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  • 誰が隣人となるのか?

    2026.9.2 The Word for you ルカの福音書10章25節から37節より、隣人についてイエス様が教えておられることを学びたいと思います。ここで語られているのは「誰を愛するのか」ではなく、「目の前の人にどう向き合うか」についてです。 ルカの福音書10章25節~ さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、命を尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば命を得ます。」 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは誰ですか。」 イエスは答えられた……。 この箇所で語られているのが、有名な「良きサマリア人」の例え話です。律法の専門家がイエス様に「どうしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?」と尋ねました。これはニコデモが言っていた「どうしたら神の国に入ることができるでしょうか?」と同じ問いです。 イエス様から「律法には何と書いてあるか?」と尋ねられた専門家は、「心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい。」と答えました。イエス様は「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。」と言われました。 ところが、この専門家は「では、私の隣人とは誰ですか?」とさらに質問しました。聖書は彼がこの質問をした理由を明確に書いています。「自分が正しいことを示そうとして」とあります。ここが、この例え話を理解する上で非常に大切なポイントです。 彼は律法を知らなかったわけではありません。「隣人を自分自身のように愛しなさい」ということは知っていました。問題は、「どうやって、自分はその律法を守れていることにするか。」ということです。もし隣人が「自分の家族」や「仲間のユダヤ人」、「自分に好意を持ってくれる人」だけであれば、「私はその人たちを愛しています。だから律法を守っています。」と言えます。だから彼は「隣人とは誰ですか?」と尋ねたのです。はっきり言えば、「具体的に誰までが隣人ですか?」と範囲を決めたかったのです。 しかし、イエス様はその線引きを壊されました。イエス様は誰が隣人なのかを、一つの例え話を通して語られます。 ある人(ユダヤ人)が強盗に襲われ、服を奪われ、殴られて半殺しの状態で道に投げ捨てられました。そこへ祭司が通りかかりました。祭司はその人を見ましたが、避けて道の反対側を通り過ぎていきました。次にレビ人が来ました。レビ人もその人を見ましたが、やはり反対側を通り過ぎました。この二人(祭司とレビ人)は、神様について何も知らない人たちではありません。律法を熟知し、宗教に深く関わってきた人たちです。しかし、困っている人を見ながら通り過ぎていきました。 そこへ一人のサマリア人が通りかかりました。当時、ユダヤ人とサマリア人の間には深い隔たりがありました。しかし、このサマリア人は倒れている人を見ると「かわいそうに」と思いました。それだけでは終わりませんでした。近づいて傷を手当てし、自分の家畜に乗せて宿屋まで運び、介抱し、費用を払いました。さらに「もし不足があれば、帰りに自分が払います。」とまで言ったのです。 ここでイエス様は、最初の質問とは違う問いを投げかけられます。律法の専門家は「私の隣人とは誰ですか」と、隣人の範囲を狭めようとしました。しかしイエス様の問いは違いました。 「この三人の中で、誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」 問いが変わっているのです。「誰が、私の隣人か」ではなく、「あなたが、誰かの隣人になっているか」ということです。 律法の専門家は「哀れみ深い行いをした人です。」と答えました。するとイエス様は「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われました。ここがこの例え話の結論です。 つまり、「隣人を選ぶ」のではないのです。私たちはともすると、愛する相手を選びたくなります。この人は好きだから助ける、仲間だから助ける、教会の人だから、お世話になったから助ける。しかし、この人は自分と違う、関係がない、この人の分まで責任は持てないと、線を引きたくなります。イエス様は、その線を打ち壊されました。 神の民はユダヤ人だけではありません。サマリア人も異邦人も、神様のご計画の中に選ばれています。そして、私たちには「誰が神様に選ばれているのか」は分かりません。だから「この人は関係ない」と自分側で決めて、愛する対象から外すことはできないのです。 目の前に困っている人がいる、助けを必要としている人がいる。その人に対して「この人は私の隣人だろうか?」と考えるのではありません。イエス様が言われたのは、「あなたがその人の隣人になるのだ。」ということです。 ここで分かる重要なことは、「隣人愛とは気持ちだけではない」ということです。サマリア人は「かわいそうだな」と思っただけではありませんでした。実際に動いたのです。近づき、手当てをし、運び、お金を出しました。愛は行動に現れます。 これは私たちの実生活に繋がっていきます。家庭の中で、教会で、職場や道端で困っている人がいるとき、「誰かがやるだろう」「自分の担当ではない」「自分には関係ない」と言って通り過ぎることがあります。祭司やレビ人も見なかったわけではありません。見ましたが、通り過ぎました。サマリア人も同じものを見ました。しかし、彼は近づきました。違いは「見えたかどうか」ではなく、「見た後にどうしたか」です。 「愛している」と言うことと、「責任を引き受ける」こと。ここで隣人愛と責任が繋がります。自分の前に置かれている問題から「関係ない」と言って逃げないこと。サマリア人は「なぜ私がここまでしなければならないのか」とは言わず、自分にできることを果たしました。 実生活における隣人愛は、困っている人に声をかけること、自分から手伝うこと、家の中で気づいたことを誰かに言われる前にすること、職場で自分の目の前にある問題を放置せず確認し、人のせいにせず責任を持つことかもしれません。隣人を愛することと、責任から逃げないことは同じなのです。 キリストと結ばれている者たちは、その結合ゆえに溢れてくる、喜びと希望と神を愛する心から、困っている人を見たら近づき、動きます。自分にできることを引き受けます。これが「良きサマリア人」の姿です。そしてこれはすべて、キリストを仰ぎ見る中で進む「聖化」の歩みです。 ここで大切なのは、隣人愛を単なる宗教的な道徳や、外面的な優しさに変質させないことです。聖書が語る隣人愛は、人間の中から作り出されるものではありません。神に選ばれた者は、御霊によってキリストに結ばれ、その結合の中で聖化されていきます。 聖化とは、ただ自分が少しずつ「良い人」になることではありません。神様は選ばれた者を様々な試練の中に通されます。その中で、自分の力では立てないこと、自分の知恵では解決できないこと、人間も自分自身も最後の望みにはならないことを知らされます。その中で、「キリストこそが最後の望みである」ことを深く知らされていくのです。 信仰者は試練の中で、絶えず主を見上げます。自分を見るのでも、状況だけを見るのでも、人を見るのでもなく、ただ主イエス・キリストを最後の望みとして仰ぎます。御霊はみことばを通じて私たちの心を照らし、神様が今何を求めておられるかを示されます。それは時に、私たちが本来見たくないものや、厄介なことかもしれません。しかし、そこで逃げるのではなく、神様が置かれた場所を歩んでいくのです。 イエス様は言われました。「あなたも行って、同じようにしなさい。」 近づきなさい、手当てをしなさい、運びなさい、実際に動きなさい、と主は語られています。「かわいそうだな」と思うだけでは足りません。実際に動くのです。 それは、私達を試練や自分との戦いの中に連れていくかもしれません。「自分にはできない。」と思うこともあります。しかしその中で神様は思いを立たせ、「今、従いなさい」と語りかけておられます。私たちのうちに働く御霊の力によって、私たちは神様のみこころを行っていくことができるのです。 お祈りします 愛する天のお父様、隣人を愛することは責任から逃げないことと、まったく同じであること、そしてそれは単に「かわいそうだな」と思う気持ちだけでなく、実際に近づき、手当てし、運ぶという行動を伴って、私たちの生活に繋がっていることを教えてくださり感謝します。 私たちが御霊によって歩むとは、どれほど深いことでしょうか。心から今日の御言葉を感謝いたします。 イエス・キリストのお名前を通してお祈りいたします。アーメン。

  • レッテルによる欺きの危険性― 人物・教会・思想を見る「6本の物差し」―

    2026.8.30 豊川の家の教会礼拝メッセージ レッテルによる欺きの危険性― 人物・教会・思想を見る「6本の物差し」― 人物や教会、思想を評価するとき、私たちは異なる問題を一つの物差しで判断してしまうことがあります。たとえば、「右翼だから聖書的だ」「左翼だから福音的ではない」「キリスト教を名乗っているから福音を信じている」といった判断です。しかし、これは違う物差しを混ぜています。 「神は存在するのか」という問いと、「どの宗教を信じるのか」という問いは同じではありません。また、「どのような社会が望ましいか」という考えと、その人が現在の政治状況の中で左派・右派のどこに位置するかも同じではありません。さらに、キリスト教を名乗っていることと、その人の教えが福音の構造によって支配されていることも別問題です。 人物や教会、思想を見るときには、次の6本の物差しを分けて考える必要があります。 物差し 何を見るのか 代表例とその意味 A 世界観 神・世界・人間・歴史・存在をどう理解するか 有神論=神の存在を認める。 無神論=神の存在を認めない。 唯物論=物質を現実の基本と見る。 自然主義=自然界の中だけで現実を説明する B 宗教観 何を究極的な真理として信じ、どの宗教・思想体系に立つか キリスト教=聖書と三位一体の神を信じる。 仏教=仏教の教えに基づいて世界と人間を理解する。 神道=神々・祭祀・伝統を中心とする宗教観に立つ。 包括的思想体系=宗教でなくても人間・歴史・社会全体を説明する思想に立つ C 社会・政治観 国家・社会・権力・自由・平等・伝統をどう考えるか 保守主義=伝統・秩序・共同体の継続を重視する。自由主義=個人の自由と権利を重視する。 社会主義=平等や社会的統制・再分配を重視する。共産主義=私有財産や階級社会の克服を目指す D 経済観 財産・企業・市場・生産・分配をどう考えるか 市場経済=価格・生産・取引を市場の働きに委ねる。 社会主義経済=国家や社会による統制・再分配を重視する。 計画経済=生産や資源配分を国家が計画する E 政治的立場の分布 その国・時代の政治的な立場の分布の中で、どこに位置するか 左派=その国・時代で、平等・改革・社会的再分配などを比較的重視する側。 中道=左右どちらかに大きく偏らず、政策ごとに折衷的立場を取る側。 右派=その国・時代で、伝統・秩序・国家・市場などを比較的重視する側 F 福音構造 教え全体が福音の構造によって支配されているか 時の始まる前、キリストにあって選び → 再生 → 信仰 → 悔い改め → 義認 → 聖化 → 栄化 これは6段階ではありません。6本の別々の物差しです。 同じ人物を六つの異なる方向から見ています。A〜Eは、その人物の世界観・宗教・社会思想・経済思想・政治的立場を理解するための物差しです。F福音構造は、その人物が提示している教えが福音構造によって支配されているかを見る物差しです。したがって、A〜EからF福音構造を推論してはいけません。 たとえば、キリスト教徒であっても、社会・政治観では保守にも左派にもなり得ます。 したがって、キリスト教=右翼ではなく、左翼=無神論でもありません。 教会・牧師・神学者を見る中心は「福音構造」 教会・牧師・神学者の教えが福音的であるかを判定するとき、A〜EをF福音構造の判定根拠にしてはいけません。その人物が有神論者であること、キリスト教を名乗っていること、社会的に保守であること、右派であることは、その教えが福音的であることの証明にはなりません。 反対に、左派であることも、その教えが福音的ではないことの証明にはなりません。 見るべきなのは、 その人物が実際に何を教え、その教えがどのような構造になっているかです。 F福音構造で見る福音の大きな流れは、 時の始まる前、 キリストにあって選び → 再生 → 信仰 → 悔い改め → 義認 → 聖化 → 栄化です。 救いの始まりは人間ではなく神です。人間が自分の決心や行為によって救いを始めるのではありません。また、F福音構造が判定するのは、その人物が最終的に救われているかどうかではありません。その人物が提示している教えの構造を判定します。 「キリスト」「十字架」「聖霊」「聖書」という言葉を使っているだけでは、福音構造が正しいとは限りません。 聖書解釈もF福音構造で見る 聖書解釈についても、旧約から現在へ直接線を引くのではなく、キリストにおける成就を見る必要があります。大きな流れは、 「旧約 → キリスト → キリストにおける成就 → 新しい契約 → 現在の私たち」です。 したがって、旧約イスラエル → 現代国家 / 旧約の土地 → 現代の土地・国家 / 旧約の戦争 → 現代の霊的戦争 / 旧約の敵 → 現代の悪霊・地域霊 / 旧約の預言者の行動 → 現代人の預言的行動と直接結びつける場合には、「それはキリストにおいて、どのように成就したのか」を問う必要があります。この原則は新約の福音書、書簡についても全く同じです。問題はキリストという言葉を使っているかではありません。キリストとその成就が、聖書解釈そのものを支配しているかです。 F 福音構造の評価 評価 内容 ◎ 福音構造が明確 神を主語とする福音構造が教え全体を一貫して支配している ○ 福音構造を基本的に保持 福音の基本構造を保持しているが、一部に検討すべき問題がある △ 福音構造が混在 福音構造と、人間の決断・行為・特殊体験・旧約直接適用などが混在している × 福音構造から逸脱 人間の行為、特殊体験、旧約直接適用、別の霊的原理などが入り、福音構造を変質させている 「×」は、その人物が救われていないという最終判定ではありません。 提示されている教えの構造に対する判定です。 【事例】人物を見る 4人を「6本の物差し」で見る 人物 A 世界観 B 宗教観 C 社会・政治観 D 経済観 E 政治的立場の分布 F 福音構造 R.C.スプロール 有神論・聖書的創造論 改革派神学 保守的 特定困難 右派 ◎ 福音構造が明確 ジョン・マッカーサー 有神論・聖書的創造論 保守的福音主義・カルヴァン主義的/ディスペンセーション主義 社会的保守 特定困難 右派 ◎ 福音構造が明確 A牧師 有神論・聖書的創造論 ディスペンセーション主義・フリーグレース系 イスラエル支持・保守的 特定困難 右派 × 福音構造から逸脱 B牧師 有神論・霊的世界を強く強調 福音派・聖霊派・霊的戦い神学 戦争責任・歴史認識などを重視 特定困難 左派 × 福音構造から逸脱 Dについては、他の物差しから推測してはいけません。右派だから市場経済、左派だから社会主義とは限りません。明確な材料がなければ、D=特定困難とします。これも、物差しを混ぜないということです。 「事実 → 構造分析 → F福音構造判定」で見る F福音構造は、人物への好き嫌い、政治的位置、神学体系の名称だけで判定しません。 事実 → 構造分析 → 福音構造判定という同じ手順をすべての人物に当てます。 R.C.スプロール神の主権、選び、新生、信仰、義認、聖化、堅忍、栄化を、キリストを中心とする一つの救いとして教える。したがって、F福音構造=◎。 ジョン・マッカーサー神の主権、選び、新生、信仰、悔い改め、義認、聖化、堅忍を明確に教える。ディスペンセーション主義という名称やスプロールとの終末論上の違いを理由にF福音構造を下げることはしない。福音構造そのものを見れば、F福音構造=◎。 A牧師問題は「ディスペンセーション主義」という名称ではない。旧約の土地・契約・預言を民族的イスラエルへ直接的に継続させ、さらに救いと悔い改め・従順・聖化との関係を弱く扱う。その教えの構造そのものを見て、F福音構造=×と判定する。 B牧師問題は「聖霊派」「霊的戦い神学」という名称ではない。旧約の戦争・土地・敵・預言的行動から、現代の霊的戦い・地域・国家・預言的行動へ直接線を引き、キリストにおける成就を十分に通していない。その教えの構造そのものを見て、F福音構造=×と判定する。 したがって、A牧師が右派だから×なのではなく、B牧師が左派だから×なのでもありません。 また、A牧師がディスペンセーション主義だから×なのでも、B牧師が聖霊派だから×なのでもありません。レッテルを外して、実際の教えの構造に福音構造を当てます。 ●レッテルによる欺きはどこで起こるのか ・政治的に保守である → 自分と社会観が近い → 聖書的に見える → だから福音的である これは、E政治的な立場をF福音構造にすり替える欺きです。 反対に、 ・政治的に左派である → 自分と政治思想が違う → リベラルに見える → だから非福音的である これも、E政治的立場をF福音構造にすり替える欺きです。 さらに、 ・改革派だから福音的 / ディスペンセーションだから非福音的 / 聖霊派だから非福音的 と、神学体系の名称だけで判定するなら、これも同じレッテルによる誤りです。 ・右でも左でも、改革派でも福音派でも、ディスペンセーションでも聖霊派でも、福音は福音構造そのもので判定します。 ウエストミンスター大教理問答から この福音理解は、ウエストミンスター大教理問答が示している救いの構造とも一致します。 第65問は、見えない教会の会員がキリストによって受ける特別な恵みを、「恵みと栄光における、キリストとの結合と交わり」として示します。 第66問は、その結合について、選ばれた者がキリストに、「霊的かつ神秘的に、しかも現実に、分離することのできない仕方で」結ばれる神の恵みの働きであると教えます。 第67問では、有効召命を、神が選ばれた者を罪と死の状態から、イエス・キリストによる恵みと救いへ召し入れる、神の全能の力と恵みの働きとして教えます。 そして第75問は、聖化される者について、「世界の基が置かれる前に、聖なる者となるよう神によって選ばれた者」であることから始めます。 さらに第79問では、真に信じる者が最後まで守られる根拠の一つとして、「キリストとの分離することのできない結合」を挙げています。 つまり、大教理問答が描いているのも、人間が自分から神へ向かって救いを作り上げる構造ではありません。 時の始まる前、                                          キリストにあって選び → 再生 → 信仰 → 悔い改め → 義認 → 聖化 → 栄化という、 神から始まり、キリストにあって与えられ、最後まで神によって完成される救いです。 まとめ だから、人物や教会を見るときに問うべきことは、「右か、左か」ではありません。「改革派か、ディスペンセーションか、聖霊派か」という名称だけでもありません。 「世界観、宗教、社会・思想、経済、政治的な立場」のようなレッテルから福音構造を推論してはいけません。 その人が何を語っているのか。その聖書解釈はどこを中心としているのか。救いの主語は神なのか、人間なのか。キリストとその御業が本当に教え全体を支配しているのか。                            そこを見ます。 事実 → 構造分析 → 福音構造判定 そして最後に残るのは、この二つです。 ① レッテルではなく、実際の教えの構造を見る。              ② 左か右かではなく、福音を見る。 このメッセージでいう「危険性」とは、レッテルによって本当の福音判定を誤る危険性です。 具体的には、右派・左派、改革派・ディスペンセーション、聖霊派などの名称に引っ張られて、実際の教えの構造を見なくなることです。 その結果、 本当は福音構造から逸脱している教えを「自分と政治的に近いから聖書的だ」と受け入れてしまう。偽りの福音を受け入れる危険性です。 逆に、 福音構造が明確な教えを「自分と政治的・神学的立場が違うから」と退けてしまう。本当の福音に背を向ける結果となる。 つまり、危険性の本質は、 レッテルが福音構造を見る目を曇らせ、偽りを福音と思い、福音を偽りと思わせることです。  「世界観、宗教、社会・思想、経済、政治的な立場」のようなレッテルからその人物、教会、その思想が教える福音構造を推論してはいけません。

  • 永遠を見て今を生きる

    2026.8.26 The Word for you 永遠を見て今を生きる 永遠を見て今を生きる。それは、キリストにある選びと結合の福音のことです。永遠の選びと、時の中でのキリストとの結合――これらは別々の救いではありません。永遠においてキリストにあって定められた救いが、時の中で現実に適用されます。だからこそ、私たちは永遠を見て今を生きるのです。 「永遠の選び」や「永遠の結合」について、「まだ実際には存在しない」と考えるのは大きな間違いです。そのように考えてしまう人は、永遠と時間を区別できず、聖書が語る「永遠の神の御心」と「自分の人生の中で現実化する救い」を繋がっていないものとして捉えてしまっています。この連続性を断ち切ってしまうことは、聖書の教えではありません。聖書は、永遠と時間は連続しており、繋がっていると教えています。決して永遠と時間を分断させてはなりません。これは非常に重要なことです。 エペソ人への手紙1章4節には「神は……あらかじめ定められた」とありますが、時が始まる前に神が救う人の名前を個別に決めたと言っているわけではありません。語られているのは「キリストにあって選ばれた」ということです。ここが重要なポイントです。 人間の自由意志や決心ではなく、神の永遠の御心によって、時の中で「有効召命」「新しく生まれること(新生)」、そして「信仰」が、キリストとの結合の中から現れてきます。つまり、永遠における選びとは、キリストのうちに定められた救いです。そして、時の中での結合、すなわち時の中で新たに生まれるということは、その永遠の救いが御霊(聖霊)によって現実に適用された姿なのです。これこそが、聖書の提示する救いです。 R.C.スプロールはこの箇所について、「永遠に、神の御心においてキリストにあるものとされる。その永遠の現実が、御霊によって時の中に入ってくる」と表現することがあります。 私たちは「永遠」と「時の中」を区別はしますが、決して分断や切断はしません。永遠を見据えて、今を生きるのです。 これを分断してしまうと、人間は「今(自分が見えている現実)」だけに囚われて生きるしかなくなります。しかしそれは救いの構造ではなく、人間の思いであり思想に過ぎません。人の心は決して素直でも清らかでもなく、常に罪で曇っており、自分を正当化しているだけなのに「自分は分かっている」と思い込んでしまいます。 ですから、今お話ししているこの崇高な教理――神の永遠の御心やキリストとの結合――も、説明を聞けば理解できると思ってはいけません。神の「照明(解き明かし)」が必要です。照明がなければ、本当の意味で理解することはできません。「分かったつもり」になってはならないのです。このメッセージを聞き終わると、すぐに永遠と時間を分断し、永遠を見なくなってしまう人が大勢います。話を聞いても、本を読んでも、素晴らしい説教を聞いてもそうなのです。神があなたに直接照明を与えてくださらない限り、それは単なる理屈で終わってしまいます。しかしこれは単なる理論の問題ではなく、心の問題なのです。 「神の御心にあって定められた」という言葉の重みを、私たちは深く考えなければなりません。エペソ人への手紙1章4-5節に「御心にあって定められた」と書かれています。どのような御心でしょうか。それは、御心の良しとされるところ、深い喜びの中で、神があなたを選び、永遠のご計画においてキリストと結合させてくださったということです。このみことばの重みを噛みしめてください。 要するに「御心」とは、神様の保証なのです。この御心は、人間の移り気な意志とは異なります。神の御心とは、神ご自身が責任を持って最後まで救いを成し遂げてくださるということを意味します。ここで「保証」という言葉が非常に重要になります。これは人間同士の約束のような保証ではありません。「私はやり切ります」「貫きます」といった口先だけの誓いではないのです。神の場合、御心そのものが保証です。御心を定めた神が存在し、神ご自身が保証人であり、その御心を実現する力も神ご自身にあります。 ローマ人への手紙8章29-30節で、神はあらかじめ知っておられる人たちをあらかじめ定め、召して、義とし、栄光を与えられたと語られています。これは「予知」から始まっています。そして「あらかじめ定められた(予定)」「召された(有効召命)」「義とされた(義認)」「栄光を与えられた(栄化)」へと続きます。ここまで救いの全体像がすべて繋がっており、一つの切れない流れとして語られています。これを改革神学では、決して切れることのない「黄金の鎖(ゴールデン・チェーン)」と呼びます。 この鎖は決して切れません。永遠は今と繋がっており、永遠の現実が時の中に入ってくるのです。ここで言う「予知された」とは、神が「将来誰が信じるか」を前もって見通していたという意味ではありません。それはアルミニウス主義の救い観です。ここで語られているのは、神が永遠の御心においてご自分の民をあらかじめ知り、キリストにあって救いへと定められたということです。ですから「予知」とは、人間の信仰を事前に見抜くことではありません。「あ、この人は将来私を信じるな」と見たわけではないのです。 神はご自分の民をあらかじめ知っておられ、愛をもってご自分の子として定められました。救いの起点は、どこまでも神の御心にあります。時の中でまだ完成していない栄光(将来の身体の復活など)でさえ、神の側から見ればすでに確定している事実なのです。聖書はそのように語っています。「黄金の鎖」は確固たる保証です。それこそが、永遠を見て今を生きるということです。私たちは、神様の永遠の側から今を見るようにと招かれています。 キリストとの結合は、「素晴らしい」という言葉をはるかに超えた神の恵みです。永遠が見えないと、救いを「自分が信じた時から始まった出来事」としてしか捉えられなくなってしまいます。永遠が見えない人は、「自分が信じたから救われた」という人間中心の思考に陥ります。また、キリストとの結合が見えないと、救いを「罪が許された」「天国に行ける」といった個別の祝福の寄せ集めのようにしか見えなくなります。「恵みを数えよ」という賛美歌がありますが、個別の恩恵を単に数えて集めるような見方をすると、すべての恵みが「キ リストとの結合」という一つの源泉から流れ出ていることを見失ってしまいます。 御心が見えないと、救いの根拠が「神の決定」ではなく、どうしても「自分の信仰」「自分の決心」「自分の状態」に傾いていきます。その結果、「私はいつ救われたのだろうか」と、救いを時の中の体験から推し量ろうとします。しかし、これは誤りです。救いの起点はそこにはありません。 イエス様は「風が吹くように、人は新しく生まれる」と仰いました。それは、救いの起点を人間側の時間や体験の中に置かせないためです。 「自分はいつ救われたのか」「あの時に救われたのか」といった問いの答えを、自分の経験から探してはいけません。神の御心の中で、神の喜びの中で、キリストにあってあなたは定められました。永遠の御心の中で、神様が「あなただ」と指名されたところから救いは始まっているのです。 R.C.スプロールが言うように、「この永遠の現実が時の中に流れて入ってくる」のです。だからこそ、私たちは目に見える時の中の現実よりも、神の永遠の現実を見なければなりません。永遠に定められた救いが、時の中で「わたしの羊はわたしの声を聞く」「父が引き寄せなければ、誰もわたしのところに来ることはできない」という有効召命となり、キリストとの結合によって新しく生まれさせられ、信仰が与えられます。御霊によって、そのように時の中で適用されていくのです。 ですから、救いを「自分が信じたから始まった」「自分が決心した時に救いが来た」と見てはなりません。神が永遠の御心において、キリストによって定めてくださった――これこそが本当に素晴らしいことです。私たちはこの視点から、現在(今)を見つめます。 聖書が示す救いの流れは、人間の現在の経験から始まることは決してありません。イエス様が「風が吹くように新たに生まれる」と言われたのは、「現在の経験から救いが始まるわけではない」という意味です。神の永遠の御心によってキリストにあって選ばれ、時の中で御霊によってキリストに結ばれ、その結合から聖化が与えられる。これが聖書の語る順序です。「永遠」「結合」「御心」――この3つの言葉は別々の教理ではなく、1つの救いを支える骨格であり、「黄金の鎖」です。これらは完璧に繋がっていて、決して切れることはありません。ぜひ、この「黄金の鎖」を心に深く留めてください。「永遠が初めである」ということこそが、聖書の救いの真理です。 永遠の御心において定められたキリストとの結合こそが、救いの源泉です。その結合から、救いのすべての恵みが流れ出ます。これが見えない人は、どうしても現在の自分を起点に救いを考えてしまいます。「私が信じた」「私が救われた」「私がキリストと結ばれた」と。しかし聖書は、さらにその奥にある真理を示します。「なぜ今、私はキリストに結ばれているのか」。それは、神がご自身の永遠の喜びと御心において私を選び、キリストと結び合わせて定めてくださったからです。 それはすでに決定された事項であり、神の保証です。あなたの復活と完成は、神の永遠の中ですでに成就しています。私たちには「未だ完成していない」ように見え、その完成に向かって歩んでいる段階ですが、神の永遠においてはすでに完成しているのです。いわゆる「すでに(Already)」と「未だ(Not Yet)」の緊張関係ですが、私たちは永遠における神の御手を見るのです。 信仰者が人間の視点に立つと、現在から永遠を見てしまいます。しかし、神中心の視点に立つならば、永遠から現在を見るようになります。このことが御霊の照明によって徐々に開かれていくと、救いの「主語」が人間から神へと変わります。救いの起点が神であると深く理解できるようになるのです。 永遠が見えず、結合が見えず、御心の重みが見えなくなると、それはもはや福音ではなくなってしまいます。「人間が信じて救いを得る話」へと矮小化され、主語がすり替わってしまうのです。しかし、真の福音は違います。永遠の御心を定めた天のお父様が、御子にあって救いを成し遂げ、御霊によって私たちを御子に結び、その御心を最後の栄光に至るまで永遠の中で完成させてくださった。そして私たちは時間の中で、その完成へと結びつけられているのです。これらすべてが「黄金の鎖」であり、断ち切られることはありません。そしてそれは、神の御心によるイエス・キリストとの結合から絶え間なく注がれているのです。 コロサイ人への手紙1章27節 「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるかを知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」 【お祈り】 天のお父様。私たちの望みは、私達の中におられるキリスト、栄光の望みそのものです。あなたが私たちの心も体も、全人格のすべてを御霊によってキリストと結んでくださっていること、そして、すでに確定されている栄光へと私たちを完成させてくださることを心から感謝いたします。この永遠の結合を心から感謝し、キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

  • 目を覚ましていなさい

    2026.1.11 豊川の家の教会礼拝メッセージ  今日の言葉は、第一テサロニケ5章5〜6節を中心に、「目を覚まし、身を慎んでいる」ということについて話をしています。 テサロニケ人への手紙 第一 5章6節を読みます。 「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。 私たちは夜の者、闇の者ではありません。ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」 (新改訳2017) 「目を覚ましていなさい。」  この言葉はいろいろな教会では、「努力して目を覚ましていなさい」「自己管理しなさい」「夜寝る時間を削って、祈りにささげなさい」といった命令として受け取られて話されるところが多いです。 しかしパウロは、この御言葉を、自分の位置、自分の所属であるということを認めよう、という命令で話しています。  この御言葉の直前でパウロは、「あなたがたはみな光の子、昼の子なのです」という言葉を置いていることに注意してください。パウロは意図的にこのように語っています。  つまり、この言葉は、私たちが努力して自己管理して、夜も寝ずに一生懸命祈ることによって光の子になる、という話ではない。神が私たちを光の子に変えている。「昼の子なのです」と言っています。 これは、私たちが、みことばによって新しく生まれた者である、ということを認めるということを言っています。それは、神がそのようにされた、あなたを新たに生まれさせた、その事実を認めなさい、ということです。  なので決して、「あなたの意思で警戒して目覚めている必要がある」という意味ではありません。そういう命令ではない。それは宗教的な間違いの理解です。  宗教は、「警戒する」「理解する」「気づく」というような人間主体的な行いに変えていくのです。しかし再生によって、試練と苦しみの中で聖霊の照明を受ける。それは、キリストとの永遠の結合の源泉に置かれている者の生き方、そのものです。 「目を覚ましていなさい」というのは、生き方のことを言っています。生き方、つまり、あなたの内におられる神ご自身と、あなたが共に生きているという、その生き方を認めなさい。理解しなさい。そしてその命を生きなさい。あなたの存在の仕方について言っています。 全く違います。  そして二番、「眠っている」とは何か。  「眠っている」というのは、あなたが睡眠をしているということではない、ということを理解してください。「眠っていないで」と言ったからといって、そのまま書いてあるとおりに、額面どおりに取ってはいけません。  パウロが言っている「眠っている」という意味は、聖書の中では大きく分けて二つあります。  聖書で言っている「眠っている」という意味は、二つの意味を持っています。    4章で「眠っている」という言葉が使われていますが、それは信仰者の肉体的な死のことを言っています。なので決して、「眠っている」という言葉をそのまま「霊的な眠り」だとか「心理的な状態」だというふうに取ってはいけないです。文脈によって意味を変えています。  パウロは、4章の「眠る」は信仰者の死。そして5章6節の「眠る」というのは、主の日と裁きに無感覚、「平和だ、安全だ」「大丈夫だ」と思っている時に主の日が来る、という前提のもとで話しています。これは無感覚で、自分の状況をわきまえていない人たち、そのことを「眠る」と言っています。  そして、第一テサロニケ5章10節の「眠る」という言葉。「生きていようと眠っていようと」という言葉を使っています。この言葉の意味は、「眠る」という言葉を「死」として捉えています。 ここではギリシャ語の定義をいろいろ入れていますが、ギリシャ語はその使い分けを表しています。    第一テサロニケ4章13節は κοιμάω(コイマオー)という単語を使っています。コイマオーというのは「眠る」という単語ですが、ここの単語は、第一テサロニケ5章6節で「眠る」という単語を使っていますが、コイマオーという単語は使っていません。  καθεύδω(カテウドー)という単語を使っています。このカテウドーというのも「眠る」ですが、ここでは「無警戒で眠る」という意味で使う単語です。  この二つの意味によって、私たちは「眠る」というのが単純に睡眠をとるということではない、ということがわかります。  そして最後の第一テサロニケ5章10節は、ζάω(生きる)という単語、それから καθεύδω(眠る)という単語。この二つの単語は、「生きている者/死んでいる者」という、包括的に言い表す対句の表現として用いられています。したがって、1、2、3の文脈とギリシャ語の区別から、5章6節で「眠っている」というのは、救いの外にある者の典型的な在り方を言っています。  「眠っていないで」というのは、その様式に同調して振る舞うな、ということです。  眠っている人の特徴は、自分を基準に世界を理解している人、自分を中心に聖書を勝手に解釈している人です。「私が、私を、私に、私へ、私の、私から、主は私」。そしてその「私」に聖書用語を用いて、表面的な経験を装って、神の主権とキリストを認めない。この世、思想、宗教、偽りの宗教など、この世の仕組みそのものです。これが「眠っている状態」です。  なので、「眠っている状態」というのは、実際に睡眠を減らせたとか、警戒して祈るとかではないです。そのような表面的な命令ではない。ここに理解をしっかり置いてください。  そして「眠っていないで」ということは、この世の教えに顔を向けるな、と言っています。永遠の結合から目を離すな。地にあるものを見てはならない。上にあるものを思いなさい。  御座におられるキリストと、私たちが聖霊によって結ばれているということ、これを「聖霊により結ばれている」と言うのです。そしてそれは神の御業による事実だということを認めよ、ということです。  このようにパウロは、「眠らないで」という意味を全体の文脈の中で伝えています。 そして「身を慎む」というのは何か。 5章8節でパウロはこう言っています。  「しかし私たちは昼の者なのですから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みを兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」  これはどういうことか。自己抑制だとか道徳管理だとか修行ではありません。ここで語られている「身を慎む」は、全くそういう意味ではないです。  ここで語られている「身を慎む」というのは、聖化の過程のことを言っています。なぜか。今から説明します。  試練や苦難の中で、自分の偶像が砕かれていきます。そして神により照明を与えられて、神のみにより頼りにする者に変えられていく。これが聖化の過程です。  そこで何が起こるかというと、あなたは救いの源泉である永遠の結合へ、絶えず帰っていく。その中で胸当てや兜のたとえをこういうふうに理解するのです。  胸当てや兜とは、唯一、神が与える試練、苦しみ、悲しみ、絶望のただ中で、照明によって信仰者が受ける救いの装備なのです。  もう一つ、ここに深く入っていきます。  例えば、信仰というのは盾です。しかし信仰を「自分が思い込んで信じ切ること」だと思うでしょう。「私は信じ切ります」と言って、信じ切ってそれを盾にする、と思うでしょう。しかしそんなものではありません。 信仰は賜物です。最初からそうです。  神が、「自分はダメだ」ということを教えて、神だけにより頼む者にする。信仰はそれ以外にありません。 この信仰は成長するのです。最初に与えられた信仰は、だんだん成長していく。キリストの御姿に従って成長していきます。  信仰は、神が与える試練と苦難の中を通って、照明によって与えられる。そして精錬されるのです。  信仰は、あなたが打ちのめされた時に、初めて精錬されるのです。  神によって信仰は成長させられる。そしてその苦しみを通ってあなたに与えられた「キリストのみに頼る」というその思いは、あなたの信仰となり盾となるのです。そして初めてあなたは、その盾の裏側に隠れるのです。その時に、悪しき者が放つ火矢が、その信仰の盾によって初めて消えます。  あなたが「信じ切る」という自己義認的な、また宗教的な理解によって想像で作る盾というのは、盾ではありません。本当に火が来た時に燃えてなくなる。役に立たない。第一ペテロ1章7節が言うように、偽物は火で焼かれて消えます。  だから「自分で信じ切る」という信仰は、本当に悪しき者が放つ火矢が来た時に燃えてなくなる。役に立たない無用の置物です。  それが武装です。  神が与える武装は、苦しみの中を通らなければつかない。来ない。神が照明としてあなたに与える、「神が私を守ってくださる」というその信仰は、苦しみと痛みを通してのみ与えられる。それは精錬の火です。  これがパウロの言っている胸当てや兜のたとえの本質です。すなわち、これらの武具はたとえであって、そのたとえの本質は、聖化によって神からあなたに与えられる信仰の実体なのです。  それは楽しては来ないし、自分で表面的なキリスト教になって、「私は教会に行っている、献金している、それで私は守られている」というような表面的なものは、火が来た時に消え、燃えてなくなります。  「身を慎む」をまとめると、「身を慎む」というのは結局、救いの源泉であるキリストとの永遠の結合へ絶えず帰らされることです。時の始まる前の源泉から来るのです。この源泉から湧き出てくる。  そして神がその湧き出てくる聖化という、あなたを清めていく過程です。 「清める」とは何か。  簡単に洗い流れないから、あなたの汚さはものすごく汚い。あなたの心の中にこびりついている、苦難の時に偶像を頼るという本性は、あなたと共にずっとあり続ける。  その時に神は、試練と苦難と苦痛と悲しみと絶望をあなたに与えて、あなたが偶像に従っていく本性を暴露して、あなたの偶像を神が破壊することによって、あなたは「神しかいない」ということを知らされる。そしてその中において、あなたは神に望みを置く者に変えられていく。  そしてその変えられていく過程の中で、「私の神よ」という告白、心が神により頼む、その思いは神から来ていて、その盾が火矢を消すのです。 これがキリスト教です。  そしてその恵みが供給としてあなたに与えられていく。それが聖化の中で進行していく現実です。それをあなたは感謝して歩む者へと変えられていく。  まず試練の中において、神が与える御心に対して、人は前はつぶやくのです。「なんでこんなことが私に起こるんですか」と。分からないから。「どうしてですか」と。必ず言う。そして逆らう。  そして打ちのめされて、従順に従う者に変えられていく。そして、その意味が分かる。  「なぜですか」と言っている人は意味が分かっていないのです。聖書の神のご計画の意味が分からない状態で、「なんでですか」と神に食らいつく。しかし分からないから。神はそれを照明によって与える。 人は泣きながらひざまずく。人生の中で、神に逆らい、打ちのめされ、逆らい、打ちのめされる。しかし永遠のご計画の中で選ばれているから、救いの中に入っている。  あなたは永遠の救いの中、永遠の時の中で既に救われている。しかし今現在、罪の中にいる。罪の身体、罪の本性がある。  そうすると、「私は今救われているのに、こんなに苦しんでいるのに、私は永遠の中で救われている。どういうことですか」となる。  これは、既にあなたは救われていて、神の永遠の御計画の中では御国にいる。実は。キリストとともにあなたは上げられている。エペソ書がそう言っています。  しかしあなたの現実は、罪との格闘が続く。しかしあなたは一人ではない。神があなたと共にいる。御霊があなたと共にある。 これを「すでに/いまだ」という聖書の真理が表している。  あなたは存在すべてが罪の性質で、そのままなのです。あなたの一部が罪の性質なのではない。あなたのすべてが罪の性質です。人間中心です。  それをあなたは知っている。これは神の恵みです。  それを知らない人は、自分のすべてが人間中心であること、自分が罪の性質そのものであることを知らない。  あなたの心、感情、意志、思い、理性、すべて罪の性質に汚れている。あなたの身体も罪の性質に汚れている。あなたの存在すべてが罪の性質に汚れていて、あなたは罪の性質なのです。  だから救いようがない。  これをまず理解しなければならない。  そうすると人は言う。「御霊が私を支配して、私は御霊に起こされているのに、そんなことあるんですか」と。  御霊は、あなたの全存在と結合しているのです。  キリストはあなたの全存在、意識、感情、思い、理性、そして身体、あなたと結合している。信仰者が語るのはこれです。  そして契約的にあなたは結合している。アダムの契約によってではなく、キリストの契約によって、あなたは永遠に救われて結合している。  救済史のすべて、永遠の過去から永遠の未来まで、あなたは結合している。この結合の実態、この現実があなたにある。  そうすると、「私は二つの結合があるんですか」と言うなら、そのとおりです。二重構造なのです。  永遠においても、現実においても、あなたはキリストと結合している。しかしあなたの生まれつきの形は罪の性質そのもの。  ではどうなるのか。  あなたは既にキリストと結合していて、永遠の未来まで保証されている。そして今は、その永遠に向かっていく過程の中で、罪の性質は支配権を失っている。あるけれども残骸としてある。しかしキリストとの結合によって、キリストの支配がそこにある。  これが「すでに/いまだ」の二重構造。神は罪の性質を殺していく。あなたの人生の中で。それが聖化の過程です。あなたの変化は、罪の性質が殺されていく聖化の展開状態です。  そして第一テサロニケ5章19節でこう言います。 「御霊を消してはいけません。」 「御霊を消してはいけない」というのは、次のような意味ではありません。  祈りを怠ると聖霊が去るだとか、不従順、罪を犯して不従順の状態になると聖霊がいなくなるだとか、感情や熱心さが下がって教会に行きたくないと思うと御霊が弱まるだとか、クリスマスパーティーをやって嬉しくなって御霊が復活するだとか、そういう話は一切ありません。これは偽りの教えです。  聖霊は、あなたが再生した時に永遠にあなたと共にいる。それは永遠の昔から、時の始まる前から、あなたと共にいる。そのことが時の流れの中で現れて、はっきり見えるのです。  だから文脈から見ると、「御霊を消してはなりません」という命令の直前と直後の文脈から、こう言えます。 御霊とは、すでに選ばれた人々に与えられた御霊。この御霊は、人々の集まりの中で、パウロが教える福音――神の主権とキリストとの結合を軸にした神中心の福音――これに反対する思考、考え、教え、またそれに従うことへの警告なのです。  御霊を消すということは、人間主義をそのまま受け入れること、そのことです。 「イエス様、私はあなたを救い主として認めます。どうか私の内に入ってきてください。」この時点で、もう間違っています。  神は、あなたの心なんか関係なく、あなたの意思なんか関係なく、すべて神のご計画の中においてあなたを選ばれている。聖書はそう言っています。  それなのに、「神よ、私はあなたを救い主として認めよう。ところで私は今つらい、暗いところにいる。いろんな問題を抱えている。だから私が望むところに連れて行け。」そして「イエス・キリストの名によってお祈りします」という宗教的な決め事で締める。  これが人間主義的な祈りの恐ろしさです。ここへ行くな、ということです。  これを、何も思わず受け入れている時に、あなたは御霊を消している。そう言っているのです。「そうしてはいけない」。  その後にパウロはこう言っている。  「御霊を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。」  同じことです。  「預言」というのは、未来を語るという意味と、聖書の御言葉を取り次ぎ、解き明かすという意味があります。ここは、聖書の御言葉の真理を解き明かすこと、それを軽んじるな、ということです。  パウロは、エペソ書からずっと一貫して語っています。永遠の過去・現在・永遠の未来を結ぶ「キリストとの永遠の結合」が福音である。これを軽んじるな、と言っている。  つまり、御霊を消すということは、復活を軽んじること、律法主義、決心主義など、行いによって救いを得るという人間主体の教えに従うこと。  だからディスペンセーション主義に従って、時代で聖書の一貫性、救いの永遠の一貫性を否定して分割して、ユダヤ民族に福音が先に全部行って彼らが救われて、それから私たちに来る、などと構造を変えてしまうものに従った時、あなたは御霊を消している。 (もっとも、その前に救われていないと思いますが。)  このように、キリストとの栄光の結合という真理を退けることが、御霊を消すということです。  結合の視点から言うなら、真の信仰者は、永遠の時の始まる前からキリストとの結合の中に置かれている。聖霊によって、その結合が時の中で顕在化される。聖霊は命として与えられる。 したがってこの命令は「結合を失うな」ではなく、「あなたがすでに置かれているキリストとの親しい交わりを否定する立場に立つな」という警告です。それは救いを否定するのと同じだから、心の中でそれを疑ってはいけない。  そして、そのような人間主義の「私の内に入ってきなさい」という邪悪な祈りを受け取ってはいけない。 この命令の本質は、世の命令のように「御霊は人間の意思で願えば来る」かのように教えるカリスマ主義――「さあ祈って油注ぎをもらいましょう」「ワン、ツー、スリー、フォー」――そういう構造を拒むことです。 「御霊よ来い」という人間主義。戦勝意欲と表面的経験を偽装して、御霊の証言を抹殺する。なんと傲慢で醜い教えか。  パウロはそれを厳粛に否定している。だから「御霊を消してはいけない」と言うのです。  そして次、「御霊によって歩みなさい」。  私は何度も「御霊によって歩みなさい」について話しています。今日は、ここにいる一人でも二人でも照明を受けてほしいです。  この命令は、真理です。  もう一度言います。永遠の過去、現在、永遠の未来は、キリストとの結合において一つに結ばれているのです。永遠の過去、現在、永遠の未来、あなたの目の前に広がっている永遠は、一つの接点――キリストとの結合――にすべてがある。  これは、「自分で頑張って霊的な生活を送れ」という話とは程遠い。  神の主権のもとで永遠の結合、あなたはその接点に置かれている。その真理の中を歩むというのは教理です。キリストとの教理です。  永遠、現在、未来をつないでいるこの一つの結合は教理です。ふわふわした霊的感覚ではない。 神は言葉であった。言葉は神と共にあった。真理の言葉。真理の言葉とは何か。キリストとの結合の真理です。ここを歩むのです。ここから目を離してはいけない。  「御霊によって歩く」とは、様々な人間中心主義的侵略、支配侵略、律法主義、霊的戦い思想、決心主義、フリーグレイス、ディスペンセーション、ユダヤ主義、あらゆる偽りの宗教、また仏教などの人間宗教、そういったものから逃げることです。  そして、キリストとあなたが全身で結ばれている、神があなたを結合してくださっている、この救いの真理、教義、ここに立つこと。  それが「御霊によって歩く」です。  御霊とは何ですか。真理の御霊です。御霊はみことばです。御霊は福音の真理を明かし、照明し、適用し、確証する方です。  だからパウロは言うのです。この真理に捉え続けられ、この教理に従って生きること。真理は人を自由にします。  上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはいけない。上にあるものとは神の御座、キリストの御座。あなたはそこにキリストとともに、すでに着座させられているのです。  永遠の結合のこの現実は、喜びと感謝と平安を与えます。命の水が溢れ出る。あなたの救いの源泉です。  だから「御霊によって歩みなさい」とは、この源泉から汲め、ということです。他に泉はない。命の泉はキリストとの結合にある。すべてはキリストにある。すべてはキリストに隠されている。他を探ってはいけない。それがパウロの言っていることです。  御霊は三位一体の神です。御霊が内住するということは、三位一体の神が臨在されることを意味します。 御霊は真理の御霊。私たちを全存在でキリストと結合させる方です。  したがって、私たちは「御霊によって歩む」「御霊によって生きる」ということを、空想や霊的感覚に置き換えてはいけません。  それは、あなたとキリストが永遠に離れないという神の愛です。パウロがエペソ書で言っている神の愛。広さ、長さ、高さ、深さ。人知を超えたキリストの愛。  それは「人間の感情」ではない。感覚でもない。パウロが示す愛とは、父によって永遠に定められ、子によって十字架で成し遂げられ、御霊によって適用され、私たちがそれに結合させられている愛です。全人格的、契約的、全救済史的な愛です。  それが御霊が語る真理そのものです。救いの全体構造、それが真理です。  そしてあなたは、この御霊と結合している。そのことを忘れてはいけない。ここに「御霊によって歩きなさい」という神の照明がある。  他に歩く道はない。行ってはいけない。あなたは、キリストと絶えず一つであることを喜び、この救いの源泉から水が溢れていること、それがあなたの内にあること、その現実に生きることです。  伝道者の書3章11節は言います。  「神のなさることはすべて時にかなって美しい。  神はまた人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることはできない。」  私たちは、永遠の始めから終わりまで、どのように何が行われているのか、神の摂理がどのように働くか、さっぱり分かりません。  しかし私たちはイエスを見ます。十字架につけられたイエス・キリストを見ます。  神はご自分の子どもたちを、この真理を見つめ、真理を見つめ続けて生きる者へと変容させるのです。地のものから、永遠へ、永遠を見つめ続けて生きる者へと。  神が人の心に永遠を与えられた。これは神の御業です。  選ばれた人々は、絶えずこの真理へと目を向けさせられていく。  すなわちパウロが言います。「御霊によって歩みなさい」「目を覚ましていなさい」。それは、あなたはその中にもう置かれているのだ、ということを認めなさい、理解しなさい、認識しなさい、ということです。  そして周りにある教えを吟味し、識別し、避けなさい。何でも受け取ってはいけません。人間中心主義の祈りを受け取ってはいけません。それは御霊を消すことです。  ペテロは言っています。パウロの書いていることは難しい。しかしそれを曲解して誤読し、自ら裁きを確定させる者たちがいる。あなたもそうなる。だから逃げなさい。識別しなさい。  聖書は神の息吹です。神が息吹き、選ばれた人々に与え、預言者を通して語られたものです。  だから教会は選ばれた者の集まりです。何でもかんでも混ぜてしまって、教会の交わりを崩してはいけない。伝道は伝道、教会は教会。切り分けるべきです。 祈ります。  愛する天の父なる神様。  私たちが本当に受けているこの恵みの素晴らしさを感謝します。  私たちが、永遠のあなたの御座と現在、そして永遠の未来までも、イエス・キリストにあって結ばれていることを感謝します。私たちが、この方によって永遠の命の源泉から湧き出る水に生かされていることを、心から感謝します。  私たちは永遠は遠すぎて見えません。しかし私たちはあなたが示された御子を見ます。十字架につけられたイエス・キリストの死を見ます。そこに私たちが共に結ばれ、共に死に、共に蘇ること。十字架の御子と私たちが一つであることを、心から感謝します。  愛するイエス・キリストを通して、感謝してお祈りします。アーメン。

  • 最終回 主を仰ぎ見る―救いの完成

    2026.8.23 豊川の家の教会礼拝メッセージ 主を仰ぎ見る――救いの完成 私たちの救いは、罪が赦されることで終わるのではありません。苦しみが取り去られることでも、ただ天国へ行くことでもありません。救いの完成とは、主ご自身とともにおり、主をありのままに仰ぎ見ることです。 しかし、この救いは、私たちが地上でキリストを信じたとき、突然始まった計画ではありません。聖書は、さらに深いところまで私たちを連れて行きます。 エペソ1章4節 「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」 世界の基が据えられる前から。まだ私たちが生まれる前です。まだ世界そのものが造られる前です。神は、私たちを「キリストにあって」選んでくださいました。ですから、救いの源をたどっていくと、私たちの信仰や決心に行き着くのではありません。さらにその前、天地創造よりも前です。父なる神が、御子キリストにあってご自分の民を選ばれた、その永遠の恵みのみこころにまでさかのぼるのです。 Ⅱテモテ1章9節 パウロは、エペソ人への手紙で語った「キリストにある選び」の教理を、テモテにも語っています。 「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、永遠の昔に私たちに与えられ」 神の救いの計画そのものが、初めから「キリストにあって」なのです。ここで、はっきり区別する必要があります。私たちが永遠の昔から、御霊によって現実にキリストと結ばれていた、ということではありません。永遠の昔、私たちは神のご計画においてキリストにあって選ばれました。そして歴史の中で、有効召命により、御霊によって現実にキリストと結ばれたのです。 世界の基が据えられる前、キリストにあって選ばれた。歴史の中で、御霊によってキリストに結ばれた。そして地上では、キリストが私たちのうちに住んでおられる。救いの中心はキリストであり、すべての恵みはキリストとの結合から流れてきます。 イエス様は、十字架にかかられる前の祈りの中で、驚くべきことを語られました。 ヨハネ17章21節 「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らもわたしたちにいるようにしてください。」 23節では、「わたしが彼らにおり、あなたがわたしにおられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と言われています。イエス様は、信仰者とご自身との関係を、単なる先生と弟子の関係として語っておられません。「わたしが彼らにおり」と言われるのです。これは、キリストとの結合です。 今、復活されたイエス・キリストは、栄光の身体をもって天におられます。父なる神の右に座し、すべてを支配しておられます。しかし同時に、その同じキリストが、聖霊によって信仰者と結ばれ、私たちのうちに住んでおられます。 パウロはガラテヤ2章20節で、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と言いました。またローマ8章10節では、「キリストがあなたがたのうちにおられるなら」と語っています。ここでいう「私のうち」「あなたがたのうち」とは、単に心の奥にキリストがおられる、という意味ではありません。 Ⅱコリント4章7節 「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」 この「土の器」とは、弱く、壊れやすく、死に定められた身体をもつ私たちです。そして「宝」とは、直前の6節にある「イエス・キリストの御顔にある神の栄光を知る知識の光」、すなわち、キリストの栄光を現す福音の光です。 この箇所の直接の文脈は、弱い人間に託された福音の務めです。そのため、Ⅱコリント4章7節だけで、キリストとの結合のすべてを説明することはできません。しかしパウロは、ガラテヤ2章20節で、キリストが私たちのうちに生きておられると語り、Ⅰコリント6章19節では、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる聖霊の宮」と語っています。 キリストとの結合は、心や魂だけの結合ではありません。御霊によってキリストに結ばれるのは、身体を含む信仰者の全人格、全存在です。 パウロはⅡコリント4章10~11節で、「イエスのいのちが私たちの身に現れるため」「私たちの死ぬべきからだに、イエスのいのちが現れるため」と語っています。キリストのいのちは、抽象的な内面だけでなく、この死ぬべき身体をもつ私たちの全存在に現されるのです。 ウェストミンスター大教理問答66 ウェストミンスター大教理問答66は、この結合をはっきりと言い表しています。 「選ばれた者がキリストと持つ結合とは、神の恵みのみわざであり、それによって彼らは、霊的に、神秘的に、しかし現実に、そして分離不可能に、彼らのかしらまた夫であるキリストに結び合わされることであり、それは彼らの有効召命においてなされる。」 永遠の昔に定められた選びが、有効召命において、御霊による現実のキリストとの結合として私たちに適用されるのです。 キリストとの結合は「霊的に」なされます。これは、復活されたキリストの身体が、私たちの身体の中に入ってくるということではありません。聖霊によって、私たちは天におられるキリストに結ばれるのです。そして、それは「神秘的に」なされます。私たちには、この結合のすべてを説明し尽くすことはできません。 しかし、神秘的だからといって、単なる象徴ではありません。大教理問答は、「しかし現実に」と言います。私たちは、キリストについて考え、キリストを模範としているだけではありません。聖霊によって、本当にキリストご自身に結ばれているのです。 そして最も大切なのが、最後の言葉です。「分離不可能に。」一度、御霊によってキリストに結ばれた者は、死によってもキリストから引き離されません。 ここから、私たちの救いを四つの段階で見ていきます。 一 世界の基が据えられる前――キリストにあって選ばれた エペソ1章4節には、「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び」とあります。救いの源は、私たち自身の中にはありません。私たちの信仰や決心から救いが始まったのではありません。 永遠の昔、父なる神がキリストにあって私たちを選ばれました。ただし、この段階で私たちがすでに存在し、御霊によって現実にキリストと結ばれていたのではありません。永遠の昔にキリストにあって選ばれ、歴史の中で御霊によってキリストに結ばれるよう定められていたのです。 二 地上にいる現在――御霊によってキリストに結ばれ、信仰によって主を仰ぐ 今、私たちは地上にいます。復活されたキリストは天におられます。私たちはまだ、その御顔を肉眼で見ることはできません。しかし、見えないからといって、キリストから離れているのではありません。 ガラテヤ2章20節で、パウロは、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と言います。 ローマ8章10~11節には、「キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊は義のゆえにいのちとなっています。イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます」とあります。 ここでパウロは、現在の御霊の内住と、将来の身体の復活を一つにつないでいます。今、御霊は私たちのうちに住んでおられます。そして、その同じ御霊が、やがて私たちの「死ぬべきからだ」も生かしてくださいます。キリストとの結合による救いは、魂だけの救いではありません。身体を含む、私たちの全存在の救いです。 Ⅱコリント3章18節には、「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」とあります。 今はまだ、私たちのうちに罪があります。弱さがあり、苦しみがあり、死があります。しかし御霊は、キリストに結ばれた私たちを、少しずつキリストと同じかたちへと変えてくださいます。私たちは、信仰によって天におられる主を仰ぎながら歩いているのです。 三 死後・再臨前――魂はキリストとともにあり、身体は復活を待つ 私たちは、死んだ瞬間にキリストとの結合を失い、天に行ってからもう一度キリストと結ばれるのではありません。 パウロはⅡコリント5章8節で、「むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています」と語ります。また、ピリピ1章23節では、「世を去ってキリストとともにいることを願っています。そのほうが、はるかに望ましいのです」と語っています。 死によって身体と魂は一時的に分かれます。しかし、魂がキリストとともにあるだけでなく、墓に置かれた身体も、なおキリストに結ばれた身体として、復活の日を待つのです。 黙示録6章9~11節には、殉教した聖徒たちについて、「神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちの魂を、祭壇の下に見た」とあります。ここでヨハネが見ているのは、まだ身体の復活を迎えていない「魂」です。彼らは意識を失っているのではありません。神に向かって叫び、神から答えを受け、最終的な完成を待っています。 「祭壇の下」とは天国の地理的な位置ではなく、旧約のいけにえを背景とした象徴です。旧約では、いけにえの血が祭壇の土台に注がれました。 「その血はすべて、全焼のささげ物の祭壇の土台に流す。」(レビ記4章7節) したがって、祭壇の下にいる殉教者たちの魂は、彼らの命が神へのささげ物として注ぎ出されたことを表しています。そこは神から遠い場所ではなく、彼らの死が神に覚えられ、その魂が守られていることを示す場所です。 彼らは主に呼びかけ、白い衣を与えられ、主の答えを聞いています。しかし、まだ身体の復活を迎えていないため、「もうしばらくの間、休んでいるように」(黙示録6章11節)と言われています。 死は身体と魂を一時的に分けることはできても、信仰者をキリストから引き離すことはできません。キリストとの結合には、死による空白はありません。 四 再臨・復活後――栄化された全存在をもって、復活された主を直接仰ぐ 終わりの日、キリストが再臨されるとき、死んだ信仰者たちはよみがえらされます。 ピリピ3章20~21節には、「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」とあります。 キリストが身体をもってよみがえられたように、私たちもよみがえらされます。私たちの卑しい身体は、キリストの栄光の身体と同じ姿に変えられます。 Ⅰテサロニケ4章16~17節には、「主ご自身が、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえります。それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります」とあります。 ここで注目すべきなのは、「キリストにある死者」という言葉です。彼らは死んでいても、なお「キリストにある」のです。そして、その「キリストにある死者」がよみがえります。 Ⅰヨハネ3章2節には、「私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者となることは知っています。キリストをありのままに見るからです」とあります。 キリストをありのままに見る。今まで信仰によって仰いでいた方を、復活した身体をもって直接仰ぎ見るのです。 ヨハネ17章24節で、イエス様は、「わたしがいるところに、あなたがくださった者たちもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです」と祈られました。 そして聖書の最後、黙示録22章3~5節には、「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らには、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める」とあります。 復活し、栄化された神の民が、全存在をもって神と子羊の御前にいます。そして、「御顔を仰ぎ見る。」ここに救いの完成があります。 Ⅰコリント13章12節も、この現在と完成の違いを、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります」と表しています。 今は部分的にしか知ることができません。しかし完成のとき、私たちは主の御前で、完全な交わりに入れられます。キリストとの結合は、御顔を仰ぎ見るときに終わるのではありません。私たちはキリストに結ばれたまま、復活した全存在をもって、そのキリストを直接仰ぎ見るのです。 ヨハネ17章で、イエス様は、「わたしが彼らにおり。」「彼らがわたしとともにいる。」「わたしの栄光を見る」と祈られました。この三つが、救いの完成において一つになるのです。 まとめ 私たちの希望は、単なる未来の場所ではありません。 1)永遠の昔、神のご計画において、キリストにあって選ばれた。 2)歴史の中で、有効召命により、御霊によって現実にキリストと結ばれた。 3)死によって身体と魂が一時的に分かれても、キリストとの結合は断ち切られない。魂は主とともにあり、身体もなおキリストに結ばれた身体として、復活の日を待つ。   4)再臨のとき、私たちは栄光の身体によみがえり、復活された主を直接、間近に仰ぎ見る。  5)そして永遠にキリストにあり、永遠に主の御顔を仰ぎ見る。 救いは、永遠の昔、キリストにあって定められました。歴史の中で、有効召命により、御霊によって私たちに適用されました。私たちは、身体を含む全存在をもってキリストに結ばれています。 死によって身体と魂が一時的に分かれても、キリストとの結合は断ち切られません。魂は主とともにあり、身体もなおキリストに結ばれた身体として、復活の日を待ちます。 そして再臨の日、私たちは栄光の身体によみがえり、全存在をもって、復活された主を直接仰ぎ見ます。私たちは、キリストに結ばれたまま、そのキリストを仰ぎ見るのです。 「わたしが彼らにおり。」「彼らがわたしとともにいる。」「わたしの栄光を見る。」 この三つが、救いの完成において一つになります。 「彼らは御顔を仰ぎ見る。」 救いの完成とは、単に天国という場所を得ることではありません。 永遠にキリストにあり、 永遠にキリストとともにおり、 永遠にキリストの御顔を仰ぎ見ることです。 「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」 コロサイ人への手紙 1章27節 これが真の信仰者の希望です。これが、救いの完成です。

  • なぜ信じても苦しみが続くのか?「すでに/いまだ」の救い

    キリストとの結合 ― すでに、いまだ   結合が福音の中心 2025.10.18 豊川の家の教会 礼拝メッセージ  私たちがクリスチャンであるのは、神が私たちを救われたからです。しかし、救いとは「罪が赦されること」だけではありません。救いとは、キリストと結ばれることそのものです。ジョン・マレーはこう語ります。  「救いのすべての祝福は、キリストとの結合から流れ出る。結合は恵みの順序の中の一項目ではなく、全体を貫く中心軸である。」  この“結合”があって初めて、選びも現実となり、再生も起こり、そして義認・聖化・栄化も実を結びます。 1. 神のなさることは、すべて時にかなって美しい 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」 ― 伝道者の書 3章11節  私たちは、永遠と時の流れという二つの次元の中で生きています。しかし、私たちの救いは、単に時間の中で起こった出来事ではなく、神の永遠のうちにある結合です。神は永遠の計画の中で、キリストのうちに私たちを選び(エペソ1:4)、それは単なる「救いの予定」ではなく、キリストの中にいるあなたを、永遠の喜びと満足をもって見つめておられたという意味です。  父なる神は、御子キリストのうちにあなたを見、御子の義と美しさの中にあなたを見、「これこそわたしの愛する者、わたしの心にかなう者」と喜ばれました(マタイ3:17)。すなわち、神はキリストの中にあるあなたを永遠に愛し、喜ばれたのです。  同時に、神はキリストのうちに教会全体を見ておられました。すなわち、あなたはただ個人としてではなく、キリストの体の一員として、愛と喜びの中に選ばれたのです。この教会的選びこそ、神が「キリストにある者たち」を御自身の民として抱かれる愛の広がりです。  これこそが、神のうちにあるあなたの永遠の結合の始まりです。  そして神は、その永遠の結合を時間の中での結合として現実にするために、聖霊によって私たちを再生させてくださいました。  伝道者の書は語ります――神は人の心に「永遠を思う思い」を与えられた。それは、人間が時間の中に生きながらも、永遠の神との結合を求める存在として造られたからです。  今日は、この「永遠における結合(永遠の結合)」と「時間の中で実現する結合(時間の中での結合)」 という二つの側面を見つめながら、なぜ神が私たちの心に永遠を思う思いを与えられたのかを学びたいと思います。  それこそが、私たちの信仰の土台そのものだからです。今日のメッセージはその信仰の土台のことです。 2.救いのすべての段階  救いの各段階は別々の出来事ではなく、一つの源から流れ出ています――キリストとの結合です。  永遠の選び(エペソ1:4) 「すなわち、神は、天地創造の前に、私たちをキリストにあって選び、御前に聖く、傷のない者にしようとされました。」  時間の中での再生(ヨハネ3:5) イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」  神の御前における一度きりの義認(ローマ5:1) 「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」  御霊による聖化(1テサロニケ4:3) 「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、不品行を避けることです。」  終わりの日の栄化(ローマ8:30) 「神はあらかじめ定めた人たちを、さらに召し、召した人たちを義と認め、義と認めた人たちを、さらに栄光を与えました。」 これらはすべて、「キリストとの結合」という一つの現実の中で展開します。だからこそ、私たちの信仰生活の全体を要約する言葉があるとすれば――それは「キリストとの結合」なのです。 3.一つの結合 ― 「すでに」と「いまだ」  ここで大切なのは、結合が二種類あるのではないということです。「結合は一つ」です。ただし、その一つの結合が、二つの次元――「すでに」と「いまだ」――の中で現れるのです。 「すでに」― 永遠における結合(神の側の完成した現実) 「いまだ」― 歴史の中での結合(聖霊による現実化)  福音はこの二つの次元の中で結合を理解することによって、私たちはキリストとの結合を表面的な理解から、その神的深みへと導かれます。 4.「すでに」― 永遠における結合  エペソ1:4にはこう書かれています。 「神は天地創造の前に、私たちをキリストにあって選び、御前に聖く、傷のない者にしようとされました。」 神はあなたを個別に愛する前に、キリストにあってあなたを見ておられました。 選びそのものが、キリストとの結合の中で行われたのです。  R.C.スプロールはこう語ります。 「神の義は神の本性上の義務であるが、あわれみは神の自由な御心の選びである。神は罪人に義を求める義務をお持ちだが、赦しを与える義務はお持ちでない。したがって、救いとは神の恵みの選びである。」 この「神の自由な恵みの選び」の中で、私たちはすでにキリストに結ばれていたのです。 5.「いまだ」― 時間の中での結合  しかし、私たちは時間の中を生きる存在です。神が永遠において定められた救いは、歴史の中で現実化されます。 「私たちはこの御子にあって、その血による贖い、すなわち罪の赦しを受けています。」(エペソ1:7) 「あわれみ豊かな神は、私たちをキリストと共に生かし、共によみがえらせ、共に天の所に座らせてくださいました。」(エペソ2:4–6)  再生とは、聖霊がキリストとの結合を現実に適用し、私たちに新しいいのちを与える、歴史の中の瞬間です。信仰とは、その結合から生み出される、人間の側の応答です。 ジョン・マレーはこう言います。 「結合は再生を含み、信仰を生み出し、義認・聖化・栄化のすべてを抱える。結合なしに、救いのどの段階も成立しない。」  したがって、「再生してから結合する」のではなく、結合したゆえに再生が起こるのです。 6.「すでに」と「いまだ」の交差点  信仰生活は、この「すでに」と「いまだ」の間を歩むことです。 「すでに」 私たちはキリストと共によみがえらされ、天の所に座しています(エペソ2:6)。 「いまだ」 私たちは罪との戦いを続け、完成の時を待っています(ローマ8:23)。  この構造は、信仰義認と聖化の関係にも現れています。すなわち、「キリストにあってすでに義とされた者が、キリストにあっていまだ聖くされつつある」― これが永遠の義であり、いまだ聖くされつつある信仰生活の真実な姿です。 7.教会的な結合  聖書はこの結合を多くの比喩で語ります。 • 体 ― キリストが頭、私たちは肢体(エペソ4:15–16) • 神殿 ― 神の御霊が内に住む(1コリント6:19) • 花嫁 ― 教会はキリストの花嫁(エペソ5:25–27)  特に聖餐は、「すでに―いまだ」の結合を目に見えるかたちで味わう時です。パンと杯を受け取るとき、「すでに」与えられたキリストの十字架の結合を思い起こし、同時に「いまだ」完成していない栄光の食卓を味わいつつ待ち望むのです。  聖餐は単なる記念ではありません。それは、キリストとの結合が今ここで確かに働いているという聖霊の印です。「すでに」赦され、「いまだ」完成を待つ者として、私たちはパンと杯を通して、キリストの臨在と交わりの現実を経験します。 8.苦難と結合 ― 共に死に、共に栄光にあずかる 「もし彼らがわたしを迫害したなら、あなたがたも迫害する。」(ヨハネ15:20) 「わたしはキリストと共に十字架につけられた。」(ガラテヤ2:20)  R.C.スプロールは言います。 「神の聖徒たちが苦難を通して栄光にふさわしい者とされるのは、彼らが御子の苦難にあずかるからである。 苦しみは恵みの欠如ではなく、恵みの深まりである。」  苦しみは、結合の破れではなく、むしろ結合の証拠なのです。「すでに」起こった十字架の一致は、「いまだ」見ぬ、栄光の一致へとつながります。だから私たちは苦難を恐れません。それはキリストが共におられる証だからです。 9.永遠の安全と現在の歩み 「だれが神に選ばれた者たちに訴えを起こすのか。神が義と認めてくださるのだ。」(ローマ8:33) 「どんな被造物も、キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできない。」(ローマ8:39) 私たちの救いは、永遠の中で「すでに」確立され、歴史の中で「いまだ」進行し、やがて「完全に」成就します。 10.まとめ  永遠の昔、時が始まる前から、神は私たちをキリストにあって、ご自身のうちに結び合わせておられました。そして歴史の中で、御子キリストが十字架にかかり、選ばれた者の罪を贖われました。さらに時の流れの中で、聖霊が働き、その者をキリストに結び合わせ、罪の中で死んでいた心を新しく創造し、再生させ、永遠のいのちへと導かれたのです。  この驚くべき、神の恵みの結合の真理こそ、私たちの信仰の確かな土台です。  もう一度、最初に話したことを説明したいと思います。この理解はあなたのクリスチャン人生を大変革します。 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」― 伝道者の書 3章11節  私たちは、永遠と時の流れという二つの次元の中で生きています。しかし、私たちの救いは、単に時間の中で起こった出来事ではなく、神の永遠のうちにある結合です。  神は永遠の計画の中で、キリストのうちに私たちを選び(エペソ1:4)、それは単なる「救いの予定」ではなく、キリストの中にいるあなたを、永遠の喜びと満足をもって見つめておられたという意味です。  父なる神は、御子キリストのうちにあなたを見、御子の義と美しさの中にあなたを見、「これこそわたしの愛する者、わたしの心にかなう者」と喜ばれました(マタイ3:17)。すなわち、神はキリストの中にあるあなたを永遠に愛し、喜ばれたのです。これこそが、神のうちにあるあなたの永遠の結合の始まりです。  そして神は、その永遠の結合を時間の中での結合として現実にするために、聖霊によって私たちを再生させてくださいました。  伝道者の書は語ります――  神は人の心に「永遠を思う思い」を与えられた。それは、人間が時間の中に生きながらも、永遠の神との結合を求める存在として造られたからです。  これが、キリストとの結合 ― すでに、いまだ。救いのすべての始まりであり、終わりです。

  • 聖書はすべてキリストを中心に読む

    2026.8.19 The Word for you 聖書の中心はすべてキリスト ― 福音とは、キリストの成就がある信仰構造 ― 今日は、「聖書をどう読むのか」という、とても大切なことを一緒に考えたいと思います。聖書を読むとき、私たちはすぐにこう考えやすいのです。「この御言葉は私に何を教えているのか」「私は何をすればいいのか」「この人物のように行動すれば祝福されるのではないか」 しかし、その前にもっと大切な問いがあります。「この御言葉は、キリストとどのようにつながっているのか。」聖書は、最終的に私たちを中心に書かれているのではありません。 聖書の中心はキリストです。 イエス様ご自身が、ヨハネ5章39節で言われました。 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証しするものです。」 ここで言われている「聖書」とは、当時まだ新約聖書が完成していませんから、主として旧約聖書です。つまりイエス様は、旧約聖書は、わたしについて証ししていると言われたのです。 ルカ24章でも、復活されたイエス様は、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体の中でご自分について書かれていることを弟子たちに説明されました。 ですから旧約聖書を読むときの基本は、 旧約 → 「私たち」に直接適用ではありません。 そうではなく、旧約 → キリストにおける成就 → 「キリストにある私たち」です。 キリストにおける成就を通して読むのです。 キリストにおける成就を飛ばしてしまうと、聖書の読み方そのものが変わってしまいます。旧約にはイスラエルが出てきます。王が出てきます。約束の土地があります。敵との戦いがあります。勝利があります。祝福があります。呪いがあります。預言者による象徴的な行動もあります。これらを見て、「イスラエルが敵と戦った。だから私たちも地域の悪霊と戦わなければならない」「イスラエルが土地を取り戻した。だから私たちも霊的領土を奪還しなければならない」「預言者が特別な行動をした。だから私たちも預言的行動をすれば霊的現実を変えることができる」と直接結びつけるなら、そこには重大な問題があります。旧約の出来事を、そのまま現代の自分たちに置き換えて解釈してしまいます。なぜなら、キリストにおける成就が抜けているからです。 旧約聖書は、キリストに向かっています。旧約の祭司は、完全な大祭司であるキリストを指し示しました。旧約の犠牲は、ただ一度ご自身をささげられたキリストを指し示しました。過越の子羊は、神の小羊であるキリストを指し示しました。神殿は、神が人とともに住まわれるキリストを指し示しました。ダビデの王権は、永遠の王であるキリストを指し示しました。 ですから、旧約の契約的、制度的、類型的なものを、そのまま現代の自分や教会へ持ってくるのではありません。まず、キリストにおいて何が成就したのかを見るのです。 そしてキリストは十字架で言われました。「完了した。」キリストは死なれ、復活されました。新しい契約が立てられました。御霊が与えられました。そして私たちは、御霊によってキリストに結ばれています。ここから新しい契約に生きる信仰者の歩みが始まります。 ですから福音の構造は、 旧約 → キリストにおける成就 → 新しい契約 → 御霊によるキリストとの結合 → 信仰者の生活です。ところが、キリストを飛ばしてしまうと、 旧約 → 自分たちとなります。 そうすると何が起きるでしょうか。イスラエルの戦争が、私たちの霊的戦争になります。イスラエルの土地が、私たちが奪還すべき地域になります。イスラエルの王権が、現代の教会の支配権になります。預言者の行動が、私たちが未来を変えるための預言的行動になります。旧約の祝福と呪いが、そのまま現代のクリスチャンへ移されます。 ここから、霊的戦い神学、支配神学、地域霊、領土奪還、預言的行動、宣言によって現実を変える思想、現代の使徒や預言者が地域や社会を治めるという思想、国家や社会を「神のものとして取り戻す」という思想、そうした様々な枝が生えてきます。 しかし、枝だけを見ていてはいけません。根を見る必要があります。 その根とは何でしょう。旧約聖書をキリストにおける成就として読まず、旧約と現代の自分たちを直接つないでしまうことです。 ですから問題の根は、それぞれの神学や実践だけではありません。「預言」という言葉そのものでもありません。根本問題は、キリストとキリストの成就を飛ばして、旧約をそのまま現代の「自分たち」に当てはめていることです。福音の構造が変わっているのです。 ここを間違えると、聖書の中心がだんだんキリストから人間へ移っていきます。「キリストが何を成し遂げてくださったのか」ではなく、「私たちは何をすればいいのか」「私たちは何を宣言すればいいのか」「私たちはどのように戦えばいいのか」「私たちはどの土地を取り戻せばいいのか」という話になっていきます。主語が変わるのです。福音は後景に隠されていきます。 福音の主語は、まず神です。神が選ばれました。神が御子を遣わされました。キリストが贖われました。キリストが復活されました。御霊が私たちをキリストに結び合わせてくださいます。神が始められ、神が成し遂げられる。これが救いです。しかし、キリストを飛ばした旧約適用では、私たちが祈る。私たちが宣言する。私たちが戦う。私たちが領土を奪還する。私たちが霊的現実を変える。という方向へ進みやすくなります。ここには大きな違いがあります。 ヨハネ15章で、イエス様は言われました。 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」 枝が木を支えているのではありません。枝が命を作り出しているのでもありません。神が枝を木に結んでいるので枝は生きています。神が枝を木に結ばれているから実を結びます。それは神の御業です。 イエス様は、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」と言われました。 これが、福音によって生かされる信仰者の姿です。 私たちが天に向かって何かを引き下ろすのではありません。私たちはキリストに結ばれている。キリストから命を受ける。そしてキリストにあって実を結ぶ。 だから聖書を読むときにも、「私は何をしなければならないか」から始めるのではありません。まず、神は何をなさったのか。キリストは何を成し遂げられたのか。この箇所はどのようにキリストへ向かい、キリストにおいて成就しているのか。そこを見るのです。 そして、キリストにあって自分が誰なのかを知り、その恵みの中から歩みが生まれます。 ですから、これから旧約聖書を読むとき、一つの問いを持っていただきたいと思います。 「この御言葉を、私はキリストを通して読んでいるだろうか。」 イスラエルの契約的な歩みを、キリストの成就を飛ばしてそのまま自分に当てはめていないか。王の働きを、そのまま自分の権威に置き換えていないか。土地の約束を、そのまま現代の地域支配へ変えていないか。戦争を、そのまま現代の霊的戦争へ読み替えていないか。 そして何より、その解釈の中心に、神の主権、キリストにおける成就、御霊によるキリストとの結合があるかです。 聖書は、最終的に「私たちが何をするか」を中心に語る本ではありません。まず、神がキリストにあって何をしてくださったのかを語る書物です。 旧約はキリストを指し示します。キリストにおいて成就します。新しい契約が立てられます。御霊によって私たちはキリストに結ばれます。そしてキリストに結ばれた枝として実を結びます。 ですから最後に、この二つを覚えてください。 キリストを飛ばした読み方 旧約 → 私たち → 私たちが戦う → 私たちが取り戻す → 私たちが実現する 福音の読み方 旧約 → キリストにおける成就 → 新しい契約 → 御霊 → キリストとの結合 → キリストから実を結ぶ 見た目には、どちらも聖書を読んでいます。どちらも聖書の言葉を使います。しかし、根が違います。 だから私たちは、聖書をキリストなしに読みません。これは単なる聖書解釈の違いではありません。旧約聖書をキリストにおける成就を通して読むのか。それとも、キリストを飛ばして現代の自分たちへ直接適用するのか。この違いは、最後には、「キリストが何を成し遂げられたのか」を中心にするのか、「私たちが何をするのか」を中心にするのか、という違いになって現れます。だから問題は、解釈の好みではありません。 キリストが中心におられるかどうかです。 聖書はすべて、キリストを中心に読む。旧約はキリストを指し示し、キリストにおいて成就する。そして御霊は、私たちをキリストへ導き、キリストに結び、キリストにとどまらせます。 私たちの信仰は、自分の力、自分の宣言、自分の戦いによって何かを実現する信仰ではありません。キリストにとどまり、キリストから命を受け、キリストによって実を結ぶ信仰です。 主は言われます。 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」 福音とは、キリストについて語ることだけではありません。すべてがキリストにおいて完成し、私たちがそのキリストに結ばれて生きるという信仰構造そのものです。 補足です。 【旧約聖書を必ずキリストと、キリストにおける成就を通して読むとは】 旧約聖書全体は、キリストを直接語る箇所だけでなく、キリストを約束し、キリストを予表し、キリストを必要とし、キリストによる完成を待ち望む、一つの救済史です。 旧約聖書の一節一節が、すべてキリストを直接預言しているわけではありません。しかし、すべての箇所は、キリストにおいて完成する一つの契約と救済史の中に置かれています。 したがって、旧約聖書のどの部分も、キリストと無関係ではありません。 旧約聖書には、直接キリストを預言する箇所だけでなく、次のようなものがあります。 ・キリストが成就される約束 ・キリストを予表する人物 ・キリストの御業を示す犠牲と制度 ・キリストによって完成する救いの出来事 ・キリストを必要とする人間の罪と失敗 ・キリストが担われる神のさばき ・キリストがもたらされる新しい契約と新しい創造 例えば、旧約聖書における「主を仰ぎ見る」という信仰の歩みは、新約において、御霊によってキリストを仰ぎ、御霊によって歩くこととして明らかにされます。 これは、キリストが救いを成し遂げ、御霊を遣わしてくださったことによって実現しました。

  • 第3回 御霊によって歩み、キリストを仰ぐ

    2026.8.17 豊川の家の教会礼拝メッセージ 第3回 御霊によって歩み、キリストを仰ぐ 前回、私たちは、救いは初めから終わりまで神の御業であり、そのすべての恵みがキリストとの結合において与えられることを見ました。救いの起点は、私たちがキリストを信じた時ではありません。永遠の昔、父なる神がご自身の民をキリストにあって選び、御子に与えられたところにあります。 旧約の契約共同体イスラエルの中に、神が恵みによって選ばれた真の神の民がいたことを学びました。イスラエル全体が紅海を渡り、マナを食べ、シナイで契約の言葉を受けました。しかし、そのすべてが主を信じ、主を仰いだのではありません。紅海を渡ってもつぶやき、マナを与えられても神を試し、シナイで契約を与えられても金の子牛を造りました。 「イスラエルから出た者がみな、イスラエルなのではありません。」(ローマ書9章6節) 神が恵みによって選ばれた者たちは、神の約束を信じて主に従いました。人間の意志や力ではなく、神の選びが、契約共同体の中に真の神の民を保ったのです。そして神は、新しい契約において、ご自身の選ばれた民のうちに御霊を置き、神に従って歩ませることを約束されました。 「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしの掟に従って歩むようにする。」(エゼキエル書36章27節) 神は単に「歩きなさい」と命じられたのではありません。ご自身の民のうちに御霊を置き、神に従って歩ませると約束されたのです。 そして時が満ちると、御子は人となり、十字架と復活によってご自身の民の救いを成し遂げてくださいました。復活し、天に昇られたキリストは、ペンテコステにおいて御霊を注がれました。こうして、新しい契約に約束されていた御霊の内住が実現したのです。 では、キリストが成し遂げられた救いは、どのようにして罪の中に死んでいた私たちのものとなるのでしょうか。 聖霊が、定められた時に私たちを新しく生まれさせ、信仰を与え、キリストに結び合わせてくださいます。イエスは言われました。 「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3章3節) ヨハネ3章のニコデモは、パリサイ人であり、ユダヤ人の指導者でした。律法を知り、宗教的にも社会的にも高い立場にありました。しかしイエスは、そのような宗教的知識や立場によって神の国を見ることはできないと示されました。人は御霊によって新しく生まれなければならないのです。それは風が吹くように、人間が支配したり生み出したりできるものではありません。新しく生まれることは神の主権的な御業です。そして神は、この御霊によって、ユダヤ人と異邦人の中から選ばれた人々をキリストに結び合わせ、一つの神の民とされました。異邦人もキリストの血によって近い者とされ、ユダヤ人とともに、一つの御霊によって父なる神のもとに近づく者とされたのです。では、このようにキリストに結ばれ、神の国に入れられた神の民は、どのようにして最後までキリストを仰ぎながら歩むのでしょうか。 神は、ご自身の御霊によって歩ませてくださいます。御霊は神の民をキリストのいのちに生かし、試練をも用いて御子のかたちへ造り変え、最後まで守ってくださいます。そしてその歩みを、聖書の最後に示される完成へと導かれます。 永遠の昔にキリストにあって選ばれ、時の中でキリストによって贖われ、定められた時に御霊によって新しく生まれた神の民は、御霊によって歩み、最後には神の御顔を仰ぎ見る者として完成されるのです。 御霊の働き 主イエスは弟子たちに、聖霊が来られる目的をはっきりと教えられました。 「その方はわたしの栄光を現します。」(ヨハネ16章14節) 御霊は、ご自身を目立たせるために来られたのではありません。御霊はキリストを現されます。キリストの十字架と復活の意味を明らかにし、そのみことばを弟子たちに思い起こさせ、キリストにある救いを神の民に適用してくださいます。 つまり御霊の働きは、私たちを御霊ご自身へと向けることではなく、キリストの栄光を現し、私たちをキリストへと向け続けることです。 では、御霊はどのようにして私たちをキリストにあるいのちに生かしてくださるのでしょうか。そのことをローマ人への手紙8章から見ていきます。 パウロはローマ8章で、「肉」と「御霊」を対比しています。ここでいう「肉」とは、単に身体そのものを意味しているのではありません。罪の支配のもとにあり、神に敵対し、神に従うことのできない堕落した罪の性質を指しています。 肉に従う人間は、神ではなく自分を中心として生きます。自分の力、自分の知恵、自分の義により頼みます。それは創世記3章において、神のことばから離れ、自分の判断によって善悪を定めようとした人間の姿へとつながっています。 しかし御霊は、そのような私たちの心を造り変え、自分ではなく、キリストにより頼む者としてくださいます。それは人から出たものではありません。御霊によって、キリストにあるいのちが私たちのうちに現されるのです。 さらにパウロは、この歩みの土台を示しています。 「もしキリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」(ローマ8章9節) 御霊を持っているということは、キリストに属しているということです。そして続けて、 「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら……」(ローマ8章10節)と語ります。 キリストとの結合は、心の奥底にだけあるものではありません。また、人間の中に「霊」という独立した部分があって、そこだけに御霊がおられるということでもありません。聖書は人間をそのように切り分けて救いを語ってはいません。 御霊によってキリストに結ばれた者は、その存在全体がキリストのものとされています。身体もまた私たち自身であり、聖霊の宮です。キリストとの結合は、御霊によって私たちの存在全体に及ぶのです。 御霊によって歩くとは、キリストに結ばれた者として生きることです。 神はすべてのことを用いて、信仰者の心を造り変えてくださいます。それまで自分を支えていたもの、自分が築いてきたもの、自分のプライド、富、知識などが次第にその絶対的な価値を失い、キリストだけが真の宝であることを知らされていくのです。 神は試練をも用いて、私たちの自己中心、自己依存を砕かれます。そしてその中で御霊は、御言葉を通してキリストの卓越性を私たちの心に明らかにしてくださいます。 信仰者は、キリストにある神の知恵と知識の富のすばらしさに圧倒され、その美しさと卓越性に心を捕らえられ、ますますキリストへと引き寄せられていくのです。 自分を頼みとして生きていた者が、キリストを頼みとし、キリストを宝として生きる者へと造り変えられていく。これが御霊によって歩くということです。 使徒たちは、自分たちを「キリストのしもべ」と呼びました。「しもべ」と訳されるギリシャ語「デューロス」は、本来「奴隷」、すなわち主人に所有され、主人に属する者を意味します。 ジョン・マッカーサーは著書『キリストの奴隷』において、この「デューロス」という言葉がキリスト者の姿を理解するうえで重要であることを強調しています。 キリスト者とは、罪の奴隷から解放され、キリストの血によって買い取られ、キリストに属する者です。しかし、ここには福音の驚くべき逆説があります。キリストに属することこそ、真の自由なのです。 罪の支配から解放され、御霊によってキリストの卓越性を知らされ、その美しさに心を捕らえられた者は、いやいやキリストに従うのではありません。自らを贖ってくださった主に喜んで属し、主に従い、主に仕える者へと造り変えられていくのです。 ですから、キリストの「デューロス」として生きることと、「御霊によって歩く」ことは切り離されたものではありません。御霊は私たちを、自分を主人として生きる者から、キリストを主として生きる者へと造り変えてくださいます。 それは外側から強制される服従ではありません。キリストの価値を知らされ、キリストに心を捕らえられた者の、喜びから生まれる服従です。 こうして創世記3章とローマ8章が一本の線で結ばれます。堕落によって神から離れ、自分を中心とし、自分により頼んで生きる者となった人間を、神は御霊によってキリストに結び、キリストにあるいのちと交わりに生かしてくださいます。 自分を主人として生きていた者が、キリストを主として生きる者へ。自分を頼みとしていた者が、キリストを頼みとする者へ。自分の栄光を求めていた者が、キリストの栄光に心を捕らえられる者へ。そして罪の奴隷であった者が、罪から解放され、喜んでキリストに属する者へと造り変えられていくのです。 これが、御霊によって歩くということです。 そして、この御霊の働きをさらに明確に語っているのが、第二コリント3章です。 覆いを取り除かれ、主の栄光を映しつつ、主と同じかたちへ変えられる 第二コリント3章16〜18節にはこうあります。 「人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」 ここには、御霊が神の民になされる働きが明確に示されています。 第一に、主に立ち返るとき、覆いが取り除かれます。罪によって心が覆われていた人間は、自分の力によってキリストの栄光を見ることはできません。しかし御霊は、死んでいた者を新しく生まれさせ、キリストへと立ち返らせ、覆いを取り除いてくださいます。 第二に、覆いを取り除かれた神の民は、主の栄光を鏡のように映す者とされます。御霊は私たちの心を照らし、御言葉を通してキリストの栄光を明らかにしてくださいます。かつては見えなかったキリストの価値、その美しさ、その卓越性を知らされるようになるのです。 第三に、その神の民は、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。 そしてパウロは、この変化について、 「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」 と語ります。 ここでも、救いの主語は神です。 私たちが自分で覆いを取り除くのではありません。御霊が私たちを新しく生まれさせ、主に立ち返らせてくださいます。私たちが自分の知恵によってキリストの栄光を見いだすのではありません。御霊が私たちの心を照らし、御言葉を通してキリストの栄光を明らかにしてくださいます。そして私たちが自分自身を造り変え、キリストに似た者になるのでもありません。御霊なる主が、私たちを栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えてくださるのです。 新しく生まれさせ、覆いを取り除き、キリストの栄光を明らかにし、その栄光を映す者とし、さらにキリストと同じかたちへと造り変えてくださる。これが御霊の働きです。 ですから、「主を仰ぎ見る」とは、人間が自分の力だけで必死に視線を主へ向け続けることではありません。「御霊によって歩く」とは、自分の力で霊的な状態を作り出したり、維持したりすることでもありません。 御霊が覆いを取り除き、御言葉によってキリストの栄光を明らかにし、その御霊に生かされた神の民が、キリストを信頼し、キリストに従って歩むのです。 ヨハネ15章──ぶどうの木と枝 主イエスは、この真理をぶどうの木と枝のたとえによって教えられました。 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人のうちにとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができません。」(ヨハネ15章5節) 枝は実を結びます。しかし、その実を生み出すいのちの源は枝自身にはありません。ぶどうの木にあります。 同じように、信仰者も実際に信じ、従い、愛し、忍耐し、実を結びます。しかし、そのいのちの源は信仰者自身にはありません。ぶどうの木であるキリストです。 ですから、「御霊によって歩く」とは、自分自身の霊性を高めることではありません。キリストからいのちを受けて歩むことです。枝が木からいのちを受けて実を結ぶように、信者もキリストとの結合に生かされることによって実を結びます。 ここでも、救いの主語は最後まで神です。 父なる神がご自身の民を養い、御子がいのちの源となり、御霊がそのいのちを私たちのうちに働かせてくださいます。そして、その神の恵みに生かされた神の民が、実際に信じ、従い、実を結んでいくのです。 三位一体の神が、ご自身の民を完成へと導いておられます。 そして、この神の働きは平穏な時だけになされるものではありません。神はすべてのことを用いて、ご自身の民を御子のかたちへと造り変えてくださいます。そのために神が用いられる大切な手段の一つが、試練です。 試練──神は御霊によって、キリストとの結合に生かし続けられる 試練は、神の摂理の外で偶然に起こるものではありません。神の子どもにとって試練は、父なる神がご自身の民を聖化し、完成へ導くためにも用いられます。 神は試練を通して、私たちが自分の力や知恵により頼むことのむなしさを明らかにし、キリストだけが変わることのない望みであることを教え、キリストにますますより頼む者へと造り変えてくださいます。 パウロはローマ5章で、「苦難さえも喜んでいます」と語ります。それは苦しみそのものが喜ばしいからではありません。神がその苦しみさえも、ご自身の救いの御業の中で用いてくださることを知っているからです。 苦難は忍耐を生み、忍耐は練られた品性を生み、練られた品性は希望を生み出します。そしてその希望は、漠然とした楽観ではありません。神の栄光にあずかるという確かな希望です。 ヘブル人への手紙では、神の子どもが受ける苦難が父の「訓練」という視点から語られています。「主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられる。」 これは、キリストにある者に対する罪の刑罰としての裁きではありません。父が子をご自身の聖さにあずからせるために行われる訓練です。 訓練はその時には喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われます。しかし後になると、これによって鍛えられた人々に義という平安の実を結ばせます。 この真理を具体的に示しているのが、第二コリント12章のパウロです。 パウロは「肉体のとげ」を取り去ってくださるよう三度主に願いました。しかし主はそれを取り去らず、 「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れる。」 と言われました。 パウロ自身、このとげが与えられた目的について、高慢にならないためであったと語っています。神はパウロに、自分の力ではなくキリストの恵みにより頼ることを教えられました。 だからパウロは、「私は弱いときにこそ強いのです」と告白します。彼が誇ったのは弱さそのものではありません。弱さの中に働くキリストの力でした。 そしてパウロはピリピ3章で、それまで自分の誇りとしていたものを、キリストのゆえに損と思うようになったと語ります。 「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」のゆえに、それらを「ちりあくた」と考えました。 これは単に自分の過去を否定したということではありません。キリストの卓越した価値を知らされたために、それまで自分を支えていたものの価値が変わったのです。 神は試練を通して自分への信頼を砕き、御霊によって御言葉を用い、キリストの恵みと卓越性を明らかにし、私たちをキリストにますますより頼む者へと造り変えてくださいます。 自分自身を誇る者から、キリストを何よりも尊いとする者へ。 これが、神が試練をも用いて進めてくださる聖化の御業です。 そして、この神の御業は地上の歩みで終わるものではありません。父なる神は、ご自身が始められた救いの御業を最後まで成し遂げ、ご自身の民をついには栄光のうちに完成してくださいます。 小羊を仰ぎ見る民として完成する 聖書の最後、黙示録には、贖われた民の完成した姿が描かれています。 「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。」(黙示録22章3〜4節) ここに、神の救いの御業の完成があります。創世記では、人は神から目をそらしました。しかし黙示録では、贖われた神の民が御顔を仰ぎ見る者として完成しています。 黙示録の中心的メッセージを極端に短く言えば、 「獣を見よ」ではありません。「小羊を見よ」です。 「これから何が起きるのかを解読せよ」でもありません。「神の救いの御業を仰ぎ見よ」です。 すでに勝利された小羊が、今も歴史を支配し、ご自身に結ばれた民をあらゆる苦難の中で守り、最後には御顔を仰ぎ見る民として必ず完成される。そのことを見よ、というのです。 この意味で、黙示録は聖書66巻の最後に置かれた単なる「終末論の本」ではありません。創世記から始まった神の救いの御業を、十字架で勝利された小羊を中心として完成まで見せる、聖書全体の壮大な終結部なのです。 旧約で語られた「主を仰ぎ見る」歩みは、新約において、御霊によってキリストに結ばれ、キリストを仰ぎながら歩むというかたちで、より豊かに明らかにされます。 父なる神は時の始まる前にご自身の民をキリストにあって選び、御子は贖いを成し遂げ、御霊は時の中でその救いを適用してご自身の民をキリストに結び、御子のかたちへ造り変え、最後にはすべての神の民を御顔を仰ぎ見る者として完成へ導いてくださいます。 黙示録7章9〜10節にはこうあります。 「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。 『救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。』」 救いは、御座に着いておられる神と子羊にあります。 御座は天にあり、主権は神にあります。 救いは人間を起点として始まるものではありません。人間が成し遂げることのできるものでもありません。 この賛美は、救いが御座に着いておられる神と子羊にのみ属することを宣言しています。 私たちは第一回の旧約における「主を仰ぎ見る」から始まり、第二回の「キリストに結ばれて、キリストを仰ぐ」、そして今日、第三回として「御霊によって歩み、キリストを仰ぐ」を通して、創世記から黙示録までを貫く聖書全体の救いの原則を学んできました。 救いは初めから終わりまで神の御業です。そして、救いのすべての恵みは、キリストとの結合において神から与えられます。 ・父なる神が永遠の御心においてご自身の民を御子にあって選び ・御子が十字架と復活によってその民の贖いを成し遂げ ・聖霊がその完成された救いを神の民に適用してキリストに結びつけ ・御子のかたちへと造り変え、最後まで守り、栄光へと導いてくださいます。 そして最後には、贖われたすべての神の民が、御座の前と子羊の前に立ち、 「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」 と神と子羊を直接に仰ぎ賛美するのです。 救いは、父・御子・聖霊なる三位一体の神によって始められ、成し遂げられ、完成される神の御業なのです。

  • 第2回 キリストに結ばれて、キリストを仰ぐ

    2026.8.13 特別礼拝 第2回 第2回 キリストに結ばれて、キリストを仰ぐ ― その救いの起点は永遠の神、中心はキリスト、その恵みはキリストとの結合において与えられる ― 「キリスト教の言葉を聞いていること」と「福音を聞いていること」を同じにしてはいけません。聖書を見ると、宗教的な言葉を聞いていること、教会に属していること、イエスについて聞いていることと、聖書が告げる福音そのものを聞いていることは、必ずしも同じではありません。 パウロがガラテヤ1:6–9で「ほかの福音」に非常に厳しい警告を与えたのもそのためです。「福音」という名前を掲げながら、その内容が変質することがあり得ます。さらにⅡテモテ4:3では、人々が「健全な教えに耐えられなくなり」「自分の好みにしたがって」教師を集めることが語られています。つまり聖書自身が、人間が必ずしも神を中心とする福音を望むわけではないことを示しています。 キリスト教は広い。しかし福音は一つです。そして、その福音の主語は人間ではありません。神です。 そもそも聖書が明らかにする福音とは何か では、そもそも福音とは何でしょうか。福音とは、「罪人が神のために何をするか」ではありません。「神がキリストにおいて罪人の救いのために何を成し遂げられたのか」という知らせです。それは単に「信じれば、死んだ後に天国へ行ける」という知らせではありません。また、「神を信じれば人生がうまくいく」「祈れば問題が解決する」「信じれば守られる」というような、現世的な利益を約束する知らせでもありません。 よく、日本と外国を「キリスト教人口が多いか少ないか」で比較して、福音が広がっているかどうかを判断して嘆き、「神の御国の拡大のために福音を伝えましょう」と語るメッセージがあります。しかし、聖書が問題にしているのは、ある国に「キリスト教徒」と呼ばれる人が何人いるかということではありません。人口比率によって分かるのは、あくまでその国におけるキリスト教という宗教の広がりです。それによって、神によって救われた民がどれだけいるのかを知ることはできません。そのような数字だけをもって、神の救いの御業の大きさを判断することはできません。 聖書が救いについて語るとき、重要なのは、「キリスト教徒」と呼ばれる人が何人いるかということではありません。重要なのは、神が永遠からキリストにあって選ばれたご自身の民です。 パウロはローマ11章で、預言者エリヤの時代を取り上げています。エリヤの目には、イスラエル全体がバアルに傾き、自分一人だけが主に忠実な者として残されているように見えました。しかし、神は何と言われたでしょうか。 「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」(ローマ11:4) 重要なのは、「七千人が自分たちの力で残った」ということではありません。神が「わたし自身のために……残している」と言われていることです。そしてパウロは続けて、「今も、恵みの選びによって残された者たちがいます」と語ります(11:5)。 つまり、神の救いの御業は、人間の目に見える宗教人口や社会的な勢力によって測られるものではありません。神はご自身の恵みの選びにしたがって、ご自身の民を残し、召しておられるのです。福音の起点には、永遠からキリストにあってご自身の民を選ばれた神の恵みがあります。 しかし、これは「選ばれた者なら放っておいても救われる」ということではありません。パウロ自身、11章14節で「何人かでも救いたい」と願っています。神の選びは福音宣教を不要にするのではありません。神は福音の宣教を通して、ご自身の民を召されるからです。 そして11章32節では、ユダヤ人も異邦人も、自分の立場や功績によって救われるのではなく、不従順のもとにある者として、ただ神のあわれみによって救われるという大きな構図が示されます。だからこそパウロは、最後に人間の働きや成果を誇るのではなく、神をほめたたえるのです。「神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。」(ローマ11:33) 聖書がまず明らかにする福音は、とても深刻な現実です。 すべての人は罪によって聖なる神に背き、神の怒りのもとにあり、そのままでは神の正しい裁きを受け、永遠の滅びに至る存在です。しかも、すべての人は罪のゆえにその魂は死んでおり、自分から神を求める能力がありません。 しかし神は、世界の基が据えられる前から、キリストにあってご自身の民を選ばれました。そして時が満ちて御子を遣わし、キリストはその民の罪を負って十字架で死なれ、よみがえられました。聖霊は、定められた時に、罪の中に死んでいたその民を生かしてキリストに結びつけ、その罪を赦し、神の前で正しい者と宣言してくださいます。 こうしてキリストに結ばれた者には、その結合のゆえにキリストのいのちが与えられ、キリストとの結合を源泉として、神がキリストにあってご計画された救いのすべての恵みが与えられるのです。福音とは、罪人が自分で決心して神の救いを得る知らせではありません。世界の基が据えられる前の選びから、キリストによる贖い、御霊による適用、そしてキリストとの結合において与えられる救いのすべての恵みに至るまで、初めから終わりまで神が成し遂げてくださる救いの知らせです。 これが福音の骨子なのです。 そして、なぜここまで福音の起点を確認する必要があるのでしょうか。 それは、これから見る「キリストを仰ぐ」という歩みそのものが、人間の内側から自然に生まれてくるものではないからです。神が永遠から救いを定め、キリストが贖いを成し遂げ、御霊がその救いを適用して私たちをキリストに結びつけてくださる。そのキリストとの結合から、キリストを仰ぎ、キリストに生きる歩みが生まれてくるのです。 この福音と違えば、同じ「イエス」「十字架」「聖霊」「恵み」という言葉を使っていても、福音の理解そのものが違ってきます。一方では、 「私に問題がある。私が求める。私が信じる。私が祈る。すると神が動いてくださる。」 という人間を起点とする理解になります。 しかし福音は、 「神が永遠から定め、キリストが成し遂げ、御霊が適用し、神が最後まで完成してくださる。」 という神を起点とする救いの知らせです。 したがって、問題は単に「どの教えを強調するか」という違いではありません。そもそも何を福音と理解しているのかが違うのです。 そして、福音を正しく聞けば、人間が自動的にそれを受け入れるということでもありません。Ⅰコリント1:18では、十字架のことばは滅びる者には愚かであり、救われる者には神の力であると語られています。神だけがご自身の民をご存じであり、その民をキリストにあって召し、救い、最後まで完成してくださるのです。 「悔い改めなさい」「信じなさい」という命令 聖書は罪人に、「悔い改めなさい」「信じなさい」「キリストのもとに来なさい」と命じます。 しかし、聖書はその命令への応答を救いの起点とはしません。人は実際に悔い改め、信じ、キリストのもとに来ます。しかし、それによって救いが始まるのではありません。神が御霊によって、罪の中に死んでいた者を生かし、キリストへと引き寄せてくださるからこそ、人は悔い改め、信じ、キリストのもとに来るのです。 したがって、信仰や悔い改めは不要なのではありません。それらを、人間が神を動かして救いを獲得する方法へとすり替えてはならないのです。 では、なぜ聖書は罪人に、「悔い改めなさい」「信じなさい」と命じるのでしょうか。 神の主権と福音の命令は矛盾しないからです。 聖書が罪人に「悔い改めなさい」「信じなさい」「キリストのもとに来なさい」と命じるのは、悔い改めと信仰が救いを生み出す原因だからではありません。神が福音の宣教とその命令を、ご自身の民をキリストへ召すための手段として用いられるからです。 ここで、イエスが死んでいたラザロに、 「ラザロよ、出て来なさい」(ヨハネ11:43) と命じられた出来事を、一つの類比として考えることができます。 もちろん、ヨハネ11章が直接、有効召命の教理を説明しているという意味ではありません。この箇所で直接語られているのは、キリストが死んだラザロをよみがえらせた出来事です。しかし、死者に対するキリストの主権的なことばという点において、福音の召しを考えるための一つの類比を見ることができます。 ラザロは、自分の中に命令へ応じる力を持っていたから生き返ったのではありません。キリストのことばが死者に命を与え、ラザロは実際に墓から出て来ました。 福音の召しも、罪人の中に自力で神へ向かう能力があることを前提としているのではありません。神は罪人に信じるよう命じられます。そして御霊が福音のことばを用いて、罪の中に死んでいる者を生かし、キリストへと引き寄せられます。その結果、その人は本当に悔い改め、本当に信じ、本当にキリストのもとに来るのです。 ですから、こう整理することができます。 【誤】命令 → 人間には自力で応じる能力がある 【正】命令 → 神がご自身の民を召し、救いを実現される手段として用いられる 【誤】信仰 → 人間が救いを始める原因となる 【正】信仰 → 神によって生かされた者のうちに実際に生じる そして、もう一つ重要なのは、罪人には神に立ち返り、キリストを信じる責任があるということです。罪の中で死んでいるとは、「信じる責任がない」という意味ではありません。罪人の霊的無能力は、神の命令を無効にするものではありません。 それだけではありません。罪人は、神と救いとの間にある中立的な場所に立って、「信じるか、信じないか」を選んでいるのでもありません。罪人はすでに罪の中にあり、神のさばきの下にあります。イエスは、「信じない者はすでにさばかれている」(ヨハネ3:18)と言われました。 ですから、「悔い改めなさい」「信じなさい」という福音の命令は、中立的な人間に救いを選択させるための呼びかけではありません。神が、罪の中に死に、すでにさばきの下にある罪人に向かって、キリストへ来るよう命じておられるのです。 そして神は、ただ命じられるだけではありません。御霊によって罪の中に死んでいた者を生かし、キリストへと引き寄せ、悔い改めと信仰を与え、実際にキリストのもとへ来る者としてくださいます。 したがって、聖書は罪人に「信じなさい」と命じながら、その救いの起点を人間の決断には置きません。罪の中に死んでいた者を生かし、キリストへと引き寄せ、信じる者としてくださる神ご自身に、救いの起点を徹底して置いているのです。 人間を起点とする宗教と、神を起点とする福音 ここまで見てきたことを踏まえるなら、問題は明らかです。 人間の要求を起点として神を語り、 「あなたが求めれば神が動く」 「あなたが信じれば神が守る」 「あなたが祈れば神が勝利を与える」 という方程式へ福音を変えてはなりません。 「あなた+求める・信じる・祈る=神が動かれる」 これが福音の根本構造なのではありません。 たとえ「神の主権」「選び」「恵み」といったカルバン主義的・改革派的な用語が語られていても、それだけで福音が語られていることにはなりません。 「主イエス」 「十字架」 「聖霊」 「恵み」 「神があなたを守る」 「神があなたを癒やす」 「神が御使いを遣わす」 「霊的戦いに勝利する」 「祈れば神の御業を見る」 「神があなたの問題を解決する」 このようなキリスト教の言葉が教会で使われているからといって、それだけで福音が語られているわけではありません。もちろん、聖書は、神がご自身の民を守られること、祈りを聞かれること、苦しみの中で助けられること、時には病を癒やされることも語っています。 問題は、それらをどこから語り始めるかです。 「私に問題が起きた。私が神に助けを求めた。すると神が動いて私を助けてくださった。」 これが福音の根本構造ではありません。神がご自身の民を守られることの起点は、私たちが神に助けを求めた瞬間より、はるか以前にあります。 起点は時の始まる前 神がご自身の民を守られることの起点は、時の始まる前からです。 私たちが祈る前から、神はご自身の民をご存じです。私たちが危険に気づく前から、神はご自身の民を御手の中に置いておられます。私たちが神を求める以前から、神はご自身の民をキリストにあって選び、その救いを定めておられました。 だから祈りも、「私が神を動かすための手段」ではありません。祈りそのものが、キリストに結ばれた神の民に与えられた恵みです。神はご自身の民に祈らせ、その祈りをも用いて、永遠から定められた御心を成し遂げてくださいます。 その救いの中で、神は祈りを聞かれ、必要を満たし、時には危険から救い出し、病を癒やされることもあります。しかし、それらが福音を生み出すのではありません。福音によって救われ、キリストに結ばれた神の民が、父なる神の主権的な摂理と守りの中に置かれているのです。 福音の中心を人間の必要へすり替えてはならない 御使い、奇跡、癒やし、霊的戦い、守り、祈りによる勝利、特別な体験が中心となり、「キリストの十字架」さえも、「これほど神はあなたを愛しているのだから、あなたを守ってくださる」「神があなたに勝利を与えてくださる」「神があなたの問題を解決してくださる」という人間中心のメッセージを保証するための材料として用いられるなら、福音の中心がすり替えられています。 そこで中心として置かれているのは、「守られたい私」「癒やされたい私」「勝利したい私」「問題を解決してほしい私」「特別な神の御業を体験したい私」です。 神について語りながら、実際には人間の必要と体験を中心に置き、その必要を満たす方として神を配置しているのです。 しかし、聖書全体を貫く福音の中心はそこではありません。福音の主語は神ご自身です。そして救いの中心におられるのはキリストです。そのすべては、神が永遠からキリストにあって定められた救いのご計画に基づいています。 聖書全体を貫く二つの流れ ここで、聖書全体を貫く重要な構造を見なければなりません。聖書には、単に「神を信じる個人」と「信じない個人」が並んでいるだけではありません。創世記から黙示録まで、神に属する者と、この世に属する者という二つの流れがあります。 創世記3:15では、女の子孫と蛇の子孫という二つの流れが示されます。カインとアベル、ノアの時代、アブラハムの召命、イスラエルと諸国民という歴史を通して、その区別は救済史の中に現れていきます。 しかし、旧約のイスラエル民族に属している者が、そのまますべて霊的な意味で神の民だったわけではありません。パウロは、「イスラエルから出た者がみな、イスラエルなのではありません」(ローマ9:6)と語っています。 見える契約共同体としてのイスラエルの中にも、約束にあずかる者と、そうでない者がいました。ですから、イスラエル民族そのものを、そのまま最終的な神の民と考えることはできません。イスラエルの歴史そのものが、やがてキリストにおいて完成される救いを指し示していたのです。 契約共同体イスラエルに、神は救いの型を示された 神はアブラハムを召し、その子孫からイスラエルという契約共同体を造られました。そしてイスラエルの歴史の中に、後にキリストにおいて完成される救いの型を具体的に示されました。 エジプトでは、神の民が自分の力で奴隷状態から脱出したのではありません。神が救い出されました。過越の血によって贖い、紅海を通して導き出されました。 荒野では、自分たちで命を維持することのできない民に、神が天からマナを与え、水を与え、雲の柱と火の柱によって導かれました。民が罪を犯し、燃える蛇にかまれた時にも、自分自身を救う方法が与えられたのではありません。神が備えられた青銅の蛇を仰ぎ見ることによって生きるよう命じられました。 幕屋、祭司、いけにえ、過越、贖罪の日、約束の地、王国、捕囚と回復。これらも、それ自体が救いの完成ではありませんでした。 イスラエルの歴史全体を通して示されたのは、人間が自分自身を救うのではなく、神がご自身の民を選び、贖い、養い、導き、守り、完成へ導かれるという救いの型でした。 しかし、イスラエルは繰り返し失敗しました。紅海を渡ってもつぶやきました。マナを与えられても神を試しました。シナイで契約を与えられても金の子牛を造りました。約束の地に入っても偶像を求めました。王を与えられても背き、最後には捕囚へ至りました。 これは単に、「昔のイスラエル人は信仰が弱かった」という教訓ではありません。人間は、外側から律法を与えられるだけでは、自分自身の力によって神に従うことができない。そのことがイスラエルの歴史の中で明らかにされたのです。 だから神は、新しい契約を約束されました。石の板に律法を書くのではなく、心に律法を書き、石の心を取り除き、新しい心を与え、ご自身の霊をその内に置いて歩ませると約束されたのです(エレミヤ31:31–34、エゼキエル36:26–27)。 「主を仰ぎ見る」から、新しい契約の「御霊によって歩く」へ この救済史の中で、旧約の神の民に繰り返し示されたのが、「主を仰ぐ」「主を待ち望む」「主に目を注ぐ」という信仰でした。 紅海では、「主の救いを見なさい」と言われました。青銅の蛇では、神が備えられたものを仰ぎ見た者が生きました。詩篇では、神の民は主を避け所とし、主を待ち望みました。ヨシャパテは、「私たちは何をすべきか分かりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです」と祈りました。 しかし、旧約の民は自分自身の力によって主を仰ぎ続けることができませんでした。そこで新しい契約において、神ご自身が御霊をご自身の民のうちに住まわせ、神に従って歩む者へと造り変えてくださいます。 ですから、新約の「御霊によって歩く」は、旧約の「主を仰ぎ見る」と無関係な別の教えではありません。しかし、単純に同一でもありません。「御霊によって歩く」とは、「主を仰ぎ見る」という信仰を含みながら、新しい契約においてさらに豊かに実現された神の民の生活全体です。 御霊は、キリストに結ばれた者のうちに住み、キリストの栄光を示し、肉の働きを殺し、御霊の実を結ばせ、祈らせ、御言葉に従わせ、試練の中でもキリストを最後の望みとして歩ませてくださいます。 旧約で繰り返し示されていた「主を仰ぎ見る」歩みが、新しい契約では、キリストとの結合と御霊の内住によって、神の民の生活全体の中に豊かに実現されるのです。 キリストにおいて、型は実体となる 旧約の契約共同体イスラエルに型として示されていた救いは、キリストにおいて実体となりました。過越の小羊そのものが救いの完成ではありません。キリストが真の過越の小羊です。 荒野のマナそのものが永遠のいのちを与えるのではありません。キリストがいのちのパンです。 青銅の蛇そのものが最終的な救いではありません。十字架に上げられるキリストを指し示していました。岩から出た水そのものが救いの完成ではありません。パウロは、「その岩とはキリストです」と語ります。幕屋も、祭司も、いけにえも、それ自体が救いの完成ではありません。すべてがキリストを指し示していました。 そしてキリストは、イスラエルが果たすことのできなかった従順を完全に成し遂げられました。父なる神に完全に従い、十字架に至るまで従順であられ、罪を負い、死に、そしてよみがえられました。ですから福音とは、旧約の型をもう一度繰り返すことではありません。旧約に型として示されていた救いが、キリストにおいて歴史的・決定的に成し遂げられたという知らせです。 そして御霊は、その完成された救いをご自身の民に適用し、キリストに結びつけられます。ここに、型から実体への移行があります。 神の民はキリストとの結合において一つとされる 新約における神の民を考える時、民族的な血筋そのものを救いの根拠にすることはできません。ユダヤ人であっても異邦人であっても、救いはキリストにあります。 パウロは、「ユダヤ人もギリシア人もありません」と語り、さらに、「あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」(ガラテヤ3:28–29)と語ります。重要なのは、民族そのものを中心に置くことではありません。 中心はキリストです。 神の民であることの究極的な根拠は、民族、血統、教会歴、宗教的経験ではありません。キリストに属していることです。キリストとの結合において、神の民は一つとされます。 そしてここに、福音の中心的な真理があります。 神が永遠から定められた救いのすべての恵みは、キリストとの結合においてご自身の民に与えられる。 「神は、キリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(エペソ1:3)。 贖いも、義認も、子とされることも、聖化も、最後まで守られることも、そして栄化も、キリストとの結合において与えられます。だから、救いを人間の決心、信仰の強さ、祈り、奇跡、癒やし、霊的体験から始めることはできません。 救いの起点は永遠の神です。救いの中心はキリストです。救いのすべての恵みは、キリストとの結合において与えられます。そしてその救いを御霊が適用し、最後まで完成してくださいます。これが福音の土台です。 福音が与える確信 ですから、福音の問いは、「あなたは奇跡を経験しましたか」ではありません。「神に守られた経験がありますか」でもありません。「霊的戦いに勝利しましたか」でもありません。 問われなければならないのは、「あなたの救いの根拠はどこにあるのか」ということです。 自分の決心なのか。自分の信仰なのか。自分の祈りなのか。自分の体験なのか。それとも、永遠から救いを定め、キリストにおいて贖いを成し遂げ、御霊によってキリストに結びつけ、最後まで守ってくださる神ご自身なのか。 ここに、福音と人間中心の宗教を分ける決定的な境界があります。 病気が治らなくても、問題が解決しなくても、奇跡を見ることがなくても、御使いを見ることがなくても、苦難が取り去られなくても、キリストに結ばれた者を、神の救いのご計画から引き離すことは誰にもできません。 これこそが、福音が与える確信です。 だから、御使いを最後の望みとして見るのではありません。奇跡を見るのでもありません。癒やしを見るのでもありません。霊的体験を見るのでもありません。自分がどれほど守られたかを見るのでもありません。キリストを最後の望みとして仰ぐのです。 教会で語られるメッセージを見極める ですから、教会という場所にいるから安心だと思ってはいけません。教会で語られるメッセージを、御言葉によってよく確かめなければなりません。 「イエス」「十字架」「恵み」「聖霊」「神の主権」という言葉が使われているかどうかだけではありません。そのメッセージは、どこから始まっているのか。人間から始まっているのか、神から始まっているのか。その中心に、人間の必要と体験が置かれているのか、それとも、神がキリストにおいて成し遂げられた救いの御業が置かれているのか。 救いが初めから終わりまで神の御業として語られているのか。キリストが救いの唯一の根拠として語られているのか。救いのすべての恵みが、キリストとの結合において与えられることが語られているのか。 よく聞いてください。見極めも、人間の頭の良さや神学知識だけから生まれるものではありません。御霊は御言葉を通してキリストの栄光を示されます。 イエスは、「御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです」(ヨハネ16:14)と言われました。 ですから、御霊の働きによって神の民の目が向けられていく中心は、奇跡、癒やし、御使い、霊的戦い、特別な体験ではありません。キリストです。 御霊は、キリストに結ばれた者の目をキリストへ向け、救いが自分自身から生み出されるものではなく、初めから終わりまで神の恵みの御業であることを、ますます知らせてくださいます。 だから、自分が長年何を聞いてきたのかを、教会歴や体験によって判断してはいけません。御言葉によって確かめてください。 人間を起点として、「求めれば、信じれば、祈れば、神が動かれる」という宗教的な構造を聞いてきたのか。それとも、永遠の神が、キリストにおいて救いを成し遂げ、御霊によってご自身の民をキリストに結びつけ、最後まで完成してくださる福音を聞いてきたのか。 これは神学上の細かな違いではありません。 そもそも何を福音と信じているのかという、救いそのものに関わる重大な問題です。 信仰の創始者であり完成者であるキリストを仰ぐ ヘブル人への手紙は、苦しみの中を歩む神の民にこう語っています。 「忍耐をもって、私たちの前に置かれている競走を走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:1–2) 聖書は、「イエスから目を離さないでいなさい」と命じています。しかし、この命令は、自分の信仰の強さによってキリストを見続けなさいという意味ではありません。 ここで仰ぐイエスは、単なる信仰の模範ではありません。「信仰の創始者であり完成者」です。キリストは、私たちの信仰の歩みの先頭に立ち、その歩みを完成へと導かれる方です。 そして、私たちがキリストを信じ、キリストにより頼んで歩むことそのものも、自分自身の内側から生み出されるものではありません。信仰もまた神の恵みとして与えられ、キリストに結ばれた神の民のうちに御霊が働き、御言葉を通してキリストの栄光を示してくださいます。 さらに神は、与えられる試練をも用いて、自分中心の考えや自己信頼を砕いてくださいます。自分の知恵、自分の力、自分の経験、自分の信仰の強さではなく、キリストだけを最後の望みとする者へ造り変えてくださるのです。 ですから、「イエスから目を離さないでいなさい」という命令と、「キリストに結ばれた者を御霊が最後まで守り、完成してくださる」という神の御業は、互いに反対するものではありません。 御霊が絶えず働いてくださるからこそ、神の民は実際にキリストを仰ぎ、忍耐をもって走り続けます。そして神は、試練さえも用いながら、神の民の自己信頼を砕き、キリストだけを最後の望みとする者へ造り変えてくださいます。 こうして神の民は、信仰の創始者であり完成者であるイエスを仰ぐ者として、最後まで守られていきます。 福音の起点は永遠の神です。福音の中心的出来事は、神の主権的なご計画の中でキリストが成し遂げられた十字架と復活です。救いの中心はキリストです。そして、その救いのすべての恵みは、キリストとの結合においてご自身の民に与えられます。 そして御霊がその救いをご自身の民に適用し、試練をも用いてキリストを仰ぐ者へ造り変え、最後には栄光の完成へ導いてくださいます。 神は、ご自身の民をキリストから目を離さないように、最後まで守ってくださいます。 選びから栄化まで、初めから終わりまで、すべて神の御業です。

  • 第1回 旧約聖書に見る「主を仰ぎ見る」信仰

    2026.8.9 特別礼拝 第1回  旧約聖書に見る「主を仰ぎ見る」信仰― 神は試練を通して、ご自身の民を、神に代わるものに頼る者から、主だけにより頼む者へ造り変えられる ― 聖書には六十六巻の書物があります。歴史書もあれば、詩篇もあり、預言書もあり、福音書もあり、手紙もあります。それぞれ、書かれた時代も、著者も、背景も異なります。しかし、聖書全体を見ると、そこには神がご自身の民を救い、完成へと導いてくださる一本の大きな流れがあります。それは、創造・堕落・契約・贖い・完成という、神の救いの歴史です。神学では、この聖書全体を貫く神の救いの歴史を「救済史」と呼びます。 この救いの歴史の中で、神が一貫して行っておられることがあります。それは、罪によってご自身から離れた民を、ご自身のもとへ取り戻し、ご自身だけを望みとして生きる民へ造り変えることです。 創世記において、人は神から目をそらしました。そしてすべての人は、知識、経験、方法、制度、宗教的行為、霊的体験、経済力、人間関係など、さまざまなものを神に代わる拠り所とする者となってしまいました。しかし神は、その人間を見捨てられませんでした。それは、神の永遠のご計画によるものです。 「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」エペソ人への手紙1章3~6節 旧約では、この信仰の歩みが、「主を仰ぎ見る」「主を待ち望む」という言葉によって表されました。そして新約では、「御霊によって歩きなさい」と語られます。この二つは、まったく別の教えではありません。旧約における「主を仰ぎ見る」「主を待ち望む」という信仰は、新約において、御霊によってキリストに結ばれ、キリストを信頼し、キリストに従って歩む生活として、いっそう明瞭に現されます。 しかし、最も大切なのは、キリストとの結合です。キリストとの結合こそ、神がご自身の民に与えてくださる、すべての救いの祝福の源泉です。信仰者はキリストに結ばれることによって、キリストの義にあずかり、神の前に義とされます。キリストに結ばれることによって神の子とされ、聖化され、最後まで守られ、やがて栄光の姿へと変えられます。義認も、子とされることも、聖化も、堅忍も、栄化も、すべてはキリストとの結合から流れ出る救いの祝福です。 御霊はキリストの栄光を現し、私たちをキリストに結び、キリストのことばを私たちの心に適用し、私たちの目を絶えずキリストへ向けてくださいます。しかしこれは、御霊がすべてを行われるので、信仰者は何もせず、ただ受動的でよいという意味ではありません。御霊が私たちをキリストに結び、私たちの心に信仰を働かせてくださるので、私たちは現実にキリストを仰ぎ、罪を退け、神のことばに従います。その信仰と服従は救いの原因ではありません。それは、キリストに結ばれた者のうちに、御霊が結んでくださる救いの実なのです。 これから、創世記から始まり、やがて黙示録の完成へと向かう神の御業を見ていきます。 第一 創造──人は神を仰ぎ、神との交わりに生きるために造られた 聖書は、「初めに、神が天と地を創造された」という言葉から始まります。すべての始まりは神です。人間ではありません。神は混沌の中に秩序を与え、光を造り、大地を整え、生き物を満たし、最後にご自身のかたちとして人を創造されました。人は偶然に存在するようになったのではありません。神は明確な目的をもって人を造られました。創世記1章26節には、「われわれのかたちとして、われわれの似姿に人を造ろう。」とあります。 人は神のかたちとして、神を知り、神を愛し、神を礼拝し、神の御前に生きるために造られました。 エデンの園では、人には何一つ欠けたものがありませんでした。罪も、死も、恐れも、恥もありませんでした。神は人とともに歩まれ、人は神の御声を聞き、神との親しい交わりの中に生きていました。その意味で、人は神を仰ぎ、神との交わりの中に生きる存在として造られたのです。ここでいう「仰ぐ」とは、単に肉眼で見ることではありません。神を信頼し、神を喜び、神を礼拝し、神を中心として生きることです。人の心も、その信頼も、その望みも、自分ではなく神へ向いていました。これが創造の秩序でした。したがって、聖書が語る救いとは、単に新しい宗教を始めることではありません。罪によって失われた神との交わりを回復し、再び神の御前に生きる者とされることです。しかし新約が明らかにするのは、この回復が単にアダムの状態へ戻ることではないということです。 神はご自身の民を第二のアダムであるキリストに結び、キリストのうちにある、さらに豊かな新しいいのちへ導かれます。救いの完成は、単なるエデンへの帰還ではありません。キリストに結ばれた新しい人類として、永遠に神との交わりに生きることなのです。この視点を持つと、創世記から黙示録までが一本の線で結ばれて見えてきます。 第二 堕落──人は神から目をそらし、自分を頼る者となった しかし、この美しい交わりは長くは続きませんでした。創世記3章で、蛇はエバに近づき、まず神のことばに疑いを抱かせます。 「本当に神はそう言われたのですか。」 罪は、神のことばを疑い、神の真実さを疑うところから始まりました。蛇はさらに、「あなたがたは決して死にません。」「それを食べると神のようになります。」と語りました。ここで問題となったのは、果実そのものではありません。人が神よりも自分を信じたことです。エバは、神のことばよりも、自分の目で見たものと、自分の判断を信じました。聖書は、「その木はいかにも食べるのによさそうで、目に慕わしく、賢くしてくれそうで好ましかった。」と記しています。 ここに罪の本質があります。 罪とは、単に悪い行いをすることではありません。神ではなく自分を拠り所とすることです。神のことばではなく、自分の判断を最終的な基準とすることです。人は神の下に立つことをやめ、自分で善悪を決める者になろうとしました。言い換えるなら、人の視線が神から自分へ移ったのです。その結果、人は神との交わりを失いました。アダムとエバは、自分が裸であることに気付き、恐れ、恥じ、いちじくの葉で自分を覆いました。神が園を歩まれる音を聞くと、木の間に身を隠しました。これまで神との交わりを喜んでいた人が、神から逃げる者となったのです。 この姿は、罪が人間にもたらした根本的な変化を表しています。罪は人を神から遠ざけ、自分を守り、自分を正当化し、自分の力で生きようとする者へ変えてしまいました。そして、この姿はアダムだけのものではありません。私たちも同じです。困難に直面すると、まず自分の知恵を使おうとします。自分の経験を頼り、自分の力で解決しようとします。そして、自分の力ではどうすることもできなくなった時に、初めて神を求めようとします。 しかし聖書は、人間には自分から神へ立ち返る力がないことを教えています。ローマ人への手紙3章には、「神を求める者はいない。」とあります。またエペソ人への手紙2章では、「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた。」と語られています。死人には、自分で立ち上がる力がありません。神を求める力も、神を見る力も、神を選ぶ力もありません。だから救いとは、人間が自分から神へ向かうことではありません。神が罪人のもとへ来てくださることです。 そして新約は、この救いを二人のアダムという視点から説明します。最初のアダムにあって人類は罪と死の支配の下に入りました。しかし神は、第二のアダムであるキリストを遣わされました。救いとは、単に罪を赦されるだけではありません。古いアダムに属する者が、御霊によってキリストに結ばれ、キリストにある新しいいのちにあずかることなのです。神は、ご自身から目をそらした人間を見捨てられませんでした。むしろ、そのような人間をご自身のもとへ取り戻し、キリストに結ぶ救いの御業を進めてくださいました。ここから、神が永遠の昔から定めておられた救いのご計画が、歴史の中でいよいよ明らかにされていきます。 神は契約を結び、ご自身の民を選び、長い歴史を通して、自分ではなく神だけを望みとする民を造り上げていかれるのです。 第三 契約──神はアブラハムを召し、ご自身を信頼する信仰を育てられる 人は罪によって神から目をそらし、自分を頼る者となりました。しかし神は、そのような人間を見捨てられませんでした。創世記12章で、神はアブラハムを一方的な恵みによって召し出されます。 「あなたは生まれ故郷、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」 ここで大切なのは、アブラハムが神を探し求めたのではないということです。神が先に選び、神が先に語りかけ、神が先に契約を結ばれました。救いの主語は、最初から最後まで神です。神はアブラハムに、「あなたを大いなる国民とする。」と約束されました。しかし現実は、その約束とは正反対に見えました。サラには子どもがなく、年月だけが過ぎていきます。待ち続ける中で、アブラハムは神の約束を待ちきれず、自分の方法で約束を実現しようとしました。ハガルによってイシュマエルをもうけた出来事は、その象徴です。 人間の目には、それが現実的で最善の方法に思えたのでしょう。しかし、それは神を待ち望む歩みではなく、自分の知恵によって神の約束を完成させようとする歩みでした。神はその方法を、約束の成就としてはお認めになりませんでした。さらに年月が過ぎ、アブラハムは百歳、サラは九十歳になります。人間的には、子どもが生まれる望みは完全に絶たれました。しかし、まさにその時、神は約束を実現されます。イサクが誕生したのです。なぜ神は、これほど長く待たせられたのでしょうか。それは、人間には何一つ誇るものがなく、すべてが神の御業であることが明らかになるためでした。 もし若い時に子どもが与えられていたなら、人は「まだ人間的な可能性が残っていた」と考えたかもしれません。しかし百歳のアブラハムと九十歳のサラには、自分の力に期待できるものは何も残っていませんでした。だからこそ、イサクの誕生は、神だけが成し遂げられた御業であることが明らかになったのです。神は、待つ時間や試練を通して、アブラハムの信仰を育てられました。それは、単に約束されたものを求める信仰ではありません。約束を与えてくださった神ご自身を信頼する信仰でした。そして最後に、神はアブラハムに最も大きな試練を与えられます。 「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを献げなさい。」この命令は、人間には理解できません。神は約束を与えられ、その約束の子を、今度は献げよと言われるのです。 しかしヘブル人への手紙11章は、その時のアブラハムの信仰をこう説明しています。 「神には、人を死人の中からよみがえらせることもおできになると考えた。」 アブラハムは、約束されたものだけを見ていたのではありません。約束を与え、約束を必ず成し遂げられる神ご自身を見ていました。たとえイサクを献げることになったとしても、神はご自身の約束を決して破られないと信じていたのです。ここに、「主を仰ぎ見る」という信仰の姿があります。そして新約は、アブラハムに与えられた約束が最終的にキリストへ向かっていたことを明らかにします。神の救いの計画は、アブラハムから始まったのではありませんが、アブラハム契約を通してさらに明瞭にされ、やがてキリストにおいて成就します。そしてキリストに結ばれた者が、その約束の祝福にあずかるのです。 神は、ご自身の民を一瞬で完成させるのではありません。待たせ、試練を与え、時には人間の失敗さえも用いながら、神から離れて自分を拠り所とする自己信頼を砕き、ご自身だけを最後の望みとする者へ造り変えてくださいます。この原則は、アブラハム一人だけで終わりません。神はイスラエルという民全体にも、同じことを教えていかれます。その舞台となるのが、出エジプトです。 第四 出エジプト──神はご自身だけを仰ぐ民を造られる アブラハムに約束された子孫は、やがて大きな民となりました。しかし、その民はエジプトで奴隷となり、自分たちの力では決して自由になることのできない状態に置かれます。しかし神は、アブラハムとの契約を忘れてはおられませんでした。神はモーセを遣わし、ご自身の力によってイスラエルを救い出されます。ここで大切なのは、イスラエルが自分たちの力でエジプトから脱出したのではないということです。十の災いも、過越しも、紅海も、すべて神の御業でした。救いは、人間の努力によって獲得されたのではありません。神の一方的な恵みによって与えられたのです。 この原則は新約においても変わりません。私たちも、自分の努力や功績によって罪から救われたのではありません。キリストの十字架によって成し遂げられた贖いを、ただ神の恵みによって受けたのです。そして、そのキリストの贖いの祝福は、御霊によってキリストに結ばれることによって私たちのものとなります。 紅海──神だけが戦われる エジプトを出たイスラエルは、すぐに絶望的な状況へ導かれます。前には紅海、後ろにはエジプト軍が迫っています。人間的に見れば、完全な行き止まりです。しかし、この場所へ導かれたのは偶然ではありません。神ご自身が、民をこの場所へ導かれました。なぜでしょうか。それは、イスラエルが自分の力では救われ得ないことを知り、神の救いだけを見るためでした。 モーセは民に言います。 「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」 さらに、「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなさい。」と語ります。 ここには、救済史を貫く重要な原則があります。戦われるのは神です。救いを成し遂げられるのは神です。民は、神が成し遂げられる救いを見るのです。海を分けられたのは神です。乾いた道を造られたのも神です。エジプト軍を滅ぼされたのも神です。人間が誇ることのできるものは、何一つありませんでした。神はご自身の民を、「自分では何もできない場所」へ導き、ご自身だけが救い主であることを教えられたのです。 私たちも人生の中で、まるで紅海の前に立たされるような経験をします。自分ではどうすることもできない問題に直面し、知恵も力も尽き果てることがあります。しかし、そのような時、神はご自身の民を見捨てておられるのではありません。むしろ神は、自分の力への信頼を砕き、ご自身の救いを仰ぐ者へ造り変えておられるのです。 荒野のマナ──日ごとに神を信頼する 紅海を渡った後も、神の訓練は続きます。荒野には畑もなく、十分な食べ物もありません。そこで神は、毎朝マナを降らせられました。しかし神は、一つの命令を与えられます。一日分だけを集めるように命じられたのです。安息日の前日を除いて、翌日の分を蓄えることは許されませんでした。余分に残せば、腐ってしまいました。なぜ神は、このようにされたのでしょうか。 神は、ご自身の民に、日ごとに神を信頼することを教えられたのです。 人は、将来に必要なものを自分で確保し、自分の力で安心を手に入れたいと考えます。しかし神は、今日必要なものを今日与え、明日もまた神が養われることを信じるよう教えられました。信仰とは、一度だけ神を信じることではありません。今日も神が支えてくださることを信頼し、明日も神が養ってくださることを信じて歩むことです。イエスが主の祈りにおいて、「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」と教えられた背景には、この荒野の出来事があります。神の民は、自分の力によって生きているのではありません。毎日、神の恵みによって生かされているのです。 青銅の蛇──十字架のキリストを仰ぎ見る 荒野で最も象徴的な出来事の一つが、民数記21章の青銅の蛇です。民は再び神につぶやきました。その結果、燃える蛇が送られ、多くの者が噛まれて死んでいきます。人間には、自分を救う方法がありませんでした。自分の努力も、知恵も、経験も役に立ちませんでした。 そこで神はモーセに命じられます。 「燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。噛まれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」 これは、人間の知恵から出た方法ではありませんでした。しかし神は、この方法によってご自身の救いを示されました。救いは、人間が考え出すものではありません。神が備え、神が与えられるものだからです。青銅の蛇を仰ぐことによって与えられた肉体的な救いは、やがて十字架に上げられるキリストを信じる者に与えられる永遠の救いを指し示していました。 誤解しないように補足します。青銅の蛇による救出は、キリストによる永遠の救いを指し示す型です。しかし、「型において肉体的救出を受けた者」と、「型が指し示すキリストにあって永遠に救われる者」を、そのまま同一視してはいけません。これは1コリント10章を見るとはっきりします。パウロは荒野のイスラエルについて、彼らがみな雲の下にあり、みな海を通り、みな霊的な食べ物を食べ、みな霊的な飲み物を飲んだと語ります。それにもかかわらず、 「しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。」1コリント人への手紙10章5節 したがって、旧約の契約共同体に属して神の外的な恵みを受けることと、永遠の選びに属して救われることは同じではありません。では、なぜ神はこのような「型」を旧約の歴史の中に置かれたのでしょうか。それは、神が永遠の昔から定めておられた救いのご計画を、ご自身の民の歴史の中で少しずつ明らかにしていくためでした。旧約の型は、単なる分かりやすい教材ではありません。神は実際の歴史の中でご自身の民を救い、その出来事そのものを用いて、やがてキリストにおいて完成する救いをあらかじめ指し示されたのです。 当時のイスラエルの民が、その意味をすべて理解していたわけではありません。青銅の蛇を仰いだ人々が、「これは将来キリストが十字架に上げられることを意味している」と理解していたわけではありません。しかし神は、彼らが理解している以上の意味をご自身の御業の中に置いておられました。そして時が満ちてキリストが来られたとき、イエスご自身が、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません」と語り、その意味を明らかにされたのです。ですから、旧約と新約は別々の救いではありません。旧約に置かれた影が、キリストという本体へ向かっていました。救いのご計画を立てられたのも神、その計画を歴史の中で示されたのも神、そして御子を遣わしてその救いを完成されたのも神なのです。 イエスは、ヨハネの福音書3章で、この出来事をご自身の十字架に結び付けられました。 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」 青銅の蛇を仰いだ者に肉体的ないのちが与えられたように、神はこの出来事を通して、やがて十字架に上げられるキリストによって与えられる永遠の救いをあらかじめ指し示しておられました。しかし、青銅の蛇を仰いで肉体的に救われた者すべてが、永遠の救いにあずかったという意味ではありません。青銅の蛇による救出は、キリストによる救いを指し示す型だったのです。そして新約における救いは、キリストをただ外側から眺めることではありません。御霊は私たちを、十字架につけられ、復活されたキリストご自身に結び付けられます。私たちはキリストに結ばれることによって、その死と復活の恵みにあずかるのです。 ここで、旧約と新約は一本につながります。神は初めから、キリストによる救いを指し示しておられたのです。出エジプトと荒野の歩み全体を通して、神はご自身の民のうちにある、神から離れて自分を拠り所とする自己信頼を砕き、ご自身だけを最後の望みとする信仰を育てられました。この「主を仰ぎ見る」という信仰の歩みは、詩篇や預言者たちによってさらに深められ、新しい契約において、御霊によってキリストに結ばれ、キリストを信頼して歩む生活として、いっそう豊かに実現していきます。 御霊によって歩く――このすべてを御霊が実現される ここで新約の「御霊によって歩く」という言葉の意味が見えてきます。 「御霊によって歩みなさい」ガラテヤ人への手紙5章16節 これは、旧約からまったく別の原則が始まったということではありません。旧約の「主を仰ぎ、主を待ち望む」という信仰の原則が、新約ではキリストとの結合を土台として、御霊によって歩む生活の中に、より明瞭で豊かな形で現されるのです。御霊は試練さえも用いて、私たちの中に残っている自己信頼を砕き、キリストへと向かわせます。だからパウロは、「御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます」(ローマ人への手紙8章13節)と言います。 御霊によって歩くとは、人間が自分の力を強くして肉に勝つことではありません。御霊が私たちの自己信頼を砕き、キリストにより頼ませ、キリストによって罪と戦い、キリストに従って歩む者へ造り続けてくださることです。旧約の信仰の証人から新約のキリストの証人を並べてみると、聖書全体に一本の流れが見えてきます。 アブラハム――約束ではなく、約束の神へ。 紅海――自分の道ではなく、主の救いへ。 マナ――自分の蓄えではなく、日々与えてくださる神へ。 青銅の蛇――自分の力ではなく、神の備えへ。 ギデオン――人間の力ではなく、神の力へ。 ハンナ――自分の願いではなく、主へ。 ダビデ――王座ではなく、主を避け所として。 ヨシャパテ――自分の方法ではなく、主へ目を向けて。 ヨブ――与えられたものではなく、神ご自身へ。 捕囚の民――自分の力ではなく、主を待ち望んで。 ダニエルの友人たち――救出そのものではなく、神ご自身へ。 ペテロ――自分の強さではなく、キリストの恵みへ。 パウロ――自分自身ではなく、死人をよみがえらせる神へ。 肉のとげ――自分の強さではなく、十分なキリストの恵みへ。 ヘブル人への手紙――苦しみの中で、イエスから目を離さずに。 これらの証人の歩みは、「以前より聖書知識を得ること、神学を理解すること、立派な人間になること」ではありませんでした。まして、「特別な霊的体験をしたり、感情が高揚したりすること」でもありません。神はご自身の民を、自分の知恵、自分の力、自分の経験、自分の信仰の強さに頼る者のままにはされません。試練を通してそれらを砕き、最後には、「私には何もありません。しかしキリストがおられる。キリストは私の宝、私のすべてです。」と生きざるを得ない者へ造り変えてくださいます。 パウロはガラテヤ人への手紙の最後で、「大事なのは新しい創造です」と語り、その基準に従って進む者たちを「神のイスラエル」と呼びます。神の民とは、自分の力で自分を造り変えた民ではありません。神ご自身によって新しく創造され、その新しいいのちの中に神が生み出してくださった信仰によって生きる者とされた民なのです。神はその民を、試練を含むすべての御業を通して、御子の似姿へと変え続けてくださるのです。 旧約で神が「主を仰げ」「主を待ち望め」と教えてこられたこの歩みは、新約に入って消えてしまうのではありません。むしろキリストが来られ、御霊が与えられることによって、その意味はいっそう明らかになります。そして新約では、キリストに結ばれた者が「御霊によって歩く」こととして、さらに豊かに実現していきます。 自己信頼からキリストへの信頼へ。自分の力から御霊による歩みへ。これこそ、神がご自身の民のうちに成し遂げてくださる聖化であり、聖書全体を貫いている一つの神の御業なのです。そして、この神の御業はそこで終わりません。創世記から始まったこの救いの歴史は、やがて黙示録において完成します。 次回は、「御霊によって歩く」とは何を意味するのか、そしてキリストとの結合から与えられる新しいいのちの中で、神が御霊と神のことばを用い、試練を含むすべての摂理を通して、どのように私たちをキリストに似た者へ造り変えてくださるのか、そしてそれがどのように完成するのかを、黙示録まで見ていきます。

  • 打ち上げ花火―二つの民と、キリストを唯一の望みとする信仰

    2026.8.2 豊川の家の教会礼拝メッセージ 打ち上げ花火――二つの民と、キリストを唯一の望みとする信仰 今日のテーマは打ち上げ花火と言う日本の夏の風物詩から第1コリント8章を話します。 日本の打ち上げ花火の多くは神社などへの奉納を言う前提で行られることが多いですが、正しい方法を探す問題としてではなく、キリストに結ばれているという真理に立って理解していきます。 打ち上げ花火をどう受け止めるか。それ自体が信仰なのではありません。しかし、その受け止め方には、私たちの心が何を恐れ、何を信頼し、何を望み としているかが現れます。その意味で、打ち上げ花火の問題は、信仰の実を映し出す一つの出来事です。「神社の奉納花火を見に行ってもよいのでしょうか。」夏になると、このような質問を受けることがあります。特に、「クリスチャンは見てはいけない」「悪霊の影響を受けるから避けなければならない」「霊的に危険な場所へ近づいてはいけない」という教えを耳にすることがあります。しかし、聖書が本当に問うているのは、花火を見たか、見なかったかという外面的な行動ではありません。神が私たちを、どのような民として生かしておられるのかということです。 聖書は、全人類が最終的には二つの民に分けられることを教えています。一つは、神が永遠の昔からキリストにあって選び、キリストによって贖い、御霊によって生かし、最後まで守られる民です。もう一つは、キリストに結ばれておらず、罪の中にとどまり、自分自身を中心として生きる人々です。 この二つの民の違いは、花火を見たか、見なかったかではありません。悪霊を恐れて花火を見ない人の中にも、キリストがおられないことがあります。反対に、何も考えずに花火を楽しみ、偶像礼拝にまで参加する人の中にも、キリストがおられません。一方は恐れに見てはならいと言う律法的な縛りによって行動し、もう一方は無関心によって行動しています。しかし、どちらにも共通していることがあります。それは、心の中心にキリストがおられないということです。 御霊によって歩くとは何か ガラテヤ書にある「御霊によって歩く」ということは、特別な霊的体験や高揚した感情のことではありません。御霊によって歩くとは、神が私たちの日々の生活の中で試練を用いて高ぶりを砕き、自分の力、自分の判断、自分の方法、人間の教えに頼る心を取り扱い、キリストを唯一の望みとする心を私たちのうちに造り続けてくださることです。 選びの民とは、生まれつきキリストを望むことのできる人々ではありません。選びの民も、もともとは罪の中で死んでいました。神を求めず、神を信頼せず、自分の知識、自分の経験、自分の宗教心、自分の正しさによって生きていました。しかし神が、その人をキリストと共に生かしてくださったのです。 そして神は、その人を一度生かしただけで放置されません。試練を通して自分への信頼を砕き、キリストだけを望みとする者へと造り変えてくださいます。選びの民とは、自分の力で絶えずキリストを望み続けられる強い人々ではありません。神によって絶えずキリストへ立ち返らされる人々です。自分の信仰、自分の判断、自分の方法が崩された時にも、神によってキリストを最後の望みとさせられる人々です。これが、御霊によって生かされている民です。 救いは初めから終わりまで神の御業である 聖書は、救いが初めから終わりまで神の恵みによる御業であることを教えています。神は、世界の基が据えられる前から、ご自身の民をキリストにあって選ばれました。そして時が来ると、みことばと聖霊によって新しく生まれさせ、義とし、試練を通して聖なる者へと造り変え、最後まで守り、栄光へと導いてくださいます。ですから、救いは人間の努力の結果ではありません。信仰さえも、神が与えてくださる恵みです。真の信仰者の希望は、自分の能力にも、自分の正しさにも、自分の信仰の強さにさえもありません。ただ、キリストの完成された御業にあります。神が始められた救いは、必ず神によって完成されます。 エペソ書2章1節は、こう語ります。「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であって」死んでいる者は、自分で命を得ることができません。自分で正しい教えを見つけることも、偽りの宗教から抜け出すことも、キリストを選び取ることもできません。だから福音は、こう宣言します。「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」コロサイ書2章13節も語ります。「あなたがたは背きの中にあり、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。」ここで行動しておられるのは神です。死んでいた私たちを見つけ出したのも神です。私たちをキリストに結びつけたのも神です。新しい命を与え、信仰と悔い改めを与え、義とし、聖化し、最後には栄化してくださるのも神です。 花火を見なかったから救われたのではない ですから、私たちは自分自身に問い直す必要があります。あなたは、神社の奉納花火を見なかったから救われたのでしょうか。悪霊を恐れ、危険な場所を避けたから救われたのでしょうか。人間の教師から教えられた規則を守ったから、新しく生まれたのでしょうか。決してそうではありません。あなたが罪の中で死んでいた時、神を知らなかった時、偽りの教えの中にいながら自分をクリスチャンだと思っていた時、あなたは自分の力でそこから出てきたのではありません。神があなたのもとに来られたのです。神があなたを呼び出し、キリストと共に生かしてくださったのです。これが福音です。 救いは、人間が正しい方法を発見した結果ではありません。救いとは、罪の中で死に、神を探し出すことも、神に仕えることもできなかった者に、神が一方的な恵みによって命を与えてくださったという御業です。だから、私たちの望みは、自分の知識、自分の判断、自分の方法にはありません。ただ、十字架で完成されたキリストの御業にあります。 人間中心の信仰が生み出すもの 信仰生活の中では、いつの間にか中心が神から人間へ移ってしまうことがあります。「悪霊を縛らなければならない。」「土地を清めなければならない。」「霊的に危険な場所を避けなければならない。」「偶像礼拝が行われた土地には悪霊の影響が残っている。」このような教えが強調されると、信仰生活の中心は、キリストが何を成し遂げてくださったかではなくなります。人間が何をするか。どこを避けるか。どの祈りを唱えるか。どの方法を実行するか。それが中心になります。その結果、人は神よりも自分の方法に依存し、キリストよりも教師の教えに依存し、神の主権よりも悪霊の働きを意識するようになります。花火の問題も、まさにそうです。「神社への奉納花火だから見てはいけない。」「悪霊の影響を受けるから近づいてはいけない。」この判断の根底には、悪の力のほうが、神の守りやキリストの御業よりも現実的に見えてしまう恐れがあります。しかし、問題は花火ではありません。問題は、その人の心が何を信頼しているかです。人間の教えに依存しているのか。悪霊を恐れているのか。自分の判断の正しさに平安を求めているのか。それとも、キリストの完成された御業だけを望みとしているのか。ここに問題があります。 偶像にささげられた肉と、花火の問題 ここで、第一コリント8章と10章に記されている「偶像にささげられた肉」の問題を考える必要があります。コリントの町では、肉が偶像の神殿にささげられた後、市場で売られることがありました。そのため、信仰者たちの間に、「偶像にささげられた肉を食べてもよいのでしょうか」という問題が起こりました。これは、「神社への奉納花火を見てもよいのでしょうか」という問いとよく似ています。パウロは第一コリント8章4節で、「世の偶像の神は実際にはないものであり、唯一の神以外には神は存在しない」と語ります。偶像は、まことの神ではありません。偶像に肉がささげられたとしても、その肉自体が霊的に汚染された物質へ変わるのではありません。悪霊が肉に付着し、それを食べた人に自動的な影響を与えるのでもありません。パウロは続けて語ります。 「食物が私たちを神に近づけるのではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。」第一コリント8章8節 これは、打ち上げ花火についても同じです。花火を見なかったから神に近づくのではありません。花火を見たから神から遠ざかるのでもありません。花火を見ることにも、見ないことにも、それ自体には救いに関する特別な益も害もありません。しかし、パウロはそこで終わりません。第一コリント10章では、偶像礼拝そのものへの参加を明確に禁じています。パウロは、「偶像礼拝を避けなさい」と語ります。さらに、異邦人がささげるものは悪霊にささげているのであって、神にささげているのではないと語り、主の食卓と悪霊の食卓の両方にあずかることはできないと教えています。ここには、はっきりとした区別があります。偶像にささげられた肉を食べることと、偶像礼拝の祭儀に参加することは同じではありません。市場で売られている肉を食べること自体は、偶像礼拝ではありません。しかし、偶像の神殿に入り、その神にささげる宗教的な食事に参加するなら、それは偶像礼拝への参加となります。 第一コリント10章25節で、パウロはこう語ります。「市場に売っている肉は、良心のために何も詮索せず食べなさい。」パウロは、「この肉はどの神殿にささげられたのか」「何という悪霊の影響が付いているのか」と調査しなさいとは言いませんでした。むしろ、何も詮索せずに食べなさいと言いました。 その理由は、「地とそこに満ちているものは、主のものだからです。」 第一コリント10章26節肉は偶像のものではありません。世界は悪霊の所有物でもありません。地とそこに満ちているすべてのものは、主のものです。これは、花火についても同じです。火薬も、光も、空も、色も、音も、すべて神が支配しておられる被造世界の中にあります。神社が花火を奉納したと宣言したからといって、花火そのものが偶像や悪霊の所有物へ変わるのではありません。天地の本当の所有者は主です。ですから、花火を見て、「ああ、きれいだね」「夏だね」と家族で楽しむことは、偶像礼拝ではありません。 しかし、神社の神に祈ること、礼拝のしるしとして頭を下げること、願いをささげること、奉納に宗教的な意味をもって参加することは、単に花火を見ることとは違います。それは偶像礼拝です。聖書は、花火を恐れなさいとは言いません。悪霊が花火に付着しているから避けなさいとも言いません。聖書が命じているのは、「偶像礼拝を避けなさい」ということです。問題は、物質や場所に悪霊の力が付着しているかどうかではありません。問題は、誰を礼拝しているのか、何に心を向けているのか、誰に自分をささげているのかということです。 「偶像はない」と「悪霊との交わり」の関係 第一コリント8章では、「偶像の神は実際にはない」と語られています。しかし10章では、偶像にささげる者たちは悪霊にささげていると語られています。これは矛盾ではありません。偶像そのものは神ではありません。木や石で造られた像に、神としての実体があるのではありません。しかし、偶像礼拝という行為は、まことの神を退け、被造物を神として礼拝する行為であり、その背後には神に敵対する霊的な働きがあります。したがって、偶像そのものを恐れる必要はありません。しかし、偶像礼拝に参加してよいということでもありません。真の信仰者は、偶像を恐れて逃げ回るのではありません。また、偶像礼拝を軽く考えて参加するのでもありません。偶像は神ではないことを知りながら、唯一の神だけを礼拝します。悪霊を恐れるのではなく、神を恐れます。自分の自由を誇るのではなく、キリストに従います。 ここにも、二つの民の違いが現れます。ある人は、悪霊の影響を恐れて、花火そのものを避けます。その人の中心には、キリストの完成された御業ではなく、悪霊への恐れがあります。別の人は、「偶像など存在しないのだから、何をしても自由だ」と考え、偶像礼拝そのものにも無関心に参加します。その人は神を恐れず、自分の楽しみと自由を中心にしています。一方は悪霊を恐れています。もう一方は神を恐れていません。しかし、どちらにもキリストが中心におられません。 選びの民は、そのどちらでもありません。花火そのものには霊的な力がないことを知り、同時に、偶像礼拝は神が禁じておられることを知っています。だから、悪霊を恐れて花火から逃げるのでもなく、自分の自由を誇って偶像礼拝に加わるのでもありません。キリストにある自由の中で花火の美しさを楽しみ、唯一の神だけを礼拝します。 自由は愛のために用いられる 第一コリント8章では、たとえ自分には食べる自由があったとしても、その自由によって信仰の弱い兄弟をつまずかせてはならないと教えられています。「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」第一コリント8章1節「偶像は何ものでもない」「肉を食べても何の害もない」という知識は正しいものです。しかし、その知識を誇り、弱い人を見下すなら、その自由はキリストにある自由ではありません。ある人は、長い間、「神社に関係するものを見ると悪霊の影響を受ける」と教えられてきたかもしれません。その人に、「そんなものは何でもない。自由なのだから見ればよい」と無理に行動させるなら、その人を信仰によらずに行動させることになります。反対に、「花火を見に行く人は信仰が弱い」「本当のクリスチャンなら行かない」と裁くことも間違っています。真の信仰者は、自分の自由を誇りません。また、自分の禁止事項を他の人の義ともしません。必要なら、自分には見る自由があっても、愛する人の弱い良心のために、その場では見ないということもあります。しかし、それは悪霊を恐れたからではありません。兄弟姉妹を愛し、その人の信仰の成長を願うからです。キリストにある自由は、自分の権利を主張する自由ではありません。愛によって、自分の権利を手放すことのできる自由です。 「すべてのことを神の栄光のために」 パウロは、第一コリント10章31節で結論を語ります。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」花火を見るか、見ないかという問題の最終的な基準も、ここにあります。悪霊を恐れて見ないのではありません。自分の自由を証明するために見るのでもありません。何をするにも、神の栄光のためです。家族で花火を見て、その美しさを楽しむなら、感謝して楽しめばよいのです。良心の弱い人のために見ないと判断するなら、愛によってそうすればよいのです。しかし、どちらの行動も、自分の義としてはなりません。 見る人は、見ない人を見下してはなりません。見ない人は、見る人を裁いてはなりません。そして、どちらも偶像礼拝には参加してはなりません。花火を見ることと、偶像を礼拝することは違います。肉を食べることと、悪霊の食卓にあずかることが違うのと同じです。神が問われるのは、物に触れたかどうかではありません。私たちの心が誰に属しているかということです。 子どもや家族の救いを方法で生み出してはならない 私たちは、親、子ども、配偶者、知人、友人の救いについて考えます。しかし、誰が選びの民であるかは、神だけが知っておられます。ただし、私たちには確かに知っていることがあります。それは福音です。神は、永遠の昔からキリストにあって選ばれたご自身の民を、時が来れば必ず召し、新しく生まれさせ、キリストに結び、最後まで守り抜かれます。それは、その人が花火を見なかったからではありません。親が霊的に危険な場所から遠ざけたからでもありません。悪霊の影響を避けるための方法を実行したからでもありません。私たちは、子どもの救いを人間の方法で生み出すことはできません。危険な場所から隔離すれば、新しい心が生まれるのではありません。正しい規則を守らせれば、信仰が生じるのでもありません。救いは神の御業です。 だからこそ、私たちは神に信頼し、みことばを語り続けます。誰が選びの民か分からないから、すべての人に福音を語ります。選びの民が必ず召されることを信じるから、祈りへ導かれます。私たちは、キリストの証人として立たされます。その働きも、人間の力から生まれるものではありません。神が御霊を注ぎ、神が証人として立たせ、神がご自身の御業を実行されるのです。 祈りを神を動かす方法にしてはならない このような偶像にささげられた肉、神社に奉納されている打ち上げ花火などにクリスチャンが出会うとき、また、自分の親族が参加することを知った時にこのように人々は言います。 「どう祈ったらよいのでしょうか。」 「何と祈ればよいのでしょうか。」この問いそのものが、常に悪いわけではありません。しかし、気づかないうちに、「正しい言葉を言えば神が動いてくださる」「正しい祈り方をすれば子どもが守られる」「正しい宣言をすれば悪霊の影響を防げる」という方法論に流れてしまうことがあります。しかし、福音は私たちを方法へ導きません。福音は、私たちを神ご自身へと向かわせます。大切なのは、効果のある祈り方を発見することではありません。神が、ご自身の民をキリストにあって選び、御子によって贖い、御霊によって救いへ導き、最後まで守られる方であることを知ることです。神への信頼も、私たちの中から自然に生まれるものではありません。神が、みことばと御霊によって、ご自身を信頼する心を私たちのうちに創造してくださるのです。祈りとは、神を動かす方法ではありません。祈りとは、神がみことばと御霊によって私たちの心をご自身へ向け、聖なる神との交わりの中に生かしてくださる恵みです。そして神は、試練を通して、自分の祈り方、自分の信仰、自分の方法への信頼を砕き、キリストだけを唯一の望みとする心を造り続けてくださいます。すべては神の目的が新しい創造なのです。 まとめ――最後の望みはキリストだけである 打ち上げ花火の問題は、単なる夏の行事についての議論ではありません。そこには、二つの民、二つの生き方が現れます。 一つは、キリストのいない生き方です。そこには自分、宗教、この世があります。ある人は悪霊を恐れて花火を避けます。別の人は何も考えず、自分が楽しければよいとして、偶像礼拝にも参加します。一方は恐れ、もう一方は無関心です。しかし、どちらの中心にもキリストはいません。 もう一つは、キリストに結ばれて生きる民です。この民は、花火を見ないことを自分の義にしません。花火を見る自由を自分の誇りにもしません。悪霊を恐れるのでも、自分の楽しみだけを求めるのでもありません。神がご自身の民を選び、キリストによって贖い、御霊によって生かし、最後まで守ってくださることを望みとします。そして、偶像礼拝には加わらず、花火の美しさを神が支配しておられる被造世界の中に与えられたものとして楽しみます。選びの民の特徴は、一度も間違えないことではありません。常に正しい判断ができることでもありません。選びの民の特徴は、神がその人を見捨てず、恐れ、無関心、自己判断への依存、宗教的な誇りを砕き、キリストへと連れ戻してくださることです。ですから、私たちの平安は、「正しい方法を選べた」「危険な場所を避けられた」という自分の行動から生まれるものではありません。私たちの平安は、罪の中で死んでいた私たちをキリストと共に生かし、最後まで守り、栄光に至るまで救いを完成してくださる神の恵みにあります。花火を見ることも、見ないことも、私たちの救いの土台ではありません。私たちの救いの土台は、十字架で死に、よみがえられたイエス・キリストだけです。 始めから終わりまで、真の信仰者の望みは、ただイエス・キリストだけなのです。 「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」 ヨハネの黙示録 22章12~13節

  • エペソ5:18「そこには放蕩がある」とは何か― 聖書全体から見る放蕩の道と御霊による歩み

    2026.8.5 The Word for you エペソ5:18「そこには放蕩がある」とは何か ― 聖書全体から見る放蕩の道と御霊による歩み 「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があります。むしろ、御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18) ここで「放蕩」(ἀσωτία)は、酒を飲み過ぎることではありません。聖書全体を見ると、その本質は神ではないものによって心を支え、苦しみから逃れようとする生き方です。放蕩とは辞書でみると自分のやりたいように勝手気ままにふるまい、特に酒や異性と遊びに夢中になってやるべきことをやらずに身を持ち崩すこと。これは間違いではありません。しかし、「浪費」という理解だけでは狭すぎます。エペソ5:18の「放蕩」はギリシャ語 ἀσωτία(asōtia) で、「救いようがない」「制御を失った」「破滅へ向かう放縦」という意味を持ちます。ですから、日本語の「お金を浪費する」という意味だけでは、この語の深さを表せません。 ルカ15章の放蕩息子は、お金を浪費したので「放蕩」と呼ばれています。しかし、本質はお金ではありません。 父から離れた。 自分の欲望のままに生きた。 父との交わりを失った。 最後は破滅に向かった。 これが放蕩です。同じことがエペソ5:18でも言われています。  「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があります。」 パウロは、「酒代を浪費するから駄目だ」と言っているのではありません。酒によって自分を失い、神ではなく酒に支配され、苦しみから酒によって逃れようとする。その結果、人生が神から離れ、破滅へ向かう。これを「放蕩」と呼んでいます。 ですから、聖書全体から要約すると、 放蕩とは、「神ではないものに自分を委ね、自分を失い、神から離れて生きること」です。 その代表例として、 酒 快楽 富 情欲 感情への依存 人への依存 などが挙げられます。だからこそパウロは、「酒に酔ってはいけません。」で終わらず、 「むしろ、御霊に満たされなさい。」と対比させています。 つまり聖書全体の構造では、 放蕩=試練の中で神以外のものに支配される道 御霊に満たされる=試練の中で神によって砕かれ、キリストだけを望みとして歩む道 という対照になっています。これはローマ5章、Ⅱコリント1:9、ヘブル12章、ヤコブ1章などとも一貫しています。創世記から黙示録まで、聖書は二つの歩みを対比しています。 ① 肉によって歩む道 試練に直面すると、人は神ではなく別のものに頼ろうとします。 · 酒 · 快楽 · 娯楽 · 怒り · 愚痴 · 人への依存 · 感情の噴出 · 自己憐憫 これらは形こそ違いますが、「神ではないもので心を支えようとする」という点で共通しています。これが放蕩の本質です。 ルカ15章の放蕩息子も同じです。父から離れ、財産を浪費したこと以上に、父を離れて自分の力で生きようとしたことが放蕩でした。 これに対してパウロは続けて命じます。 「むしろ、御霊に満たされなさい。」 つまり問題は酒そのものではなく、何に支配されるかです。 · 酒に支配されるのか。 · 御霊に支配されるのか。 聖書全体を見ると、神は試練を通してご自身の民を造り変えられます。 試練 → 自分では耐えられない → 神に叫ぶ → キリストだけが望みとなる → 御霊が支える → キリストに似た者へと造り変えられる ローマ5章、ヤコブ1章、Ⅰペテロ1章、ヘブル12章は、この流れを一貫して教えています。つまり、試練はキリストへ向かわせます。 一方、放蕩は、試練から逃げようとします。 河島英五の『酒と泪と男と女』には、 「どうしようもない悲しみに包まれた時に男は酒を飲む」 という趣旨が歌われています。 忘れてしまいたい事や どうしようもない寂しさに 包まれたときに男は 酒を飲むのでしょう 飲んで飲んで 飲まれて飲んで 飲んで飲みつぶれて 眠るまで飲んで やがて男は しずかに眠るのでしょう 忘れてしまいたい事や どうしようもない哀しさに 包まれたときに女は 泪みせるのでしょう 泣いて泣いて ひとり泣いて 泣いて泣き疲れて 眠るまで泣いて やがて女は 静かに眠るのでしょう これは罪の性質の現実をよく表しています。 悲しみ → 酒で忘れる 苦しみ → 酒で麻痺させる 孤独 → 酒で慰める もし酒が神への信頼に代わる拠り所となるなら、それはエペソ5章が警告する放蕩の方向です。同様に、女は「泣くいて、泣いて」、泣き疲れて眠れ。要するに「感情を全部吐き出せ」という考え方も、感情そのものを解決とするなら聖書とは異なります。 よくカリスマ的な集会では、まさに泣く、笑う、震える、倒れる、走り回るなど、感情や身体的な現象が御霊のしるしであるかのように扱われることがあります。 しかし、新約聖書が御霊の働きとして強調しているのは、そのような感情や現象そのものではありません。 御霊は、キリストをあがめ(ヨハネ16:14)、試練の中で神の民を砕き、自分自身ではなくキリストだけを望みとする信仰を造り上げられます。そして、その結果として、愛・喜び・平安・忍耐などの御霊の実を結ばせられます(ガラテヤ5:22-23)。 パウロ自身も苦難の中で、「自分自身を頼みとせず、死者をよみがえらせてくださる神を頼みとする者となりました。」(Ⅱコリント1:9)と証ししました。 これが御霊による歩みです。 放蕩の道 試練 → 苦しい → 酒・快楽・感情の噴出・自己憐憫などで苦しみを紛らわせる → 神ではないものに頼る 御霊による歩み 試練 → 砕かれる → 自分ではどうにもならない → キリストだけを望む → 御霊が支える → 神を賛美する エペソ5:18は、宗教が言う禁酒を教える箇所ではありません。ですから飲酒を否定しません。重要なのは神は聖書全体を通して、「試練の中で何に支配され、何を望みとして生きるのか」という問いを示しています。神は御霊によって、ご自身の民を試練の中で砕き、自分ではなくキリストを唯一の望みとする者へ造り変えてくださるのです。

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