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- 試練を軽く扱わない
2026.5.27 The Word for you それでは始めます。今日のテーマは、「試練を軽く扱わない」です。 ヤコブの手紙1章12節を読みます。 「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」 救いは、信仰義認によって、キリストの義のみによる。これは救いの土台であり、そこには差はない。神が救われた者を義と認められる根拠は、ただキリストの義のみである。信仰者の忠実さでも、忍耐でも、従順でもない。ただキリストの義によって義と認められる。 しかし聖書は、救われた者、義とされた者の地上の歩みには差があると言っている。同じ試練の中で、神の慈しみと恵みとして砕かれ、御霊によって主に従わされていく者がいる。一方で、同じ試練の中で逃げ、自己憐憫に沈み、肉を正当化する者もいる。ここに、天における報いの差がある。 報いとは、救いの条件ではない。救いは、ただ神の恵みによって、キリストの義によって、無罪と宣言されることである。しかし報いとは、神が、救われた者の地上での忠実、忍耐、従順を、永遠において無意味にされないということである。報いとは、神が信仰者の地上での困難の中における忠実、忍耐、従順を、永遠に無意味にされないということである。 だから、試練から逃げるということは、単に「辛いから避けた」ということでは終わらない。辛いから逃げた。嫌だから逃げた。痛いから逃げた。それは、神が与えられた砕き、従順、神に仕える機会、神に従う機会を軽く扱ったことになる。 逆に、試練の中、困難の中、苦しみの中で、信仰者が神に頼らざるを得ない位置に置かれ、その心に神を頼る心が与えられ、その中で主に従わされるなら、その苦しみは神が覚えてくださる。その苦しみは全く無駄にならない。なぜなら、そこには御霊の実が現れるからである。 救いはキリストの義。報いは、救われた者の歩みに対する神の永遠の評価である。だから絶対に間違えてはいけない。これは救いを失うという話では全くない。聖化と救い、報いと信仰義認の区別がつかなければ、この聖書の啓示は理解できない。 ここでの試練は、信仰者のうちに、神が忍耐を、従順を現される場として語られている。ヤコブはこう言っている。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」ここに神の永遠の評価がある。ここには報いの要素がはっきりある。報いが何であるかがはっきり見える。 間違ってはいけないのは、人間中心でこの部分を切り取って読むと、「自分が頑張って耐え抜く」という話になることである。しかしこれは人の功績ではない。原則はすべて神の御業である。しかし「神の御業」と言った時に、まだ人間中心の人は、「私は何もやらなくていい。神が変えてくれる」と取る。 ここは非常に間違えるところである。人間中心は絶えず御言葉を曲げて取る。「耐え抜く」「良しと認められた人」ということを、自分が頑張って耐え抜き、神に認められるという話にひっくり返す。ところが、救いはすべて神の御業である。そうすると今度は、「救いはすべて神の御業だから、私はできません。神が私を変えてくれる」と言う。人間中心の人は、両側にひっくり返る。 パウロはこう言う。「それぞれ自分自身の働きに応じて、自分自身の報酬を受けるのです。」第一コリント3章8節である。また第一コリント3章14節では、「もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます」と語る。ここは聖化の話に入っていく。そして続けてパウロはこう語る。「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」第一コリント3章15節である。 ここでパウロは、「損害を受ける」ということと、「その人自身は火の中をくぐるようにして助かる」ということを同時に語っている。つまり、報いを失うこと、聖化の実りを失うこと、その歩みが永遠に残らないこと、それが「損害を受ける」という意味である。聖化の実りを失う。聖化の機会を逃してしまう。これが報いを失うことである。聖化の実りとは、愛、希望、信仰、そのような御霊の実のことである。そしてそれが消えてしまうということである。 しかしパウロはこう言う。「その人自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」人間中心の思考を持っている私たちは、これを曲解する。ここの「火の中をくぐるようにして助かる」というのは、真の信仰者のことを言っている。どこかの違った宗教団体の人のことを言っているのではない。ここは真の信仰者の話である。真の信仰者が、聖化による御霊の実を生むか、生まないかの話をしている。 その建てた建物というのは、御霊の実であるか、苦しみと困難を通りながら神に従っていく歩みであるかによって分かれる。しかし、「その人自身は火の中をくぐるようにして助かる」というのは、キリストという土台、義認、イエス・キリストとの結合、神の主権によるキリストという土台は決して消えず、永遠に保障されているということである。だから救いそのものは残ると言っている。これが神中心に読む聖書の読み方である。 ここで明らかなことは、土台はイエス・キリストであるということである。その土台に立つ選ばれた者たちは救われる。しかし、その上に何を建てたのかは、神の前で明らかにされる。金、銀、宝石で建てたのか。木、草、藁で建てたのか。金、銀、宝石とは、神の前に価値あるものである。すなわち、キリストの御性質である。それは苦しみを通って、困難を通って、その中で神により、キリストが唯一の希望であるという心が与えられ、その源泉から現れてくる。すなわち、イエス・キリストとの永遠の結合が、時間の中で現れてくるのである。それが新しい創造である。それが愛によって働く信仰である。 しかし、木、草、藁とは、神の目に無価値なものである。それは、勝手気ままな礼拝であり、自分中心の礼拝であり、自分中心の行いであり、神から離れた罪である。そしてその日、神は火とともに現れ、それらのものが試される。 だから聖化は完全に神の御業である。しかし、その神の御業は、人間の責任を決して消さない。「神がすべてやってくれる。私にはできません。」昨日、どこかの荒野に行った人がいるが、その人の証の問題は、「私にはできない。だから神がやってくれる」というところに、自分の責任が隠れてしまっていることである。 神は、御霊によって信仰者を従順に導かれる。もう少し言うと、信仰者は従わされる者であると同時に、従う責任を負う者である。すなわち、以前にも学んだように、ここを忘れてはいけない。それは、神が志を与えられるということである。神が働かれて、志を与えられるのである。 ここを人間中心主義で無視して、「神がすべてやってくれる」と願う。しかし神は、すべての責任を信仰者から消されない。神は信仰者に責任を与えられる。なぜなら、志を神がその信仰者に与えられるからである。志は、神がその人のうちに働いて与えられる。 自分の子どもが障害を持っている。そして夫も家族も私を助けてくれない。その中において、信仰者には「自分にはできない」という思いが働く。その信仰者には母親の問題もある。そのような重圧の中で、神はその信仰者を導いておられる しかし、その信仰者が忘れていることがある。それは、神がその信仰者の心に志を与えられるということである。その信仰者に与えられた志は、「私は決してあなたを見捨てない」という志である。そしてその信仰者に与えられた志は、「この障害を持つ子どもを社会にちゃんと送り出す」という志である。それは神が働かれて与えられた志である。 その信仰者は、とっくにそんなことを諦めていた。この子は大きくなったら施設に入って、薬漬けにされ、社会から隔離され、出ても犯罪者になる。それぐらいしかないと思っていた。しかし神は、この信仰者に、「この子は社会に出る。この子は社会で隔離されない」という志を与えられた。そしてその中心のど真ん中には、「私は決してあなたを捨てない」という神の御業がある。 信仰者は、神の御業に服する責任を負う。ピリピ人への手紙2章13節は核心である。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」 順序は、神の御業、神の働きによる志、従順、御霊の実、そして報いである。これは人間中心主義ではない。信仰者の責任は、神の御業から切り離された自力ではない。自力ではない。神が内に働かれるから、信仰者は責任を持って従っていくのである。 毎晩、責任をもって、そのだらしない夫とミーティングを持ち、今日の反省をするのである。そして課題を見つけるのである。その信仰者もいつか疲れ、弱る時がある。その時に牧師が来て、信仰者を叩く。「忘れるな。神の志を。」その牧師も、ずっと寄り添いながら、二年半もの間、「忘れるな、忘れるな」と言い続ける。 神が与える試練から逃げる者は、救いの土台を失うという話ではない。しかし、御霊によって現されるはずだった実、忍耐、従順、愛、奉仕、そしてその子どもの将来の機会も失うのである。 それはすべての人に言える。あなたがたが不従順となり、試練から逃げる時、あなたはただ苦しみから逃げていると思う。「私にはできない」と思う。しかしあなたは大きな間違いをしている。御霊によって現されるはずだった神の御業を拒み、自分の安全地帯に入って、自分は安全だと思った時、神が現されるはずだった実、忍耐、従順、愛、奉仕、その機会を失う。 これは恵みを安く見ているからである。これは、試練の背後にある神の驚くべき恵みを安く見る発想であり、肉であり、罪である。ある人はこう言う。「私は試練は嫌だけど、天国に入れればいい。」この発想は、救いを保険のように扱っている。神の栄光、キリストへの忠実、御霊による聖化、神に喜ばれる歩みを軽く扱っている。 救いは、報いを受けるための取引条件ではない。救いは、「私は単に天国に入れればいい。後の聖化はいらない。報いもなくていい」というものでもない。それは全く分かっていない。しかし、このような偽物の考えは、その人の実、忍耐、従順、愛、奉仕をすべて失っていることを示す。 しかし、真に救われた者は、報いを軽んじない。報いを軽んじないというのは、神から与えられた志を大切にするということである。自分の名誉ではない。神が与えたその志、神が与えた恵みの実を、神が覚えてくださるということである。だから本人は、自分の功績としてそんなことを意識しない。しかしその人の内にある、「私は決してあなたを捨てない」「この子を捨ててはいけない」「この子を社会に出す」という志は、その人の奥底まで届いている。だから捨てられないのである。 だから、「報いがなくても天国に入れればいい」という言葉は、本当に汚い肉の言葉である。正しく言えばこうである。救いはキリストの義だけで十分である。しかし、救われた者は、神が与えた試練、従順、奉仕、愛を決して軽く扱わない。神が与えた試練を軽く扱って、投げ捨てないのである。 報いを求めるということは、人間中心の功績を求めることでも、宝を求めることでもない。神が備えられた御業を軽く扱わないということである。すなわち、試練を軽く扱わないということである。なぜ、あなたは神の慈しみと恵みだと言いながら、逃げて投げ捨てるのか。 今、試練の中に置かれている信仰者。私は、これはすべての真の信仰者に言えることだと思う。その人は、無意味な苦しみの中にいるのではない。それを分かってもらいたい。神はその試練の中で肉を砕かれる。神はその試練の中で自己憐憫を暴かれる。その汚さを暴かれる。神はその試練の中で、キリストに頼らざるを得ない心を与えられる。神はその試練の中で、御霊によって忍耐を現される。 だから、神の慈しみと恵みを軽く投げ捨ててはならない。試練を軽く扱ってはならない。あなたは自分のしていることが分かっていない。あなたは試練を蔑む。なぜ、神の慈しみと恵みをそのように投げ捨て、蔑み、嫌うのか。逃げてよいものとして扱ってはならない。なぜ、あなたは試練の前で自己憐憫に沈み、自分の肉を正当化するのか。 神が与えられた試練の中で、御霊によって歩かされること。神が置かれた場所で、主に従わされること。それは、あなたの心に与えられた志から、神が働かれるということである。神はあなたの心に働いて志を立たせる。だから、その志を否定してはいけない。 その歩みは、地上では小さく見えるかもしれない。あなたの人間中心主義にとっては、小さく見えるかもしれない。苦しみの中では、何も残っていないように見えるかもしれない。しかし神は覚えておられる。永遠に覚えておられる。神が与え、神が支え、神が忍耐させ、神が実を結ばせ、神が報いてくださる。 神は、「私の慈しみと恵みは、あなたのいのちの日の限り、あなたを追っていく」と言われる。だから試練の中にある真の信仰者よ、救いの根拠は、あなたの耐え抜く力ではない。救いの根拠は、イエス・キリストの義である。しかし、そのキリストに結ばれている者の歩みを、神は尊く見ておられる。とても尊く見ておられる。 神が与えられた試練を軽く扱わず、御霊によって歩かされるのである。主は言われる。「私に従いなさい。私が備えた御業を軽く扱ってはならない。」 救いはキリストの義のみである。そして報いは、救われた者の歩みに対する神の永遠の評価、神の永遠の喜びである。あなたが御霊によって歩く時、神は喜ばれる。従順、忍耐、希望、愛は、神があなたのうちに新しく創造されたものだからである。 従順、忍耐、希望、愛。神があなたのうちに新しく創造されたものである。神は言われる。「私の慈しみと恵みは、あなたを追っていく。」だから、神の慈しみと恵みを決して軽く扱ってはならない。神の慈しみと恵みを、最悪なもの、要らないもの、ごみのように扱ってはならない。それは、救われていない者、また神の恵みを知らない真の信仰者の行いである。 パウロは言う。「御霊に満たされなさい。御霊によって歩みなさい。」神の慈しみと恵みを感謝しなさい。試練の中にある真の信仰者よ、あなたの救いはキリストの義である。しかし、キリストに結ばれた者よ、あなたの歩みを神は尊く喜ばれる。だから、神が与えられた試練を軽く扱うな。御霊によって歩みなさい。御霊に満たされなさい。 栄光は人にはない。あなたに「よくやった」と誇れるものは何もない。あなたには、自分が神に貢献できるものは何もない。栄光は神のみにある。そして神は、あなたの歩み、試練の中にあるあなたの歩み、御霊によって歩かされるその歩みを喜び、それを高く評価される。そしてそれが、神があなたに与える報いである。それは永遠に消えることがない。 だから、神の報いを、あなたは人生の中で大切に受け取っていきなさい。 では、お祈りします。 天の父なる神様。私たちの試練の歩みが、このように尊く、深く、あなたの御前に覚えられるものであることを心から感謝します。苦しみ、悲しみの中にある信仰者の歩みを、主よ、あなたは大切に、また喜んで見てくださいます。その歩みを、高価で尊いものとして見てくださいます。私たちは、どれほどあなたの慈しみと恵みを誤解し、軽く扱い、冒涜してきたことでしょうか。主よ、どうか私たちの愚かさを赦してください。従順、忍耐、希望、愛。あなたが私たちのうちに新しく創造されたこの恵みを感謝します。あなたの慈しみと恵みを通して、私たちのうちに創造された、愛によって働く信仰を心から感謝します。あなたは今も言われます。「御霊に満たされなさい。御霊によって歩みなさい。」主よ、栄光はあなたのみにあります。イエス・キリストの御名によって感謝して祈ります。アーメン。
- 罪の中で死んでいる構造、そしてキリストとともに生かされる構造
2026.5.24 豊川の家の教会礼拝メッセージ “あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むままを行い、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かし、あなたがたは恵みによって救われたのです。” エペソ人への手紙2章1〜5節 福音が、救いの全体構造の照明で与えられていることは、とても重要である。なぜなら、単独の聖句だけを切り取ると、いくらでも人間中心に曲げられるからである。「信じなさい」だけを切り取れば、信仰が人間の決断に見える。「悔い改めなさい」だけを切り取れば、悔い改めが人間の努力に見える。「従いなさい」だけを切り取れば、救いが人間の行いに見える。しかし聖書全体の福音構造で見るなら、そうならない。 “神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。” エペソ人への手紙1章4節 神が選ばれる。神が召される。神が再生される。神がキリストとともに生かされる。神が信仰と悔い改めを与えられる。神が聖化される。神が保たれる。神が完成される。 “あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神の賜物です。” エペソ人への手紙2章8節 だから、福音が救いの全体構造の照明で与えられていない者は、聖句を使っても福音を壊す。偽りの教えは、聖句を使う。しかし、その聖句を神中心、キリスト中心、救いの構造の中で読まない。人間の決断、人間の努力、人間の体験、人間の成功へすり替える。 “こういう人たちは偽使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。” コリント人への手紙 第二11章13節 だから偽りの教えの問題は、聖句を使っているかどうかだけでは判断できない。問題は、その聖句が、神の主権、キリストとの結合、罪の中で死んでいる人間、キリストとともに生かされる救いの構造の中で語られているかどうかである。 偽りの教えは、福音の言葉を使いながら、中心をすり替える。恵みを人間の可能性にすり替える。信仰を人間の決断にすり替える。悔い改めを人間の努力や反省感情にすり替える。御霊の働きを人間の体験にすり替える。聖化を人間の改善にすり替える。キリストとの結合を、人間の宗教的熱心にすり替える。肉によって歩く者の姿である。 したがって、識別とは、表面の言葉を見ることではない。聖句の量を見ることでもない。語りの熱心さを見ることでもない。主語が神であるか。救いの源泉がキリストとの結合にあるか。罪人が死んでいる者として語られているか。救いが神の憐れみによって、キリストとともに生かされることとして語られているか。ここを見ることである。 福音が救いの全体構造の照明で与えられているとは、神が信仰者に聖書を単語で読むことをさせないことである。聖句を切り取って読むことをさせないことである。偽りの教えの識別は神の主権、キリストとの結合、罪の中で死んでいる人間、キリストとともに生かされる救いを、一つの全体として与えられている信仰者のみへの神からの賜物である。だから、福音が救いの全体構造の照明で与えられているとは、神が神の主権、時の初め、キリストとの結合、十字架、罪の中で死んでいる人間、キリストとともに生かされる救い、永遠の御国、完成を一つの全体構造の理解として信仰者の信仰に結びつけることである。 エペソ2章は、ただ「人間は罪人である」と言っているだけではない。この聖句が示している中心は、キリストである。人間が罪の中に死んでいること、神が憐れまれること、キリストとともに生かされること、この全体が一つの救いの構造として語られている。だから福音は、1つの節を切り取って理解することではない。断片で理解することではない。「罪」「救い」「信仰」「悔い改め」「恵み」という言葉を一つずつ切り離して説明しても、福音の中心は見えない。それらはすべて、キリストを中心とする救いの全体構造の中で意味を持つ。 罪の中で死んでいる構造を見る。聖書は、人間を「悪いことをする存在」として語る前に、「罪の中に死んでいる存在」として語る。つまり罪は、ただ行動の問題ではない。罪は存在の構造である。 “義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。” ローマ人への手紙3章10〜11節 人は、神と罪の真ん中に立って、どちらへ行くかを自由に選ぶ存在ではない。アダムにあって堕落し、神から離れ、罪と死の下にある者として現れる。 “こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死がすべての人に広がったのと同様に――” ローマ人への手紙5章12節 だから人は、罪を外側から選ぶ前に、すでに罪の中にいる。魚が水の中にいるように、堕落した人間は罪の中にある。だから怒り、高ぶり、隠し、奪い、ごまかし、自分を守る。それは毎回「罪を選ぼう」と決めているからではない。罪の中に死んでいるからである。 死んでいるとは、神へ向かわない構造である。神を愛さない。神を求めない。神に従わない。むしろ自分を中心にする。ここで人間中心主義は、人間を選択の主体として置き、「最後は人が決める」と言う。しかし聖書は違う。人は罪の中に死んでいる。だから罪人であることも、滅びの下にあることも、人が自分で支配しているのではない。人間はアダムにあって堕落し、生まれながら御怒りを受けるべき子として現れる。これが罪の構造である。 次に、この罪の構造の中で、救いの構造が明らかになる。エペソ2章は、「しかし、あわれみ豊かな神は」と語る。ここで主語は完全に神である。死んでいる者は、自分で生き返れない。罪の中に死んでいる者は、自分で神へ向かえない。だから救いは、人の決断から始まらない。神の憐れみから始まる。神が、死んでいた者へ向かわれる。神が、背きの中に死んでいた者を、キリストとともに生かされる。 “だれも、わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、わたしのもとに来ることはできません。” ヨハネの福音書6章44節 ここで重要なのは、救いの中心がキリストであることだ。神は、罪の中に死んでいた者を、ただ「助けた」のではない。キリストとともに生かされた。つまり救いは、単なる助けではなく、キリストとの結合において与えられるいのちである。キリストなしに救いはない。キリストなしに再生はない。キリストなしに信仰も悔い改めもない。神は、罪の中に死んでいた者を、キリストに結びつけて十字架のキリストとも死につけ、キリストとともに生かされる。この構造を外すと、福音はすぐに人間中心になる。 “私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。” ガラテヤ人への手紙2章20節 だから信仰も、救いの原因ではない。信仰は、神が生かされた者に現れる実である。「信じたから生きた」のではない。神がキリストとともに生かされたから信じる。悔い改めも同じである。人が自分の力で悔い改めを作るのではない。神が罪を照らし、高ぶりを砕き、キリストへ向かわせられる。だから信仰も悔い改めも、キリストとともに生かされる構造の中で現れる。 “神は、異邦人にもいのちに至る悔い改めをお与えになったのだ。” 使徒の働き11章18節 この構造で見る時、十字架の意味も明らかになる。十字架は、人間にチャンスを与えるためではない。罪の中に死に、神の怒りの下にある者を、神がご自分の民として救うためである。本来、裁かれるべきは罪人である。しかし神は、御子に裁きを負わせられた。だから十字架は、人間の罪の深さを示す。神の御子が死なれるほど、人間は罪と死の下にある。そして同時に、十字架は神の恵みの大きさを示す。神は、罪の中に死んでいた者を、キリストとともに生かされた。 “神は、罪を知らない方を、私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。” コリント人への手紙 第二5章21節 御霊に満たされることも、同じく構造である。御霊に満たされるとは、神が御霊によって、キリストとともに生かされた者を支配される神の御業である。 “酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。” エペソ人への手紙5章18節 そして神は、その御業を試練の構造の中で現される。試練は1つの不運な出来事ではない。試練は神が時の始まる前、御心により、すべてご計画された福音の全体構造にある。試練の構造は、神が、救われた者のうちに残る肉、自分で立とうとする心、自分を守ろうとする心、自分を義としたい心を暴かれる、砕かれる場である。試練、砕き、痛みは神のいつくしみと恵みであり、信仰者のいのちの日の限り信仰者を追ってくる。それは信仰者を肉の思いからキリストに戻し、とどめ続けられる神の守りである。 "たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。" 神は試練を通して、痛みや苦しみを取り除くのではなく、罪の中で死んでいた者がなお自分を頼ろうとする肉を砕き、キリストだけが義であり、キリストだけが最後の望みであり、キリストだけがいのちであることを示される。そして御霊は新しい創造をもたらす神である。 “だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。” コリント人への手紙 第二5章17節 神は摂理、試練の構造の中に信仰者を置かれ続けられる。御霊なる神はその働きによって信仰者にキリストに頼らざるを得ない心を与えられ、キリストに頼らざるを得ない心によって心を満たしていき、肉の思いは砕かれる。これが御霊に満たされる構造である。 だから、福音の中心は、人間の汚さを単独で語ることではない。罪の中で死んでいる構造を語り、その死んでいる者を、神がキリストとともに生かされる構造を語ることである。人は、罪人であることを自分で選んだのではない。アダムにあって堕落し、罪と死の下にある者として現れる。そして人は、救いも自分で選び取るのではない。神が、あわれみのゆえに、キリストとともに生かされる。それは、神の永遠のご計画である。 “神は、あらかじめ知っていた人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定め……お召しになり……義と認め……さらに栄光をお与えになりました。” ローマ人への手紙8章29〜30節 人間は、罪を外側から選ぶ中立的存在ではない。罪の中に死んでいる存在である。そして救いは、死んでいる者が自分で神へ向かうことではない。神が、その死んでいる者を、キリストとともに生かされることである。だから福音は、その構造から、決して人に栄光を与えない。 “わたしは主。これがわたしの名。わたしはわたしの栄光をほかの者に与えない。” イザヤ書42章8節 栄光は神にのみある。 以上。
- 鞭と杖による聖化
2026.5.21The Word for you 今日のテーマは、「鞭と杖による聖化」です。 詩篇23篇を、先週のメッセージでも話しましたが、ダビデは追い迫ってくる敵の前で、このように告白しました。 “たとえ死の陰の谷を歩むことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです。”詩篇23篇4節 ここでダビデは、「鞭と杖」を神の慈しみと恵みとして語っています。ダビデは続けてこう告白します。 “まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私は いつまでも【主】の家に住まいます。” この詩篇のテーマは、「慈しみと恵み」です。そしてダビデは、その慈しみと恵みが、「鞭と杖」であると言うのです。つまり、神は、ご自分に属する羊を放置されないということです。 “主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。”神は、迷い出る羊を、杖と鞭によって戻される神です。神は、ご自分の羊を放置せず、人間中心の歩みから引き戻される では、迷い出る羊とは何か。それは、自分の判断を道として歩む人の姿です。自分の感情、自分の思い、自分の意思を、判断の基準として歩もうとする羊です。しかし、神に属する羊を、神は放置されません。神は、危険へ向かっていく羊を、鞭と杖によって止められます。 なぜか。危険へ向かうということは、自分の欲、自分の安心、自分の都合を基準として歩む、人間中心の歩みだからです。 神は、羊が「自分の力で歩ける」と思うことを許されません。なぜなら、「自分で立てる」という思いこそが、最大の敵だからです。それは、神への依存を失った肉の高ぶりそのものです。 だから神は、鞭と杖を使われます。しかし、それは罰ではありません。神が、人間中心へ傾いていく信仰者を、ご自身へ引き戻される慈しみと恵みです。神が、自分の欲、自分の安心、自分の都合を基準として歩もうとする信仰者を、ご自身へ向け直される。それが、鞭と杖の意味です。 聖化とは、人が立派になることではなく、神がキリストに結ばれた者を御自身へ向け続けられる御業である。 だから、「聖化」を考える時、聖化とは、人が立派な信仰者になることではありません。神が、キリストに結ばれた者を、ご自身へ向け続けられる神の御業です。 “神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。”ローマ8章 事実、私たちは神の前で腐った罪人です。ここを忘れてはいけません。 “義人はいない。一人もいない。” “私のうちには、善が住んでいないことを私は知っています。” しかし私たちは、いつの間にか、この御言葉を忘れます。自分で立てると思う。自分で理解できると思う。自分で進めると思う。自分で守れると思う。このような肉の思いに、私たちは戻っていきます。 試練は、神の鞭と杖として、肉を砕き、罪人である照明を与える “主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、鞭を加えられる。” ヘブル12章 試練は、神の鞭と杖です。神は、試練の構造の中に、すべての神の民を置かれます。そしてその中で、照明を与えられます。「私は罪人である」という照明です。 悔い改めは、その信仰者の人生の中に絶えずあります。自分には功績も価値もない。自分では立てない。それを、神が絶えず示されます。 それは宗教的な言葉ではありません。心の奥底から、「私は罪人である」「自分には功績も価値もない」「自分では立てない」という姿を、神が置かれるのです。 この照明は、自分で作るものではありません。頭で理解するものでもありません。神が、心の奥へ差し込まれるものです。 「自分で立てる」も「自分には無理だ」も、どちらも肉の思いであり、神はそれを砕かれる。 また反対に、「自分にはできない」「私には無理だ」と嘆き続ける人もいます。しかし、「自分には無理だ」と嘆き続けることは、謙遜ではありません。それは、神の御業を見ていない。自分の不能、自分の愚かさ、自分の弱さを中心に置き続けている肉の思いです。 自分の弱さを理由にして、神の召し、神の導き、神の鞭と杖、神の慈しみと恵みを拒もうとする。それは傲慢です。わがままな肉そのものです。 しかし神は、どちらの肉も砕かれます。試練によって砕かれます。なぜか。神が、ご自身だけを頼る者として、その信仰者を歩かされるためです。神は、弱さの中でキリストの力を現し、「キリストが私の義である」所へ導かれる。 そして神は、“あなたがたのうちに働いて、みこころのままに志を立てさせ、事を行わせてくださる” と語られます。 ピリピ2章 また神は、その弱さの中で、キリストの力を現されます。パウロは第二コリント12章でこう言いました。 “私が弱いときにこそ、私は強いからです。” これは強がりではありません。神が肉を砕かれた時、その人は、キリストを最後の望みとして持つからです。 自分の判断、自分の希望、自分の感情、自分の安全、それらを神が砕かれる。そして、 「キリストが私の義である」というところへ、その信仰者を導かれる。これが聖化です。 そして、このキリストへの望みは、神が新しい創造として、その人の内に現される、「愛によって働く信仰」です。 御霊に満たされること、御霊によって歩くことは、試練と切り離せない 御霊に満たされる。御霊によって歩く。これを、試練と切り離して語ってはいけません。 多くの人は、「御霊に満たされること」と「試練」を別のものとして考えています。しかし聖書は、それを切り離しません。 ヘブル11章の信仰者たちは、試練の中に置かれ、試練の中で死んでいきました。 なぜか。試練の中でこそ、神は古い人を砕かれるからです。 人間中心の思い、感情、意思、誇り、それらを打ち砕かれる。そしてその中で、新しい創造を現される。 信仰者は、その試練の中で、 「自分がどれほど罪人か」 「どれほど醜いか」 を知らされます。 そして、「キリストこそ望みである」というところへ導かれる。 だから、御霊によって満たされるとは、感情的高揚ではありません。神が御霊によって支配されることです。 “エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みを置く。” ローマ15章12節 最後の望みを置く。それが、御霊によって歩くということです。 自分の判断で歩くことではありません。神が、試練によって肉を砕き、キリストに結ばれた新しい創造として歩かされる。それが御霊によって歩くことです。 だから、方法論や計算によって、「どうすれば満たされるか」を考え始めた時、人はすでに肉によって歩いています。そこに神の御業はありません。 本当に溺れている人間は、計算しません。ただ必死です。藁にもすがる。そのように、御霊によって歩くことは、神の御業です。 “ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。” 第二コリント5章 そして神は、その新しい創造を、人生の中で現され続けます。 “古い私は終わった。” “肉によって立つ私は終わった。” “自分の力で守る私は終わった。” この神の証明を、一生涯、その信仰者に現されます。もし、一時的にそう思って忘れるだけなら、それは単なる知識です。 神は、命の日の限り、鞭と杖によって追い、キリストを最後の望みとして現される 神は、ご自分の民を放置されません。 神は、命の日の限り、 「古い私は終わった」 という照明を与え続けられます。 そして、キリストに結ばれた新しい創造を、神の御業として現されます。 ガラテヤ5章16節。 “御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲を満たすことは決してありません。” 御霊によって歩くとは、苦しみが消えることではありません。どこにそのように書いてありますか。 パウロは、苦しみの中を歩きました。神は、パウロの痛みを取り去られませんでした。しかし神は、鞭と杖によって、パウロをキリストへ向け続けられました。 “私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。” ガラテヤ2章20節 詩篇23篇でダビデが語る「慈しみと恵み」は、優しい慰めだけではありません。鞭と杖です。 神は追って来られます。 自己中心へ逃げる羊を追われる。 肉へ戻ろうとする羊を追われる。 自分で立とうとする羊を追われる。 そして、鞭と杖によって、「キリストが最後の望みである」というところへ戻される。 神は、慈しみと恵みによって追って来られる。試練によって追って来られる。御霊によって歩かせ、新しい創造を現される。これが聖化です。 ダビデは言いました。“私のいのちの日の限り。”それは、人生の最後までということです。神は、ご自分の羊を最後まで放置されません。最後まで、鞭と杖によって追われます。 最後まで、キリストへ向け続けられます。そこに、聖化があります。結論として、聖化はすべて神の慈しみと恵みである そして私は言います。すべては神の慈しみと恵みです。 鞭と杖も、慈しみと恵み。 試練も、慈しみと恵み。 砕きも、慈しみと恵み。 弱さの中に現れるキリストの力も、慈しみと恵み。 御霊によって歩かされることも、慈しみと恵みです。 キリストが、あなたの最後の望みです。神は、そのように、ご自身の民を歩かされます。 お祈りします。 愛する天の父なる神様。あなたの慈しみと恵みを感謝します。あなたの鞭と杖を感謝します。あなたは、ご自分の羊を放置されません。試練を通し、砕きを通し、御霊によって歩かせ、新しい創造を現してくださいます。命の日の限り、あなたの慈しみと恵みが、あなたの民を追って来ることを感謝します。 キリストが、私たちの最後の望みです。イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。
- 救いの構造の中で御霊の働きによって歩くヤコブ
2026.5.17 救いの豊川の家の教会礼拝メッセージ 「彼は母の胎にいたとき、兄弟を押しのけた。 彼はその力で神と争った。 彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った。」 ホセア12章3~4節 ヤコブは、力で勝ったのではない。神に砕かれ、神にしがみつく者にされたので「勝った」。 ホセアは、ヤコブを英雄として語っているのではない。神に砕かれた者として語っている。 「彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った。」 ここが重要である。 勝った者が、なぜ泣いて願うのか。普通の勝利なら、泣く必要はない。願う必要もない。支配し、奪い、押し通せばよい。 しかしヤコブは違った。ヤコブは泣いた。願った。祝福にすがった。 「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」 創世記32章26節 つまりヤコブは、「あなたなしでは生きられません。」という者にされた。ここに、ヤコブの「勝利」の意味がある。 創世記32章で、神はヤコブを打たれた。「その人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。」 創世記32章25節 ももの関節は、人が立つ力、踏ん張る力、逃げる力の中心である。 ヤコブのそれまでの歩みは、肉によって立つ歩みであった。 兄エサウを押しのけた。これは、祝福を神から受ける者として待つのではなく、自分の手で奪い取ろうとする肉である。 父イサクを欺いた。これは、神の約束を信じて待つのではなく、策略によって祝福を確保しようとする肉である。 ラバンを出し抜いた。これは、不正の中で守られた面もあるが、それでもヤコブの内には、計算し、工夫し、自分の知恵で生き延びようとする姿があった。 恐れれば逃げた。兄から逃げ、ラバンから逃げ、危険を感じれば身を引いた。そこには、神に支えられて立つ者ではなく、自分を守るために動くヤコブがいた。計算によって生きてきた。人を読み、状況を読み、損得を読み、危険を避け、自分の道を作ろうとしてきた。つまりヤコブは、神の約束の民でありながら、長く「肉の力」で生きてきた。しかし神は、そのヤコブを捨てられなかった。 神はヤコブを選ばれた。神はヤコブを追われた。神はヤコブを砕かれた。神はヤボクの渡しで、ヤコブの肉の力を終わらせられた。 だからヤコブの勝利とは、自力の勝利ではない。自力の敗北である。高慢の敗北である。肉の敗北である。神なしで生きようとする者の敗北である。 ヤコブは神に勝ったのではない。神に打たれた。 「その人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのももの関節を打った。 ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。」 創世記32章25節 神が、ヤコブのももの関節を外された。それによって、ヤコブは自分の力で立てなくなった。神が、肉によって立つヤコブを終わらせられた。だからヤコブは、神に勝ったのではない。神に砕かれ、神にすがる者にされたので「勝った」。 逃げるヤコブが終わった。押しのけるヤコブが終わった。策略で生きるヤコブが終わった。ここに、ヤコブの「勝利」の意味がある。 ここで聖書が示す勝利は、人間が力で支配する勝利ではない。神が肉を砕き、御自身により頼む者として立たせられる勝利である。 この勝利の構造は、黙示録で語られる勝利者の姿と同じである。黙示録の勝利者とは、自分の力で勝ち抜いた者ではない。この世を支配した者でもない。獣や竜を人間の力で押さえ込んだ者でもない。 勝利者とは、子羊の血によって贖われ、神によって最後まで保たれた者である。 「彼らは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった。」黙示録12章11節 つまり、勝利とは支配ではない。勝利とは、神に砕かれ、キリストに結ばれ、死に至るまで神により頼む者とされることである。 だからヤコブは、勝ったのに泣いた。勝ったのに願った。勝ったのに祝福にすがった。ヤコブの勝利は、黙示録の勝利者と同じ構造である。神によって負かされた者が、神にあって勝利者とされるのである。 だから神は名を変えられた。 「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と人と戦って、勝ったからだ。」 創世記32章28節 「ヤコブ」は、押しのける者。奪う者。自分で何とかする者。 しかし「イスラエル」は、神に支配される者としての名。 つまりここで、自力で生きるヤコブが終わり、神にすがって生きるイスラエルが始まった。 これは、黙示録14章13節と響き合う。 「主にあって死ぬ死者は幸いである」 ここで見るべき構造は、主にあって古いあり方が死に、神に属する者として生かされるということである。ヤコブは、神に打たれて終わった。自分の力、策略、計算、押しのける肉のあり方が砕かれた。 しかし、それは滅びではない。神がヤコブを、神にすがって生きるイスラエルとして立たせられた。だから、ヤコブの出来事は、「主にあって死ぬ者は幸いである」というみことばの型として見ることができる。 「イスラエル」は、単純に「神により頼む者」という意味ではない。 創世記32章28節では、 「神と人と戦って、勝った」という出来事に基づいて名が与えられている。しかしその勝利は、神を打ち負かした勝利ではない。神に砕かれ、神の祝福なしには歩けない者にされた勝利である。 ももの関節を外されたヤコブは、以後、足を引きずる者となった。それは神がヤコブに与えた試練である。試練は生涯、ヤコブとともにあった。 「ヤコブは、ペヌエルを過ぎるころ、太陽は彼の上に昇った。彼はもものために足を引きずっていた。」 創世記32章31節 これは単なる身体の負傷ではない。神に砕かれた者のしるしである。 自分の足で堂々と立つヤコブが終わった。自分の力で逃げるヤコブが終わった。自分の策略で押し通すヤコブが終わった。そして、神にすがって歩くイスラエルが始まった。 だから、ももの関節は、「肉によって歩く者」が終わり、神が与えた試練の中に置かれて「神によって歩かされる者」が始まる場所。 新約的に言えば、これは、肉によって歩く者ではなく、御霊によって歩くことである。試練の中で砕かれ神により頼む心によって歩く者にされたということである。 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」 ガラテヤ5章16節 御霊によって歩くとは、余裕のある人間が霊的努力を追加することではない。試練の中で神に砕かれ、これが御霊に満たされ進むことである。自分の力では立てないことを知らされ、キリストにより頼まされる歩みである。 パウロも同じことを語る。神はパウロに生涯トゲを与えられた。それは神がヤコブに一生、足を引きずり歩く試練を与えたことと同じである。 しかし、パウロは御霊に満たされる。苦難の中で神により頼む心が与えられる。 「わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」 第二コリント12章9節 神は、人をまず砕かれる。弱くされる。自力では立てないことを知らされる。そして、その弱さの中で、神の力を現される。 だからヤコブの足の痛みは、敗北の記念ではない。神が自力を砕き、御霊によって歩かせる者にされたしるしである。 ここに福音の構造がある。救いは、人間が神を選び取る話ではない。神が、永遠にキリストにあって選ばれた民を、時間の中で召し、砕き、再生し、信仰を与え、義とし、試練の中で聖化し、御霊によって歩かせ、栄光へ導かれる神の御業である。 「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び……」 エペソ1章4節 「神はあらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義とし、義とした人たちをさらに栄光ある者としてくださいました。」 ローマ8章30節 「私たちが罪過の中に死んでいたときでさえ、キリストとともに生かしてくださいました。」 エペソ2章5節 「あなたがたが救われたのは恵みによるのです。信仰によるのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」 エペソ2章8節 この構造全体の主は「ヤコブ」ではなく「神」である。 神が選び、神が結び、神が召し、神が生かし、神が信仰を与え、神が義とし、神が試練の中で砕き、神が御霊によって歩かせ、神が栄光へ導かれる。 ヤコブは、この構造を歴史の中で示された。ヤコブは、自分でイスラエルになったのではない。 神が臨まれた。神が打たれた。神がももの関節を外された。神が泣いて願う者にされた。神が名を変えられた。神が足を引きずる者として歩かせられた。試練も偶然ではない。 試練は、神がキリストに結ばれた者を、自力から神への依存へ移される摂理の構造である。 「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」 ローマ5章3~4節 神は、試練の中で実行される。神が砕かれる。神が自力を終わらせられる。神が肉によって立つ歩みを終わらせられる。神がキリストにより頼む者にされる。神が御霊によって歩かせられる。 ヤコブは、自分で変わったのではない。神が、ヤコブのももの関節を打たれた。 「その人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのももの関節を打った。」 創世記32章25節 神は、ヤコブを神の祝福なしには歩けない者にされた。 「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」 創世記32章26節 試練は、神のいつくしみと恵みそのものであり、神の主権的実行である。恵みもまた、構造である。恵みとは、神がキリストに結ばれた者を、救いの完成まで保ち、砕き、歩かせ、栄光へ導かれる全体構造である。 詩篇23篇6節で、神は敵に追われるダビデにこう告白させられた。 「まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。 私はいつまでも主の家に住まいます。」 恵みは、神から出る。神は、選ばれた者をキリストに結ばれる。神は、その者を救われる。神は、その者を砕かれる。神は、弱さの中にキリストの力を現される。神は、御霊によって歩かせられる。神は、栄光へ導かれる。 だから試練は、救いの外側にある不幸ではない。試練は、キリストに結ばれた者を、神がご自身のいつくしみと恵みによって追い、保ち、砕き、完成へ導かれる摂理の現れである。ヤコブにとって、ももの関節を打たれたことは恵みだった。 それは、自力で逃げる道が断たれ、神の祝福なしには歩けない者にされたからである。 恵みとは、神なしで生きるヤコブが終わらされること。痛みの中で、神にすがって歩かされること。それが恵みの構造である。 照明を受ける前の信仰者は、試練の中で暴れる。逃げ道を探し、自分の知恵で処理し、自分の力で抜け出そうとし、恐れと混乱の中で動き回る。それは単なる弱さではない。肉によって歩こうとする姿である。 ヤコブも同じだった。逃げ、計算し、押しのけ、自分で道を開こうとした。「彼は母の胎にいたとき、兄弟を押しのけた。 彼はその力で神と争った。」 ホセア12章3節 しかし神は、ヤコブのももの関節を打たれた。「その人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのももの関節を打った。 ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。」創世記32章25節 これは、神がヤコブの自力を終わらせられたということである。照明を受ける前の信仰者も、自分では試練の意味を正しく見ない。苦しみをただの問題、痛みをただの妨げ、弱さをただの敗北として見る。 しかし神が照明を与えられるとき、試練は単なる苦しみではなくなる。それは、神が肉を砕き、キリストにより頼ませ、御霊によって歩かせる摂理の構造として見える。だからヤコブは、生涯、痛みの中で足を引きずり歩いた。 「ヤコブは、ペヌエルを過ぎるころ、太陽は彼の上に昇った。彼はもものために足を引きずっていた。」 創世記32章31節 痛みが消えたのではない。痛みの中で歩かされた。神はヤコブの中に神を頼る心をいつも創造され続けた。 これが御霊に満たされることであり、これが本当の解放である。解放とは、痛みがなくなることではない。 照明によって、痛みの中で神にすがって歩かされることである。信仰者は、照明を受ける前、試練の中で自力、肉によって暴れる。しかし神は、その自力、肉を砕かれる。そして、痛みの中でキリストにより頼む者として歩かせられる。ヤコブは、関節が外れ、痛みの中で生きて勝った。 真の信仰者は皆、同じである。ヘブル書11章にある信仰の証人。ヤコブもまたその証人の一人である。 神は、信仰者を肉の力で勝たせるのではない。肉を砕き、キリストにより頼む心を創造される、それは御霊で満たし、御霊によって歩かせられることである。これが、救いの構造の中で御霊の働きによって歩くヤコブである。 パウロはこの救いの構造は旧約から新約を通して一貫して同じであり、神のイスラエルはこの基準に従って進むと語る 「割礼を受けている者たちは、自分自身では律法を守っていないのに、あなたがたの肉を誇るために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです。 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。」 ガラテヤ人への手紙 6章13~17節 神は、すべての神のイスラエルに対して、試練を通し、パウロの告白と同じように、その身にキリストの焼き印を刻まれていくのである。 以上
- 福音の構造の中で御霊に満たされる 2
2026.5.13 The Word for you 今日のテーマは、「福音の構造の中で御霊に満たされる」です。 御霊に満たされることを、福音の全体構造の中で話したいと思います。御霊に満たされることを、福音の全体構造の中で見る。福音の全体構造を見るとき、試練というものを、単なる「つらい出来事」のように扱ってはいけないことが分かってきます。 実は、試練を、ただのつらい出来事として扱うことは、キリストの十字架を無駄にすることと同じ意味を持っています。 どういうことか?それは、照明がないということです。 救いを「赦し」とだけ捉える。恵みを「問題解決」と捉える。御霊を「励まし」と捉える。信仰を「前向きさ」と捉える。このように聞くと、一見、良い感じがします。しかしこれでは、全部が人間の状態、感情、反応を基準にした宗教になってしまいます。 しかし福音はこうです。 救いとは、キリストとの結合に基づく神の救済全体です。赦しとは、義認の恵みです。恵みとは、神がキリストに結ばれた者を保ち、聖化し、栄化へ導かれる神の御業です。御霊とは、キリストを現し、肉を砕き、神を頼らざるを得ない心を創造される神の御業です。信仰とは、再生された者に与えられる、キリストを頼らされる恵みです。摂理とは、神が試練を含むすべてのことを用いて、信仰者を自分ではなくキリストにより頼む者とし、御子のかたちへ造り変えていかれる神の御業です。これが福音です。 そうすると、 救い=赦し、恵み=問題解決、御霊=励まし、信仰=前向きさという考えが、いかに違うか分かるでしょう?照明を受けていないと、すぐこうなります。 苦しみが終われば、恵みだと思う。「ああ、苦しみが終わった。恵みだ。」気持ちが楽になれば、御霊。前向きになれば、信仰。赦されたら、それで終わり。 これは福音ではありません。これは肉です。それは、十字架を背負うことのない生き方そのものです。もし救いが赦しだけで終わるなら、救いの全体構造がありません。それは救いの全体構造を否定していることになります。もし救いが赦しで終わるなら、多くの人は、「イエス様、私を赦してください」で終わってしまう。 教会でも、「あなたは十字架で赦されました」「はい、終わりです」となってしまう。 では、クリスチャン人生とは何なのか。 恵みを問題解決とするなら、神の聖化を否定していることになります。「恵み=問題解決」なら、聖化はありません。 御霊が励ましだけなら、信仰者のうちに働く神の力によって、自我が砕かれ、自己保身が砕かれ、自己憐憫が砕かれ、神をあえぎ求める心が現されるという御霊の働きを否定していることになります。谷川の鹿が水を慕いあえぐように、神を求める心。それを否定しているのです。 信仰=前向きさであるなら、再生された者に与えられる、キリストに頼らされる信仰を否定していることになります。ですから結論は、このような考え方は福音ではありません。なぜなら、十字架を背負うことがないからです。十字架を背負うことのない福音などありません。 しかし多くの人は、十字架を背負いたくありません。十字架を背負うという教えを拒みます。「こんなのは福音じゃない」と言って、自分が聞きたい福音を聞こうとします。自分の耳に心地よいことを聞きたいのです。これは、聖化を失った偽りの福音です。聖化がなければ、十字架を背負う意味もありません。 しかし主イエスはこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」十字架を背負うことは、御霊に満たされることと切り離せません。 主イエスがここで言われた「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」という言葉は、人間が苦労を美化する話ではありません。「私は苦労した」と自分を高くする話ではありません。 十字架を背負うとは、神が試練の構造の中で肉を砕き、自己保身を砕き、神を頼らざるを得ない心を創造し、キリストに結ばれた者が神へ向かって歩かされていく姿です。だから、試練を避け、問題解決だけを望み、それを恵みとし、自分の気持ちの安定だけを御霊とし、前向きさだけを信仰とするなら、それは十字架を背負っていません。そこには、キリストとの結合から流れてくる聖化の現実がありません。 救いの源泉は、永遠のキリストとの結合です。神は永遠において、キリストのうちにその民を選び、キリストに結ばれた者として救いを定められました。そしてその救いは、時間の中で御霊によって現されます。 神はエペソ書で語られているように、死んだ心を再生されます。エレミヤ書も、新しい心を与えられる神の御業を語っています。 神はみことばによって照らされます。そして悔い改めと信仰が与えられます。キリストの義によって義とされます。そして聖化の道を歩まされていきます。この聖化の過程において、試練は救いの構造です。試練は神からの贈り物なのです。 聖なる神は、神が定められた試練、弱さ、苦しみを通して、信仰者の肉を砕いていくんです。そして、自己保身を崩して、キリストをそこに現されます。 試練は一時的な苦痛じゃない。一時的な障害でもない。ただ、そこを通過すれば済むだけの出来事でもない。試練は、父なる神の摂理のもとで恵みとして用いられている。神は試練を構造として置かれていて、一度限りの苦痛ではない。これは構造です。福音の。 信仰者の肉を砕く。自己保身を砕く。神を頼らざるを得ない心を創造する。御霊によってキリストを現される。これが構造なのです。御霊は抽象的に信仰者を満たすのではなくて、試練と苦しみの現実の中で信仰者を砕く。そして信仰者をキリストに頼らせる。 そして御霊が、みことばによってキリストを示すのです。御霊が示すキリスト。御霊が神を頼らざるを得ない心を創造される。御霊が信仰者を信仰によってキリストに結びつけられる。そしてその結合の現れとして、時間の中において、神は信仰者を御霊によって歩く者に変えていくのです。 ですから、神が定められた試練の構造、あなたの人生はその構造の中に移されているのです。 その構造は、あなたが思う思わない関係なく、神の子どもは皆、その構造の中に置かれます。神の子どもではない人は、裁きの構造の中に置かれるのです。そのまま置かれているのです。 だからあらゆる裁きは、神の子どもたちにとっては、試練へと変えられて、キリストの似姿に見せられる、その摂理のものとして使われるのです。 神の子どもでない人たちは、同じ裁きが、彼らを神から引き離して、そして彼らは永遠の滅びへ至ってい く。こういう構造です。これが聖書の構造です。 ですから、試練の構造を照明なしに、聖化を語っていこうとすると、聖化は道徳的改善になっていくのです。「良い人になりましょう」となってしまう。性格改善になってしまう。宗教的行いになっていくのです。 試練の構造なしに、御霊に満たされることを語ると、霊的体験とか、神秘体験とか、奇跡体験に変わってしまう。試練なしに、御霊によって歩くことを語ると、人間の修行になってしまうのです。努力になってしまう。 これが肉の働きです。 神は、信仰者を絶えず、試練の構造の中に置かれています。そして、その試練の中において、御霊によって歩くことが現実になります。そこで、御霊に満たされることが現実になります。なぜなら、神を頼らざるを得ない心が創造されるからです。 「御霊によって歩きなさい」というのは、私たちがその試練の構造の中に置かれているということです。 その構造の中で、神は一つ一つの試練を、摂理によって正確に用いられています。偶然など一つもない。神は永遠の時の始まる前から、すべてのことを既に計画されていて、実行されています。神は試練を通して、肉を砕く。自己保身を砕く。神を頼らざるを得ない心を創造される。新しい創造を行っていく。それが時間の中で現れてくると、愛によって働く信仰なのです。 御霊は、みことばによってキリストを示されます、あなたのその心に。御霊は信仰者を、信仰によってキリストに結びつけられているのです。 「私は決してあなたを見捨てない。あなたを捨てない。」 ある人が、「私はイエス・キリストを捨てられなかった」と言うのです。でも、その人が捨てなかったのではありません。神が捨てていないのです。そして、その結合の現れとして、神は信仰者を御霊によって歩かせます。その信仰者の肉を砕いて、自己保身を砕いて、神を頼らざるを得ない心を、その人の心に置かれるのです。現されるのです。それは光が現れるように。 神は「光あれ」と言われたでしょう。その暗い心に、その人が再生した時に、再生の御業によって新しい心が与えられ、そして時間の中において、その砕きが来た時に、光が現れるのです。 その信仰者が、試練という構造の中に置かれるでしょう?激しい時もある。だけど弱い時もある。ですが、激しかろうが弱かろうが、神はその人を試練の中に置いているのです。例えば、激しい時は、とんでもないことが起こって、動揺するぐらい激しい時もある。だけど、あなたの心の奥底に、不安が絶えずあるでしょう?将来を考えると、心配があるでしょう?それも思い煩いという試練です。 そしてその中において、神はあなたをキリストに結びつける。キリストに頼らざるを得ない者に変える。あなたの不安は、あなたをキリストに頼らざるを得ないところへ置く。そして神は、キリストを現す。だから単なる不幸ではないのです。偶然の事故でもない。何一つ偶然はない。神の主権の外にあるものは何一つないのです。 パウロはこう言うでしょう、「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」神は、試練、苦しみ、弱さ、こういったものの中において、信仰者を絶えず、頼らなければいけない状態に置かれます。その中で信仰者は日々、自分ではなくて、キリストを頼るということを学んでいくのです。 その「学ぶ」というのは、自分で学ぶではないです。神があなたのうちに、その心を置いていくという意味です。私たちは本来自分を頼るでしょう?肉を頼るでしょう?状況が良くなることを頼るでしょう?感情を頼るでしょう?問題解決を頼るでしょう?しかし神は、頼らざるを得ない心を創造されます。 これが御霊のご支配です。頼らざるを得ない心。そこに御霊のご支配がある。そして、神を頼らざるを得ない心があるところで、肉は無力にされるのです。「私が、私のために、私によって」がなくなるのです。肉は御霊によって砕かれているのです。 すなわち、「御霊によってからだの行いを殺しなさい」それが、御霊によって満たされること。御霊によって歩かされることの現実なのです。 肉はすぐこう見ます。「この試練が終わればいい。」「この問題がなくなればいい。」「この苦しみから解放されることが恵みです。」「神様、どうか私をこの苦しみから解放してください。」こう肉は考えるのです。これが肉の思いです。人間は普通そう考えるでしょう。だから肉の思いなのです。「ああ、解放されたい。」イスラエルもそうだったでしょう。「エジプトから出されたのは、ここで餓死させるためなのか。肉が食べたい。」肉はそう働くのです。 しかし聖書はこう言うのです。本当の解放はそうじゃない。真の苦しみからの解放は、問題がなくなることじゃない。状況が改善することじゃない。神が、御霊によってあなたを満たしていくでしょう。その中で忍耐が現されるのです。 聖書は言います。試練は忍耐を生み、忍耐は品性を生む。パウロも言ったでしょう、「棘を取ってください。しかし神は、「私は取らない。」「あなたの弱さの中に私の力を現す。」と言われた。つまり、以前受けていた同じ試練の中でも、以前のように御霊に満たされることを知らないあなたではなく、この試練の構造を、照明を受け理解していく中において、あなたは、その肉が砕かれていくのを見るのです。 それは、あなたが頼りにしているものが剥ぎ取られること。神の代わりになっている偶像が破壊されること。以前あなたを支配していた、「問題がなくなればいい」という思いが砕かれること。それは肉が破壊されていくことです。 そして信仰者は、「神よ、どうか私を助けてください。私はあなたに頼るしかありません。」と言わされる。 「たとえ死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたの杖、あなたの鞭、それが私の慰めです。私の敵をよそに、あなたは食卓を整え、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。」 みことばが、あなたをキリストに頼る者として歩かせていくのです。つまり、解放というのは、試練の消滅ではない。神が試練の中で、信仰者に忍耐を現され、キリストへの信頼を現されることです。それが神の恵みです。同じ試練であっても、信仰者にこの照明が来た時に、パウロと同じ告白が現される。「私は弱い時にこそ強い。」なぜなら、キリストの力が現れるから。キリストに頼る者とされるから。私の心は、主に依存するものとされていく。そしてキリストが、その信仰者の強さとなって現れてくださる。 これは神の永遠の約束です。 「わたしは決してあなたを見捨てない。わたしはあなたを守る。何があっても守る。」 神が御霊によって、信仰者を満たされる。福音とは、永遠の始めから永遠の未来までの、救いの全体構造です。再生、信仰、悔い改め、義認、聖化、栄化。すべて構造です。そしてそれは保証されている。試練もまた、聖化において現される救いの構造のうちにあるんです。なぜなら、恵みとは救いの全体構造だからです。 「すべてのものは、神から発し、神によって成り、神に至るのです。」 これが福音です。では終わります。 お祈りします。 愛する天の父なる神様。 あなたが私たちを決して見放すことなく、決して見捨てることなく、最後の最後まで守り通してくださると約束してくださっている、この福音のみことばを感謝します。 私たちは、自分では分からないところにいます。 しかしあなたは語ってくださいます。 「試練を恐れることなく、わが子よ、この試練の中を歩いて来なさい。」 それは、あなたが私たちを御霊によって歩む者としてくださっているということです。 主よ、私たちは、自分の肉に対処する方法が本当にないということを教えてくださったことを感謝します。 天の父なる神様。 どうか今週も一週間、あなたが聖徒たちとともにいてくださり、この試練の中に、この構造の中に私たちを置いてくださり、キリストに頼らざるを得ない者としてくださることを感謝します。 すべては、なんと深く、高く、長く、広い、あなたの愛の現れでしょうか。 イエス・キリストの御名を通して、感謝してお祈りします。 アーメン。
- 福音の構造の中で御霊に満たされる 1
2026.5.10 豊川の家の教会礼拝メッセージ 「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。 大事なのは新しい創造です。この基準にしたがって進む人々の上に、 そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」 ガラテヤ人への手紙 6章15~16節 パウロはこう宣言する。 「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」 これが基準である。 割礼でもない。 無割礼でもない。 宗教的しるしでもない。 外側の所属でもない。 人間の努力でもない。 感情の高揚でもない。 霊的体験でもない。 基準は、新しい創造である。 新しい創造とは、神がキリストにあって、御霊によって死んだ心を新しく造られることである。この新しい創造こそ、神の民のしるしであり、神のイスラエルの基準である。 ガラテヤ6章16節は言う。 「この基準に従って進む人々の上に、平安とあわれみがありますように。 神のイスラエルの上にありますように。」 つまり、神のイスラエルとは、民族的しるしや宗教的外形によって定義されるのではない。キリストにあって新しく造られた者である。この新しい創造の基準によって進む者である。だから、この基準から外れる教えは福音ではない。 キリスト教の語彙を使っていても、十字架を掲げていても、「イエス・キリストは神です」と言っていても、新しい創造が中心になければ、福音の構造ではない。 では、この新しい創造はどこから来るのか。それは、永遠のキリストとの結合から来る。神は永遠において、キリストのうちにご自分の民を結ばれた。これが救いの源泉である。 「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び」 エペソ1:4 救いは、時間の中の人間の決断から始まっていない。永遠において、神がキリストのうちに民を選び、結ばれたことから始まる。その永遠の結合の恵みが、時間の中で現れる。それが再生である。死んだ心を生かすのは人間ではない。 御霊なる神である。 「神は、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。」 エペソ2:5 「風は思いのままに吹きます……御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」 ヨハネ3:8 再生とは、神が死んだ心を新しく創造されることである。つまり、新しい創造は、人間の宗教努力ではない。 御霊なる神の創造の御業である。この新しく造られた心に、神は信仰を与えられる。その信仰によって、罪人はキリストの義のゆえに義と宣言される。これが信仰義認である。 「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」 ローマ3:28 「私たちは、この方にあって、神の義となるためです。」 第二コリント5:21 信仰は人間の功績ではない。信仰は、再生によって神が創造された新しい心の働きである。義認の根拠は信仰そのものではなく、キリストの義である。信仰は、そのキリストを受ける器である。 しかし神は、義とされた者をそのまま放置されない。新しく造られた者を、聖化の中で実際に造り変えていかれる。 「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。」第一テサロニケ4:3 「御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。」ローマ8:13 「御霊によってからだの行いを殺す」とは、御霊なる神が、信仰者のうちに残る肉の働きを砕き、自力、自信、自己義、偶像に立つ心を死なせ、キリストの恵みにより頼む心を現されることである。 信仰者は、自分の力で肉を殺すのではない。 御霊によって、肉を殺される。御霊によって、神に頼らざるを得ない者とされる。御霊によって、キリストだけを望みとする者として歩かされる。これが、御霊に満たされることと矛盾しない。むしろ、御霊に満たされることの中に、肉を殺す働きが含まれている。 ここに「御霊に満たされる」という教理が位置づけられる。 御霊に満たされるとは、信仰者が霊的に興奮することではない。感情が高まることでもない。特別な恍惚体験でもない。人間が自分で霊的状態を高めることでもない。御霊に満たされるとは、試練や苦しみを通して、神が信仰者の自力を砕き、神の力に頼る心を現されることである。 御霊に満たされるとは、みことばを通して、信仰者をキリストへ結びつけ、神だけを頼る心を現される。 御霊に満たされるとは、信仰者の心が、みことばによって神を頼らざるをえない心へと造り整えられ、その現実が日々の生活の中に現れることである。 御霊に満たされるとは、その中で御霊なる神は、みことばを通して、信仰者をキリストへ結びつけ、神だけを頼る心を現される。だから、神を頼る心は、ただの気持ちではない。 御霊に満たされるとは、試練の中でみことばに支配され、キリストの恵みにより頼まされることである。 御霊に満たされるとは、御霊なる神が、信仰者の心を、キリストだけを望みとする心として現されることである。 これは一度きりの出来事ではない。毎日の歩みの中で、神の導きと恵みが現れ続ける。これが、御霊によって歩くことである。 それは、新しい創造として造られた者を、御霊なる神が聖化の中で支配されることである。 「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。」 エペソ5:18 ここで言われているのは、熱狂ではない。 支配である。酒に支配されるのではなく、御霊に支配される。肉に支配されるのではなく、御霊に支配される。自己中心に支配されるのではなく、神に支配される。 すなわち、肉の行いも殺す働きをされる。 その支配は、日々の摂理の中で現れる。キリストを頼らなければならない心は、試練の中で現れる。 苦しみの中で現れる。 弱さの中で現れる。 砕きの中で現れる。神は摂理によって信仰者を砕かれる。神は試練によって肉を焼かれる。神は苦しみによって偶像を暴かれる。 神は弱さの中で、キリストに頼る信仰を働かせられる。信仰者の中にある肉の自力、高慢、自己保身、自己憐憫、偶像は、そのまま残されない。御霊なる神が、聖化の中でそれを精錬される。 「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり」 第一ペテロ1:7 「あらゆる試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。 信仰が試されると忍耐が生まれることを、あなたがたは知っているからです。」 ヤコブ1:2–3 「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し」 ローマ5:3–4 試練は偶然ではない。神の父としての訓練である。 「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子にむちを加えられる」 ヘブル12:6 「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、 後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」 ヘブル12:11 ここで、新しい創造が実際に現れる。神を信じざるを得ない心。偶像に頼れない心。キリストにより頼まざるを得ない心。神のことばに服さざるを得ない心。兄弟を愛さざるを得ない心。これは、人間の決意ではない。 御霊による新しい創造の顕現である。 だから、御霊に満たされるとは、単なる「御霊の支配」という抽象的な説明では足りない。また、「みことばに従う」という道徳的説明だけでも足りない。それだけでは、人間中心の実践論に落ちる危険がある。 必ず、救いの流れの中で語らなければならない。 永遠の結合 再生 信仰義認 聖化 摂理 試練 精錬 新しい創造 愛によって働く信仰 この流れである。 パウロはガラテヤ5章6節でこう言う。 「キリスト・イエスにあっては、割礼を受けるか受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」 これは、愛という行いによって救われるという意味ではない。信仰が、愛を生み出すという意味である。 そしてその信仰は、人間の決意ではない。御霊が新しく創造された心に働かせる信仰である。だから、「愛によって働く信仰」とは、新しい創造が時の中に現れた姿である。キリストとの結合を源泉とし、御霊によって働かされる信仰が、愛として実を結ぶのである。 またパウロは言う。 「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」 ガラテヤ5:22–23 実は、人間が自分で作るものではない。御霊が結ばせるものである。信仰者は木ではなく、枝である。命の源泉はキリストにある。その命を御霊が適用し、実を結ばせられる。だから、新しい創造は外側の宗教行為ではない。 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」 第二コリント5:17 キリストのうちにある者は、新しく造られた者である。この新しい創造こそ、神の民の基準である。 そしてパウロは最後にこう言う。 「これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。 私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。」 ガラテヤ6:17 パウロの焼き印とは、単に過去の迫害の傷ではない。神がパウロを置かれた試練、苦しみ、悲しみ、迫害、弱さの中で、キリストに属する者として刻まれた現実である。 パウロは、石打ちにされ、むち打たれ、投獄され、苦しみを受けた。しかしそれは単なる不幸ではなかった。神が、キリストに属する者として、パウロを聖化の道に置かれた現実だった。焼き印とは、本来、奴隷や家畜が「誰の所有か」を示す印である。つまりパウロは、「私はキリストのものだ」と言っている。 そしてこれは、パウロだけの特殊な誇りではない。 信仰者もまた、神の摂理の中で試練、苦しみ、悲しみ、弱さに置かれる。そこで肉を砕かれる。 自力を砕かれる。 偶像を暴かれる。自己保身を焼かれる。 その中で、御霊が新しい創造の心を現される。神により頼まざるを得ない心。 キリストに属する者として歩まざるを得ない心。愛によって働く信仰として歩まされる心。 これが、信徒の現実における「焼き印」である。 だからパウロの 「だれも私を煩わせないようにしてください」とは、 「新しい創造ではない別基準を持ち込むな」 という意味である。 パウロはこう言っている。 「割礼、無割礼、宗教形式、民族的しるし、人間の誇りを持ち込むな。」 現代で言うなら、こうである。 「律法主義を持ち込むな。 放縦主義を持ち込むな。 人間の功績を持ち込むな。霊的体験主義を持ち込むな。 自己保身を持ち込むな。 自己憐憫を持ち込むな。人間中心の思想を持ち込むな。 宗教的外形を持ち込むな。哲学やこの世の知恵を、福音の基準として持ち込むな。」 「新しい創造ではない別基準を、キリストの福音に混ぜるな。」 「神が試練の中で刻まれた、キリストに属する現実を、外側の宗教基準で否定するな。」 パウロは、民族的しるしを誇っていない。 宗教的肩書きを誇っていない。 律法主義を誇っていない。外面的宗教を誇っていない。 「新しい創造ではない別基準を持ち込むな」 パウロは自分が今まで誇っていたものを「ちり・あくた」とみなしている。 「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」 ピリピ3:8~9 新しい創造。 キリストに属する現実。 御霊によって歩まされる現実。 愛によって働く信仰。 これが最後まで、「パウロの基準、神のイスラエルの基準」だった。 これが神のイスラエルである。 「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」 ガラテヤ人への手紙 6章15~16節 以上。
- 御霊に満たされる
2026.5.6 The Word for you このメッセージは、人間中心主義的な「御霊に満たされる」という誤った概念を打ち砕き、神の主権と摂理、そして試練の中での再創造を強調する非常に力強く、厳格な福音の宣言です。 ## メッセージ:御霊に満たされる 今日のメッセージは、「御霊(みたま)によって満たされる」というメッセージですが、この教義をいくら聞いても分からない人は分かりません。それはなぜかと言うと、僕が思うのは、今まで聞いた「御霊に満たされる」という考え方がものすごく邪魔をしているからです。 しかも、それは現象や感覚、あるいは**恍惚(こうこつ)**だとか、いわゆる本当のキリスト教が言っている「御霊に満たされる」ということとかけ離れた、別の宗教になってしまっています。そこに長くいて、それがそうだと思っているので、一向に「御霊に満たされる」が現実になってきません。それは何かと言ったら、もう開口一番分かるのは、**「試練から逃げたい」**ということです。 「私は試練が嫌です」。ここに行き着く。 「試練はサタンが働いている」。 「なんで私ばっかりに悪いことが起こるんだ」。 それは、滅びと試練が非常に密接に結びついていることを理解していないからです。 それを理解するということは、救いの全体構造を理解するということですが、そう言っても分からない人がいます。例えば、誰かみたいに、救いの全体構造を何度言っても、何のことだか分からない。それは残念ですが、神様がそういう風に**照明(しょうめい)**されてないので、その人は分かりません。いくら言っても。 ですが、憐れみ深い神様に「あなたが心から教えてください」と何度も何度も祈って頼んだら、神様は教えてくれるかもしれません。 ### 救いの構造と御霊の満たし まず、救いの構造は何ですかというのであれば、**永遠の結合**、そして**再生**、そして**信仰義認(しんこうぎにん)**、**聖化(せいか)**、そして**栄化(えいか)**。これ全体が救いの構造で、そういう風に聖書を読む時に理解する必要があります。この部分が理解されていない中で、御霊に満たされるということは理解できません。すなわち、この構造の中において、御霊に満たされるという、神の創造の御業が現れるということです。 信仰者が御霊に満たされると言った時に、御霊に満たされるということを自分で行うことはできないです。「私は御霊に満たされたい。だから御霊に満たしてください」と願っても、神はそのように来ないです。なぜなら聖書の福音構造をすでに神は示しているから。それは、**神の支配があなたの人生に現れる**ということです。すなわち、神のご支配は御霊に満たされる中にあります。 あなたが嫌いな試練、苦しみ、弱さ、砕き、こういったものはどうやって現れてくるかというと、**摂理(せつり)**の中で現れてきます。すみませんが、摂理が分かんない人はもう理解できないです。それは自分で、摂理というのは何なのかというのを、ちゃんと復習してください。何度も語っていますから。試練、苦しみ、弱さ、砕き、摂理があなたを取り囲みます。 そして、その中において、肉から来る自分の力、「自分で何とかしよう」「自分は大したもんだ」と思うこと、また偶像、自己依存、こういったものに、神様は何をするかというと、**砕く**んです。 ### 偽りの「満たし」への警告 御霊に満たされるというのは、実際に現れるものです。それは、何か修行的なことをするだとか、音楽をガンガン鳴らして自分の心が高揚するだとか、恍惚になるだとか、そういった人間のアクション、人間の行いによって得られるものではないということです。多分みなさんそういうところから出てきたでしょ? でも、あなたは、音楽が鳴って照明がチカチカして神聖な音楽が流れる、その中であなたの心は感動する。しかし、電気がパッとついて家に帰る。現実の中に生きる。そうすると、途端にあなたは現実の中に引き戻されて、その中に何がありますか? 自力、高慢、偶像、自己依存があるでしょう? そして、神を信じるどころか、神を否定するでしょう? それは、御霊に満たされていなくて、あなたが満たされたと思っているのは音楽なんです。音なんです。自分の感情、自己暗示、そういったものであなたは満たされているんです。だからあなたが「御霊に満たされている」というふうに思っているものは、御霊の反対で**肉に満たされている**んです。 肉に満たされて生きる歌があるじゃないですか。「御霊に溢れ生きる」……あなたが手を挙げて心を向ける、誰に向けるの? 神を知らないのに。そして**舌振り(したぶり)**をして、御言葉もないのにあなたは自分の肉を満たしていくんです。そうやって。だから「御霊に溢れ」じゃなくて「肉に溢れて」生きるんです。 そして、行いが示します。あなたは神に属していない。 ### 信仰の正体と「再生」 信仰者にある信仰というのは、人間の決意ではありません。何回も言っています。信仰者の信仰というのは、祈ることではありません。一生懸命祈ることではありません。 信仰は、一生懸命祈るという人間の熱心そのものではない。祈りも御言葉も、神が与えた信仰から生じる実です。 聖書を一生懸命読んで、朝から晩まで読むことではない。信仰者の信仰とは、人間の決意ではない。 一生懸命祈ることそのものでもない。聖書を朝から晩まで読むことそのものでもない。祈りも、御言葉を読むことも、信仰の原因ではない。それらは、神が再生によって与えた信仰から生じる実です。 信仰者の信仰は、あなたが神によって……あなたがといっても、肉のあなたではなく、新たに生まれた人。神によって、永遠の時の始まる前に、あなたはキリストにあって選ばれる。すなわちキリストと結合する、そして選ばれる。これ同時に起こっています。別々のイベントではありません。「キリストにあって選ばれ」という言葉は、あなたは結合し、そして選ばれているということが、永遠の時の始まる前に同時に起こっているという風に考えないといけません。選ばれてから結ばれるとか、結ばれたから選ばれる、それはどういうタイミングですか。聖書はそんなことを言ってないでしょう? そして、あなたが一番嫌いな「信仰義認」から、「聖化」の話に入っています。信仰義認というのは再生された者じゃないとダメです。再生というのは時の中において、あなたが神によって新しい心を与えられる。神によって与えられる。だからあなたはどこにもいないんです、そこに。私はいないんです。私が何かしたもないんです。私が信じたもない。あなたは神によって与えられるんですよ、それを。 そして、与えられたあなたには何が来るか? それは、そのプロセスにおいて、すでに神はあなたを試練の中に置いている事実があるんです。何もなく、あなたは与えられないんです。神の御言葉は、あなたが絶えず自分を減少させられる、自分が否定される、自分が壊される中において現れてくると言っているでしょう。それはあなたの救いの一歩からそうなんです。 ### 打ち砕かれる中で与えられる信仰 あなたは時の中において、信仰を与えられるでしょう。この最初のところから注意して聞いてください。もうやめてくださいよ、「今までの私は……」というのは。もう捨ててください。いい加減にもう、それは救いではありません。「私は」は。 何度も言ってるから、心にある愚かな考えを捨ててください。「私は」だとか「信じたら救われる」とか、そんなことは聖書は言いません。「あなたは選ばれたから救われてるんだ」ということを聖書はずっと言っています。 この神秘に立つ時に何が起こるかと言うと、あなたは自分が「もう何をやってもダメだ」っていうところに置かれるわけです、神様に。救いの一丁目一番地です。最初のところでもうそれが来るんです。 そしてあなたは知らない間に、風のように神があなたに訪れて、あなたの心を新しく入れ替える。そして信仰があなたに与えられる。あなたの内に**創造される**んです。信仰は「ポイッ」と与えられないんです。そんなね、調子よくいかないんですよ。あなたの心が打ち砕かれる中において、**「私は神に頼るしかない」**。これが信仰でしょ? この、「私は神に頼る。私には正しいことなどできない。私は間違っている」。 この心があなたに現れる時、それは神の創造があなたの内に現れているということです。それは信仰があなたの内に現れている。それが「信仰を与える」という意味です。 ### 聖化:精錬の火による純化 その信仰は、御霊の働きです。聖霊と御霊はどう違うんですか? 聖霊は外側からと言います、御霊は内側からと言っています。御霊が働くというのは、あなたの内に支配が、神の支配が広がっていくということです。 聖化の過程というのは、あなたが清くなっていく、キリストに似たものになっていく過程です。この過程は、あなたの力では起こりません。あなたが宗教心を持ってもダメです。あなたの自力ではなりません。聖化の過程というのは、本当に神があなたの人生に、あなたの日常におられて、神がそれを導く。すべてのことをあなたのために、神が試練として置くんです。 それは**精錬(せいれん)の火**と言われます。火は裁きと、そして精錬の二つを表します。精錬は信仰者、選ばれたもの、キリストと結合したものを、神の支配で満たすことを行います。神の支配で満たすというのは、あなたが神に跪(ひざまず)くということですよ。「はーっ」て手を挙げて「私の内に心に平安が来た」という理解は、あなたがそこにいることがわかります。それは肉があなたの内で働いています。 御霊に満たされるというのは、あなたが苦しみの中にいる中において、神にしか頼るものがないというところまで置かれた時に、あなたは神に頼ります。この神に頼る心というのは、神が創造されたもので、この頼る中において、このように起こります。**苦しみと悲しみと、神の平安がそこに同時に現れます。** 明日から会社行くでしょ? 行きたくないよね? ああ嫌だなあと思うでしょ? まあ私も今日会社行きましたけど、嫌だったですね。そうすると肉はいろんな思いを持ってくるでしょ? 嫌な思い出、挨拶しない人もいるだとか、そういうようなことを通して、あなたに否定的な思いを渡すでしょう。逃げたいでしょう。 でも、神はね、それをあなたが歩いていく**荒野(あらの)**にしているんです。それは一つの事例です。仕事だけじゃないです。あらゆることが、神はあなたを通して、あらゆることをあなたのために益とする。ただし、あなたの益と神の益は違うという前提をあなたは理解しなければならない。 あなたの益は自己中心で、自分さえ良ければよくて、自分に良いことが起こって、得することが起こって、自分の心が安心なことが起こって、それがあなたの益でしょ? 神の益は全く違うんですよ。それはあなたの人間中心を否定する、あなたの自己中心を壊すんですよ。あなたの偶像を壊す。そのためには、神はあらゆることを使ってあなたを導く。どうやって? 荒野へ。ホセヤ書で学んだよね。神は(妻)ゴメルを荒野に連れて行くんです。聖書はあらゆるところにおいて、そういう試練と、そして御霊に満たされるが密接に結びついていることを説明します。 ### 肉の基準が引き剥がされるプロセス 私たちが信仰を与えられるというのは、新しい心がだんだんできるんじゃないでしょう。新しい心は再生の時、新しく生まれた時に一回だけ、すでに完全に与えられるんです。その心は神の言葉を聞く能力がある。神の心、御心を知る能力がある。それは神ご自身があなたと結合するから。そしてそれは完全に再生の時に行われているんです。だから、あなたに足りないものはもうないんです、実は。 時の中において、神はあなたと結合し、再創造します。その再創造というのは新しい心をもらうということです。一回きりです。そして神は決してあなたを離れることはありません。あなたは永遠に結びつけられます。 では、聖化の過程で何が起こるのか。それは、あなたはまだ肉の人です。あなたの意志、感情、思いの中に、この世の基準が入っています。その基準はあなた自身です。あなたの思い、意志、あなたが思う常識、あなたが欲しいもの。あなたはそのような人間です。それが罪人の姿でしょ。 そうすると神は、御霊に満たすという過程の中で何をするか。神はあなたに精錬の火であなたを**純化(じゅんか)**していく。それはどうやっていくんですか? 試練を通して。その試練は最初から100%はしません。最初はあなたは泥水なんです。しかも極度にひどい泥水。そのように考えたらわかりやすいです。あなたは人を恨んだり、偽りの宗教に入ってたでしょ。そして神を冒涜し続けたんです。 神はその大きなところからあなたを変えていきます。あなたを偽りの宗教から引きずり出すんです。あらゆる手段を使って、神はあなたを偽りの宗教から引き離し、偽りの思想を引き剥がします。だから最初にあなたに起こったことは何かと言ったら、偽りの思想から引き剥がされたことだと思います。それは大きな、目に見えてわかる汚いものです。それを引き剥がすということをします。それはちょうど、泥水の一番汚い部分を大きなフィルターでかっさらうことです。そうすると少し純化します。次に神は、さらに細かい網で純化を始めます。そうやって、純度が増していくんです。 ### 荒野での「顕現」 聖なる神が、キリストと結ばれたものを日々の摂理、試練の中において支配されます。神が導いています。荒野へ導くのは神です。あなたは知らないだけです。あなたが荒野、何もないところ、偶像が引き剥がされるところ、自分が潰されるところ、自分が逃げたいところにあなたがいるのは、神が導いているからです。 あなたはそれを否定したい。だから神に言います。「どうしてあなたは私をここに置くんですか」。でも神は御言葉を通して最初から言っています。あなたはただ御言葉を読めない人間、聖書を知らない人間です。自分が何を言っているのか分かっていない。しかし神は一貫して同じことを言います。 「私があなたを荒野に誘い込んだ。私は栄光から栄光へ、キリストの形にあなたを変える」。 神はそこで、その荒野で、新しく作られた心を現していくんです。これを**顕現(けんげん)**と言います。再生の時にすべて与えられているものが、時の中において、この試練を通して現れてくる。それが信仰であり、神を求める思いであり、悔い改めなんですよ。それは荒野で現れてくるんです。 神を信じなければ生きていけない心、偶像には頼れない心。キリストに頼らざるを得ない心、言葉が生きる心。それが再生の時にあなたがいただいた新たな創造の現れなんです。そしてそれを、パウロは「愛によって働く信仰」と言ってるんですね。 > 「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないかは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6) > それは時中で現れる、神の再創造の技なんです。それがあなたの心の中に信仰として現れ、悔い改めとして現れてくる。信仰と悔い改めは言ってみればコインの表と裏です。切り分けることはできません。 ### 御霊の満たしと「方法」の拒絶 つまり、御霊に満たされるというのは、再生時に新しい創造として作られた心が、聖化という中で現れること。それは、あなたが願って現れるのではありません。神があなたを荒野に置いて、その内側に新しい創造が現れます。 それは、平穏な時に現れるということはあまりありません。むしろ、試練と苦しみの中で明らかにされていきます。聖書はそのように言っています。ヘブル11章、ヤコブ書、パウロもそう言っています。神は摂理によって信仰者を砕かれ、試練において肉を焼かれる。弱さの中で、神は「キリストに頼るしかない」というその心を働かせます。 この、「キリストに頼るしかない」という心は、神の恵みが私を覆うと言ったパウロの信仰告白そのものです。パウロが「トゲを取ってください」と言って、主は「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」と言われました。弱さの中で、キリストに頼る。この「頼る」というのは、あなたが頼るのではありません。神があなたを頼らせるという、神ご自身の働きによって現れます。 金が火の中で不純物を取り除かれるように、信仰者も試練の中で、自力や誇りや自己憐憫や肉の安心、見えるものへの依存が引き剥がされていきます。あなたはすがるから、引き剥がされると言った方が正しいです。だから痛いですよ、すごく。 ですから、「どのように御霊に満たされたらいいですか」という質問は肉です。なぜなら、それは「方法」に落ちているから。警告します、あなたがそのように考えた時に、あなたは肉によって歩いています。パウロはその結果として、賛美、感謝、服従があると言っています(エフェソ5:19)。 ### 真理の結論 パウロもペテロもヤコブも言っています。「試練の中を歩きなさい」「それをこの上もない喜びとしなさい」と。 > 「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり……」(第一ペテロ1:7) > しかし皆さんは、これを人間中心で読むので全く理解しません。そして否定します。「私には無理です」と。分かってないんです。 神はこう言います。試練は偶然ではない、父の訓練だ。主はその愛するものを訓練される。だけどあなたは試練は嫌だと言います。「なんで私にこんなことが起こるんですか? 牧師さん、この試練が去るように祈ってください」。それが表面的なキリスト教がやることです。 しかし、あなたたちはもうそういったものを捨てなきゃいけない。新しい創造は、神がすることです。あなたが関与する部分は一つもありません。誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく作られたものです。それは「愛によって働く信仰」であり、その実は愛、喜び、平安、寛容、親切、誠実、柔和、自制です。それが結果として現れます。 私たちの「御霊に満たされる」というのは、神に信頼して試練の中に立たされること。その中において私たちは、御霊に満たされなければならないところに置かれ、神は確かに私たちを満たしていくんです。それは結果として現れます。あなたのその口から「私は、私は」という言葉が消え、「神が」という言葉が自然に出てきます。忍耐があなたに現れてくる。 御霊が私たちの心を神に頼らざるを得ない心に変えて、支配していきます。それは神の業です。あなたじゃない。どうやって、ではない。神がやるから。じゃあどうします? あなたは今与えられた時に、誠実に生きるんです。御言葉に誠実に生きる。でもあなたは生きれません。だけど神はあなたをそこに置きます。そしてあなたはそのように生きざるを得ないものとなります。 それが愛によって働く信仰、新しい創造のこの時代における**顕現(けんげん)**です。あらわれです。 今、試練に遭っている兄弟姉妹たち。あなたはその試練を喜びなさい。飛び上がって喜びなさい。あなたの弱さの中に、神を頼らざるを得ない心があるということは、それは神の創造の御業が今現れている、神があなたを愛して働く信仰なのです。 方法に行ってはいけません。あなたは試練と向き合って、その試練を歩くんです。苦しい、会社に行きたくないという試練の中にあなたはいますが、そこであなたはキリストを見るんです。神がすべてを支配していることを忘れてはいけません。あなたは必ず、神によって御霊に満たされるものとなっていきます。 お祈り 愛する天のお父様、私たちの人生があなたによって変えられ、保たれ、導かれてあなたに至ること、このことを心から感謝します。 どうか御霊に満たされる私たちが、今までの宗教観や考えにとらわれることなく、試練の中を喜んで歩いていく者へと、あなたが変えてくださることを感謝します。 この真理が守られますように。いかなることがあっても、この真理が私たちの中において「然り(YES)」となりますように。 愛するイエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りします。アーメン。
- ホセア書の真の中核
神は選びの民をなお愛し追い求め続け決して離さない 2026.5.3 豊川の家の教会礼拝メッセージ ホセア書は、旧約聖書の中でも重い書物である。 そこには、 裏切り 偶像礼拝 裁き 荒野 苦しみ 嘆き が語られている。 表面的に読むなら、これは不真実な民に対する裁きの書である。しかし、ホセア書の中心は裁きではない。 ホセア書の中心は、 それでもなお、ご自分の民を捨てず、追い求め、代価を払い、買い戻し、回復される神の契約愛である。 この書物は、迷う民の物語以上に、迷う民を追い続ける神の物語である。 1.ホセアとゴメル ― 神が示された型 ホセア書の特徴は、預言者 ホセア 自身の結婚生活が、神のメッセージとなっている点にある。 「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を捨てて、はなはだしい姦淫を行っているからだ。」 ホセア1章2節 神はホセアに、ゴメル を妻として迎えるよう命じられた。しかしゴメルは不真実な妻として描かれる。夫のもとを離れ、他へ向かう存在となる。 これは神が、イスラエルが主を捨て、偶像へ向かった姿を示しておられる。 すなわち、 ホセア = 真実な夫 ゴメル = 不真実な妻 ゴメルの離反 = 神の民の背信 2.買い戻される愛 「主は私に言われた。『もう一度行って、夫に愛されていながら姦淫している女を愛せよ。』」 ホセア3章1節 「そこで私は銀十五シェケルと、大麦一ホメル半で彼女を買い取った。」 ホセア3章2節 ここに、神が不真実な民をなお見捨てず、代価を払って取り戻される姿が現れている。 神は、不真実だから捨てる神ではない。不真実な者をなお愛し、買い戻される神である。そしてこれは最終的に、イエス・キリスト による贖いを指し示している。 3.私たちの中のゴメル ゴメルは、遠い昔の誰かではない。ゴメルは、私たち自身の姿でもある。 私たちもまた、 神よりお金を頼る 神より人の評価を求める 神より成功を求める 神より安心を求める 神より快適さを愛する という現実を持つ。 口では神を信じると言いながら、心は別のものへ向かう。それが人間の姿であり、私たちの中のゴメルである。 4.自己憐憫という内なる偶像 その現れの一つが、自己憐憫である。 自己憐憫とは、 私はかわいそうだ 私だけが苦しい 誰も分かってくれない 私は損をしている 私は不当に扱われた という思いである。その時、心の主語は神ではなく、私になっている。 自己憐憫は、単なる弱さではない。それは、自分の感情を真理の基準にすることである。 神が何を語られるかより、自分がどう感じるか。神が何をしておられるかより、自分がどう扱われたか。 この時、人は神から目を離し、自分を中心にしている。それは静かな偶像礼拝であり、内なるゴメルの現れである。 5.契約共同体という視点 イスラエルは、神の契約共同体であった。 神の御名を持つ民 律法を与えられた民 礼拝を持つ民 外面的には神の民 しかし、ここで重要なのは、 契約共同体に属していることと、真に神に属していることは同じではないということである。 「イスラエルから出た者がみなイスラエルなのではなく」 ローマ9章6節 イスラエルの中には、 外面的に属している者 真に神に属している者 がいた。 この原則は今日の教会にも当てはまる。教会に属していること、洗礼を受けていること、礼拝に出ていること、それ自体は尊い。 しかし、それで救いが保証されるのではない。真にキリストに結ばれているか。御霊によって新しく生まれているである。旧約から新約を通して救いの本質がそこにある。 6.裁きの二重作用 ホセア書では、契約共同体全体に裁きが及ぶ。契約共同体とは歴史を通したみたイスラエル全体である。国は揺さぶられ、崩れ、苦しみに遭う。 しかし、その裁きはすべての者に同じ意味ではない。 ある者にとって、それは滅びであった。神の名を持ちながら、神に属していなかった者である。 しかし、選びの民にとっては、 聖化の砕きであった。 偶像を剥がされる 高慢を砕かれる 自力では立てないことを知らされる 主に立ち返らされる 同じ火でも、 枯れ草を焼き尽くし 金を精錬する ように、 同じ試練でも、 ある者には裁き ある者には清め となる。ホセア書は永遠の昔に選ばれた神の民に対する神の愛を語っている。 7.荒野の意味 ホセア書には荒野が繰り返し現れる。 荒野とは、 何も頼れない場所 満たされない場所 自分の力が尽きる場所 偶像が役に立たない場所 しかし神は、荒野でこう語られる。 「それゆえ、見よ。わたしは彼女を誘い出し、荒野に導いて、その心に語りかけよう。」 ホセア2章14節 荒野は、見捨てられた場所ではない。 語りかけられる場所、回復される場所である。 神は荒野で、 自己憐憫を砕き 高慢を砕き 自力を砕き キリストのみに頼らせる 8.ホセアはキリストを指し示す ホセアがゴメルを代価を払って買い戻したことは、やがて来られるキリストを指し示している。 私たちもまた、神から離れた者であり、不真実な者であった。 しかしキリストは、十字架において、ご自身の血という代価を払い、ご自分の民を買い戻された。 「あなたがたが贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、キリストの尊い血によったのです。」 1ペテロ1章18–19節 私たちは自分で戻れなかった。 しかしキリストが迎えに来られた。 9.義人は信仰によって生きる 「義人は信仰によって生きる。」 ローマ1章17節 信仰とは、 口先の同意ではない 外面的宗教行為ではない 人間的熱心でもない 信仰とは、自分ではなく、キリストに頼って生きること 自己憐憫は「私を見る」ことである。信仰は「キリストを見る」ことである。自己憐憫は「私はどう感じるか」である。信仰は「神は何と言われるか」である。 9-2.買い戻された花嫁として生きる ホセア書は、神の民を花嫁として描いている。 不真実な花嫁。夫を離れ、ほかのものを求めた花嫁。それがゴメルであり、イスラエルであり、私たちの姿である。 しかし神は、その花嫁を捨てられない。 神は追い求められる。 神は語られる。 神は荒野へ導かれる。 神は代価を払い、買い戻される。 ここに、福音がある。 選びの民は、もはや自分のものではない。キリストの血によって買い取られた民である。 だから成長した信仰者は、 自分の感情を主人にしない 自己憐憫を主人にしない 人の評価を主人にしない 快適さを主人にしない 成長した信仰者の花婿は、キリストである。 買い戻された花嫁は、もはや偶像のもとへ戻る者としてではなく、花婿キリストに結ばれた者として生きる。 それは、自分の力で清くなることではない。自分の意志で立派になることでもない。神が御霊によって、花嫁をキリストへ向け続けられる。 神が砕き、神が清め、神が引き戻し、神が頼らせ、神が歩かせる。これが、買い戻された花嫁の歩みである。 10.神に頼って生きる花嫁の姿 人間は本来、自己中心である。自分ではできない者である。自己中心にいる状態さえ見極めることが出来ない無力な者である。幼い信仰者は、その結果、自分の力で生きようとする。 自分で解決しようとする 自分で立ち直ろうとする 自分で自分を守ろうとする 自分で満たそうとする 自分で自分の偶像を作ろうとする しかし神は、ご自分の民を愛するゆえに、試練の中へ導かれる。 それは、自分の力で生きる試みを砕くため である。 自分ではどうにもできない場所。 自分の知恵が尽きる場所。 自分の誇りが崩れる場所。 自分の力が役に立たない場所。 そこへ神は置かれる。それは見捨てたからではない。神に頼らざるを得ない場所へ導くためである。信仰者は、やがて学ばされる。 神がすべてを支配しておられる 偶然はない 苦しみにも主の御手がある 私はキリストに結ばれている すべては神の摂理の中にある この現実の中を生きることを、御霊によって歩くという。 御霊によって歩くとは、人間が自分を奮い立たせることではない。自分の決心ではない。感情の高揚、感覚の変化、恍惚感でもない。 それは、神が御霊によって、ご自分の民を歩かせることである。 神が砕き、 神が支え、 神が信仰を与え、 神がキリストへ向け、 神が立たせる。 そして信仰者は、神が御霊によって歩かせてくださるその支配の中で、キリストに結ばれた者として歩む。困難、試練、苦しみ、不安の中で生きるとは、キリストに頼らなければ生きることが出来ないことである。 主は選ばれた民に彼らが置かれた困難、試練、苦しみ、不安の中で教えている。 "すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびき(私の教え)を負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」" マタイの福音書 11章28~30節 11.教会への警告と慰め したがって、教会にも警告がある。口では神を語りながら、心では別のものを頼るなら危険である。 しかし同時に、大きな慰めもある。 もし人が、 私は弱い 何度も失敗する 自己憐憫に落ちる 同じ罪を繰り返す そう感じるなら、ホセア書は語る。神は不真実な民をなお愛される。 神は追われる。 神は語られる。 神は砕かれる。 神は買い戻される。 神は回復される。 「わたしは『わたしの民でない者』に向かって、『あなたはわたしの民』と言う。」 ホセア2章23節 12.まとめ ホセア書は、不真実な民の物語である。しかしそれ以上に、不真実な民をなお愛し、買い戻される神の物語である。 私たちの中にはゴメルがある。しかし、私たちの外には、もっと強いホセアがおられる。その方こそキリストである。そして、救いは外から来る。 人間の内側 感情 決心 自己評価 悔い改めの質 信仰の強さ 霊的状態 ではなく、神ご自身、神の約束、神の契約、キリストの贖い、みことばの宣言が救いの根拠であるという意味だ。 救いの根拠は私たちの内側にない。救いは、神の側から、キリストにおいて、みことばの宣言として与えられる。そして、そのキリストが御霊によって私たちの内に住まわれる。 私たちは迷う。 しかし神は迷われない。 私たちは離れる。しかし神は離されない。 私たちは弱い。しかしキリストの贖いは完全である。 私たちは不真実である。しかし神は真実であられる。最後の言葉を持つのは、人の罪ではない。人の感情でもない。人の失敗でもない。十字架のキリストが最後の言葉を持つ。 「主はご自分の民を見放さず、ご自分のゆずりの民をお見捨てになりません。」 詩篇94篇14節 そして、この真理がホセア書全体の結論である。 神は決して選びの民を見捨てない。 神は選びの民をなお愛し追い求め続け決して離さない。
- 愛によって働く信仰の源泉――御霊による新しい創造
2026.4.26 豊川の家の教会礼拝メッセージ 「キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受けるか受けないかではなく、愛によって働く信仰なのです。」 ガラテヤ人への手紙 5章6節 「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」 ガラテヤ人への手紙 6章15節 この二つの御言葉の対比は、とても深いものです。 パウロは、「愛によって働く信仰」と「新しい創造」を、別々のものとして語っているのではありません。5章6節で新しい創造の内実を語り、6章15節でその存在の根を語っています。つまり、パウロは「愛によって働く信仰」とは「新しい創造」である、と語っているのです。 そして、新しい創造は、御霊なる神の働きです。 まず押さえなければならないのは、ここで言う「愛」は、私たちが普通に考える愛ではないということです。 人間の優しさ、感情、親切、思いやり、道徳的な行いを指しているのではありません。パウロが「愛によって働く信仰」と言うときの愛とは、御霊によってキリストに結ばれた者の内に、キリストのいのちが働くことです。ですから、この愛を人間的な愛として読むなら、信仰はすぐに道徳や実践の話に落ちてしまいます。表面的なキリスト教に落ちてしまいます。しかし、パウロが語る愛は、人から出る愛ではありません。 御霊によってキリストに結ばれた、新しい創造のいのちから出る愛です。 5章6節でパウロは言います。 「大事なのは、愛によって働く信仰なのです。」 これは、新しくされた者の現れです。ここでの信仰は、ただ頭で正しい教理を認めることではありません。また、人間が自分で起こす宗教的な決断でもありません。 キリスト・イエスにある者の内に、神が起こしてくださる、生きた信仰です。 そしてその信仰は、愛すなわち、新しい創造は、御霊なる神の働きによって働きます。 なぜなら、その人の内に御霊が働いておられるからです。 6章15節でパウロは言います。 「大事なのは新しい創造です。」 ここでは、その信仰の源泉が語られています。愛によって働く信仰があるのは、その人がまず、新しい創造とされたからです。 ですから、順序としてはこうなります。 外面的なしるしが決定的なのではありません。決定的なのは、神の創造の御業です。 神が新しく創造された者の内に、生きた信仰が与えられます。そしてその信仰は、愛によって働くのです。 つまり、愛によって働く信仰とは、新しい創造のいのちが現れている姿です。 そして、新しい創造は御霊なる神の御業です。 人は、自分で自分を新しく創造することはできません。 人は、自分で本当の信仰を生み出すこともできません。 人は、自分で神への愛を起こすこともできません。 御霊が新しく創造し、御霊が信仰を起こし、その信仰が愛によって働くのです。 だからここでパウロが切っているのは、単に「割礼か、無割礼か」という儀礼の対立ではありません。 パウロが話しているのは、外面か、神の内なる御業かということです。 肉か、御霊かということです。 宗教的なしるしか、新しい創造かということです。 死んだ宗教か、生きた信仰かということです。 さらに言えば、ガラテヤ5章6節と6章15節の間には、5章22節の御霊の実がそのまま入ります。 「しかし、 御霊 の 実は、 愛、 喜び、 平安、 寛容、 親切、 善意、誠実、柔和、 自制 です。このようなものに 反対 する 律法 はありません。」 愛によって働く信仰。 御霊の実。 新しい創造。 これは別々のものではありません。 すべて、同じ神の救いの現実を、別の角度から語っているのです。 ですから、パウロの意図はこうです。 キリスト・イエスにある者とは、神によって新しく創造され、その創造を源泉として、時の中で新しい創造を信仰者に起こす御霊よって働く信仰を生きる者です。 これは非常に重要です。 なぜなら、ここでパウロは「本物の信仰とは何か」を定義しているからです。 本物の信仰は、口先の同意ではありません。 外面的な人間愛の宗教行為でもありません。 律法的な熱心でもありません。 しるしの保持でもありません。 本物の信仰は、御霊による新しい創造から出る、生きて働く信仰です。 そして、その働き方をパウロは「愛によって」と表現し、「新しい創造」と表現しました。 ですから「愛によって」と言う表現を、人間中心の「愛の実践運動」していけない。 それは神が新しくされた者の内に、御霊によって働いてくださる、キリストのいのちの現実です。 新しい創造とは、御霊なる神が人を新しく造り、その結果として、その人の内に愛によって働く信仰を生じさせてくださる、神の創造的な救いの御業です。 「愛によって働く信仰」を、ただ「愛のある信仰」や「愛を実践する信仰」程度に読むなら、それはすぐに表面的なキリスト教に落ちてしまいます。 その読み方では、人の内面の性質や行動にすり替わってしまうからです。 パウロが言っているのは、まず、御霊によってキリストに結ばれた者がいる、ということです。 そしてその結合の中で、キリストのいのちが働きます。 その結果として、愛によって働く信仰が現れるのです。 ですから中心は、「愛があるかどうか」ではありません。 中心は、「誰に結ばれているか」です。 ここを外すと、すべてがずれてしまいます。 愛を人格の優しさに変えてしまいます。 信仰を前向きな宗教心に変えてしまいます。 新しい創造を性格改善に変えてしまいます。 御霊の働きを道徳的成長に変えてしまいます。 こうして、福音は破壊されてしまいます。 そして6章15節の「新しい創造」は、まさにその結合の結果です。 新しい創造とは、人が新しい決心をしたことではありません。 御霊なる神が、キリストにある者を新しく造られたということです。 ですから流れはこうです。 永遠の結合が源泉です。 時の中で、御霊によってキリストに結ばれます。 新しい創造が起こされます。 信仰が与えられます。 その信仰が愛、すなわち「新しい創造」によって働きます。 この順序です。 ですから、「愛によって働く信仰」は、信仰プラス愛という並列ではありません。 また「信仰が本物なら愛も出ます」という表面的な道徳説明でもありません。 そうではなく、キリストに結ばれた信仰は、キリストのいのちにあずかっているゆえに、 愛によって働くのです。 愛は源泉ではありません。源泉はキリストとの結合です。 しかし、その結合は死んだ観念ではありません。御霊による実在です。 そこから信仰が生きて働きます。 ただし厳密に言えば、結ばれる対象はキリストであり、結ぶ方は御霊です。 そして、その結合の中で信仰が愛によって働くのです。 ここを混同して、愛そのものに結ばれるかのように言うと、 今度は「あなたが考える定義の愛」が「キリストの位置」に来てしまいます。 ですから、正確にはこう言うべきです。 愛によって働く信仰とは、御霊によってキリストに結ばれた者の内に、キリストのいのちが働いている信仰です。結合の中で与えられるいのちの現実です。 さもなければ、表面的なキリスト教にすり替わり、落ちます。 「愛のある人が本物だ」 「優しい人が霊的だ」 「熱心に仕える人が信仰者だ」 このように考えてしまう。 しかしパウロは逆です。 彼は、割礼か無割礼か、外面的なしるしがあるかどうかを切り捨てました。 なぜでしょうか。問題は外面ではなく、御霊によってキリストに結ばれた新しい創造かどうかだからです。その新しい創造のしるしとして、信仰は愛によって働きます。 つまり結論はこうです。 「愛によって働く信仰」とは、御霊によってキリストに結ばれた者の内に、キリストのいのちが現実に働いている姿です。だから、「愛によって」をキリストとの結合抜きで語れば、それは福音ではなく、表面的な宗教になってしまいます。 「愛によって働く信仰」とだけ言うと、人はすぐにこう読みます。 信仰がまずある。 それが愛を伴って働く。 だから愛の行為が大事なのだ。 しかし、パウロの本質はそこではありません。 本質は、御霊が働かれるということです。 信仰が自立して先にあって、そこに愛が付け加えられるのではありません。 御霊が新しく創造し、御霊がキリストに結び、御霊がその結合の中で信仰を生かしてくださるのです。ですから中心は、信仰が働くことでも、愛が働くことでもありません。 中心は、御霊が働かれることです。 パウロは「愛によって働く信仰」と言います。 しかしそれを人間中心に読むなら、信仰と愛を人の側の性質や実践に落としてしまいます。 実際には逆です。「愛によって働く信仰」とは 御霊が働かれます。 御霊がキリストに結ばれます。 御霊が新しい創造を起こされます。 御霊が信仰を生かされます。 その信仰が愛それは「新しい創造」によって働かされます。 この順序です。 ですから、「愛によって働く信仰」が人間の側の本質なのではありません。 御霊の働きによって生かされている信仰こそが本質です。 パウロが言おうとしている本質は、御霊によってキリストに結ばれ、新しい創造とされた者の内で、御霊ご自身が働かれることです。 愛によって働く信仰とは、その御霊の御業によって生かされている信仰です。 ですから、言葉の重心は、「愛」でも「信仰が働くこと」でもなく、御霊の創造的で、結合的な働きに置かなければなりません。 愛によって働く信仰とは、御霊がキリストに結ばれた者の内で働かれる、その御業によって生かされている信仰です。 ガラテヤ5章6節と6章15節は、結局こう読まなければなりません。 外面的な宗教的しるしは無力です。 決定的なのは、御霊なる神がキリストにある者の内に働かれる新しい創造です。 ここで気をつけなければならないのは、「その現れが愛として出る」という言い方です。 この言い方をすると、愛が外に見える性質や行為のように聞こえてしまいます。 すると結局、また愛情深さ、優しさ、親切さ、良い行いの話に落ちやすくなります。 けれども、パウロがここで言っている中心は、そういう表面の現象ではありません。 中心は、あくまで御霊が働かれるということです。 整理するとこうです。 主体は御霊です。 対象は、キリストに結ばれた者です。 源泉は、新しい創造です。 生かされているのは信仰です。 その信仰は、新しい創造です。 5章6節の「愛によって働く信仰」と、6章15節の「新しい創造」は、二つの救いではありません。同じ一つの救いの現実を、角度を変えて重ねて言っているのです。 つまり、5章6節は、時の中で信仰が生きて働いている面から語っています。 6章15節は、その存在の源泉から語っています。 しかし中身は一つです。 パウロは、「愛が大事です」と言ったあとに、「いや、新しい創造が大事です」と話を切り替えたのではありません。そうではなく、あの信仰とは何かを、さらに深く言い直して、「それは新しい創造なのです」と語っているのです。 ですから、これは重複であり、言い換えであり、深まりです。 しかもこの重複は、単なる言い換えではありません。 パウロが、同じ救いの実在を重ねて確定している語りです。 まず外面を宗教的な、また、人間的な価値観を切り捨てます。 「割礼か無割礼かは、大事ではありまません。」 次に本質を言います。 「大事なのは愛によって働く信仰です。」 さらにもう一度、別の言葉で同じ本質を語ります。 「大事なのは新しい創造です。」 つまりパウロは、外面宗教、人間的価値観を切ったあと、本質を一度で終わらせず、重ねて確定しているのです。 その意味で、こう言うことは正しいのです。 「愛によって働く信仰とは、新しい創造のことです。」 新しい創造とは、御霊によってキリストに結ばれた者の内に、キリストのいのちが働いていることです。 ですから、ここは二項対立ではありません。 信仰か、新しい創造か、ではありません。 新しい創造とされた者の内で、信仰が生きて働いているのです。 「義人は信仰によって生きる。信仰が生きて働いているのです。」 そしてその背後にある主体は、もちろん人ではありません。 御霊なる神です。 だから結論はこうなります。 パウロは、5章6節と6章15節で、御霊によってキリストに結ばれた者の内にある、同じ救いの現実を重ねて語ったのです。 さらに言えば、この重なりは、ただ同じことを繰り返しているだけではありません。 ここでパウロは、永遠と時の中とを重ねて語っています。 5章6節の「愛によって働く信仰」は、時の中で生きて働いている現実です。 6章15節の「新しい創造」は、その時の中に現れているものの根源的現実を語っています。 つまり、6章15節は、神の側の創造の現実を語っています。 そして5章6節は、その創造が時の中でどのように生きて働いているかを語っています。 だからこれは、単なる重複ではありません。 永遠にある源泉と、時の中での現れが重ねて語られているのです。 ここで大事なのは、新しい創造を、単なる現在の変化に縮めないことです。 新しい創造とは、人が少し変わったとか、信仰生活が始まったとか、性格が柔らかくなったとか、そういう話ではありません。現在の自分の変化に対する評価に落としていけません。 それは、御霊によってキリストに結ばれた者において、永遠のキリストとの結合が、時の中で創造として現れていることです。 だから5章6節は、その永遠の現実が、時間の中でどのように生きて働くかを語っています。 信仰が愛によって働く。これは地上での現れです。 けれども、その源泉は人の心ではありません。 永遠におけるキリストとの結合です。 整理すると、こうなります。 永遠において、神はキリストにあってご自分の民を持っておられます。 時の中で、御霊がその者をキリストに結び、新しい創造として現されます。 そしてその者の内で、信仰が愛によって働きます。 だからパウロは、6章15節で存在の源泉を語り、5章6節でその時間の中での現れを語ったと言えます。 さらに言えば、新しい創造は、永遠の結合が時の中に現れた現実です。 そして愛によって働く信仰は、そのいのちが時の中で生きて働いている姿です。 これならずれません。 重要なのは、5章6節を人の実践へ、6章15節を抽象的な教理へと、ばらしてしまわないことです。 パウロはそうしていません。 彼は一つの実在を語っています。 永遠の側から言えば、新しい創造です。 時の中での現れから言えば、愛によって働く信仰です。 パウロは、永遠における神の創造的な救いの現実を「新しい創造」と呼び、 その同じ現実が時の中で生きて働いている姿を「愛によって働く信仰」と呼んだのです。 さらに厳密に言うなら、6章15節は源泉に触れ、5章6節はその現れに触れています。 以上
- 奴隷と子 同じ救いの構造
2026.4.22 The Word for you 重要な並行関係 1. ガラテヤ4:3 と エペソ2:1–3 ガラテヤ4:3では、「この世のもろもろの霊の下で奴隷状態にあった」とあります。 エペソ2:1–3では、「罪と背きの中で死んでいた」「この世の流れに従っていた」「支配者に従っていた」とあります。 これは言い方は違いますが、かなり近いです。どちらも、神から離れた人間は自由ではなく、支配の下にあることを示しています。 2. ガラテヤ4:4–5 と エペソ1:4–7 ガラテヤでは、時が満ちて、神が御子を遣わし、贖い、子としてくださったと語られます。 エペソでは、世界の基の置かれる前から選び、子にしようと定め、御子の血による贖いを与えたと語られます。 つまり、 ガラテヤ4章は、歴史の中での実現 エペソ1章は、永遠の御旨における源泉 を強く見せています。 3. ガラテヤ4:6–7 と エペソ1:5、2:18–19 です ガラテヤ4:6–7では、子であり、だから父と呼ぶことが語られます。 エペソ1:5では、子にしようとあらかじめ定められたとあります。またエペソ2:18–19では、御父のもとに近づく者、神の家族として語られます。 つまり、ガラテヤ4章の「子」は、エペソでは神の家族・神の家・神の民として展開されます。 4. ガラテヤ4:25–26 と エペソ2:6、19–22 です ガラテヤ4章では、 今のエルサレム 上にあるエルサレム という対比があります。 エペソ2章では、 この世 天の所 他国人・寄留者 神の家族 神の住まい という対比があります。 ここでも同じです。パウロは、信徒の本当の位置を、地上の宗教体制の中ではなく、神の天的秩序の中に置いています。 三つをまとめるとこうなります 1. 以前の状態 ガラテヤ4:1–3 奴隷、管理の下、もろもろの霊の下 ガラテヤ4:24–25 ハガル、シナイ、今のエルサレム エペソ2:1–3 死、罪、この世、支配者の下 2. 神の介入 ガラテヤ4:4–5 神が御子を遣わした、贖った ガラテヤ4:26–27 上にあるエルサレム、神の約束 エペソ1:4–7、2:4–5 選び、予定、贖い、あわれみ、生かす 3. 新しい身分 ガラテヤ4:6–7 子、相続人 ガラテヤ4:28 約束の子 エペソ1:5、11、14、18、2:19–22 子、嗣業、神の家族、神の住まい 一枚で見る中心対応 大きな流れ ガラテヤ4:1–11 ガラテヤ4:21–28 エペソ1–2章 古い状態 奴隷 ハガル 死と罪の中 古い支配 もろもろの霊 シナイ・今のエルサレム この世・支配者 神の働き 御子を遣わす 約束の成就 選び・予定・贖い・あわれみ 新しい身分 子・相続人 約束の子・自由の子 子・嗣業・神の家族 新しい所属 父のもの 上にあるエルサレム 天の所・神の家 ここから見えること パウロは、ガラテヤでもエペソでも、同じ構造を語っています。 それは、 人はもともと拘束と死の下にある。しかし神が御子にあって救いを行い、子とし、相続にあずからせ、神の家に入れてくださる。 ということです。 そしてガラテヤでは、そこからさらに一歩進んで、その自由の子が、再び奴隷の側へ戻ろうとしてはならないと警告しているのです。 まとめ ガラテヤ4:1–11は「奴隷から子へ」、4:21–28は「ハガルからサラへ」、エペソ1–2章は「死からいのちへ・異邦人から神の家族へ」という形で、同じ救いの構造を語っています。
- 相続人
2026.4.18 豊川の家の教会礼拝メッセージ 今日は、ガラテヤ書3章26節から29節、そして4章1節から3節 を中心にお話しします。 ガラテヤ書にはこう書かれています。 「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子ども です。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたは、みなキリストを着たのです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラ ハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」 相続人とは、御国の相続人です。何を相続するのかと言えば、神の御国を相続します。 ここでパウロは、キリストにある者を神の子どもと言っています。そして、約束の相続人と呼んでいます。 この箇所は、特にガラテヤの諸教会に対して語られていますが、これは 信仰によって、キリストとの結合から流れ出る神の選び、神の主権によって与えられる信仰を通して義とされている者たちのことです。 信仰義認のところで、信仰から始まって話してしまうと、どうして、その信仰がどこから来たのか、というテーマが抜けてしまいます。ですから、信仰と言ったときに、「信仰は神が与えてくださる。」というところからスタートしなければなりません。 そして、相続人という身分は、人の努力や宗教的な達成から始まるのではありません。 つまり、救いはすべて神から与えられているのです。 「信仰を通して恵みにより義とされる」というこの御言葉の発端において、パウロはいつも神との結合、キリストとの結合に戻ります。そしてエペソ書は、その源泉をこう語っています。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされました。」 また、 「この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者とされました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的に従って、あらかじめ定められていたのです。」 この並びによって、私たちにははっきり見えてきます。相続人の身分は、時の始まる前からすでに定められているということです。 ですから、あなたが頑張って御国を獲得するのではありません。御国は時の始まる前から定められており、子どもとなる身分も、神が世界の基の据えられる前にすでに定めておられたのです。 神の相続人は、この時間の中で頑張って受け継ぐということではありません。そういうものになるのではありません。あなたが強い信仰を持って相続人になったのではないのです。私たちは、相続人という身分を、時の始まる前、世界の基の据えられる前に、すでに神によって定められていたのです。 ここに戻ります。私たちは神のこの身分を、世界の基が据えられる前から、あらかじめ定められています。 エペソ書では、「愛をもって定められていた」と言っています。 したがって、私たちのすべての出発点は、「私たちが信じた」ということではありません。私たちの信仰によって始まったのではないのです。 だから、信仰義認を学んでいる人に私は言いたいのです。信仰義認 は、あなたの信仰によって始まったのではありません。それは世界の基が据えられる前から、神によってあらかじめ定められていたのです。 出発点はキリストとの結合にあります。 神の民は、永遠においてキリストにあって選ばれており、キリストとの結合の中で相続人にあらかじめ定められていたのです。 相続人という この身分は、神の永遠の定め、神が定めておられることです。 ガラテヤ書でパウロは、キリストにある者を神の子ども、相続人であると語りました。エペソ書では、世界の基の置かれる前から、神の子ども であること、そして相続人であることを、キリストにあって愛をもって定 めておられたということを、はっきり明らかにしています。 ですから、「私が信じて義とされた」という言い方は、そのままでは不十 分です。私が信じて義とされたのではなく、神があらかじめ定めておられる子どもたちを時の中に置き、キリストとの結合の現れが時の中において実際のものとなり、その実際があなたの心を新しくするのです。それは新しい創造です。 では、ガラテヤ書の真の中心は何でしょうか。信仰義認でしょうか。も ちろん信仰義認は重要です。しかしガラテヤ書の強調は、新しい創造です。 ですから、人は信じて義とされるというのは全く正しいです。しかし、その前提は「神の子であるということ」が最初から定められていた、という ことです。それが時の中で現れているということです。だからこそ、誰一 人、自分の力によって義とされたと誇ることができないのです。パウロ はエペソ書でそのように語っています。 パウロのこのガラテヤ書を読むとき、土台は、キリストにあって選ばれていること、そして結合の中で相続人と定められていることです。ですから、聖書を読むときには、絶対に立つべき土台があります。それは、あらかじめ神が定められている人たちに、この書が書かれているということです。 聖書は未信者のための学問書として書かれているのではありません。 聖書は、あらかじめ神によって定められている子どもたち、御国の相続人である人たちに書かれているものです。そこを絶えず基準にしてください。それが基準です。そしてその基準は、新しい創造です。創造は神の永遠の御国の始まりに基準が置かれました。それは新しい創造です。 ガラテヤ書6章14節から16節を読みます。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとす るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対して十字架につけられ、私も世に対して十字架につけられたのです。 割礼を受けているか受けていないかは大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。この基準に従って進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」 この基準とは、私たちの聖書の基準です。それは新しい創造です。パ ウロはこう言いました。「この基準に従って進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に」と。 この箇所で、パウロは二つの民族を語っているのではありません。強調しているのです。パウロはよくこの手法を使います。言い方を変えて強調するのです。 「この基準に従って進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に。」 これは、信仰によって義とされる、すなわち、神の選びの民のことを言っています。そしてその選びの民の基準は、新しい創造です。 信仰は、あなたが始めたものではありません。信仰はキリストが始めてくださるのです。ですからヘブル書で、キリストが「信仰の創始者、また完成者」と言われているのです。あなたが信仰を始めたのではなく、 キリストが信仰の創始者なのです。それは神の新しい創造です。あなたのうちに与えられている信仰は、神の新しい創造なのです。 戻ります。ガラテヤ書3章の終わりで、「あなたがたはキリストにあって 神の子どもである」と言っています。「あなたがたはキリストを着た」「あなたがたはアブラハムの子孫である」「約束による相続人である」と言 っています。 つまり、神の相続人とは、キリストとの結合による選ばれた者、エペソ書に現れている人たちのことです。エペソ書の「世界の基の置かれる前に選ばれた人々」「キリストにあって愛をもって神の子どもと定められ た人たち」、相続人とはその人たちです。そしてその人たちの現れは、神の新しい創造です。 その人々は、神によって新たに創造された神の子どもであり、選ばれた人々です。それが神のイスラエルです。 しかし、新しい創造として創造された人々は、時の中において現れてきます。けれども時の中で、初めは幼い者として置かれていました。 ガラテヤ書4章1節から3節を読みます。 「さて、相続人は、全財産の持ち主であっても、子どものうちは奴隷と少しも変わることがなく、父の定めた日までは後見人や管理者の下にあります。同じように、私たちも子どもであった時は、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。」 ここで言っていることは、3章の終わりとつながっています。3章の終わりでは、神の子どもであること、相続人であることが語られていました。 ここで、「さて」という言葉がきます。「さて」というのは、話が切り替わることを示しています。 何が変わっているのでしょうか。それは、その神の子どもである人たちに対して、一つ思い出させるように、一つ説明するために語っているのです。主語はあなたがたです。あなたがたは相続人です。 パウロは、「あなたがたは相続人であり、全財産の持ち主ですよね」と言っています。 けれども、「子どものうちは奴隷と少しも変わることがない。父の定めた日までは後見人や管理者の下にあります」と言われています。すなわちこれは、罪の中で死んでいたあなたがたのことを言っています。 エペソ書2章1節から3節を見ます。 「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつ てはそれらの罪の中にあって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、かつてはその中にあって自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、他の人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」 ガラテヤ書4章1節から3節と、エペソ書2章1節から3節は、同じことを言っています。言い方が違うだけです。 私たちは、永遠の結合の中において神の子どもとされ、御国の相続人という位置を与えられています。 しかし、時の中にあったとき、私たちは 奴隷でした。全財産を持ちながら、私たちは罪の中に死んでおり、この 世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者の下にあり、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 ですから、ここでパウロが幼い者と言っているのは、捨てられた者という意味ではありません。最終的に相続を持たないという意味でもありま せん。本来は相続人であり、絶対的に神の子どもである者たちを、まだ時の中でその身分が顕在化していない段階にある人々として、「幼い者」と呼んでいるのです。 したがって、ここでの幼い者とは、相続人ではないという意味ではあり ません。絶対的に相続人なのです。しかし、まだ再生していない、新たに生まれていない状態のことを言っています。 私たちは、世の始めから神の子としての身分を受け、相続人とされていました。それは神の絶対的な選びの中で、神の主権の中でです。 しかし、私たちが新たに生まれていない段階では、罪の中にあり、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者に従って歩んでいました。その相続人のことを、パウロは「幼い者」と呼んでいるのです。 そして、「奴隷と変わりはない」と言っています。ここで言う奴隷とは、相続人ではないという意味ではありません。相続人であるのに、その相続人としての自由がまだ現れていない状態を示しています。身分としては相続人、状態としては奴隷であった、ということです。 パウロは、子としての身分と、時間の中での状態を、「さて」という言葉で区別して語っています。ですから、ここでの奴隷は、再生前の拘束された状態を示しています。これがパウロの意図です。しかし、それは永 遠の神の定めの中で、相続人であることが前提です。 再生されている人たちは、相続人であることが時の中で現れている人たちです。再生されていない人たちは、幼い者たち、すなわち相続人で あるという身分を持ちながら、この世のもろもろの霊の下で拘束されている人たちです。 では、「もろもろの霊」とは何でしょうか。パウロは4章3節で「この世のもろもろの霊」と言っています。これは、この世に属する初歩的で、外的で、拘束的な秩序のことです。わかりやすく言えば、この世の形式主 義、形式、規則、儀式、宗教的な枠組みのことです。 特に「日、月、季節、年」を守ること、それを守れば安全である、それを行えば義とされる、そういう外面的な枠組みの下に人が置かれている状態のことを言っています。要するに、キリストに取って代わるものです。キリストご自身ではなく、外側の決まりに見える秩序によって、安 全や救いを得ようとする、そういう枠に縛られている状態を言っています。これを「もろもろの霊」と言うのです。つまり、キリスト以外のものに頼ることです。 偶像礼拝は、偽りの神々や被造物に縛られることです。しかし偶像礼拝とは、キリストに取って代わるものの名前です。存在しない神、それが偶像です。 律法主義は、規定や形式や行いが偶像になります。どちらも結局は偶像であり、それに縛られることになります。それらが「もろもろの霊」と呼ばれるのです。この二つに共通しているのは、キリストではないものに人が服するということです。それをパウロは「この世のもろもろの霊」と呼んでいます。 ですから、この「もろもろの霊」は、単に日本のような異教的偶像礼拝だけを言っているのではありません。伊勢神宮のようなものだけではないのです。律法主義も偶像礼拝と同じ根から出ています。表面はキリスト教の形をしていても、根本は同じです。 ガラテヤ書でパウロが語っている相手は、ユダヤ教的拘束の下に戻ろうとしている人たちです。彼らはユダヤ教のもとに戻ろうとする騙しの中に入っていっていました。異邦人たちの偶像礼拝とは表面は違います。しかし、根は同じです。キリストの外に戻っていこうとするのです。 教会でも、キリストの外に戻っていこうとする人がいます。生活の中でそういうことが起こります。しかしガラテヤ書は、そのような人たちに、「もろもろの霊の下に行ってはいけない」と語ります。そのもろもろの霊とは、キリストではないものです。 この世の生活の問題もあります。職場での問題もあります。いろいろな問題もまた、「もろもろ」です。 偶像礼拝はわかりやすいです。偶像が置いてあり、それを拝めば偶像礼拝だとわかります。しかし、自分の内にある宗教的欲望は見えにくいのです。 「私は福音を伝えたい」と言う人がいます。その言葉自体は一見正しく見えます。しかし、その根底が神によって与えられたものか、人間から出たものかによって、全く変わってきます。 神はすべてを支配しています。神はすべてのものを与えます。福音を語ることさえ、神があなたに与えなければ、あなたは本当の意味で神の福音を語ることができません。 同じように見える言葉でも、人間中心で語る福音はこうなります。 「イエス・キリストは十字架で死なれ、三日目によみがえられました。この方を信じますか。信じますね。あなたは救われました。」 しかし、これは福音の外面を持っていても、福音そのものではありません。 福音とは、神が永遠の昔にあなたをキリストと結びつけ、時の中で神があなたに新しい命を与え、神を信じる者に変えてくださったということです。なぜなら、私たちはまったくの罪人であり、何一つ貢献することがないからです。しかし神は、御子によって私たちを御前に罪なき者と宣言してくださいました。私たちには何も誇るものはなく、すべてはキリストのみなのです。これが福音です。 ですから、どこに中心があるかによって、福音は福音でなくなります。人間主体の宗教に変わってしまいます。同じ宗教語を使っていても、結果はまったく変わるのです。 偶像礼拝も律法主義も、結局はキリスト以外を求めることです。それは 聖化の過程にある者にも関係します。信仰義認の時だけの話ではありません。神は絶えず、信仰義認の土台の上に、信仰者をとどまらせます。それは自分の力によらず、神の恵みと働きによって、私たちが御子のかたちに変えられるためです。 ですから、このもろもろの霊とは、ガラテヤ教会の立法主義、日本における偶像礼拝、異教的宗教、異端、また生活の中のさまざまな支配、 そういうものすべてに通じます。その根は同じです。キリストの外で生きようとする古い世界の構造そのものです。それはアダムの違反から始まっています。 律法自体は悪くありません。律法はきよいものです。神が与えたものです。問題は、律法を用いて、キリスト無しに、義や安全や確かさ、自分の救いの身分を得ようとするその態度です。そのとき律法は養育係ではなく、キリストに取って代わるものとして機能し始めます。 だからどちらも奴隷なのです。たとえば、あなたが日常の仕事の心配の下にいて、そこに居続けるなら、あなたは仕事の心配の奴隷です。 自己中心という思想の奴隷です。それは律法主義と変わりません。そこには自由がありません。 しかし神は言われます。「御霊によって歩みなさい。」 御霊によって歩くとは、神がすべてを支配しておられるという現実の中を生きることです。神の支配は宇宙の果てまで及んでいます。その現実の中に、自分が置かれていることを認めて生きることです。 また、御霊によって歩くとは、キリストとの永遠の結合に始まり、その結合が決して解かれることなく、永遠にあなたとキリストが結ばれている、その現実の中に生きることです。 さらに、神の摂理の中を生きることです。すべての出来事、現象が、あ なたの信仰と結びつけられているということです。神の支配は、大きなことだけではありません。あなたが職場で行う一つ一つのこと、あなたの考え、病気、悩み、信仰上の課題、すべてに神の支配が及んでいます。 ですから、「すべての道で主を認めよ」ということばは、まさに御霊によって歩くことです。すべての道で神を認めるとは、神の主権を認めるということです。神は、あなたに必要な知識も経験も、お金も判断も、時の始まる前から備えておられます。そしてあなたは、神が与えてくださったものを用いて、この世を賢く歩むのです。 「すべての道で主を認めよ。」それはあなたを自由にします。 では、「キリストを着た」とはどういうことでしょうか。3章27節で「キリ ストを着た」とあります。これは永遠の結合そのものではなく、永遠の結合が時の中で現れたことを言っています。 キリストを着たということは、あなたの日常生活の中で、キリストを着たという現実が現れてくることです。再生していること、信仰へ導かれていること、義とされていること、神の子として現されていること、それを指しています。 すなわち、ガラテヤ書3章後半は、救いが現れている状態です。4章 1 節から3節は、まだ再生していないが、神の子としての身分を受けており、その救いは保証されている、しかし時の中では罪の中に死んでいた状態のことを言っています。 矛盾ではありません。 パウロは、源泉と現れ、身分と時間内の状態を分けて説明しているのです。 ですから、皆さんはこの福音構造を理解してください。神のご支配は細かなところにまで及んでいます。「私は何もやらなくていい」というのは 間違いです。すべての道において神を認めなさい。神は、与えた知識や経験や責任を通しても働かれます。 全体をまとめると、神の相続人とは、永遠においてキリストとの結合の中にある者です。その身分は神の永遠の定めによるものです。しかし、その相続人としての身分は、時の中では最初から自由な子として現れてはいません。この世のもろもろの考え、自己中心的な考え方、 風習、行い、判断に支配されているところがあります。それを奴隷の状態と言います。 再生されたからといって、一晩でそれがすべて変わるわけではありません。聖化という過程は、私たちの人生の終わりまで続きます。 しかし 御霊によって歩く、それが新しい創造です。私たちはその新しい創造の中を歩みます。その中には試練があります。その試練の中で、私たちは絶えず神に頼らざるを得ない者とされます。 パウロはガラテヤ書6章16節で言います。「この基準に従って進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平 安とあわれみがありますように。」 割礼を受けているか受けていないかは大切なことではありません。大事なのは新しい創造です。御霊による新しい創造です。神は私たちのうちに新しい創造を起こしてくださる方です。この方に私たちは頼って生きていきます。 そして、この新しい創造とは、神のご支配、キリストとの結合、そしてすべての摂理が私たちに及んでいるということです。だからこそ、すべての道において神を認めるのです。細かな道においてもです。 そのように、新しい創造の基準に従って進む人々の上に、神のイスラ エルの上に、平安とあわれみがありますように。 では、お祈りします。 愛する天の父なる神様。 私たちのすべての道において、職場においても、学校においても、家庭においても、主を認める者としてください。 この新しい創造、御霊が私たちとともにおられること、主の主権が絶えず私たちを覆っていること、キリストとの結合が絶えず私たちの救いを保障していること、そして神の摂理が、私たちを試練を通してキリストに頼らざるを得ない者へと変えていかれること、その真理を感謝します。イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りします。アーメン。
- 信仰義認の本質について
2026.4.15 The Word for you 今日は「信仰義認」について話します。 十字架の強盗も取税人も、彼らは聖書に熟知していたわけでもないし、神学を学んだわけでもありません。教会に通っていたわけでも、教会のメンバーでもなかった。彼らは「悪い人」でした。彼らは、キリストが時の始まる前に選んだ人と結合しているなんて話など、聞いたことも見たこともない、そういう人たちでした。 だけど彼らは時の中で、神が再生(ボーン・アゲイン)を起こしてキリストに結びつけられたのでしょう。そして、そんな中で神の憐れみにすがり、十字架のキリストを「王」として仰いだのです。 彼らの口から出た言葉は、すごく単純でした。ゴテゴテと話してはいない。その単純な言葉の裏には、聖霊の再生の働きがありました。人間の理解の深さや、御言葉をどれだけ知っているか、聖書をたくさん読むかといった話は、そこには全くなかったのです。「聖書を読み、御言葉を蓄えれば良いクリスチャンになる」という考えは聖書にはありません。神がキリストに結びつけられた「結果」として、信仰が現れているのです。 厳密に言うと、「贖い(あがない)」——これはキリストが十字架の上で成し遂げられた救いの獲得ですが——その「贖い」という考え方と「信仰義認」を切り離すことはできません。 「贖い」とは何でしょうか。それは、あなたや私が罪の中に死んでいて、律法の呪いの下にあり、死の支配の中にいる状態……例えるなら、完全に水の中に沈んでいて息ができず、出口もない、そんな苦しい状況から神様が十字架の上で尊い血を流し、助け出してくださるということです。 「贖う」とは、正確に言えば「買い取る」という意味です。買い取った相手はサタンでも神でもありません。それは「罪と律法の呪い、そして死の中にいる人をそこから出すために、神様が命を払ってくださった」ことを意味しています。 旧約聖書から明らかなように、アダムの時から「罪は命をもって償うしかない」と書かれています。罪の代償は命です。死ななければならない。その代償をイエス様がご自身の命を十字架の上で捧げることによって、罪と死と呪いがイエス様の上に降り注ぎ、イエス様は亡くなられたのです。 そして、それは私たちがイエス・キリストと再生されて「結ばれている」ことから始まります。そうでなければ、取税人は「神様、私を憐れんでください」とは言わなかったでしょう。 しかし、現代のキリスト教(表向きのキリスト教)は、これを「お芝居」にしてしまう。自分がそう言えば大丈夫だ、という「宗教」にしてしまうのです。しかし、取税人が言った「神様、罪人の私を憐れんでください」という叫びは、自己保存の恐れから出る感情ではありません。一時的な高揚でも、地獄を回避したいという欲求から出たものでもない。「自己憐憫」ではないのです。自分だけが不当に苦しんでいる、自分が被害者だ、自分が可哀想だといった感情ではありません。 それは、神によって新たに生まれた者、神の前に砕かれた者、憐れみのみに服した者の真の叫びです。強盗も、十字架の意味を教理的に理解していたわけではありません。これを私たちは忘れてはいけない。 「この方は悪いことを何もしていない。私を思い出してください」そこにはキリストに結びつけられた者に起こる、切実な現れしかありません。表面的なキリスト教を学んだ人たちは、言葉さえ真似すれば助かるという風に受け取ってしまいますが、それは違います。ですから、こう言えるのです。「信仰義認」とは、イエス様との永遠の結合から流れ出る結果としての恵みであり、神様が罪人を一方的に「義」と宣言することなのです。 救いとは、十字架の御業をどこまで論理的に把握できるかではありません。聖書の中身をいかに説明できるかでもない。それは後からついてくる結果です。 永遠の昔から、キリストがあなたと一つに結ばれている。だから、キリストの死はその人の死となり、キリストの復活はその人の命となる。キリストの正しさ(義)はその人の義となるのです。すべては、永遠の昔に神によって結ばれたという「源泉」から流れ出ています。 取税人も強盗も知識ではありません。時の中で新たに生まれ、キリストとの結合がこの世に現れ、「信仰義認」と「贖い」として結実したのです。 取税人は頭が良かったのではありません。「信仰義認」をスラスラ言えたわけではなく、彼の中で「信仰義認」が生きたのです。ロジック(論理)で信仰義認は起こりません。それはまるで「音楽」のようです。音楽にはまず「音」があり、それを聴く。譜面に書き起こすのは後です。 神が人を死から命に救う。それは「楽譜(教理)」そのものではありません。本質は、キリストと一体になっている私たちが、神の命によって生き、イエス・キリストと共に死ぬことが、神によって「実体化」しているということなのです。 イエス様は「信仰義認」を教理として難しく理解しろとは一言も言っていません。ただ、神が全く望みのない罪人を、キリストのゆえに「義」と宣言されている。 もう一度言います。十字架の強盗を考えてみてください。彼には「義」とされる根拠が一つもありません。略奪、危害、殺害、己の欲と罪の中に生きてきた。良い行いも償いも功績もない。挙句の果てに十字架に釘打たれ、動くこともできず息絶え絶えになっている。全くの無力。残された時間もない。それが私たちの姿、罪人です。 しかしその時、神はこの罪人に、十字架につけられた御子を仰がせました。神はこの者を、ただキリストのゆえに「義」と宣言したのです。一方的に。 ですから、私がどれほどひどい人間かなどは関係ありません。感情がどうだろうと関係ない。関係あるのは「神が宣言しているかどうか」だけです。時の始まる前に、キリストにあって結ばれているかどうかだけなのです。それが神の働きによって、神を神として認め、自分が罪人であることを認め、神に頼る者に変えられる。これが「信仰義認」です。 中心は、私たちが何をしたかではなく「神が何をなさったか」です。ここに核心があります。あなたが告白した、祈った、そんなことは重要ではない。神が何をなさったか、なのです。 神は十字架の強盗に、彼自身が裁きに値する者であることを示しました。だから彼は「私はこうなるべきだった(自分は悪かった)」と言い、イエス様には罪がないことを告白した。そして、十字架のイエス様こそが御国の王であることを認めさせた。その瞬間、それが「信仰義認」なのです。 これは全く人間の力ではありません。 ある人が私に「自分の力で告白した、こんな私でも……」と書いてきましたが、あれは信仰義認ではなく独りよがりの思いです。 極限の場、両手両足を釘打たれ、息も絶え絶えな状況で、神はその罪悪の塊の口をキリストに向けさせたのです。それは神の業です。 そしてイエス様は言われました。「あなたは今日、私と共にパラダイスにいます」。 聖書の中で、イエス様に直接こう言われた人は他にいません。ここにあるのは、人間の努力の報酬ではないのです。 死ぬ直前に地獄に行きたくないと願う自己保存でも、自分を惨めだと思う自己憐憫でもない。神がこの強盗を再生し、信仰と悔い改めを与え、永遠に定めていた「キリストとの結合」を顕現させた事実。それが信仰義認であり、救いの源泉から溢れ出た実なのです。 「信仰義認」とは、神がキリストにあって(in Christ)、罪人を義と宣言すること。人の功績によらず、ただ神の恵みによってなされること。これを覚えてください。 そして神は「義」とされた人たちを、聖化の過程や試練の中で、ますます自分ではなくキリストにのみ寄り頼む者として保たれます。最後まで神が守り通し、最後にはキリストと共に栄光を受けるのです。 信仰義認は、それほどシンプルなのです。 私たちの思いや感情ではなく、神が導き、神が変え、神が告白させるのです。 私たちは罪の中で蠢き、自力では出られなかった。それを神様が十字架の御業によって買い取ってくださった。どこへ? 神の御国へです。神の所有とされたのです。 多くの人は「私は惨めな人間です」という宗教をやり始めます。「私を憐れんでください」というパフォーマンスを救いの確認にしてしまう。しかし、そこに行ってはいけません。あなたは神様が与えた苦しみの中で、心の奥底から叫ぶ。動機が違うことを、神様は御言葉と聖霊を通じてあなたに語っておられます。その心の本質を示されたなら、それを悔い改め、口に表して告白し、キリストに頼らざるを得ない場所に留まり続けるのです。 お祈りします 愛する天のお父様、 私たちが「信仰義認」と思っているその思いすら、いつの間にか肉の働きによって「宗教」や「行い」になってしまう。その危うさをあなたが示してくださっていることを感謝します。 私たちは本当に価値のない者ですが、あなたが時の始まる前にキリストにあって私たちを選び、内側から変え、キリストのゆえに「義」と宣言してくださっている、この素晴らしい恵みを心から感謝します。 どうか、この素晴らしい教理が守られますように。 愛するキリストの御名を通して、感謝してお祈りします。 アーメン。

