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- キリストの証人の使命
2026.7.15 The Word for you キリストの証人の使命について今日は話しをします。 キリストの証人についてずっと話をしてます。今週の日曜日に、支配進学とキリストの証人について話をしました。今のこの時代の中には、教会の中には、この世界はまだサタンの支配にあるから、教会が祈って霊的戦いを行って、国や地域をサタンから奪還しなければならないという教えが多くあります。しかし、聖書は本当にそのように教えてるのか。 神は聖書全体を通して、キリストは十字架と復活によって、すでに天地の王として着座され、全てを支配しておられると告白しています。したがって、キリストの証人の使命とは、神の国を拡大するのではなく、すでに王として支配しておられるキリストを証しすることです。 第1に弟子たちの関心は、イスラエル王国の再構築でした。復活された主イエスに対して弟子たちは訪ねました。使徒1:6で、「主よ、イスラエルのために国を再してくださるのはこの時なのですか?」と質問しています。この弟子たちの関心は、イスラエル王国がいつ回復されるのかということでした。彼らはなお、地上的な王国の完成を期待していました。しかし、主イエスはその問に直接答えられていません。いつとか、どんな時とかいうことは、あなた方も知るところではない。それは、父がご自分の権威を持ってすでに定めておられることです。使徒1:7。歴史の完成も王国の完成も再臨の時も、全ては父なる神の絶対主権の中にあります。人間が実現するものではない。 続いて主は、弟子の関心を、この地上のイスラエル国家の再生から、再構築から証人としての使命に目を向けさせました。しかし聖霊があなた方の上に望む時、あなた方は力を受けます。そしてエルサレム、ユダやサマリアの全土、さらに地の果てまで私の証人となります。 イエス様は王国を築きなさい、第三神殿を立てなさいと、はじめられていません。サタンから国を奪還しなさい、悪霊を縛り土地を、その地域を奪還しなさいとは言ってません。 イエス様は、御霊を受け、私の証人となりなさいと命じられました。なぜ証人なのか?それは王がすでに即位しているからです。イエス様はマタイ28:18でこう言います。私には、天においても地においても一切の権威が与えられています。イエス様は決してこれから権威を受けるとは言われませんでした。与えられていますと宣言されました。十字架と復活によって、天地の一切の権威はすでにキリストに与えられました。もし王国がまだ存在せず、王も支配していないなら、教会は王国の最高建設者にならなければならない。しかし聖書は、教会が王国を拡大しろと伝えていません。王はすでに支配して完成していると言ってます。私たちはその王を証しする証人だと、そのようにイエス様は言ってるのです。 第3に、キリストの王国は本当に確立されているのか?パウロは神はこの力をキリストのうちに働かせてキリストを死人の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座につかせて、全ての支配、権威、権力、主権の上に置かれました。エペソ1:20~22また神は一切のものをキリストの足の下に従わせました。と語ります。未来系ではないです。置かれました。従わせましたと完了した形で語られています。 サタンも、悪も、国家も、権力者も、死も、歴史も、全てキリストの足の下にあります。十字架でサタンは、極限、決定的に敗北したと言っています。コロサイ2:15はこう言ってます。神は様々な支配と権威を武装解除してさらしものとし、彼らに勝利されたのです。これはただ書いてあるだけではありません。十字架は敗北ではなく勝利でした。支配と剣は武装解除されたと言っています。キリストは公に勝利を十字架の上で宣言したのです。ヘブル2:14~15はこう言います。それは死の力を持つもの、すなわち悪魔をご自分の死によって滅ぼし、このように言ってます。 私たちは、どのようにサタンが決定的に敗北したのかを知ってるのか、それはみ言葉によってです。悪魔は将来敗北するのではなく、十字架によって2000年前にすでに完全に敗北しているのです。現在も活動してますが、それは神に対抗する独立した支配者ではありません。 神の主権の下にある、敗北した敵として活動しているのです。 では、あなたはこう言うかもしれません。なぜサタンは今も活動しているのか。なぜサタンは人々を苦しめるのか。なぜサタンは国を支配するのか。 ここではっきりと私たちは、神の主権、キリストの主権を理解する必要があります。全ての被造物はキリストのご支配の下にある。全ては神の主権の下にあり、その支配の外にあるものは何ひとつありません。サタンも例外ではありません。なぜなら、全ては神の栄光のために存在しているのです。サタンは神に反逆する悪しき被造物です。しかしその悪意さえも、神はご自身の聖なるご計画の中で用いられています。 サタンは、自らの悪意に従って行動します。この世の人々も自らの悪によって行動します。全てのものは、自らの悪意によって行動します。しかし、その悪意を持ったそれぞれの行動は、決して神の主権を超えることはありません。神の主権は、それらの悪意の上に、それらの悪意を自分の永遠のご計画を成し遂げるための、道具として用います。選ばれた神の民に対しては、その攻撃さえも神は試練として用います。信仰は練られ、キリストに似たものへと変えられていく。一方、神を拒み続けるものに対しては、その罪が明らかにされ、悔い改めのないまま裁きへと至ります。このように同じ出来事であっても、同じサタンの攻撃であっても、同じ罪の攻撃であっても、神は救いにも、裁きにも用います。 ここで、決して間違ってはならないことがあります。それは、神が悪や罪の作者ではないということです。神はどこまでも限りなく完全に聖なるお方です。神はどこまでもどこまでも限りなく限りなく完全に完全に聖なる聖なる聖なる聖なるお方です。悪はサタンと罪ある人間から生じるものであり、神から生じるものではありません。 しかし、神はその悪さえもご自分の主権の外には放置せず、聖なる計画の中で支配し、用いておられます。 では、なぜ神は悪や罪そしてサタンの活動をお許しになるのでしょうか?ある人は言います。なぜ神がいて、このような悪が許されるの?このような罪が許されるのか?なぜ、サタンを放置するのか?神はいないんではないか?神はなぜお許しになってるのか? 答えは、時の始まる前からキリストにあって選ばれ、キリストと選ばれた神の民を救いへと導き、キリストに似たものへと作り替え、ご自身の恵みと義と栄光を、彼らを通して表すためです。お許しになる、その理由は、永遠の時の前から決められていました。キリストにあって選ばれたもの、神の民、この民とはキリストと結ばれ、この民をこの試練、罪、苦しみの中を通りながらキリストに似たものへと、その心を作り替え、ご自身の恵みと義と栄光をこの者たちを通して表すためです。エペソ書の1章です。エペソ書の2章です。 そして、同時に悔い改めない者たちに対する、悪魔に対する神の正しい裁きを明らかにするためでもあります。 このように、神の救いも、裁きも、試練も、歴史の全ては、神の絶対的な主権の下で、神のご計画を実行し、神の栄光を表すために用いられています。神は全てを治めておられるということを、神は私たちにずっと語っています。詩編103編19節。主は天にご自分の王座を固く立て、その王国は統べ治める。ここに土台があります。神の支配の外にあるものは何1つもないということを、神は語っています。神の支配の外にあるものは何ひとつありません。偶然は何ひとつありません。サタンも、罪も、全てのものは、神の摂理の中において、ご自身の栄光、神の子供たち、神の民を導き出し、救い、そして、ご自身の栄光を、彼らを通して表す。サタンも、国家も、歴史も、死も、全て神の支配の下にあります。何ひとつ神の支配の下にないものはない。 すでにサタンは完全に敗北している。しかし未だこのようなサタンの活動が許されている。聖書のいう、既にと未だとは、王権が未完成という意味ではないのです。聖書の既にサタンが敗北しているのは、サタンの敗北が未完成であるという意味では全くないのです。王権は完成しており、サタンは完全に敗北している。キリストの王権は十字架、復活、昇天によって完全に確立されている。未だその王権の栄光が、歴史の終わりに向かって動いています。再臨において、聖書は言います、世界に完全にそれが表されると。全ては完成しており、完成に向かって進んでいます。 それは、神の栄光が再臨において、全世界に完全にされ、ここに到達します。サタンの全ての活動、罪、苦しみ、全てのものは、神の支配の中にあり、神の栄光を表す道具となっています。そしてこの働きは神の民たちを贖いだし、救い、そして神の栄光を表し、そして神に敵対するものたち、悔い改めない者たちに正しい裁きを明らかにするためでした。 だから、キリストの証人の使命は、王国を拡大したり、築いたりすることへの参加ではありません。神の証人の使命は、イスラエルに行って第三神殿を作ることではありません。サタンからこの地域の日本のある地域、また都市を奪還することではありません。神は、全て、一切のものの上に立たれ、座られ足を置いています。一切の権威を持たれてる王キリストを、キリストの証人は証しし、御国の福音を述べ伝えることです。 イエス様はマタイの福音書の28章18節でこう言います。私には天においても地においても一切の権威が今与えられています。この王なるイエスを証しすること。それが2000年前に私たちの使徒たちに、主イエスが委ねられ、今日私たちキリストの証人にも委ねられている、証人、キリストの証人の使命、教会の使命なのです。 教会の使命は、私たちが御霊によって歩く中において、御霊の働きとして、私たちのうちに新たに創造され、そしてこの創造は愛を持って働く信仰によって、この全地に福音として広がっていきます。 それではお祈りします。主よ、私たちのこの人生において、あなたの主権が、どれほど広く、どれほど深く、高く、長く、私たちを覆っていることを、主よ、あなたは語られています。何ひとつあなたの主権の下から出るものはなく、外にあるものはなく、全てのことは必然であり、全てのことは永遠の時の始まる前に、あなたがご計画され、キリストによって実行され、御霊によって完成されることを、主が教えてくださることを感謝します。私たちの完成は御霊によって行われる。この素晴らしい福音を心から感謝します。イエスキリストの御名を通して、感謝してお祈りします。アーメン。
- 支配神学の神学構造と神の主権という聖書的構造におけるキリストの証人 その1
2026.7.12 豊川の家の教会礼拝メッセージ 神の主権という聖書的視点から見ると、支配神学の最大の問題は、旧約の契約国家イスラエルに与えられた約束を、キリストにおける成就と新約聖書の啓示を十分に考慮せず、現代国家、地域、教会へ直接適用する解釈学にあります。ここでいう支配神学とは教会が神のために地の回復を祈り、地域を支配する悪霊と戦い、宣教を通して起こす社会変革などを通して、地域や国家に対する霊的支配を回復し、神の国を地上に前進させることを、教会の中心的使命として位置づける神学構造を指します。 その現れ方には違いがあります。ある者は地域霊との戦いを語り、ある者は国家的リバイバルを語り、ある者は社会の各領域をキリスト者が支配することを語ります。しかし、その根にある構造は共通しています。それは、キリストの十字架、復活、昇天、着座による完成した勝利よりも、教会の祈り、霊的活動、領域の奪還、社会変革を前景化する構造です。支配神学は、口では「キリストは勝利された」と告白します。しかし、その実際の神学構造は、次のようになります。 キリストが十字架で勝利された → しかし地域や国家はなお悪霊の支配下にある → 教会が祈り、宣言し、霊的戦いを行う → 教会が地域を悪魔から奪還する → 神の国が前進し、歴史が変革されるこの構造では、キリストの勝利は、それだけでは地域や国家を支配するために十分ではなく、教会の霊的活動によって地上に実現され、補完されなければならないものとして扱われます。しかし、聖書が示す構造は異なります。 神の永遠のご計画 → キリストの十字架による贖いの完成 → 復活 → 昇天 → 王としての着座 → 支配と権威に対する決定的勝利 → 聖霊による選民の有効召命 → キリストとの結合 → 福音宣教 → 再臨による歴史の完成 歴史を完成されるのは教会ではありません。キリストは、教会が祈り、戦い、領域を取り戻すことによって王になられるのではありません。キリストはすでに王です。教会はキリストの勝利を完成させる者ではなく、キリストに結ばれ、その完成した勝利を福音として宣べ伝える証人です。 支配神学の神学構造 ① 神の民 支配神学 イスラエル → 現代教会 → 教会が地域・国家を回復する主体となるこの構造では、旧約のイスラエルに与えられた使命や約束が、現代教会へ移されます。その結果、教会は福音を宣べ伝える証人というより、国家や地域を霊的に回復する主体として理解されるようになります。 神の主権という聖書的視点 神の永遠の選び → イスラエル → キリスト → キリストにある神の民神の民は、民族や国家、あるいは教会員名簿によって決まるのではありません。父なる神が永遠の昔に選び、御子が贖い、聖霊が再生し、キリストと結び合わせられた者たちが、神の民です。神の民の中心は、民族的イスラエルそのものでも、現代教会という制度そのものでもありません。神の民の中心はキリストです。神の民とは、神の永遠の選びによって、キリストにある者たちです。 ② 「地」の適用 支配神学 イスラエルの地 → 日本または特定の地域 → 教会の悔い改めと祈り → 地域・国家の回復 神の主権という聖書的視点 イスラエルの地 → キリストにおける約束の成就 → 新しい契約 → 新天新地における完成歴代誌第二7章14節は、ソロモンによる神殿奉献の文脈において、モーセ契約の下にあるイスラエル国家へ与えられた契約的約束です。そこでは、イスラエルの罪、契約の呪い、悔い改め、地の回復が語られています。しかし、日本を含む現代国家は、モーセ契約の下にある契約国家イスラエルではありません。したがって、イスラエル → 日本、イスラエルの地 → 私たちの地域と直接置き換えることはできません。旧約の「地」の約束は、キリストと新しい契約を通して理解され、最終的には新しい天と新しい地において完成します。旧約の地の回復を、現代国家の宗教的、政治的、社会的回復へ直接転用することは、キリストにおける成就を飛び越える解釈です。 ③ 王の適用 支配神学 イスラエルの王 → 国民主権 → 私たちが国の責任を負う → 私たちが祈れば日本が変わるこの構造では、国民や教会が、歴史を変革する主体として前面に出ます。 神の主権という聖書的視点 ダビデ王 → キリスト → 復活 → 昇天 → 即位 → キリストが万物を支配される歴史を支配する王は、国民でも教会でもありません。復活し、昇天し、父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストです。主イエスは、「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」と宣言されました。これは、教会がこれからキリストのために支配権を獲得しなければならないという意味ではありません。すでにキリストにすべての権威が与えられているという宣言です。キリストは、教会の霊的戦いによって王となられるのではありません。キリストはすでに王として支配しておられます。 ④ 教会の役割 支配神学 地域教会 → 地域霊や悪霊と戦う → 霊的支配権を取り戻す → 地域を回復 → 国家を変革 神の主権という聖書的視点 キリスト → 聖霊を与えられる → 教会がキリストの証人となる → 福音をすべての人に宣べ伝える → 神が選ばれた者を有効に召される → 聖霊によってキリストと結び合わせられる教会の使命は、地域の霊的主権を悪魔から奪還することではありません。教会の使命は、十字架につけられ、復活し、王として即位されたキリストを宣べ伝えることです。福音はすべての人に宣べ伝えられます。しかし、福音を救いに至ることばとして聞き、悔い改めと信仰をもってキリストに来るのは、神が永遠の昔から選び、ご自身の時に再生を与え、聞く耳を開かれた者たちです。救いの結果を生み出すのは、説教者の技術、教会の熱心、祈りの量、地域的な霊的戦いではありません。神が福音宣教を用い、選ばれた者を有効に召し、聖霊によってキリストと結び合わせられるのです。主イエスは、「あなたがたの上に聖霊が臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、わたしの証人となります」と言われました。聖霊の力は、地域を霊的に支配するために与えられるのではありません。キリストを証しするために与えられるのです。 ⑤ 歴史の動き 支配神学 教会が祈る → 神が動く → 地域が変わる → 国家が変わる → リバイバルが起こる → 神の国が前進する 神の主権という聖書的視点 神が永遠のご計画を定められる → 御子が贖いを完成される → 聖霊が再生を与えられる → 悔い改めと信仰を与えられる → 神が祈りへ導かれる → 神が福音宣教を用いられる → 神がご自身の救済計画を完成される祈りは重要です。しかし、祈りが神の永遠のご計画を変更し、神を動かして歴史を始動させるのではありません。祈りそのものが、神の主権的なご計画の中にあります。神がご自身の民に祈りを起こし、その祈りを、ご自身が永遠に定められた目的を実現する手段として用いられます。歴史を動かす主体は人間ではありません。神です。 神の主権という聖書的視点から見た問題点 ① 契約を無視した直接適用 支配神学は、旧約の契約国家イスラエルへの約束を、現代国家や地域教会へ直接適用します。しかし、イスラエルと日本は同じ契約関係にありません。モーセ契約の下にあったイスラエル国家への祝福と呪いを、現代国家へそのまま移すことはできません。旧約の約束は、キリストにおける成就、新しい契約、新約聖書の使徒的解釈を通して理解されなければなりません。 ② 神の永遠の選びが後景に退く 支配神学 教会 → 祈り → 献身 → 霊的活動 → 地域変革 神の主権という聖書的視点 神の永遠の選び → キリストによる贖い → 聖霊による再生 → キリストとの結合 → 神の民聖書は救いを、神の永遠の選びから語ります。ところが支配神学では、「教会」「祈り」「地域」「国家」「リバイバル」という言葉は頻繁に語られても、神の永遠の選び、再生、有効召命、義認、聖化、堅忍が後景に退きます。その結果、救いの主体が神から人間へ移ります。 ③ 救いの定義が曖昧になる 支配神学 人間の決心 → 献身 → 聖霊体験 → 霊的戦い → リバイバル → 地域変革この神学構造では、救いの中心が、人間の決断、献身、特別な体験、霊的能力、地域変革へ移りやすくなります。その結果、救いの本質が、「罪人が神の主権的恵みによってキリストに結ばれ、義と認められ、聖化され、栄光へ導かれること」ではなく、「人が霊的な力を受け、地域や社会を変革すること」へ変質します。 神の主権という聖書的視点 神の永遠の選び → キリストによる贖いの完成 → 聖霊による有効召命と再生 → キリストとの結合 → 悔い改めと信仰 → 義認 → 子とされること → 聖化 → 堅忍 → 栄化救いは、始めから終わりまで神の御業です。父なる神は永遠の昔にご自身の民を選ばれました。御子は、選ばれた民の罪を負い、十字架において完全な贖いを成し遂げられました。聖霊は、定められた時に、霊的に死んでいた者を再生し、キリストと結び合わせられます。その者に悔い改めと信仰を与え、義と認め、神の子どもとし、聖化し、最後まで守り、やがて栄光へ導かれます。救いは、人間の決断や努力によって始まりません。神がキリストにおいて与えてくださる、主権的な恵みの御業です。聖書は、「自分自身を吟味しなさい」「違った福音を宣べ伝える者はのろわれよ」「教師たちは、より厳しいさばきを受けます」と警告しています。教える者も教えられる者も、自らの信仰と福音理解を、聖書によって吟味しなければなりません。 ④ キリストとの結合――救いのすべての恵みの源泉 支配神学では、信仰者が、霊的権威を行使する者、悪霊を追い出す者、地域を変革する者、神の国を前進させる者として前景化します。しかし、聖書において信仰者は、まず、自分自身には何もなく、キリストにあるすべてを受ける者です。信仰者の義はキリストです。信仰者の命はキリストです。信仰者の聖化は、キリストとの結合から流れます。信仰者の堅忍は、キリストによって守られることです。信仰者の勝利は、自分が新しい勝利を生み出すことではなく、勝利されたキリストに結ばれ、その勝利にあずかることです。パウロは繰り返し、「キリストにあって」「キリストとともに」と語ります。神が与えてくださるあらゆる霊的祝福は、キリストとの結合において与えられます。私たちはキリストと結ばれることによって、キリストの死と復活にあずかり、義と認められ、神の子どもとされ、御霊によってキリストに似る者へと造り変えられます。したがって、私たちが勝利を完成させるのではありません。勝利されたキリストに結ばれているから、私たちは信仰を与えられ、それによって生きるのです。キリストとの結合こそ、救いのすべての恵みの源泉です。 ⑤ 試練と「御霊に満たされる」ことの理解 支配神学 試練 → サタンの攻撃 → 呪い・悪霊の働き → 打ち破る → 追い出す → 勝利を宣言する → 霊的解放 → 力や現象を伴う御霊の満たし → 地域変革・リバイバルこの構造では、試練は、避けるべきもの、取り除くべきもの、悪魔の支配の証拠として理解されやすくなります。また、「御霊に満たされる」ことが、強い感情、高揚感、異言、預言、癒やし、霊的戦いの力などと結びつけられやすくなります。その結果、試練 → 排除すべきもの、御霊の満たし → 霊的能力や現象を得ることという理解になります。 神の主権という聖書的視点 試練 → 神の絶対的主権 → 自己保身・自己義・自己中心が砕かれる → 自分の無力さを知らされる → キリストだけが最後の希望とされる → 悔い改め → みことばへの従順 → 御霊による聖化 → 御霊に満たされる → キリストに似る者へ造り変えられる → 神の栄光聖書は、サタンの働きを否定していません。サタンは、悪意をもって聖徒を攻撃し、誘惑し、苦しめます。しかし、サタンは神と対等な主権者ではありません。サタンは神の許しと制限の外で、何一つ行うことができません。ヨブを攻撃したのはサタンでした。しかし、サタンは神が定められた限界を越えることができませんでした。ペテロをふるいにかけようとしたのもサタンでした。しかし、キリストはペテロの信仰がなくならないように祈られ、その試練を通してペテロを砕き、兄弟たちを力づける者へ造り変えられました。パウロを苦しめた「サタンの使い」でさえ、彼が高ぶらないために、神の主権の下で用いられました。したがって、聖書の構造は、サタンの攻撃か、神の試練かという二者択一ではありません。サタンは悪を意図して攻撃する → しかし神はサタンを完全に支配される → その攻撃を制限される → その悪意ある働きさえ、聖徒の聖化と神の栄光のために用いられる 神は試練を通して、信仰者の内にある自己保身、自己義、自己中心、自分の力や知恵への信頼を砕かれます。人に、自分には救いも力もないことを深く悟らせ、キリストだけが唯一の義、唯一の希望、唯一の力、唯一の慰めであることを学ばせられます。そのようにして、信仰者は、自分を頼る者から、キリストだけを頼る者へと造り変えられていきます。これが聖書の語る聖化の歩みです。
- 主を待ち望むキリストの証人
2026.7.5 豊川の家の教会礼拝メッセージ イザヤ書40章31節 「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。 走っても力衰えず、歩いても疲れない。」 この預言は、新約において御霊によるキリストの証人の姿として成就し、今日も神の民のうちに成就し続けている。 それはイザヤが約束した『主を待ち望む者』は、新約において聖霊によってキリストの証人として歩む神の民のうちに、その約束の実現を見る。 このみことばは、使徒の働き1章8節と「力を得る」と言うみことばにおいて深く結びついている。 主イエスは弟子たちに言われた。 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」 イザヤ書40章31節は、「主を待ち望む者は新しく力を得る」と語る。使徒の働き1章8節は、「聖霊が臨むとき、あなたがたは力を受け、キリストの証人となる」と語る。 つまり、この二つのみことばは別々のことを語っているのではない。イザヤが預言した「主を待ち望む者に与えられる新しい力」は、新約において聖霊によって与えられる力として現され、その力によって信仰者はキリストの証人として歩むのである。 したがって、この預言は、単に疲れた人を励ますことばではない。また、「苦しみがなくなる」「問題が解決する」「人生が楽になる」という約束でもない。 これは、神によって試練の中に置かれた神の民が、その試練の中で新しい力を受け、最後までキリストの証人として歩み続けることを語る預言である。 すなわち、ペンテコステ以降、神は聖霊によって、すべてのご自身の民をイザヤが約束した『主を待ち望む者』として歩ませておられる。 主イエスは、使徒の働き1章8節で弟子たちに言われた。 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。 そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」 ここで約束された「力」は、人間の勇気でも能力でもない。聖霊によって与えられる新しい力である。その力は、使徒たちの生涯にどのように現れたのか。 使徒の働きを読むと、そこには試練のない人生は一つもない。しかし同時に、そこに登場する人々は決して特別な人間ではない。彼らは私たちと同じ人間である。空腹になれば食事をする。疲れれば眠る。悲しみ、涙を流し、恐れ、悩み、互いに語り合い、励まし合いながら生きた。肉体を持ち、この地上を生きる、ごく普通の人々であった。 ペテロは主を三度否んだ。人を恐れる弱さを持っていた。それでも復活の主は彼を見捨てず、聖霊によって立ち上がらせ、最後までキリストの証人として歩ませた。 ステパノは、石を投げられれば痛みを感じる肉体を持っていた。それでも彼は、聖霊に満たされ、天を見上げ、栄光のキリストを見つめながら証を続けた。 パウロもまた、決して鋼鉄の人間ではなかった。彼は苦しみを苦しみとして感じた。飢えも寒さも、鞭打ちの痛みも、投獄の孤独も味わった。仲間との別れには涙を流し、自らの弱さを隠さず、「私は弱いときにこそ強い」と告白した。 また、使徒たちだけではない。エルサレム教会の兄弟姉妹も、家を失い、迫害によって散らされた。ピリポは故郷を離れた。パウロとシラスは獄中で鎖につながれた。彼らは痛みを感じない人々ではなかった。恐れを知らない人々でもなかった。疲れない人々でもなかった。 それでも彼らは、自分の十字架を背負い、キリストの後に従って最後まで歩み続けた。なぜか。彼らが強かったからではない。聖霊が彼らをキリストへと向け続けられたからである。 試練、苦しみ、痛み、悲しみの中で、自分への望みは砕かれた。自分の力では前に進めないことを知った。自分の知恵では道を切り開けないことを知った。自分の義では神の前に立てないことを知った。そして、キリストだけが最後の望みとなった。キリストだけを待ち望む。彼らは、主を待ち望む者とされたのである。 彼らの生活は、食べること、眠ること、働くこと、人と交わること、そのすべてが私たちと同じであった。 違いは一つだけである。彼らは、その日々の生活のただ中で、御霊によって歩み、御霊に満たされ、試練の中でキリストだけを最後の望みとして生きたのである。イザヤ書40章31節が描く「主を待ち望む者」である。 そして、この歩みの源泉は栄光の望みキリストである。「鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない」という預言が、新約において御霊によるキリストの証人として現れた姿なのである。 その「新しい力」とはそれは人間の能力でも、精神力でも、熱心さでもない。その源泉は、人間の内側にはない。栄光の望みキリストである。 父なる神は、時の始まる前にご自身の民を御子キリストと結び合わせ、選んでくださった。キリストとの結合こそ、すべての救いの源泉である。聖霊は、その結合を私たちに実際のものとして与えるために、時の中で私たちを再生された。その結果として、私たちは信仰へと導かれ、悔い改めへと導かれる。神はキリストの信仰と通して義を私たちに与え、私たちを義と宣言された。そして現在、聖霊は、私たちをキリストの御姿へと造り変えていかれる。この聖化とは、人間が努力して自分を変えることではない。キリストとの結合に生きる者のうちに、神の新しい創造がこの地上に現れていく神ご自身の御業である。神は、ご自身の民を試練の中に置かれて育てられる。 苦しみの中に置かれる。痛みの中に置かれる。その中で、自分の力は砕かれる。自分の知恵は尽きる。自分の義は打ち砕かれる。そして、神は信仰を創造される「キリストこそが最後の望み」神はご自分の民をキリストだけを最後の望みとする人々へと造り変えられる。これはイザヤが預言した「主を待ち望む者たち」である。 主を待ち望むとは、自分で考え方を変え、勇敢になり、忍耐して時を待つことではない。神が試練の中に神の民をおかれ、自分への望みを失い、それでもなおキリストだけに最後の望みを置かされることである。神を待ち望む心は、個人の決心、一時的な感情や神学知識ではない。それは神が聖霊によって造り出される、信仰者の生き方に結びつく。 神に再生された神の民はやがて照明を与えられる。再生される前は問題に直面するたびに試練は嫌だ、苦しみ、悲しみは嫌だ。逃げたい。それらの問題は悪魔から来ている。呪いや罪から来ていると信じていた。 しかし、再生された神の民は御霊によって教えられる。照明を与える。神の民の人生、その信仰の人生とは、試練のない人生ではない。信仰の人生そのものが、神によって導かれる試練の歩みである。その試練を通して、神は肉を砕き、自分への望みを取り去り、キリストだけを最後の望みとする者へと造り変えられる。だから、「主を待ち望む者は新しく力を得る」と。 この「新しい力」とは、人間が新たな気力や精神力を得ることではない。キリストとの結合から流れ出る復活のいのちが、聖霊によって信仰者のうちに働き続けることである。その力によって、信仰者は試練の中を歩み続ける。苦しみの中を走り続ける。罪との戦いを続ける。キリストだけを望みとし続ける。神が定められた道を最後まで歩み続ける。 そして、このキリストの証人としての生き方を、神はイザヤ書40章31節で次のように表された。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」 神は信仰者を鷲のように描かれた。それは、試練のない空を自由に喜び飛ぶ姿ではない。ユダヤ人にとって鷲は、神に支えられ、高く保たれ、困難の中でも前へ進み続ける鳥であった。神はその鷲の姿を用いて、信仰者の歩みを描かれたのである。 信仰者は、神によって試練の中へ導かれる。その中で肉は砕かれる。自分への望みは失われる。しかし、その試練の中で、神は聖霊によって新しい力を与え、キリストだけを最後の望みとして歩ませてくださる。 だから、「鷲のように翼を広げて上ることができる」とは、困難のない人生ではない。神に支えられ、試練の中でなお高く保たれ、最後までキリストの証人として歩み続ける姿なのである。神によって試練の中へと導かれ、その試練の中で肉が砕かれ、自分への望みが取り去られ、それでもなおキリストだけを最後の望みとして歩み続ける姿である。「主を待ち望む者」とは、そのような者である。 試練の中で、自分の力では前に進めないことを知る。自分の知恵では道を切り開けないことを知る。自分の義では神の前に立てないことを知る。そのようにして、自分への望みは失われ、キリストだけが最後の望みとなる。そのとき、「主を待ち望む者は新しく力を得る」という預言が、その人の歩みの中で現実となる。 その新しい力とは、苦しみを取り除く力ではない。痛みを取り除く力でも、神秘的な力でもない。試練の中を最後まで歩ませる力である。倒れそうになっても立ち上がらせる力である。絶望の中でもキリストを見上げ続けさせる力である。それは、キリストとの結合から流れ出る復活のいのちが、聖霊によって絶えず信仰者のうちに働く力である。「鷲のように、翼を広げて上ることができる」とは、困難から逃れることではない。神が備えられた試練の中で、聖霊によって支えられ、キリストだけを最後の望みとして歩み続ける姿である「走っても力衰えず、歩いても疲れない」とは、苦しみ、痛みをどれほど感じたとしても、どれほど試練が続いても、神が与えられた使命を、キリストだけを望みとして最後まで歩み続けるということである。 これこそ、使徒の働きで約束されたキリストの証人の姿である。 ペテロも、パウロも、すべての使徒たちも、そして神に救われた真の信仰者である兄弟姉妹たちも、苦しみや迫害を避けたのではない。神によって試練の中に置かれ、その中で肉は砕かれ、自分への望みを失い、その中で主を待ち望み、その中で聖霊による新しい力を受け、最後までキリストを証しし続ける者とされたのである。この歩みは、使徒たちだけに与えられた特別な歩みではない。 キリストとの結合によって新しい創造とされた、すべての神の民に与えられた歩みである。イザヤ書40章31節は、神に救われたすべての兄弟姉妹たちの望みでもある。神は信仰者を試練の中に置き、その中で肉を砕き、自分への望みを取り去り、キリストだけを最後の望みとする者へと造り変えられる。そして、聖霊によって新しい力を与え続け、最後までキリストの証人として歩ませてくださる。 それゆえ、イザヤ書40章31節は、単なる慰めのことばではない。神が、ご自身の民をキリストとの結合へと召し、再生し、信仰と悔い改めへ導き、義と認め、聖化し、試練を通して肉を砕き、主を待ち望む者へと造り変え、御霊によって歩ませ、最後までキリストの証人として生かされるという、救いの全体構造を指し示す預言なのである。この預言は、使徒たちだけに成就したのではない。今日も、キリストとの結合によって新しい創造とされたすべての信仰者のうちに、聖霊によって成就し続けている。 信仰者は今日も食べ、眠り、働き、家族と語り、涙を流し、ときには恐れ、弱さを覚え、時には倒れ生きている。しかし、その日常のただ中で神は試練を与え、その試練を通して肉を砕き、キリストだけを最後の望みとする者へと造り変えられる。 そして神は、聖霊によって信仰者を新しく生まれさせた時に与えられた新しい創造のいのちを、この地上の歩みの中で、その信仰者の心に現し続け、最後まで守り、歩ませてくださるのである。 ガラテヤ6章で語られる新しい創造とは、神が信仰者を再生された時に与えられた新しいいのちである。神は御霊の働きによって、試練を通して、「栄光のキリストこそ最後の望みである」と信頼する信仰を、信仰者の心に現してくださる。 これは聖化の中核である。 そして、この本物の信仰は、神によって信仰者の内に保たれ、永遠に消えることはない。 神の民は「走っても力衰えず、歩いても疲れない」。それはキリストの強さである。キリストとの結合から流れ出る復活のいのちが、聖霊によって絶えず支え続けておられるからである。 イザヤ書40章31節の預言は、新約において御霊によるキリストの証人として成就した姿である。
- 金銭を愛する生活
2026.7.1 The Word for you では始めます。ヘブル書の13章の5節。 金銭を愛する生活をしてはいけません。今持っているもので満足しなさい。主ご自身が私は決してあなたを見放さずあなたを見捨てないと言われたからです。 このみことばの意味は、金銭を愛する生活をしてはいけませんと言い、その後に「私は決してあなたを見放さずあなたを見捨てない」と言われました。この意味は、金銭はあなたを救うものではないと言っています。神はご自分の民を最後まで決して見放さずに守られる。決してご自分の子を見捨てられない。だからここでお金を信頼して、お金によって安心や自分が安全な地域に逃げるという、心を持ってはいけないと言っています。 直接的には金銭をする心、すなわち神以外のものに望みを置くことへの戒めです。しかし、その根本にあるというのは、神が今与えておられるもので満足しないという心です。その構造は、知識を求め続ける肉の貪欲さにも当てはまります。つまり、これはあらゆる欲。しかし例えば金銭欲、知識欲を単純に同一するのではなくて、満足しないという肉の貪欲の構造です。 例えばキリスト教に関する宗教知識であっても、同じようになってしまいます。知識で自分を安全な場所に置こうとする。お金で自分の安心を買う。知識で自分の安心を買う。同じです。神はすでに安全なものを与えている。だからお金ではなく言葉。「私は決してあなたを見放さず私はあなたを見捨てない」というところにとどまりなさい。それでも満足せずお金を求める。それは、キリストを与え、福音を与え、御言葉を与えておられるのに、それでは満足せず、なお次の知識、次の刺激、次の話を求め続ける。 それはもはや熱心ではありません。それは神が与えたもので足りないという心、構造がそこにあります。今、キリストから与えられたものに満足できない理由。お金もそうです。お金も神が与えています。同じようにみことばも同じです。その心が、満足できないという心が目を塞いでいる。あなたにキリストが与えられている。福音が与えられている。みことばが与えられている。悔い改め導く光が与えられている。それでも満足できないのは、見えていないからです。 見えていないから与えられていません。肉の思いは神の恵みを小さく小さく見せます。肉の思いはキリストを当然のものとします。肉の思いはみことばを聞き流させます。肉の思いはもっと別のもの、新しいものが欲しい。そのように心を掻き立てます。あなたの心はみことばで満足せずインターネット、あなたの心はみことばで満足せず他のメッセージ、他のメッセージ、まだ何かあるんじゃないか、まだ何かあるんじゃないか、そのように心が移っていきます。あなたは 感動しても満足しません。それは単なる知識の不足ではありません。問題は、肉の思いに目を塞がれて、すでに与えられているキリストの尊さ、この素晴らしいキリストが見えなくなってることです。 知識を求めること自体が悪いことではありません。しかしあなたがキリストにひれふすためにではなくて、自分の知識欲を満足するために知識を求めるなら、それは全く霊的成長にはつながっていません。あなたは知識を得たから、さらに霊的になっていくと思います。それは100%間違いです。知識は、キリスト教の知識はあなたを霊的にしません。ただの肉の貪欲です。真理はそのように働きません。 真理は絶えず罪人を砕き、キリストの前に低くさせるために与えられています。それなのに聞いても砕かれずに、知っても悔い改めずに、なおも知りたい、このような知識欲は信仰ではありません。肉の思い、貪欲と言います。それはこういう形で表れてきます。もっと知りたい、もっと知りたい、もっと知りたいと言いながら、実際には従わない人生。もっと聞きたい、もっと聞きたい、もっと読みたい、もっと知りたい。実際にはでも、悔い改めがない。もっと深く知りたい。そう言いながら実際には与えられたみことばにとどまることがない。 すなわち、これは真理を求めているのではないということがはっきり分かります。あなたがそのような姿勢でみことばに挑んでる、みことばに求めてるのであれば、それは単なる真理を利用した自分の欲望を養っているだけです。その人は見た目によって歩く意味すら分かっていないし、三位一体 自体も分かっていません。キリストも分かっていません。見た目によって歩くというのは、知識を増やすことではありません。聖書の言葉を多く知ることでもありません。正しい理屈を並べて書くことでもありません。あなたのノートにどれだけみことばを書こうが、理屈を書こうが、真理を書こうが、新しい正しい教理を書こうが、そんなことは一切関係ありません。 ただ、みことばによって歩くとは、あなたが試練の中に置かれ、肉の思いがその試練の中で砕かれていき、自分の欲、知識欲、自分の満足、自分の正しささえ死に付けられる、キリストと共に。そしてキリストを最後の望みとして歩く人生。その信仰の中に歩かされること。だからもう一度言いますけど、あなたが聞いても従わず、知っても砕かれず、教えられても悔い改めず、試練を嫌だと逃げ出し感謝せず、試練は嫌いだと言い、口先の宗教になる。口先では試練は良いと言いながら、その実は試練の前で逃げるあなたは何者ですか?なお次の知識を求め続ける人。そのような人は、御霊によって歩いてるのではありません。肉によって、歩いて死に向かって歩いています。その姿が見えませんか? だから、悔い改める。キリストで満ち足りない心はどれだけ貪欲なのか?みことばで満ち足りているということを知らない。すなわち、みことばによって生きなければ何の意味もない。情報不足ではありません。これが、貪欲だからです。神が与えたキリストの真理を軽んじて、なおもなおもそれを軽んじておいて、キリストの真理を求める。その欲しがる心こそまさに神によって砕かれなければならない、神が砕く心です。だからそのような心、そのような態度、そのような生活をして、みことばを粗末に扱うその心は砕かれるということをあなたは知らなければいけません。 どれだけ神のみことばを使い捨てにするのか。聞いて満足せずに、知って従わずに、教えられて悔い改めずに、また知識を求める。どれだけみことばを使い捨てにしたらいいんですか?あなたたちは。あなたはみことばを命として受け取っているのではありません。ただ知識欲を満たす材料として浪費しているだけです。みことばはあなたの知識欲の刺激のための情報ではありません。そのような人には、どれほど素晴らしいことが語られても、決して見えないです。どれほど真理が明らかにされても、決して悟らない。どれほど福音が差し出されても、決して癒されることはない。 それが答えです。なぜならあなたが求めてるのはキリストではない。キリストについての宗教知識です。あなたが求めてるのは悔い改めではない。自分の暇を埋める材料、自分を満たすための刺激、自分が安全になりたいという知識。あなたが求めているのは従順ではない。なおも知り続け、なおも知り続けることで自分をごまかす道ですよ。それは聞き流し使い捨て、次の話に走る暇つぶしの道具。それは単なる愚かさじゃない。それは神のみことばに対する冒涜です。 どれだけ知識を求めたら気が済むんですか?そうじゃないでしょう。あなたは、そのみことばに生きなければ何ら意味がない。あなたは試練の中を歩かなければ何ら意味もない。あなたが単なる知識を、キリスト教の宗教知識を求めるのであれば、それは肉に従って歩いているということです。 お祈りします。愛する天のお父様、どうか私たちが真にあなたにへりくだり、このみことばの素晴らしさ、尊さ、イエス様が十字架の上で本当に苦しんで私たちのために、私たちの罪、私たちの神の怒り、私たちが一方の呪いを受けてその全てを背負って亡くなられた、この福音のみことばをどれだけ、どれだけ大切にするか、しなければならないか、あなたが今日語ってくださったことを感謝します。今日聞いている兄弟姉妹たちの中で、そのようにあなたが示されたのなら、どうか心から悔い改め、神に許しを請い、そしてみことばを大切に、そしてそれによって生きるものと変えてもらうように祈ってください。愛するイエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りします。アーメン。
- 聖霊の力とキリストの証人 その3
先週、キリストの証人について話しました。使徒の働き1章8節です。御霊に満たされることについて学びました。御霊に満たされるとは、私たちの生活において、神がご自身の民である人々を試練の中に置かれるということです。 そして、試練の中を通して、その人のうちにある神に属さないものを打ち砕く。そのように神は働かれます。そして、その働きによって、信仰者は自分自身ではなく、キリストに望みを置く者へと変えられていきます。その結果として、その信仰者のうちには、キリストの御業を褒めたたえる証が現れてきます。キリストの十字架、復活、主権、救いを証言していきます。福音を語るとは、聖書の知識を自分で探求して、聖書の教理を語ることではありません。多くの人は福音を話そうとして、自分の知識、自分の力、自分の思い、自分の義によって福音を語ろうとします。 しかし、それは福音ではありません。福音は、永遠の時の昔に、キリストにあって選ばれた人々に語られるために、神が御子イエス・キリストを通して現されたものです。 御霊に満たされる 使徒の働き一章から二章において、御霊に満たされるということを定義するとすれば、それは苦しみが消えることではありません。ある人たちは、御霊に満たされると苦しみが消えるというふうに思います。また、御霊に満たされるということは、痛みが消えることだと思う人たちもいます。 御霊に満たされると、不安が消えると、そのように勘違いする人たちがいます。御霊に満たされることは、葛藤が消えることではありません。ある人は、自分の罪と御言葉の間で苦しみ、葛藤を覚えます。そして、御霊に満たされるというこの教理を、葛藤が消えることだと思います。 よく間違われるのは、いろいろなところにある教会と言われる場所で、賛美を流し、その歌に酔いしれることです。そして、その時に自分自身を忘れ、その歌のリズムや、断片的な歌詞、繰り返しリピートされる歌詞に酔い、自分の罪や自分の葛藤や自分の痛みを一時的に忘れるという、そのような宗教的な行いがあります。しかし、その人たちは家に帰り、その家に帰った後に、自分の内に痛みと苦しみと葛藤があること、また肉の欲望があることを見ます。そして、それに対して自分たちはなす術がない苦しみと悲しみが、そこに絶えずあることを見ます。そして、「なぜだ。なぜ私にはこれがあるのか。私は満たされていないのか。御霊に満たされていないのか。」と自問自答します。 そして、その人たちは何十年もそういうことを繰り返しながら、死ぬまで御霊に満たされるという教理を理解せずに死んでいきます。ある人は、超自然的な力を受けることだと思います。 またある人は、奇跡を行う力を受けることだと思います。 またある人たちは、勇気を受ける、強くなる、痛みに勝つ、悪霊に勝つ、そのように御霊によって満たされるという教理を教えられ、理解してきました。 しかし、聖書ははっきりと示しています。御霊に満たされることは、痛みの中でしかありません。 御霊に満たされるということは、苦しみの中でしか起こらないのです。御霊に満たされるというのは、悲しみの中、不安の中、葛藤の中、ここにしか御霊に満たされるという神の御業は起きません。それらは決して消えません。痛みはあなたの内に絶えずあります。不安は絶えずあなたの内にあります。そして、自分がいかに無力であるかという思いが絶えずあります。それは正常なクリスチャンの姿です。むしろ聖書は、その苦しみの中に神が信仰者を置くと言っています。なぜなら、神は自分の子らを苦しみの外で育てることはしないからです。 神は自分の子たちを絶えず苦しみの中で育てます。苦しみの中で訓練し、十字架の下でへりくだらせます。 なぜなら、あなたが強い時には、あなたは決してへりくだらないからです。あなたが自分でできると思っている時には、あなたは決してへりくだらない。あなたに自分が勇気があると思ったら、あなたに力があると思ったら、あなたにお金があると思ったら、あなたに良い行いがあると思ったら、あなたは決して神の前でへりくだらない。むしろ、あなたは神の前でプライドを持ちます。 取税人とパリサイ人の話があります。取税人は神の前で胸をたたいて、「憐れんでください。この罪人を憐れんでください。」と祈りました。取税人は、当時の社会において、とても嫌われた最悪の仕事であり、人からお金を搾取する、盗み取るような、そういう仕事でした。取税人は自分の姿を見て、自分の仕事、自分の人生を見て、「私には何一つ誇れるものがない。むしろ私は罪の中で絶えず苦しんでいる。葛藤している。」そのように知っていました。この主税人は、長く葛藤しているのが見えます。この主税人の心には、正しいことを行いたいができない自分がいるということが表れています。だから取税人は神の前に、「どうかこの罪人を助けてください。」そのように現れています。 もう一人はパリサイ人です。パリサイ人は、自分が律法の先生だと思っています。自分には知識があると思っています。自分には良い行いがあると思っています。 なぜイエス様はこの例えをしたのか。それは、このパリサイ人の持っている特性が、罪人の特性、肉の性質をよく表すからです。だから、自分で「私には知恵がある」と思わなくても、あなたが知恵を求めていけば、あなたはパリサイ人になります。肉の性質をあなたは甘く見ています。あなたは、どれほど肉の性質が、罪の性質が、あなたの知恵、あなたの力、あなたの思いを超えて、あなたを支配しているか、あなたに影響を与えるか、そのことを理解していないからです。神は、そのような、神に属さない死の性質を、あなたの内に暴露します。そして、その死の性質はあなたを破壊していきます。あなたの内に罪の性質がそのまま現れていき、そこには、この世のあらゆる良くないものが現れてきます。それは罪です。 神は、信仰者、そして未信者、もっと言えば、神に選ばれてキリストと結合している者、そして、選ばれておらずキリストと結合していない者、その両方を同じ場所に置いています。両方を罪の下に閉じ込めています。聖書はこう言っています。すべての人は死の支配の下に置かれ、罪の束縛の中に置かれた、と語っています。 しかし、一方の人たちは滅びに向かいますが、同じ罪の束縛の中に入れられた人たちの中に、あることが起きます。それは、キリストと結ばれるということです。それが時の中に起こります。それは、新しく生まれるということです。このキリストと結ばれた人たちの心には、大きな変革が起こります。それは、新しい心が与えられるということです。心は新たに創造されました。一度きりの神の御業です。この創造は、私たちを大きく変えました。 それは、死の支配からキリストの御支配へ、私たちの位置を移したということです。そして、私たちの聖化が始まっていきます。信仰者の聖化は、そこからスタートします。 救いとは、単に地獄から天国に行くことではありません。救いとは、この生きている時において、聖く、キリストに似た者へと変えられていくことだと、ローマ書8章29節、30節は語っています。そして、その聖く変えられていく過程について考える時、あなたが時の中で救われた時に、あなたはキリストとどのように結ばれたのですか。あなたは、自分の力で、自分の信仰心で、自分の宗教的な知識によって、キリストと結ばれたのではありません。つまり、あなたは神によって結ばれたのです。神は、時の始まる前から、キリストにあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされました。これは神の御業です。あなたではありません。 ならば、この生きている中で、キリストの御姿に似せられていく、聖くなるというこの御業も、あなたではありません。イエス・キリストです。 では、聖さとは何なのか。多くの宗教家の人たちが聖さを求めます。多くの偽クリスチャンたちは聖さを作ります。しかし、聖さは神のものです。その聖さを人の力で作ることはできません。あなたのうちに聖いものは何一つありません。あるわけがありません。あなたは自分の心を見れば分かります。あなたは神と論争します。「私はこういう良い行いをやったから、私は聖いではないか。」「私はこの日は失敗したけれど、あの日は丸だった。」 ここに丸×表があります。しかし、今日は丸だった、明日は×だった、そういう丸×表がつくということは、あなたは聖くないということを示しています。 ホーリー、ホーリー、ホーリー。聖なる、聖なる、聖なる主は、永遠に聖い方です。 ここに大きなダイアグラムがあります。三位一体の神の本性は、すべて聖の内にあり、聖の外には何もありません。神は、聖なる、聖なる、聖なる主です。どこまでも、限りなく、完全に聖なる方です。そしてイエス様は言いました。「あなたがたは、父なる神が聖なるように、あなたがたも聖くなければならない。」 三位一体の神のように、私たちは聖くなければならない。それが神の命令です。聖くなるということです。 ならば、あなたはどのようにして聖くなるのですか。すでに、聖くなる方法がありません。聖くなる道もありません。私たちのうちでは、聖くなりたいと思っても、その聖ささえ分かりません。 それが本質です。しかし神は、御霊を私たちにくださいました。聖霊をくださいました。この聖霊の働きによって、私たちは今生きている現実の世界の中で、聖くされていきます。聖書は、あらゆるところで、この御霊の働きと聖さについて説明しています。聖書は特に、使徒の働きにおいて、御霊に満たされることと聖さについて、それはキリストの証人について、とてもはっきりと何回も語り続けます。すなわち、使徒の働きの中において、御霊に満たされるということは、聖くされるということです。この「御霊に満たされる」を、現代のキリスト教はすでに誤って理解し、誤って伝えています。それは、自分中心、人間中心に聖書を置き換えてしまっているからです。 使徒の働き四章の中で、ペテロが語りました。ペテロは御霊に満たされて、大祭司、またその他の人たちに向かって言いました。ペテロは、聖霊に満たされて、御霊に満たされて、大祭司、その他の律法学者たちに語ったわけです。 ここの箇所を、神を中心に見ずに理解すると、こうなります。「ペテロはスペシャルな力をもらった。」 そして、「ダビデのように勇敢に戦う力をもらった。」そうすると次にどうなるかと言うと、「天から油注ぎをいただきましょう。」そちらの方へ行ってしまいます。それは何かと言えば、聖霊を神ではなく、天から注がれる力のようなものに置き換えてしまうということです。分かりますか。聖霊は神です。しかし、「聖霊を注いでください」と言った時に、神ではなく、力になっているのが分かります。パワーです。これは聖書が教えていることではありません。 聖書は一貫してこう言います。聖霊に満たされるとは、神の御業である。聖霊に満たされるとは、痛みが消えることではない。痛みは絶えずあり続ける。ペテロが御霊に満たされた。この御霊に満たされた時に何が起こっているか。 その前の節を見ると、よく分かります。ペテロたち、そこにいたキリストの証人たちは、脅されています。 分かりますか。4章21節でこう言います。「そこで彼らは二人をさらに脅した上で釈放した。」彼らは脅されていたのです。29節。「主よ、今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたの御言葉を大胆に語らせてください。」ここをよく見てください。脅かしにあっている。この脅かしは、生命の危機を示しています。単なる脅しではありません。命を取るところまで含んだ脅しです。この時に何と祈っているかと言えば、「彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたの御言葉を大胆に語らせてください。」いいですか。脅しにあっていたら、どう祈りますか。脅しにあっていたら、常識で考えれば、「どうか彼らから私を守ってください。」とか、「彼らを滅ぼしてください。」とか、そちらに行くでしょう。 でも彼らは何と言ったか。「しもべたちにあなたの御言葉を大胆に語らせてください。」むしろ逆です。そうすると、ペテロが御霊に満たされている前提が分かります。ペテロが御霊に満たされたのは、ペテロが命を脅されている状態です。しかも、ペテロは成功した人ではありません。ペテロは多くの失敗を重ねていき、最後はイエス・キリストを、鶏が鳴くところまで裏切りました。最後の最後まで、イエス・キリストを裏切りました。彼はイエス・キリストを裏切ったことをものすごく悔いて、そして自分自身が砕かれています。この砕きの状態の中において、人は初めてキリストの証人とされるのです。キリストの証人というのは、あなたの状態が良くなったから、「今日から私は状態が良くなったので、キリストの証人です。」ということではありません。 聖書の御言葉が分かったから、キリストの証人なのではありません。キリストの証人というのは、あなたが試練の中に置かれて、自分の安全なところがなくなってしまって、あなたの万策がすべて尽きて、あなたの心が不安に満ちて、あなたが痛くて、悲しい。その時に、あなたは初めて、神に心から頼る者とされるということです。それは、あなたの宗教的な心の画策をすべて破壊します。 あなたは宗教的だから、いろいろなことを画策します。神に従順であることも画策します。画策というのは、表では従っているように見えても、心にはないということです。あなたは心の奥底では従っていないのに、表面的な態度において従うふりをします。だから、「試練に合わせないでください。」と言うのです。「ああ、もう試練は嫌だ。」それがあなたの本心です。私ははっきり言います。ここにいるすべての人の本心は、 「試練は嫌だ。」です。試練の意味が分からない。最悪だ。そういう人たちです。 本当に救われているのですか。試練と救いは関係ありません。はっきり言います。私が今、「本当に救われているのですか。」と言ったら、「救われていないかもしれない。」と思った人がいるでしょう。 それは違います。救いは、イエス・キリストを信じる信仰のみによるのです。それが土台です。他にはありません。それは神の御業です。だから、あなたがどれだけ試練に耐える人で、あなたがどれだけ素晴らしい人か、私は知りません。けれども、試練に耐えることによって、あなたには救いはありません辛いから逃げる。 逃げたら、あなたはクリスチャンではないのか。いや、関係ありません。逃げても逃げなくても、あなたにキリストを信じる信仰が与えられ、そしてあなたがこの方に望みを置いた時に、あなたが確かにキリストと結合されていることが現れているのです。だから、信仰があなたのうちに現れている時に、あなたはすでに救われており、信仰によってあなたは救われ、それによってあなたの義はキリストであると、神は宣言しています。 信仰義認はそれだけです。だから、あなたが試練から逃げたとしても、救いの根拠は変わりません。 すごくないですか。次に、なぜ試練があなたのところに来るのか。「なんで私にこんな試練が来るんだ。」 どうせ、みんな思うでしょう。「なんで私ばかり、次から次へとこの試練が来るんだ。」 まあ、私のことなんですけどね。次から次へと来る。でも、それには理由があります。 理由は、神が私を愛しているからです。神があなたをご自分の子として愛しているからです。愛しているから、何をしますか。良いものをくださいますよね。しかし、あなたにとって良いものは、肉にとっては害があります。肉によってあなたが欲しがるもの。外面的なキリスト教を欲しがる人は、「聖霊の熱い火を私にください。」と言います。「奇跡を起こしてください。」と言います。「病気を癒してください。」と言います。しかし、これらはあなたにとって益になりません。なぜなら、あなたのうちにキリストが形作られないからです。神があなたに益として与えるものは、あなたをキリストの形に造り変えていくものです。そして、その働きは神の力によって行われ、神の御業として行われ、あなたが死ぬまでずっと続きます。なので、あなたはもう逃げられません。 「やめた。」と言っても、追いかけてきます。「もう私はいいです。」 と言っても、神は追いかけてきます。 こんな宗教がありますか。神が、「やめた。」と言った人を追いかけ続けるのです。逃げられない。生ける神から逃げられるわけがありません。それは、慈しみと恵みです。愛する子を守る神の働きなのです。 だから、問題を起こした者がいますよね。今、ちょっとちらっと見えたから言いますが、この人も、だめに見えるのです。だけど、神は追いかける。何かとんでもないことをした人も、私は聞いたのですけれども、後ろの方にいる黒い服を着た人も、人間の目線から言ったら、「だめだな。」と思うのです。だけど、神は追いかけてくるのです。決して見捨てることはありません。✖がどれだけつこうが、神は追いかけてくる。そして、決して見捨てない。このように、神の慈しみと恵みは、絶えず私たちを追ってきます。しかし、私たちは今日、しっかりと理解する必要があります。 キリストの証人である使徒たちは、ペンテコステ以降、猛烈な迫害と猛烈な批判と猛烈な死を、彼らは味わっていきます。 痛みはどこから来るのか。心の中に痛みがある人がいるでしょう。不安がある人がいるでしょう。葛藤があるでしょう。「どうなってしまうのだろう。」 通常、テレビドラマなら、 「どうなってしまうのだろう。」 と言ったら、「続く」になります。でも、あなたの人生は「続く」で終わらないですよね。絶えず、絶えず、それが目の前にあります。しかし、痛みはなくならない。「私は聖霊に満たされていないのか。」 いや、関係ありません。 聖書は言います。聖霊に満たされていたら、痛みを感じなくなるのか。感じます。パウロははっきり言っています。「痛い。取り除いてください。」あれは肉体的な痛みだけではありません。肉体的な痛みもあったかもしれませんが、精神的な痛みもありました。取り除いてほしい。両方ともありました。 そして私たちは、こう学びます。痛みは決してなくならない。苦しみもなくならない。いいですか。困難もなくならない。試練もなくならない。すべてそのままあります。違いは何ですか。キリストがおられるか、おられないかです。キリストを持たない人たちは、その中で絶望して、命を絶つ。絶望して、自分だけの世界に入っていく。絶望して、線路の上に立つ人もいる。それが、キリストを持たない人たちです。 キリストを持つ人たちは違います。キリストを持つ人たちは、その苦しみの中で、神が与える志に従って歩いていきます。そして、キリストだけが自分の望みであることを知ります。その中で、神はその人たちに御言葉を通して語られます。 この違いを、ローマ書でパウロはこう言っています。キリストの御霊を持つ人は、キリストのものです。キリストの御霊を持たない者は、キリストのものではありません。はっきり言っています。パウロは同じところでこう言います。肉によって歩けば、あなたがたは死ぬのです。御霊によって歩くあなたがたは、生きます。 分かりますか。すべてつながっています。私たちの救いは、キリストの十字架の御業によって完全に完成しました。十字架につけられたキリストが言われたでしょう。「すべて完了した。」この「完了した」というのは、あなたの救いは100パーセント保証されたということを言っています。そして、あなたは信仰によって義とされています。行いによるのではありません。はっきりと言っています。しかし、この救いは必ず行いに現れてきます。ヤコブとパウロは、同じことを違う角度で言っているだけです。何も矛盾していません。 なので、私たちは今、キリストに似た者として変えられていく過程にあるということです。 御霊によって変えられる。 第二コリント三章にあるように、主の御姿に変えられていく。御霊によって。これは幻想的な、神秘的な変革ではありません。 パウロはここで、コリントの兄弟姉妹たちに、「自分の力では、あなたの堕落した肉には勝てませんよ。」と言っています。コリントの教会では、不品行が頻繁に起こっていました。ある兄弟は、自分の父の妻を自分のものとしていました。そのような不品行、そのようなことが行われていることに対して、パウロはその兄弟を取り除きます。ですが、悔い改めたら戻せと言っています。パウロは、この第二コリントの中で御霊によって変えられることについて話していますが、パウロは超神秘的な変革を言っているのではありません。もっと言えば、神の御業という意味では超自然的です。しかし、人が酔いしれるような神秘体験のことではありません。それは何かと言えば、あなたが試練の中に立たされる。その中において、御霊があなたのうちに神を頼る心を与えられるということです。パウロはガラテヤ人への手紙でこう言っています。 ガラテヤ人への手紙6章14節から16節。 「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。 この基準に従って進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」 私たちの救いには、二つの面があります。一つは信仰義認。もう一つは聖化です。両方とも、全体の救いの構造です。 しかし、私たちはそれをそのように理解しなければいけません。私たちの救いは、行いによるのではありません。私たちの救いは、信仰によって義とされることです。神が私たちのうちにその信仰を与えてくださる。 それが本当の救いです。そして、義とされる。それは神が十字架に基づいて宣言しています。これが、あなたの救いの土台です。だから、あなたが良い行いをしないから、できなかったからといって、あなたの救いが否定されるわけではありません。ここをしっかり、みんなつかんでください。 でも、もう一つ、聖化も救いです。 その救いというのは、あなたがこの時代において、キリストの御姿に変えられていくことです。それは、あなたがこの世において、神の御心に従って、神が備えた良い業を行っていくということです。それは従順です。 これを、パウロは報いと言います。報いは、あなたが頑張って行うものではありません。あなたが神の御言葉に従う者に変えられていくということです。そして、あなたが本当にしなければならないのは選択です。 その選択というのは、信仰義認の選択ではありません。その選択というのは、あなたがこの時代において、今生きている中において、試練の中を主と共に歩くことを選ぶか、逃げるかの違いです。これだけです。 神はあなたに、私に、何と言われましたか。イエス様はこう言われました。「あなたは自分の十字架を背負って、わたしについて来なさい。」あなたにとっての十字架とは何ですか。だいたい、あなたが嫌なものです。逃げたいものです。あなたの十字架は、あなたが逃げたい、見たくない、関わりたくないものです。まあ、私の十字架もそうなんですけどね。もう見たくない。聞きたくない。来るな。そういうようなものです。それが十字架の特性です。 だから、自分の十字架を背負ってわたしについて来なさいというのは、あなたにとっては辛いことです。働きに行きなさい。「ああ、働くのは嫌だ。」逃げる人もいます。働かずに、自分の年老いた母親に、年金暮らしの母親に生活費を頼る。物価高騰で生活費がどんどん上がっている。母親はもう食べられない。だから自分で朝早くから短いバイトに行って、体は痛い、腰も痛い。それでも行きます。しかし、その母親に乗っかって、その母親が稼いできたもので生きる。自分は何もせず、朝から晩までごろごろしている。しかし神は言います。自分の手で働きなさい。周りの人に負担をかけるな。そして神は、その志を与えます。その人は最初に努力します。行こうとします。 しかし、そこには何があるか。自分で決心して、自分で頑張って、自分でやろうとします。なので、その人は負けます。安易な道、楽な道に、自分は流されていきます。何が違うのか。それは、神が与えた志があるかどうかです。自分が作った志、「私はこうしよう。」というものは、自分の決心なので、決心主義と言います。 決心主義は、その人に何も力を与えません。決心は三日ぐらいで終わります。「今日からダイエットしよう。」決心主義です。一日で終わったりします。 なぜなら、その決心は自分の肉の心から出てきているものです。しかし、神が与える決心、志は違います。志は絶えずあなたの心の奥にあります。消えません。志は、あなたに絶えず御言葉を通して語ってきます。すなわち、試練から逃げないという志は、あなたを試練から逃げさせません。それは、神が逃げられないように扉を閉じるということです。だから逃げられない。逃げられないところで、今度また二つに分かれます。その御心に従って試練を歩くか。もしくは、騒ぐか、逃げるか。そして神はあなたを逃がさないので、どうなっていくか。必ず御言葉を通して、とどまるように語りかけてきます。そして、あなたの肉が打ち砕かれていく時に、あなたにはキリストだけが最後の望みであるという心が与えられていきます。 そして、この方に従っていく心が、あなたの内に置かれていきます。この新しい創造というのは、このことです。新しい創造というのは、再生の時にあなたの内に与えられた心が、時の中において外に現れることを言います。そして、このことをパウロは、「御霊に満たされなさい。」と言います。御霊に満たされるというのは、神秘的な感覚ではありません。御霊に満たされるというのは、何か天から力が注いでくることでもありません。そんなことは聖書では一つも言いません。御霊によって満たされなさいというのは、試練の中を歩いていきなさいということです。その中において、神の救い、イエス・キリストが現されるということです。 では、お祈りします。 天のお父様 私たちの人生において、あなたの救いが、あなたが信仰を私たちの内にくださった時に、信仰によって義とされるということが宣言されたことを感謝します。私たちの救いは、あなたの義のみです。誰も自分の義によって救われる人はいません。 主よ、あなたの義によって、私たちは正しい者とされています。どうかこの真理を、一人残らず心の底にとどめることができますように。たとえ周りの者が、たとえ自分の心が、「お前は罪人だ。」と責めようとも、 たとえサタンが、「お前は腐っている。」「お前は汚い。」と責めようとも、私たちはあなたの十字架の御業によって、キリストと共に死んでいます。罪は、私たちを追いかけることはできません。神の怒りも、私たちを追いかけることができません。そして、罪、律法の呪いも、私たちを追いかけ、捕まえることができません。 なぜなら、私たちはキリストと共に死んでいるからです。 そして、あなたの義が、私たちのうちに今生きていることを感謝します。主よ、あなたが義であるから、私たちは義であります。父なる神が義であり、正しく、聖いように、「あなたがたも聖くなりなさい。」それは、父なる神が私たちと共に、今いらっしゃるからです。 この真理を心から感謝します。そして、この聖化の過程の中で、私たちは苦しみにもがいていますが、この過程を通して、私たちが、「イエス・キリストのみが救いである。」「それだけが私たちの望みである。」と、あなたが導き、語ってくださっていることを感謝します。キリストが心の中にしっかりと、この素晴らしい聖なる方が心の中にしっかりと描かれますように。また、描いてくださっていることを感謝します。 イエス・キリストの御名を通して、感謝してお祈りします。 アーメン。
- 詩篇23篇から見る試練
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」 詩篇23篇1節 試練は、それ自体が美しいのではない。 死の陰の谷は、やはり谷であり、苦しみは苦しみである。 しかし、信者はその谷の中で、なお告白する。 「主は私の羊飼い」と。 主は、緑の牧場に伏させる時だけ羊飼いなのではない。 死の陰の谷を歩ませる時も、なお羊飼いである。 だから信者は、試練の中で捨てられたのではなく、むしろ羊飼いの御手の中にある。 詩篇23篇は、試練の中で何が慰めなのかをはっきり示す。 それは、谷が浅いことでも、苦しみが短いことでも、自分が強いことでもない。 「あなたがともにおられますから」――これが慰めである。 そしてダビデは、 「あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです」 と言う。 主のむちは、羊を打ち捨てるためのものではない。 主の杖は、羊を見失うためのものではない。 それは、迷う羊を正し、守り、導き、引き戻す、羊飼いの愛の手である。 だから、試練の中にある信者は知っている。 この苦しみは、神に見捨てられたしるしではない。 むしろ主はこの試練を通して、砕き、清め、キリストにより頼ませ、御自身の羊を最後まで保っておられる。 まことに、信者の生涯を追って来るのは、偶然でも不運でも絶望でもない。 主のいつくしみと恵みである。 だから試練のただ中にあっても、信者はこう告白する。 試練そのものを賛美するのではない。 しかし、試練の中でも主が羊飼いとしてともにおられ、むちと杖で導き、いつくしみと恵みをもって最後まで保ってくださる。 その主の取り扱いは、実に素晴らしい。
- 信仰義認と死んだ信仰
2026.6.21 豊川の家の教会礼拝メッセージ 信仰義認と死んだ信仰 信仰義認とは、罪人である人が、自分の行いや功績によってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の前に「義」と宣言されることです。 信仰義認とは、簡単に言えば、神の前で有罪の罪人が、キリストの贖いと義のゆえに、信仰によって「義」と宣言されることです。 中心は三つです。 第一に、人間は自分で義となれない。人は神の律法を完全に守れません。善行、宗教熱心、悔い改めの深さ、奉仕、献金、教会生活によって、神の前で義を獲得することはできません。人間の側には、神に差し出せる救いの功績がないのです。 第二に、キリストが罪人の代わりに立たれた。キリストは罪のないお方でありながら、十字架で私たちの罪の罰を負われました。そして、キリストの完全な義が、信じる者に与えられます。つまり、私の罪はキリストに負われ、キリストの義は私に数えられる。これが信仰義認の核心です。 第三に、それを受け取る手段が信仰である。信仰は、救いを生み出す功績ではありません。信仰そのものが立派だから救われるのではありません。信仰は、ただキリストを受け取る空の手です。だから聖書は言います。「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる」(ローマ 3 章 28 節) 信仰義認で大切なのは、神が人の中に何か良いものを見つけて義とするのではないということです。神は、キリストに結ばれた者を、キリストの義のゆえに義と宣言されます。 ですから、救いの根拠は、私の信仰の強さではなく、私の悔い改めの涙でもなく、私の奉仕や変化でもなく、キリストの十字架と復活です。 ただし、信仰義認は「行いは不要だから、罪のままでよい」という教えではありません。義とされた者は、聖霊によって新しくされ、悔い改めと従順の実を結び始めます。 整理すると、義認は、神が罪人を義と宣言する一度限りの法廷的宣言。聖化は、義とされた者を神が実際に造り変えていく生涯の働き。順序が重要です。良い行いをしたから義とされるのではない。義とされたから、良い実を結ぶようにされる。 信仰義認とは、福音の中心です。罪人である私は、自分では神の前に立てない。しかし、キリストが私の罪を負い、私のために義を成し遂げてくださった。だから私は、自分の行いではなく、キリストを信じる信仰によって、神の前に義と宣言される。これが信仰義認です。信仰義認はこれ以上でも、これ以下でもありません。神が、信仰義認の教理を、現実の試練の中で信仰として与えてくださいますように。 "イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。 ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。 麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。 それで、しもべたちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。 だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」" マタイの福音書 13 章 24~30 節 教会には麦と毒麦が存在します。どこの教会も同じです。麦と毒麦が存在します。 最後の時に、神が毒麦を集めて火の中に投げ込みます。 人は教義を暗記して救われると、聖書は教えません。 「年を取ったから、子供だから覚えられない。」「記憶力が落ちたから、信仰義認は難しい。」しかし、それは本当に問題の核心なのでしょうか。もし信仰義認が、神学用語の定義を暗記する試験問題であるなら、その言い訳も成り立つかもしれません。 しかし、信仰義認とは、「私は何によって神の前に受け入れられるのか」という、救いそのものの問題です。 人は、自分にとって本当に重要なことは、専門用語で説明できなくても知っています。自分の子どもの名前を忘れない。自分がどこに住んでいるかを知っている。誰が自分の配偶者なのかを知っている。どの薬を飲まなければならないかを覚えている。それは神学的定義を暗記しているからではなく、自分の人生と結びついている現実だからです。 同じように、救われた者は、「私は自分の行いでは救われない。」「キリストだけが私の望みだ。」「十字架によって赦された。」という現実を知っています。たとえ「信仰義認」という四文字熟語を忘れても、その中身まで失うわけではありません。 むしろ問題は、何年も教会にいながら、「結局、自分の頑張りが必要だ。」「自分の悔い改めの深さで神に受け入れられる。」「教会生活や奉仕によって義とされる。」と考えているなら、それは記憶力の問題ではないということです。それは、自分が何によって救われるのかを知らない、という問題です。ただ、教会と言う人間の作った組織の中にいるだけです。 「覚えられない」は、この問いから逃れるための便利な言葉になり得ます。しかし聖書は、「記憶力のある者は救われる」とは教えません。また、「神学用語を正確に説明できる者は義とされる」とも教えません。聖書が問うのは、あなたは誰を信頼しているのか、ということです。 自分の行いなのか。自分の決心なのか。自分の宗教生活なのか。それとも、キリストの贖いと、その義だけなのか。 もし本当にキリストによって救われたなら、その人は障害や認知機能の衰えによって神学用語を忘れることはあっても、「私は罪人で、イエス様だけが救いです。」という拠り所そのものまで失うことはありません。なぜなら、救いは人間の記憶力によって保たれるものではなく、神の新しい創造の御業だからです。 だから、「記憶できないから信仰義認が分からない」という言葉は、しばしば問題の本質を隠す詭弁となります。本当に問われるべきなのは、「あなたは何によって神の前に義とされると信じているのか」ということです。そして、その答えが「キリストの十字架と復活だけです」の本質を語り、生きる信仰がないなら、それは記憶力の問題ではなく、その人が受けた福音そのものを吟味すべき問題なのです。 自分の子どもの名前は覚えている。家に帰る道は覚えている。どの薬を飲まなければならないかも覚えている。それは、生活と命に関わる現実だからです。しかし、神が自分をどこから救い出してくださったのか、罪の中で死んでいた自分を、何の功績もないまま、どのように義としてくださったのか、キリストが十字架で何を成し遂げてくださったのか、それは「覚えていない」「分からない」と言う。それでいて「私は信じています」と言うなら、それは何を信じているのでしょうか。 信仰義認は、神学用語の暗記ではありません。「私は自分の行いではなく、キリストの義によってのみ神の前に立つ」という、救いの土台そのものです。 贖いも、難しい専門知識ではありません。「私は罪の奴隷であり、神の怒りと死の支配の下にあった。しかしキリストが十字架で、私の罪を負い、代価を払い、神の前に赦しと義を与えてくださった」という、救いの現実です。 だから、子どもの名前は覚えている。道は覚えている。薬は覚えている。しかし、自分が何から救われ、誰によって救われ、何を根拠に神の前に立っているのかを知らないなら、それは記憶力の問題ではありません。それは、福音がその人の命の現実になっていないということです。そのような信仰は、聖書が語る信仰ではありません。信仰とは、曖昧な宗教感情ではありません。信仰とは、罪の中で死んでいた者が、キリストの贖いと義だけにより頼み、神の前に立たせていただくことです。 聖書は、これは「忘れた・覚えられない」問題ではなく、福音を聞いても信仰と結びついていない危険として語ります。「聞いたみことばも、それを聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったので、何の益にもなりませんでした。」(ヘブル 4 章 2 節) また、救いの核心をこう言います。「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」(エペソ 2 章 1 節) 「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。」(エペソ 2 章 8〜9 節) 「人が義と認められるのは、律法の行いとは関わりなく、信仰による」(ローマ 3 章 28 節) 「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント 5 章 21 節) つまり聖書はこう言っています。自分が罪の中で死んでいたことを知らない。自分の行いでは義とされないことを知らない。キリストが自分の罪を負い、義を与えてくださったことを知らない。それで「私は信じています」と言うなら、問われるべきは記憶力ではなく、その信仰が本当に福音に結びついているかです。 このような信仰を、死んだ信仰と言います。それは、信仰という言葉は持っていても、キリストに結びついていない信仰だからです。ヤコブは言います。「たましいを離れたからだが死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は死んでいるのです。」(ヤコブ 2 章 26 節) ここでいう「行い」とは、救いを得るための功績ではありません。本当にキリストに結びついた信仰なら、必ずその命が現れるということです。 罪を知らない。贖いを知らない。義認を知らない。キリストの十字架を、自分の救いとして知らない。 ここで言う「知る」とは、単なる知識を持つことではありません。 用語を説明できることでも、教理を暗記していることでもありません。自分が神の前に罪人であると示され、自分の義では立てないと砕かれ、キリストの十字架だけが自分の救いであると頼らされることです。 それがないまま、「信じています」と言うなら、それは生きた信仰ではありません。福音を聞いていても、福音に結びついていない信仰です。 キリストの義により頼む信仰ではなく、宗教的習慣、教会生活、感情、自己満足にとどまっている信仰です。だから、そのような信仰は死んだ信仰です。 キリストに結びついていない信仰は、人を救いません。 聖書は、「死んだ信仰」という言葉を単なる未熟な信仰の意味では用いていません。それは、信仰を持っていると思っていながら、実際には救いに至る生きた信仰ではない状態を警告する言葉として用いています。 1. 死んだ信仰は「救うことのできない信仰」である 「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その信仰に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、その人を救うことができるでしょうか。」(ヤコブ 2 章 14 節) ヤコブは、「そのような信仰が救うことができるのか」と問いかけます。答えは 「できない」です。ここで問題なのは、「信仰が弱い」ことではありません。「信仰があると言っているが、実際には救いに結びついていない」ということです。 2. 死んだ信仰は、知識や同意だけで終わる 「あなたは、神はおひとりだと信じています。立派なことです。しかし、悪霊どもも信じて、身震いしています。」(ヤコブ 2 章 19 節) 悪霊でさえ、神がおられることを知っています。イエスが神の子であることも知っています。しかし、悪霊はキリストに信頼しません。つまり、聖書の正しい知識があること、たとえば信仰義認の教理に同意すること、教会に所属していること、これら自体は、生きた信仰の証明にはなりません。 3. 死んだ信仰は、自分を欺く危険がある 「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ 7 章 21 節)「その日には大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって 多くの奇跡を行ったではありませんか。』」(マタイ 7 章 22 節) しかし主は、「わたしはあなたがたを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」(マタイ 7 章 23 節)と言われます。 彼らは自分たちを信者だと思っていました。しかし、キリストとの真実な関係を持っていませんでした。これが死んだ信仰の恐ろしさです。本人は救われていると思っていることです。 4. 死んだ信仰は、福音を聞いても益を受けない 「聞いたみことばも、それを聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったので、何の益にもなりませんでした。」(ヘブル 4 章 2 節) イスラエルは神の約束を聞きました。しかし、信仰と結びつかなかったため、約束の地に入れませんでした。福音を何度聞いても、自分の罪が分からない。キリストの贖いが自分の救いとして結びつかない。自分の行いに頼り続ける。ならば、その人は長年教会にいても益を受けない危険があります。 5. 生きた信仰はキリストに結びつく 聖書が語る生きた信仰とは、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ 2 章 20 節)という信仰です。それは、私は罪人である。私は自分を救えない。キリストが私の罪を負ってくださった。キリストの義だけが私の望みである、と、キリストにより頼む信仰です。 6. だから聖書は自分を吟味するよう命じる 「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。」 (Ⅱコリント 13 章 5 節) これは、真の信者を絶望させるためではありません。むしろ、「私は何により頼んでいるのか。」「キリストの十字架だけを救いの根拠としているのか。」「それと も、自分の決心、行い、宗教生活に望みを置いているのか。」を吟味するためです。死んだ信仰の最大の危険は、迫害でも失敗でもありません。救われていると思い込みながら、実際にはキリストを知らないまま最後の日を迎えることです。だから聖書は繰り返し警告します。「兄弟たち。ますます熱心に、あなたがたの召しと選びを確かなものとしなさい。」(Ⅱペテロ 1 章 10 節) そして同時に、真にキリストにある者には慰めも与えます。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、だれも彼らをわたしの手から奪い去ることはありません。」(ヨハネ 10 章 27〜28 節) 死んだ信仰への警告は、キリストにある者を不安に陥れるためではありません。真にキリストにより頼む生きた信仰へと招く、神の憐れみによる警告なのです。 聖書的に考えるなら、「年だから、障害だから記憶できない」という言い訳そのものが、しばしば本当の問題から目をそらすための自己防衛として現れます。ただし、ここは慎重に区別する必要があります。本当に認知症などによって記憶機能が著しく低下している場合があります。本当に障害を持った方など、その場合は、神はその人の認知能力の低下によって救いを失わせるお方ではありません。しかし、問題にしているのは、そういうケースではありません。 何年も福音を聞きながら、子どもの名前は覚えている。家に帰る道は覚えている。どの薬を飲むかは覚えている。趣味のことは覚えている。自分に関係することは覚えている。しかし、自分が何から救われたのかは分からない。なぜキリストが必要なのかは分からない。キリストが十字架で何を成し遂げたのかは分からない。自分が何によって義とされるのかは分からない。と言うのです。 すると問題は、「記憶できないこと」ではなく、「それを自分の命に関わる現実として受け取っていないこと」と言う可能性になります。聖書はこう言います。「宝 のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。」(マタイ 6 章 21 節) 人は、自分にとって価値あるものを覚えます。もちろん細部は忘れます。しかし、命に関わることは忘れません。だから、福音を「神学の知識」「教会の話」「難しい教理」として外側に置いているなら、「年だから覚えられない」という説明になります。 しかし、生きた信仰なら、「私は罪人だった。」「私は自分を救えない。」「キリストが私のために死んでくださった。」「私はキリストだけが望みだ。」という救いの現実は、むしろ年齢を重ねるほど深くなっていきます。 パウロは晩年になって、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られました。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ 1 章 15 節)と言いました。 彼は年を取るほど、自分の罪深さとキリストの恵みを忘れたのではなく、ますます深く知ったのです。では、なぜ「年だから記憶できない」と言うのでしょうか。聖書的に言えば、いくつかの可能性があります。 第一に、自分を吟味したくないからです。もし「私は何によって救われるのか」と真正面から問われれば、自分の信仰の実態に向き合わなければなりません。その痛みを避けるために、「年だから、子供だから、病気が」と問題を能力の問題へとすり替えます。 第二に、福音を自分の現実として受け取っていないからです。福音は「聞いた話」であって、「私の救い」ではない。そのため、生活の現実ほどの重みを持っていません。 第三に、宗教的安心感に留まりたいからです。「教会に通っているから大丈夫。」「洗礼を受けたから大丈夫。」「昔決心したから大丈夫。」しかし、その土台を問われたくないため、「難しい」「覚えられない」として吟味を避けます。 だから、死んだ信仰の最も恐ろしいところは、本人が「自分は信じている」と思っていることです。そして、その思い込みを守るために、「難しいから分からない」「年だから覚えられない」「子どもだから」という言葉が、自分を吟味しないための盾になることがあります。 だから聖書は、「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。」(Ⅱコリント 13 章 5 節)と命じます。 それは真の信者を絶望させるためではありません。むしろ、「あなたは本当にキリストを知っているのか。自分の行いではなく、キリストの贖いと義だけに望みを置いているのか。」と問いかけ、死んだ信仰から生きた信仰へと招く、神の憐れみによる警告なのです。 以上
- 午後3時の祈りの時間とキリストの証人
2026.6.17 The Word for you 午後3時の祈りの時間とキリストの証人という、またキリストの証人シリーズです。 使徒の働きの3章1節は、すごい短い聖句です。ペテロとヨハネは午後3時の祈りの時間に宮に上って行った。ペテロとヨハネは午後3時の祈りの時間に宮に上がっていきました。 この1節は単なる時間の記録ではありません。初代教会の姿と救済史の転換を示、大変重要な意味を持っています。今日はこの1節だけを講解します。 午後3時の祈りの時間について。ユダヤ人、ユダヤ教は祈りの時間を持っていて、そのうちの1つです。午前の9時頃と正午頃、そして午後3時頃で、この表現は現代の時間で書いてあるので、午前9時、正午、午後3時頃となりますが、ユダヤ時間で言うと第3時、第6時、第9時となります。 この、午後3時というのは、ユダヤ教では神殿で夕方の生贄が毎日犠牲として捧げられる、そういう時でした。出エジプト記の29章の39節ではこう書いてあります。1匹は朝に捧げ、もう1匹は夕暮れに捧げなさい。ですから、この午後3時の祈りの時間は、個人的な黙想の時間、嘆きの壁のように祈るといった時間ではなく、生贄を捧げるというのは贖い、贖罪の時間です。贖罪と礼拝を象徴する時間。そういう意味があります。 では、なぜペテロとヨハネは神殿に行ったのか。皆さんこの3章の1節をそんな風に掘り下げて読む人はいない、あまりいないですよね。私は掘り下げて読む人なので、掘り下げて掘り下げて解析しました。ペテロとヨハネはなぜ神殿に行ったのか。 日曜日に聖霊降臨の話をしました。聖霊が降臨して、異言のしるしも見た後です。でも、使徒たちは宮に上がっていった。ここではペテロとヨハネです。なぜ上っていったのか。彼らは神殿礼拝で救われようと思って行ったわけではありません。彼らは啓示を受けてキリストの証人となっています。神殿制度が示してきたものがキリストであるという啓示を受けています。そのキリストがすでに十字架で完全な生贄になっているということ、動物の生贄では、何も収まらない、キリストご自身が生贄となられたこと、彼らは、この復活したキリストを証しするため、神殿というユダヤ教の中心に上って行きました。そのように解釈します。まだ教会とユダヤ教の会堂が完全に分離する前の過渡期です。 使徒たちはイスラエルに対して最後の証を続けていました。このように聖書は語ってます。午後3時の持つ意味はとても深いです。この午後3時は主イエスの十字架の死と結びついています。はっきりと分かります。マタイの福音書27章45節から50節を見てください。この箇所はとても有名です。 さて、12時から午後3時まで闇が全地をおおった。3時頃イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。これは、「わが神、わが神、どうして私をおみすてになったのですか」という意味である。 そして27章の50節。「しかしイエスは再び大声で叫んで霊を渡された。」 ユダヤ教の教えでは、午後3時は本来、生贄が捧げられる時でした、動物の。しかし、それは完全に罪を取り除くことができなかった。しかしこの午後3時に、神は、まことの子羊であるキリストが十字架でご自身を捧げられるという、この御子を犠牲にしました、小羊として。すごいでしょう。 そこで、使徒の3章で午後3時に宮殿に向かうペテロとヨハネの姿を思ってください。彼らは何をしに行ったのか。旧約の生贄の時代が、キリストにおいて成就したということを彼らは証ししに行きました。そして、そのなされた救い、イエス・キリストの福音を述べ伝える、新しい時代に移ったという姿を表しています。これが午後3時の姿、使徒3章の1節。 そして、その直後に起こる出来事は何ですか、知ってますよね。美しの門に、生まれつきの足の不自由な人がいました。使徒の3章の2から10節。この祈りの時間に神殿に向かった結果、美しの門で生まれつき足の不十の人が癒されるという、私たちは聖書のそういう光景の中にいます。そして、いいですか、この癒しの中で奇跡が起こります。しかし、奇跡に目をやる人はいっぱいいます。奇跡にしか目をやりませんが。 ですが、重要なのは癒しそのものではありません。いつもそうです。聖書が語るのはキリストです。キリストですよ。癒しそのものではありません。聖霊が舌の形で下ってくることでもありません。異言をガリラヤなまりで喋ってる人たちではありません。これらの出来事は、全てキリストを証しするための印として用いられました。ペテロは、こう言いました。3章の6節で、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、その後でペテロは15節、16節でこう言います。「しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。このイエスの名がその名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。」いいですか、「イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」福音がここで語られています。イエス・キリストが証しされています。信仰はイエスによって与えられます。 つまり、祈りの時間、神殿、癒しの印、そしてキリストの復活の証言という流れになっています。使徒の働きの中心は、奇跡や癒しやスーパーナチュラルではないです。常にキリストの証人です。皆さんこの観点で「使徒の働き」を読んだことがありますか、ないですよね。それは神が中心でなければこの形にならないからです。使徒たちを通して、復活のキリストを明しさせるために聖霊は働いています。聖霊は今も働いていて、復活のキリストを証しさせます。 使徒の3章の1節は本当に何気ない時間の記録のように見えます。しかしそこには深い意味があります。旧約の礼拝が終わり、そして新約の礼拝に入ること、十字架の成就、神殿への最後の証、復活のキリストの宣教です。この1節には救済的な意味がそのように凝縮されています。中心なのは奇跡ではなくて常にキリストの証人、そしてキリストが、旧約の時代の午後3時に捧げられていた不完全な生贄ではなく、完全な生贄であるということを、ペテロとヨハネは語っています。 そして、ペテロは宣言します。「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上り、歩きなさい。」「神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です」。これは、午後3時の祈りの時間のパッセージにおいて、キリストの証人がはっきりと語られている。救済史の意味が凝縮された1節でした。 お祈りします。愛する天のお父様。午後3時に捧げられた御子イエス、私たちの罪のゆえに、ご自身の命で私たちの罪、そして神の怒り、律法の呪から私たちを救い出し、神の御国に移してくださいました。この贖いの業を、主よ、感謝します。 そして、私たちの内に信仰を与えてくださいました。誰1人とも自分の行いによって救われることはない。 主よ、私たちは自分の行いでは義とされることがない。私たちは何も自分で貢献するものなく、自分を誇るものはありません。使徒たちは御子イエスを信じる信仰を与えられ、主よ、義とされました。この素晴らしい救いが、こののように凝縮されて使徒の3章1節に現れてることを、本当にびっくりします。愛するイエスキリストの御名をとおして、感謝してお祈りします。アーメン。
- 使徒1章から2章に見る 聖霊の力とキリストの証人
2026.6.14 豊川の家の教会礼拝メッセージ イントロダクション 今週、水曜日のメッセージで私たちは、ステパノが本当に試された姿を見ました。主がご自分の証人を選び、任命された。そこには神の力が現れていた。 ステパノは、自分の力、弁明、逃げ道、地上の望みがすべて取り去られる中で、神によって御霊に満たされ、キリストを彼の内に現されました。 「しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見た。」ですから、私たちははっきりと知った。聖霊に満たされるとは、決して人が強くなることではない。神が弱さの中でキリストを現されることである。神が砕かれた者の内に、キリストだけを最後の望みとして立てられることである。神はステパノを、死の前でキリストだけに頼る者とされた。 ステパノのこの証は、決して彼が自分を強いものとして証したものではない。彼は神により最も弱くされ、その中にキリストを現された証である。 ステパノの心は、その最も弱くされた中で、キリストのみが最後の望みとなっていた心である。彼の心はキリストのみになっていた。聖霊に満たされていたのである。 これが主が選び、任命されたステパノの人生にみるキリストの証人の姿である。今日はさらに使徒の働き1章と2章から「聖霊の働きとキリストの証人について」を学んで行く。 使徒1:8 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」 リバイバル主義、カリスマ神学、ペンテコステ神学は、この聖句を用いて「聖霊の力」を語る。しかし、彼らが語る「御霊に満たされる」と、使徒たちが語る「御霊に満たされる」は同じではない。彼らの体系では、「御霊に満たされる」とは、人が特別な霊的能力を受けることとして理解される。 力強い伝道ができる 奇跡が起こせる 異言が語れる 預言できる 人を決断へ導ける リバイバルを起こせる という方向で教えられることが多い。 そのため信徒は、「もっと力が欲しい」、「もっと油注ぎが欲しい」、「もっと聖霊体験が欲しい」と求めるようになる。そして伝道も、「神が救われる」ではなく、「人を動かす」方法へ重心が移っていく。 しかし使徒の働き全体を読むと、そのような姿は見えない。 しかし、使徒たちは、 永遠の昔 神がキリストにあって選ばれた 時の中で再生された 信仰と悔い改めを受け義とされた 聖化に歩くものとされた その中で 迫害された 投獄された 鞭打たれた 拒絶された 苦しめられた 殉教した のである。 もし「聖霊の力」が人間の能力向上なら、使徒の働きは成功体験の記録になるはずである。しかし実際は逆である。使徒たちは苦難の中へ導かれている。使徒たちに現れた御霊の働きとは、試練の中で古い人が砕かれ、キリストにある新しい創造の現実が時間の中に現れてくる神の御業である。 神は苦難を通して、 自己保身を砕かれる 自己義認を砕かれる 人間的な誇りを砕かれる 自分が描く期待を砕かれる そして、その砕きの中でキリストを現される。パウロはこう語る。「私たちは、心の中で死を覚悟しました。それは、もはや自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためでした。」(Ⅱコリント1章9節) パウロはここで、「聖霊によって特別な力を得た」とは言わない。むしろ、「死を覚悟した」と言う。神は試練の中でパウロを追い詰め、自分自身への期待を砕き、自分の力、自分の知恵、自分の経験に頼る道を閉ざされた。そして、死者をよみがえらせる神にのみ望みを置く者とされた。これが使徒たちの経験した御霊の働きである。 だから使徒の働き1章8節の「力」とは、超自然的能力でも、宗教的高揚感でも、神秘的な油注ぎ体験でもない。神が試練の中でご自身の民を砕き、自分自身への依存を取り除き、キリストを唯一の望みとして立たせられる神の力である。 そして、その結果として、 キリストへの信頼 キリストへの従順 キリストの忍耐 キリストの証し が現れる。だから、「あなたがたは力を受けます」の中心は、「人が力を持つ」ことではない。「わたしの証人となります」にある。それはキリストが選び、任命し、試練をもって準備した者たちである。神が御霊によって働かれ、試練の中で彼らを砕き、キリストを唯一の望みとする者とし、その人をキリストの証人として立たせられる。これは一貫した福音の「御霊に満たされる」であり、「聖霊の力」である。 では、「キリストの証人」とは何か。それは、自分の霊的体験を語る人ではない。自分の能力や知識、成功を語る人でもない。まして、自分がどれほど油注がれているかを語る人でもない。キリストの証人とは、キリストご自身が選び、任命した者たちである。使徒たちは教会の土台として立てられ、そしてキリストの証人とは神が選ばれて、キリストと結ばれたすべての神の民である。 キリストに結ばれ再生した彼らは自分ではなくキリストを語らざるを得ないものとされて行く。キリストが真に神であり真に人であること。キリストが十字架で罪人のために死なれたこと。キリストが復活されたこと。キリストが今も主として支配しておられること。キリストだけが救い主であること。キリストだけが罪と死と律法の支配から救うことができることを語らざるを得ないところに置かれる。 そして、これらすべてが人間の決断や能力によって得られるものではなく、神の御業であり、永遠におけるキリストとの結合を源泉として与えられる恵みであること。これを証言する者がキリストの証人である。そして、その証しは単なる口先の言葉ではない。試練の中で自分自身への望みを失い、なおキリストに望みを置かされる歩みそのものが証しとなる。だから使徒たちは、「私たちは強くなった」とは語らなかった。 自分の義が失望に変わる中で「イエスは主である」と語った。自分が死に直面する状態の中で「神は死者をよみがえらせる方である」と語った。「私たちは特別な体験をした」とは誇り語らなかった。自分の置かれた状況が良くなった後に、「キリストの十字架と復活」を語るのではなかった。 試練と苦しみの中で「十字架につけられたキリスト」を語った。 これが使徒の働き1章8節における「キリストの証人」である。 神はご自身の民を試練の中で砕かれ、御霊によって自分自身ではなくキリストに望みを置く者とされる。そして、その歩みを通して、キリストの十字架、復活、主権、救いを証言する者として立たせられる。これが使徒の働き1章8節における「御霊に満たされる」ことの結果であり、聖書の教えは一貫している。これこそが「聖霊の力」であり、「キリストの証人」である。 使徒1章から2章に見る 聖霊の力とキリストの証人 使徒1章から2章の流れを文脈に沿って読むと、ペンテコステの中心は異言体験でも超自然的能力を与えることでもなく、昇天されたキリストが御霊を注ぎ、ご自身の御国を歴史の中に開始されたことを宣言していることが見える。 まず使徒1章6節で、弟子たちは「主よ。今こそイスラエルのために国を再興してくださるのですか」と尋ねた。彼らは地上的・民族的王国の回復を期待していた。しかし主はその問いに答えず、"しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」" 使徒の働き 1章8節で主が示されたのは、イスラエル国家の再建ではなく、キリストの御国の開始であった。 その直後、主は天に上げられる。そして使徒1章11節で天使は、「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか」と語る。この時の対象は、直前に列挙された使徒たちである。使徒1章13節には、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ等使徒11人が列挙されている。聖霊があなたがたの上に望むと言ったのは使徒たちを中心とした神が選び、任命した神の民のことであった。この理解はとても重要である。 そして使徒2章に入ると、ペンテコステ、五旬節の日に「皆」が同じ場所に集まっていたと記される。この場所は1章の場所とは違う。公共の場所で集まっている。なぜなら、そこには聖霊降臨から異言の出来事を目撃した人々がおり、十二使徒が皆の前に立っている構図がある。この「皆」が誰を指すのかは重要である。一般的には1章でマリアやイエスの兄弟たちを含めて百二十人全体と解釈されることも多い。しかし文脈を追うと、少なくとも第一義的には使徒たちを指していると理解する強い根拠がある。 その根拠は、使徒2章7節にある。 「そして驚き怪しんで言った。『見なさい。話しているこの人たちは、みなガリラヤ人ではありませんか。』」(使徒2:7) 使徒1章では、約百二十人ほど兄弟たちが集まっていたことが記されている(使徒1:15)。しかし、使徒2章ではすでに場面が切り替わっている。五旬節の日となり、聖霊が下った後、群衆が「話しているこの人たちはみなガリラヤ人ではありませんか」と驚いているのである。 したがって、異言を語っていた主体を百二十人全体と断定する必要はない。むしろ、文脈上の焦点は十二使徒に移っていると理解するほうが自然である。少なくとも、「百二十人全員が異言を語っていた」と本文が明示しているわけではない。 さらに注目すべきは、群衆がなぜ彼らを「ガリラヤ人」と識別できたのかという点である。ガリラヤ人は、その独特の訛りによって知られていた。 実際、主イエスが捕らえられた夜、ペテロに対して人々は、「確かに、おまえもあの仲間だ。ことばのなまりでも分かる。」(マタイ26:73)と言った。つまり、ガリラヤ人の話し方には明確な特徴があり、人々はその発音によって出身地を判断できたのである。古代のラビ文献にも、ガリラヤ人の発音の不正確さはしばしば言及されている。例えば、タルムードには、ガリラヤ人は喉音(ヘブライ語の guttural consonants)を正確に発音できず、同じ言葉でも意味が判別しにくかったという話が残されている。ガリラヤ地方は異邦人との接触も多く 「異邦人のガリラヤ」イザヤ9:1、エルサレム周辺のユダヤ人からは、訛りの強い地方の人々として認識されていた。 したがって、群衆が「みなガリラヤ人ではありませんか」と言ったのは、彼らの衣服や顔を知っていたからではなく、ガリラヤ訛りによってガリラヤ出身者であることを聞き分けた可能性が高い。また、群衆が「みなガリラヤ人ではありませんか」と言ったときに、女、子供が含まれないことはユダヤ人の文化的な特徴である。 そして興味深いのは、そのような訛りのあるガリラヤ人たちが、ガリラヤ訛りの各国の言葉で「神の大きなみわざ」を語っていたことである(使徒2:11)。すなわち、奇跡の中心は「異言そのもの」ではなく、本来なら学識も権威もないと見なされていたガリラヤ人の使徒たちを通して、復活し昇天されたキリストがご自身の証人を立て、諸国民へ福音を宣べ伝え始められたことにある。 使徒の働き2章は、超自然的体験の記録としてではなく、キリストが約束された聖霊を注ぎ、ご自身が選び任命された証人たちを通して、地の果てに至る救済の歴史を開始された出来事として読むべきである。さらに使徒2章14節では、「そこでペテロは十一人とともに立って」と記される。ルカはわざわざ「十一人とともに」と記録している。「この人たちは酔っていません」。つまり群衆の前に立ち、異言の出来事を説明し、ヨエル書を解釈し、キリストの復活を証言している中心主体は使徒であることがわかる。 この流れを総合すると、使徒1章8節で主が「あなたがたは聖霊が下ると力を受けます。そして、わたしの証人となります」と言われ、その直後に昇天があり、その直後に「ガリラヤの人たち」と呼ばれ、その直後にペンテコステがあり、その直後にペテロが十一人とともに立って証言している。したがって、使徒2章の異言の主体は、十二使徒が中心であると理解することは自然である。 なぜ、このことを取り上げるのか、それは重要なのは、「御霊に満たされる」とは誰のことであるかだからである。それはイエスの預言の成就と直結している。 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」 そしてペテロは預言の成就をこのようにヨエル書から引用して言う。それはキリストの証人は使徒を土台とした神の民であると。 "あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主であり、ほかにはいないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。" ヨエル 2:27~29 多くの解釈では、御霊に満たされることを神秘的な力や超自然的パワーとして理解する。しかし聖書は御霊を単なる力としてではなく、新しい創造を起こされる神として現している。創世記では神の霊が創造の御業を開始された。同じようにペンテコステでは、御霊によって新しい創造が開始された。 「青年は幻を見、老人は夢を見る」とは、年齢・性別・身分を越えて、神の民が御霊によって神の救いの啓示を受け、キリストを証しする者とされるという意味である。 旧約では、夢や幻は神が預言者に御心を示す手段だった。しかしペンテコステ以後、その中心はもう「新しい啓示を次々に受けること」ではなく、すでに成就したキリストの十字架と復活を御霊によって悟り、語ることである。 そしてこのヨエル書の引用のあとペテロは十字架につけられたキリストを語る。神は時の始まる前にキリストと結ばれた人々に御霊を注いでおられる。ペテロがここで示しているのは神が聖霊を注がれたのは使徒なのか、百二十人なのかではない。ペテロが示している、彼らとは神が選ばれたすべての民であり、息子、娘、老人、青年、男奴隷、女奴隷、老若男女、身分の差はない。その結果として現れるのは、神秘体験ではなく、「キリストの証人としての歩み」である。実際に使徒たちは、ペンテコステ直後から試練の中へ置かれ、脅迫され、投獄され、鞭打たれ、迫害される。また、すべての神の民も、それぞれの置かれた試練の中で、自己依存を砕かれ、キリストに望みを置く者とされる。しかしその中で神は彼らを通してキリストを現される。大胆さ、忍耐、聖さ、キリスト証言が現れる。 つまり御霊に満たされるとは、人が特別な能力を所有することではなく、神が試練の中でキリストに永遠に結びつけた信仰者のうちに新しい創造を現し続けられる、すなわち神の力の現れであった。 そして使徒2章で、その約束が成就する。御霊が注がれ、火の舌のようなものが現れ、異言が語られ、ペテロが立ってキリストの十字架と復活を宣言し、三千人が加えられる。これは単なる宗教的体験ではない。昇天されたキリストが天において王として即位し、その支配の結果として御霊を注ぎ、ご自身の民を起こし始められた出来事である。 この観点から見ると、火の舌のようなものも異言も、それ自体が中心ではない。火の舌のようなものは、目に見えない御霊の働きが可視化されたしるしである。御霊は本来、人間が目で見ることのできる存在ではない。神はこの歴史的転換点において、御霊による新しい創造が始まったことを目に見える形で示された。同様に異言も、御霊による新しい創造が始まったこと、終わりの日が始まったこと、福音が諸国民へ向かうこと、そしてキリストが主として支配しておられることを示す可視的なしるしである。 つまり、火の舌のようなものも異言も、御霊による新しい創造と世の終わりとキリストの御国開始を宣告する可視的なしるしなのである。 ペテロはヨエル書を引用し、「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と説明したが、彼が解釈している中心は異言そのものではなく、御霊の注ぎである。 そしてその御霊の注ぎは、キリストの十字架、復活、昇天、着座と結びついている。ペテロのその直後の説教は、「神は、このイエスを主ともキリストともされたのです」という宣言に到達する。説教の焦点は終始キリストである。 したがって、使徒1章6〜8節から2章全体を通して見るなら、ペンテコステは「超自然的な力を受けた日」ではなく、「昇天されたキリストが御霊を注ぎ、ご自身の御国を歴史の中に開始された日」である。そして、その御国の民として最初に立てられた者たちが使徒たちであり、その後、三千人、五千人、サマリヤ人、異邦人へと広がりながら、御霊による新しい創造が歴史の中に現されていく預言の成就である。 使徒たちは主に選ばれた福音を伝える者たちである。彼らは主に召され、主と共に歩み、主の十字架と復活の証人として立てられた。しかし彼らは強い者たちではなかった。彼らは恐れ、逃げ、理解できず、失敗した者たちであった。それでも主は彼らを捨てず、試練の中で砕き、キリストのみを頼らざるを得ない者として整えられた。 だから、ペンテコステの最初の歴史的焦点は、主が証人として選び任命された使徒たちに置かれている。しかし、その御霊の注ぎは、使徒を土台として神の民全体へと広がっていく。ここにペンテコステの意味がある。御霊の満たしは、人が神秘的な力を所有することではない。神が、主に選ばれた者たちを試練の中で砕き、キリストのみを頼らせ、新しい創造を時の中で現される御業である。 この視点に立つと、ペンテコステの全景が見えてくる。 「そこにいた使徒だけが聖霊を受けた出来事」ではない。ペンテコステは昇天されたキリストが、主ご自身の証人として永遠の昔に選ばれた使徒、神の民に御霊を注ぎ、彼らを試練の中でキリスト証言へ立たせ、新しい創造を公に現された出来事である。そしてその御業が、三千人、五千人、サマリヤ人、異邦人へ、世界中に広がっていくのである。彼には彼らにはキリストの証が与えられる。そして彼らは、福音を語らざるを得ない者に変えられた。その証は、人間の熱心や霊的能力から出たものではない。永遠におけるキリストとの結合を源泉として、十字架につけられたキリストを語る証である。その証は、十字架を背負いキリストについて行く試練の中で、主から与えられたのである。 "なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。"コリント人への手紙 第一 2章2節 したがって、大事なのは、異言を語ることではない。霊的なパワーを得ることでもない。本当に大事なのは、使徒を選ばれ、神の民を選ばれてキリストに結びつけ、キリストの証人として、彼らを立てられたのが栄光に満ちた神聖なる神であるという事実である。 栄光は神のみにある。 以上
- 使徒の働きが教えるキリストの証人
2026.6.10 The Word for you 使徒の働きでは、「キリストの証人」について深く学ぶことができます。キリストの証人というと、ヘブル人への手紙11章を思い出しますが、本質は同じです。その中で、今日はステパノという人を見ます。ステパノは、使徒の働きの中に記されているキリストの証人の一人です。 使徒の働き7章で、聖書はステパノが聖霊に満たされていたことを語っています。使徒の働き7章55節です。 この箇所の中心は、ステパノが強かったということではありません。ここを正しく理解する必要があります。 ステパノは人々に取り囲まれ、偽証され、議会で裁かれ、ついには石打ちにされるという、極限の苦難の中に置かれました。その時、神はステパノの目を地上ではなく、天に向けられました。 使徒の働き7章55節はこう言います。 「しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見た。」 彼が見たのは自分自身ではありません。自分の勇気でも、信仰の強さでも、自分の置かれている状況でもありません。彼はキリストだけを見ています。人間的に見れば、彼はすべてを失った場面です。しかし彼は、そのすべてを失った場面において、神によって打ち砕かれ、地上の望みがすべて取り去られました。まさに究極まで取り去られています。 そして、キリストだけを見上げる者として置かれています。 このステパノの姿は、「私には強い信仰がある」「私は頑張った」という状態ではありません。神がすべての人間的な希望を剥ぎ取り、キリストだけを最後の望みとして示された者の姿です。 御霊に満たされるとは、苦難がなくなることではありません。むしろ逆です。神が苦難の中で地上の支えを取り除き、キリストこそ唯一の救いであり、唯一の希望であり、唯一の義であり、唯一の命であることを現されるのです。このことが、ステパノの姿にそのまま見えます。そしてこれは、単なる物語ではありません。迫害される者の苦しみだけでもありません。 イエス・キリストは、ステパノを聖霊で満たされました。ステパノは石を投げつけられながらも、「主イエスよ、私の霊をお受けください」と叫びました。最後に残ったのは、彼の力ではありません。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」そこにあるのはキリストです。そしてそのキリストにより、キリストだけに頼らざるを得ない心が与えられていたのです。これが、聖書が一貫して語る、御霊に満たされる姿です。 神が信仰者を苦難の中で砕くことを許される。そして、キリストだけを見上げさせられる。ステパノは、神の右に立っておられるキリストを見ました。キリストだけに望みを置く者とされました。そして、その結果として現れるのが、キリストの証人の姿です。キリストの信仰の証人の姿です。私たちは、ステパノが本当に試された姿を見ています。そこに神の力が現れています。 彼は、自分の力、弁明、逃げ道、地上の望みがすべて取り去られる中で、神によって御霊に満たされ、キリストを彼の内に現されました。 「しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見た。」ですから、私たちははっきりと分かります。 聖霊に満たされるとは、決して人が強くなることではありません。神が弱さの中でキリストを現されることです。神が砕かれた者の内に、キリストだけを最後の望みとして立てられることです。神はステパノを、死の前でキリストだけに頼る者とされました。ステパノのこの証は、決して自分が強く証したものではありません。彼は神により最も弱くされ、その中にキリストを現された証です。ステパノの心は、その最も弱くされた中で、キリストのみが最後の望みとなっていた心です。心はキリストのみになっていました。聖霊に満たされていたのです。 これがキリストの証人です。神がステパノに与えた報い、命の冠です。イエス様はヨハネの福音書15章でこう言われました。 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」 「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」 キリストの証人とは、キリストが直接に選び、任命した人々です。そしてそれは、「あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため」です。 ですから証人は、必ず実を結びます。実を結ばないキリストの証人はありません。その実が永遠に残るのです。 では、いつキリストはキリストの証人を選び、任命されたのでしょうか。聖書ははっきりと語っています。 「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされました。」神は選び、そして砕き、イエスだけを頼らざるを得ない者、すなわち御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。 神は、キリストの証人を世界の基が据えられる前から選び、任命されました。それは、証人たちが行って実を結び、その実が残るようになるためです。ステパノは、自らキリストの証人になったのではありません。誰一人として、自らキリストの証人になる人はいません。神が時の始まる前から選び、任命し、御霊によって支え、死に至るまで従順をキリストから学ばせられるのです。 主は言われました。 「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしから学びなさい。」 試練の目的は、苦しみそのものではありません。神は試練を通して、選ばれた者の肉を明らかにし、自分に頼る道を断ち、キリストに結びついた命だけが、キリストとの結合だけが真実であることを現されます。その試練の歩みの中で、神は信仰者に、キリストの証人に、世が奪うことのできない御国の平安を与えます。キリストの恵みと力を輝かせ、最後の望みであるキリストだけで、証人たちの心を満たされます。 神は言われました。 「この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされた。」 それは、キリストのみを望み、この世の思想が取り去られ、キリストだけを頼る心です。そして最後には、永遠の御国へ迎え入れられます。そこに、神が初めから定められた永遠の目的と、キリストにある神の栄光が現されます。神の創造の目的が成就されます。それは、キリストの十字架にあって完成した永遠の御国です。 そして、「すでに」と「いまだ」の間を歩む私たちの人生に、神は語られます。 「わたしはすべてを完成している。その完成に向かって、あなたがたは歩いていくのだ。」 では、お祈りします。 天のお父様。 あなたは世界の基が据えられる前から、イエス・キリストにあって私たちを選び、キリストと結び、御前に聖なる、傷のない者にしようと定めてくださいました。 そして、キリストだけを頼らざるを得ない心を与えようと、あらかじめ定めてくださいました。 それは、あなたの栄光がいよいよとこしえにほめたたえられるためです。 イエス・キリストの御名を通して、私たちがあなたの証人であること、あなたが選び任命してくださったことを、心から感謝します。 アーメン。 アーメン。
- 罪・死・律法の支配から、キリストの支配へ移される構造変革
2026.6.7 豊川の家の教会礼拝メッセージ "そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。"コリント人への手紙 第一 15:54~57 「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。 神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」 死は単なる肉体の終わりではない。罪によって人を刺し、律法によって罪を有罪として確定し、人を神の裁きの下に閉じ込める支配構造である。罪とは単に悪い行いだけではない。 神から離れ、神なしで存在しようとする人間全体の状態である。アダムの堕落によって、罪は世界の中に支配構造として入った。 罪について 聖句の整理と正しい理解はローマ書から ローマ5章12節は言う。 "こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──" この聖句は罪が歴史的にどのように世界に入ったのかを説明する、単に人間の中に罪が入ったというだけの話しとして捉えてはならない。神中心の秩序から、罪の支配の秩序構造へと、世界全体が転落したという構造の変革であった。本来、人は神との交わりの中に置かれていた。神がいのちの源であり、人は神に従い、神の光の中で生きる者として造られていた。 【本来の秩序】 神 → 神との交わり → いのち → 義 → 従順 しかし堕落によって、この秩序は破壊された。 【堕落後】 神からの断絶 → 罪の支配 → 死 → 腐敗 → 神への敵対 罪とは、外側についた汚れではない。思考、意志、感情、行動、人間関係、世界の見方、そのすべてを支配するのである。 ローマ5章は「一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入った」という原罪・アダムから始まる歴史的説明である。しかし、今の世界を見たとき、すべての人はすでに死の支配の中に生まれている。だから現実には、人は罪を犯すから死ぬのではなく、すでに死んでいるから罪を犯す。エペソ2章は、「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた」のであってと言う。ここではアダムの話ではなく、現在の人間の状態が語られている。 その意味で、この世に生まれた人は、初めから神から分離されている、死の支配下にある、神に敵対している、律法の下で有罪である。という状態に最初から置かれている。 聖書は人間を「罪の奴隷」「罪の中に死んでいる者」「肉にある者」「アダムにある者」と語る。その意味において罪は部分的な欠陥ではなく、存在全体を支配する力である。 死について 死とは、単なる肉体の死ではない。根本は神との断絶である。神がいのちの源であるなら、神から切り離されることは、いのちから切り離されることである。これが霊的死である。そしてその結果が肉体の死である。 霊的死とは、神のいのちから切り離され、「神を求めず、神を愛せず、神に従えず、むしろ神に敵対している状態」である。すでにこの世は死の支配の下にある。 ローマ8章7節は言う。 「肉の思いは神に敵対するからです。」 すべての人は死んでいる。死の支配の下にある人間、すまわち、神から離れている人間は自分を中心に置く。自分で義となろうとし、自分で自分を守ろうとし、自分で自分を満たそうとする。それを聖書は「肉の思い」と言う。それは神と敵対する。その結果、人間の内側から、絶えず、個々の罪、すなわち、空虚、欲望、自己憐憫、偶像、自己義認が噴き出す。これらは、死の支配の下にある人間から現れる罪の実であり、その背後には「死のとげは罪、罪の力は律法」という構造がある。 律法について 律法は人を救うために与えられたものではない。律法は罪を明らかにし、有罪を確定する。律法の前で、人は神を愛せない者、神に従えない者、自分で生きようとする者であることを暴かれる。 【律法の構造】 死→ 罪というとげ → 律法による暴露 → 律法による有罪確定 ここで大切なのは、Ⅰコリント15章では文の主体が「死」であることだ。「罪は、死が人を刺すためのとげ、武器として語られている」。そして「律法は、その罪の力を確定」する。「死は、罪のないところでは支配権」を持てない。「死が人を支配する法的根拠は罪」である。「律法はその罪を暴き、有罪として確定」する。 だから「罪の力は律法」である。 この構造の中に、人間は完全に閉じ込められている。死の支配の下にある人間は神から分離されており、律法がその分離と反逆を有罪として確定し、死がその有罪判決の結果として支配している。 これが罪と死と律法の構造である。 しかし福音は、この構造のただ中に現れる。福音とは、罪の支配の中に死んでいた者を、神がキリストとの結合において新しい創造として生かされることである。救いとは、単に罪を赦すことではない。あなたの正しい人になると言う決意ではない。感情的な反省ではない。神が行う構造的な変革である。選ばれた神の民を罪と死の支配から、キリストの支配へ移されることである。 「神は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」コロ1:13 アダムにある構造はこうである。 アダム → 罪 → 死 → 呪い → 滅び キリストにある構造はこうである。 キリスト → 義 → いのち → 和解 → 栄光 キリストは、選ばれた者に代わって神の怒りをすべて受けた。十字架で罪を負われた。律法の呪いを受けられた。死に入られた。そして復活によって死を打ち破られた。キリストは、罪を処理し、律法の要求を満たし、死の支配を打ち破られた。だから、死のとげは力を失った。罪はキリストにおいて処理された。律法の呪いはキリストが受けられた。死は復活によって勝利を失った。 だからパウロは宣言する。 "そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。 "この箇所でパウロは、復活の完成において何が起こるのかを語っている。 「朽ちるべきものが朽ちないものを着る」とは、復活のからだを受けることである。「死ぬべきものが死なないものを着る」とは、死の支配そのものが終わることである。その時、イザヤ25章8節の「死は永久に吞み込まれる」という預言が完全に成就する。 そしてパウロは、死の正体を説明する。死は単なる肉体の死ではない。死は罪によって人を刺す。罪とは単なる悪い行いではなく、アダムにおいて人類全体に及んだ神への反逆の状態である。しかし罪は律法により、その罪が罪としてさらに明らかにされる。律法が罪を暴き、罪を有罪として確定し、神の裁きを宣告する。 死の支配の法的根拠は罪であり、律法はその罪を有罪として確定する。そのため死は裁きの支配者として人を捕らえる。 死の力の背後には罪があり、罪の力の背後には律法がある。ところがキリストは十字架において罪を負われ、律法の呪いを負われ、死を味わわれた。そして復活された。そのため、キリストと結ばれた者に対しては、罪の有罪宣告は取り除かれ、律法の呪いは終わり、死は最終的支配者ではなくなったのである。 だからパウロは、「しかし、神に感謝します」と言う。感謝の対象は人ではない。信仰者の決断でもない。努力でもない。神が、主イエス・キリストによって勝利を与えてくださったのである。主語は最初から最後まで神である。そしてこの勝利は、信仰者が将来獲得する勝利ではない。キリストの復活によって既に確定した勝利である。 だから信仰者は、今日、なお死を経験し、苦難を経験し、肉体は衰える。しかしそれは最終的敗北ではない。なぜなら復活の日に、罪は完全に除かれ、律法による有罪宣告は存在せず、死そのものが滅ぼされるからである。 パウロが見ている中心は、人がどう勝つかではない。神がキリストにおいて、罪と律法と死を打ち破られたという救いの完成である。罪の支配から、キリストの支配へ。神の怒りから、キリストにある神のあわれみと恵みへ。罪の責任から、キリストにある義へ。アダムにある滅びから、キリストにある栄光へ。すべては神の御業による構造の変革である。 すべては神の御業である。神は、キリストにあって選ばれた者を永遠に御子に結びつけ、その結合を源泉として、キリストの十字架の死と復活にあずからせている。そして時間の中で再生、信仰、悔い改め、聖化を与え、ついには栄化に至らせられる。救いのすべてがその源泉から溢れ流れ出している。 栄光は神にのみある。 以上
- 試練の中で現される神の救い
2026.5.31 豊川の家の教会礼拝メッセージ 「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。」(Ⅰペテロ5:8–9) この箇所は、しばしば「悪魔との戦い方」の箇所として語られる。しかし、ペテロの中心はそこにはない。多くの教会では、「悪魔が攻撃する → 人が信仰で対抗する → 勝利する」という読み方をする。しかし、それはこの聖句の意味するところではない。 まず救いの全体構造を見る。神の支配、キリストとの結合、再生、信仰・悔い改め、聖化、栄化。この聖句は、真の信仰者が聖化の中を歩んでいる姿である。未信者ではない。キリストに結ばれた者の歩みを語っている。 ペテロは「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい」(Ⅰペテロ5:6)と語り、続けて「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」(Ⅰペテロ5:7)と言う。つまり構造は、 「神の力強い御手 → へりくだり → 思い煩いを神にゆだねる」という流れで進んでいる。 中心は、神がすべてを支配しておられることである。悪魔ではない。神がご支配しておられる。その流れの中で、「身を慎み、目を覚ましていなさい」と言われる。では何に対して目を覚ますのか。この「目を覚ます」という言葉は、ペテロだけでなくパウロも用いている。目を覚ますとは、いつも徹夜して祈ることではない。悪霊の動きを探ることでもない。そうではなく、人間中心的なものに誘惑されないように気をつけなさい、ということである。 試練の中で肉は、自分のプライドを守ろうとする。自分を守るための見える安全に逃げようとする。自己憐憫に沈み、自分だけが苦しい、自分だけが損をしている、自分はもう無理だと言い出す。自分を責め、人を責め、環境を責め、へりくだされることから逃げようとする。 サタンは人間中心の思考に働きかけ、その肉を刺激し、罪へ向かわせようとする。だから目を覚ますとは、神が試練の中で暴露される肉と、人間中心の誘惑に対して警戒していることである。信徒は神の御手の下で、キリストに頼らざるを得ない者として保たれる。悪霊を探すためではない。徹夜で眠らず祈祷することでもない。神が試練を通して暴露しておられる自己中心を悟らせることである。 すなわち、神は試練を通して信仰者の本当の姿を明らかにされる。普段は見えない怒り、自己憐憫、恐れ、不満、自己正当化、人を責める心、逃げたい心、神よりも自分を守ろうとする心を暴露される。神はそのように目を覚まさせてくださる。 だから試練は恵みである。試練は神のいつくしみである。神はご自分の子どもを放置されない。肉をそのままにされない。愛する者を砕き、へりくだらせ、キリストへ向かわせられる。ヤコブは言う。「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」試練は呪いではない。神の子どもに対する神の取り扱いである。 神の御手 → 試練 → 砕き → 肉の暴露 → へりくだり → キリストへの望み 救いの全体構造からみると、信仰者は、試練によって初めてキリストへ向かうのではない。すでに永遠においてキリストに結ばれ、神の保守の中に置かれている者を、神が試練の中で取り扱われる。神はその試練を通して肉を暴露し、砕き、へりくだらせ、御霊によってキリストへの望みを現し、キリストに頼らざるを得ない者として保たれる。したがって試練は、結合の外にある出来事ではなく、キリストに結ばれた者を神が聖化し、保守し、完成へ至らせる救いの全体構造にある御業である。これが聖化の歩みである。御霊によって歩くことである。 では悪魔とは何か。悪魔は試練を支配していない。試練を与えているのは神である。しかし悪魔は、その試練の中で現れた肉を誘惑する。自分中心の肉。神を信頼しない肉を刺激する。恐れを刺激する。怒りを刺激する。自己憐憫を刺激する。逃避を刺激する。不信仰を刺激する。神への不満を刺激する。つまり、神は肉を暴露される。悪魔は肉を誘惑する。神はキリストへ向かわせられる。悪魔は罪へ向かわせようとする。 ここでペテロは言う。「堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。」この言葉も誤解されやすい。多くの人は、私が頑張る、私が信仰を強くする、私が立つ、そう考える。しかしペテロはそのようなことを語っていない。 救いの全体構造から信仰とは何かを考えてください。信仰とは人間が生み出す能力ではない。神の賜物である。神は試練を通して、自分では立てない、自分では変われない、自分には希望がない、という現実を示される。そして神は、キリストしかない、キリストに頼るしかない、という心を創造される。それが信仰である。 ピリピ2章13節は言う。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」志の主語は神である。事を行わせる主語も神である。 神は、信仰者を試練の中に置き、その内に働き、神が志を立てさせ、事を行わせられる。これは人間の決意でも、自己改善でも、感情の変化でもない。志も神の新しい創造の御業である。 ここで間違った理解がある。「私には従えない。だから神に叫べば、神が私にとって受け入れやすい心へ変えてくださる」 これは信仰ではない。肉である。この思考は、神がすでにその人の内に与えておられる志を疑い、退け、否定している。神が与えられた志に従うのではなく、自分が受け入れられること、自分の肉が納得できること、自分の痛みを避けられることを求めている。それは、神の御業への服従ではない。肉による選別である。 神が志を与えられる時、神は同時に責任も与えられる。その責任は、信仰者の自力で果たす責任ではない。神が内に働き、志を立てさせ、事を行わせられるゆえに、信仰者はその御業の下で従順へと歩まされる実行責任を負う。「神がすべてしてくださるなら、私は何もしなくてよい」ではない。これは完全に肉の思いであり、神の恵みを冒涜している。放縦主義である。「私にはできないから、もっと簡単な志をください」ではない。 「神が私の内に働いておられるゆえに、神が与えられた志の下に服する」のである。 従順の主語は神である。歩みの主語も神である。しかし、神が信仰者を責任のない者として扱われるのではない。神は、ご自分が内に働かれるゆえに、信仰者を従順へ召される。神が志を与え、神が事を行わせ、神が歩ませ、神がその責任の中に信仰者を立たせられる。 だから信仰に立つとは、人間が信仰心を奮い立たせることではない。自分の弱さを理由に神の志を拒むことは論外である。神によってキリストに頼る以外なくされた者として保たれ、神が与えられた志の下で、御霊によって従順へ歩まされることである。 試練が深くなるほど、自分への期待は砕かれる。肉への期待は砕かれる。この世への期待は砕かれる。そして神は、キリストだけが希望である、キリストだけが義である、キリストだけが救いである、という場所へ導かれる。 パウロは言う。「御霊に満たされなさい。」またペテロ自身も、使徒の働きの中で「聖霊に満たされて」語った。御霊に満たされるとは、信仰者が山にこもって修行をして霊的に高められることではない。神が御霊によって支配し、キリストを現される神の御業である。 だからペテロの「身を慎み、目を覚ましていなさい」もヤコブ、へブルの著者と同じである。神の試練を感謝する。人間中心である自己憐憫、自己保全、自己義認の誘惑に負けず、肉に支配されず、御霊によってキリストへ向けられることである。神が選んだ者をご自分の子どもとして、試練の中で御霊によってキリストへの望みを与え、キリストに頼らざるを得ない者として最後まで保たれることである。 神の試練 → 肉の砕き → キリストへの望み → 御霊による支配→ 神が与える志 → 神が歩ませる。 これが身を慎み、目を覚まして、信仰に立つということである。すなわち、霊に満たされ、歩くということである。 だからペテロは続けて、「世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです」と言う。苦難は異常ではない。神の子どもに共通する救いの構造である。神はご自分の民を皆、同じように取り扱われる。すべての神の子どもは試練を通され、肉を暴露され、へりくだらせされて、キリストへ向かわせられる構造の中に置かれているのである。 「そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。『わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。』訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。」(ヘブル12:5–7) そして最後にペテロはこう語る。「あらゆる恵みに満ちた神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で完全にし、堅くし、強くし、不動の者としてくださいます。」(Ⅰペテロ5:10)ここが結論である。神ご自身が完全にされる。神ご自身が堅くされる。神ご自身が強くされる。神ご自身が不動の者としてくださる。最初から最後まで神である。 これは、福音が救いの全体構造の照明から来ている証である。 神の御手 → 試練 → 肉の暴露 → 肉への誘惑 → キリストへの望み → 御霊による支配 → 神が与える志 → 神が歩ませる → 神が保守する → 神が完成する ペテロは、単に苦難の中での励ましを語っているのではない。神がご自分の民をどのように救い、どのように守り、どのように完成へ至らせるのかを語っている。つまり、ペテロもまた、救いはパウロと全く同じように単なる赦しやサタンとの戦いを語っているのではなく、福音が救いの全体構造であることを語っているのである。 試練の中で、神はご自身の御業を現される。神は肉を暴き、肉を砕き、キリストへの望みを与え、ご自分の民をその望みのうちに保たれる。神が完全にし、神が堅くし、神が強くし、神が不動の者とされる。神が選び、召し、再生させ、信仰を与え、義と認め、試練を通して砕き、保守し、完成される。 この救いの全体構造は、聖霊によって信仰者に保証されている。 だから、神の救いは単に天国に行くことではない。すべては神の栄光に至る。 「栄光が、世々限りなく神にありますように。アーメン。」




