

 そして、この新しい創造とは、神のご支配、キリストとの結合、そしてすべての摂理が私たちに及んでいるということです。だからこそ、すべての道において神を認めるのです。細かな道においてもです。

 そのように、新しい創造の基準に従って進む人々の上に、神のイスラ エルの上に、平安とあわれみがありますように。


 では、お祈りします。 愛する天の父なる神様。 私たちのすべての道において、職場においても、学校においても、家庭においても、主を認める者としてください。 この新しい創造、御霊が私たちとともにおられること、主の主権が絶えず私たちを覆っていること、キリストとの結合が絶えず私たちの救いを保障していること、そして神の摂理が、私たちを試練を通してキリストに頼らざるを得ない者へと変えていかれること、その真理を感謝します。イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りします。アーメン。

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