福音の構造の中で御霊に満たされる 2
- 5月16日
- 読了時間: 12分
2026.5.13 The Word for you
今日のテーマは、「福音の構造の中で御霊に満たされる」です。
御霊に満たされることを、福音の全体構造の中で話したいと思います。御霊に満たされることを、福音の全体構造の中で見る。福音の全体構造を見るとき、試練というものを、単なる「つらい出来事」のように扱ってはいけないことが分かってきます。
実は、試練を、ただのつらい出来事として扱うことは、キリストの十字架を無駄にすることと同じ意味を持っています。
どういうことか?それは、照明がないということです。
救いを「赦し」とだけ捉える。恵みを「問題解決」と捉える。御霊を「励まし」と捉える。信仰を「前向きさ」と捉える。このように聞くと、一見、良い感じがします。しかしこれでは、全部が人間の状態、感情、反応を基準にした宗教になってしまいます。
しかし福音はこうです。
救いとは、キリストとの結合に基づく神の救済全体です。赦しとは、義認の恵みです。恵みとは、神がキリストに結ばれた者を保ち、聖化し、栄化へ導かれる神の御業です。御霊とは、キリストを現し、肉を砕き、神を頼らざるを得ない心を創造される神の御業です。信仰とは、再生された者に与えられる、キリストを頼らされる恵みです。摂理とは、神が試練を含むすべてのことを用いて、信仰者を自分ではなくキリストにより頼む者とし、御子のかたちへ造り変えていかれる神の御業です。これが福音です。
そうすると、 救い=赦し、恵み=問題解決、御霊=励まし、信仰=前向きさという考えが、いかに違うか分かるでしょう?照明を受けていないと、すぐこうなります。
苦しみが終われば、恵みだと思う。「ああ、苦しみが終わった。恵みだ。」気持ちが楽になれば、御霊。前向きになれば、信仰。赦されたら、それで終わり。
これは福音ではありません。これは肉です。それは、十字架を背負うことのない生き方そのものです。もし救いが赦しだけで終わるなら、救いの全体構造がありません。それは救いの全体構造を否定していることになります。もし救いが赦しで終わるなら、多くの人は、「イエス様、私を赦してください」で終わってしまう。
教会でも、「あなたは十字架で赦されました」「はい、終わりです」となってしまう。
では、クリスチャン人生とは何なのか。
恵みを問題解決とするなら、神の聖化を否定していることになります。「恵み=問題解決」なら、聖化はありません。
御霊が励ましだけなら、信仰者のうちに働く神の力によって、自我が砕かれ、自己保身が砕かれ、自己憐憫が砕かれ、神をあえぎ求める心が現されるという御霊の働きを否定していることになります。谷川の鹿が水を慕いあえぐように、神を求める心。それを否定しているのです。
信仰=前向きさであるなら、再生された者に与えられる、キリストに頼らされる信仰を否定していることになります。ですから結論は、このような考え方は福音ではありません。なぜなら、十字架を背負うことがないからです。十字架を背負うことのない福音などありません。
しかし多くの人は、十字架を背負いたくありません。十字架を背負うという教えを拒みます。「こんなのは福音じゃない」と言って、自分が聞きたい福音を聞こうとします。自分の耳に心地よいことを聞きたいのです。これは、聖化を失った偽りの福音です。聖化がなければ、十字架を背負う意味もありません。
しかし主イエスはこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」十字架を背負うことは、御霊に満たされることと切り離せません。
主イエスがここで言われた「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」という言葉は、人間が苦労を美化する話ではありません。「私は苦労した」と自分を高くする話ではありません。
十字架を背負うとは、神が試練の構造の中で肉を砕き、自己保身を砕き、神を頼らざるを得ない心を創造し、キリストに結ばれた者が神へ向かって歩かされていく姿です。だから、試練を避け、問題解決だけを望み、それを恵みとし、自分の気持ちの安定だけを御霊とし、前向きさだけを信仰とするなら、それは十字架を背負っていません。そこには、キリストとの結合から流れてくる聖化の現実がありません。
救いの源泉は、永遠のキリストとの結合です。神は永遠において、キリストのうちにその民を選び、キリストに結ばれた者として救いを定められました。そしてその救いは、時間の中で御霊によって現されます。
神はエペソ書で語られているように、死んだ心を再生されます。エレミヤ書も、新しい心を与えられる神の御業を語っています。
神はみことばによって照らされます。そして悔い改めと信仰が与えられます。キリストの義によって義とされます。そして聖化の道を歩まされていきます。この聖化の過程において、試練は救いの構造です。試練は神からの贈り物なのです。
聖なる神は、神が定められた試練、弱さ、苦しみを通して、信仰者の肉を砕いていくんです。そして、自己保身を崩して、キリストをそこに現されます。
試練は一時的な苦痛じゃない。一時的な障害でもない。ただ、そこを通過すれば済むだけの出来事でもない。試練は、父なる神の摂理のもとで恵みとして用いられている。神は試練を構造として置かれていて、一度限りの苦痛ではない。これは構造です。福音の。
信仰者の肉を砕く。自己保身を砕く。神を頼らざるを得ない心を創造する。御霊によってキリストを現される。これが構造なのです。御霊は抽象的に信仰者を満たすのではなくて、試練と苦しみの現実の中で信仰者を砕く。そして信仰者をキリストに頼らせる。
そして御霊が、みことばによってキリストを示すのです。御霊が示すキリスト。御霊が神を頼らざるを得ない心を創造される。御霊が信仰者を信仰によってキリストに結びつけられる。そしてその結合の現れとして、時間の中において、神は信仰者を御霊によって歩く者に変えていくのです。
ですから、神が定められた試練の構造、あなたの人生はその構造の中に移されているのです。
その構造は、あなたが思う思わない関係なく、神の子どもは皆、その構造の中に置かれます。神の子どもではない人は、裁きの構造の中に置かれるのです。そのまま置かれているのです。
だからあらゆる裁きは、神の子どもたちにとっては、試練へと変えられて、キリストの似姿に見せられる、その摂理のものとして使われるのです。
神の子どもでない人たちは、同じ裁きが、彼らを神から引き離して、そして彼らは永遠の滅びへ至ってい く。こういう構造です。これが聖書の構造です。
ですから、試練の構造を照明なしに、聖化を語っていこうとすると、聖化は道徳的改善になっていくのです。「良い人になりましょう」となってしまう。性格改善になってしまう。宗教的行いになっていくのです。
試練の構造なしに、御霊に満たされることを語ると、霊的体験とか、神秘体験とか、奇跡体験に変わってしまう。試練なしに、御霊によって歩くことを語ると、人間の修行になってしまうのです。努力になってしまう。
これが肉の働きです。
神は、信仰者を絶えず、試練の構造の中に置かれています。そして、その試練の中において、御霊によって歩くことが現実になります。そこで、御霊に満たされることが現実になります。なぜなら、神を頼らざるを得ない心が創造されるからです。
「御霊によって歩きなさい」というのは、私たちがその試練の構造の中に置かれているということです。
その構造の中で、神は一つ一つの試練を、摂理によって正確に用いられています。偶然など一つもない。神は永遠の時の始まる前から、すべてのことを既に計画されていて、実行されています。神は試練を通して、肉を砕く。自己保身を砕く。神を頼らざるを得ない心を創造される。新しい創造を行っていく。それが時間の中で現れてくると、愛によって働く信仰なのです。
御霊は、みことばによってキリストを示されます、あなたのその心に。御霊は信仰者を、信仰によってキリストに結びつけられているのです。
「私は決してあなたを見捨てない。あなたを捨てない。」
ある人が、「私はイエス・キリストを捨てられなかった」と言うのです。でも、その人が捨てなかったのではありません。神が捨てていないのです。そして、その結合の現れとして、神は信仰者を御霊によって歩かせます。その信仰者の肉を砕いて、自己保身を砕いて、神を頼らざるを得ない心を、その人の心に置かれるのです。現されるのです。それは光が現れるように。
神は「光あれ」と言われたでしょう。その暗い心に、その人が再生した時に、再生の御業によって新しい心が与えられ、そして時間の中において、その砕きが来た時に、光が現れるのです。
その信仰者が、試練という構造の中に置かれるでしょう?激しい時もある。だけど弱い時もある。ですが、激しかろうが弱かろうが、神はその人を試練の中に置いているのです。例えば、激しい時は、とんでもないことが起こって、動揺するぐらい激しい時もある。だけど、あなたの心の奥底に、不安が絶えずあるでしょう?将来を考えると、心配があるでしょう?それも思い煩いという試練です。
そしてその中において、神はあなたをキリストに結びつける。キリストに頼らざるを得ない者に変える。あなたの不安は、あなたをキリストに頼らざるを得ないところへ置く。そして神は、キリストを現す。だから単なる不幸ではないのです。偶然の事故でもない。何一つ偶然はない。神の主権の外にあるものは何一つないのです。
パウロはこう言うでしょう、「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」神は、試練、苦しみ、弱さ、こういったものの中において、信仰者を絶えず、頼らなければいけない状態に置かれます。その中で信仰者は日々、自分ではなくて、キリストを頼るということを学んでいくのです。
その「学ぶ」というのは、自分で学ぶではないです。神があなたのうちに、その心を置いていくという意味です。私たちは本来自分を頼るでしょう?肉を頼るでしょう?状況が良くなることを頼るでしょう?感情を頼るでしょう?問題解決を頼るでしょう?しかし神は、頼らざるを得ない心を創造されます。
これが御霊のご支配です。頼らざるを得ない心。そこに御霊のご支配がある。そして、神を頼らざるを得ない心があるところで、肉は無力にされるのです。「私が、私のために、私によって」がなくなるのです。肉は御霊によって砕かれているのです。
すなわち、「御霊によってからだの行いを殺しなさい」それが、御霊によって満たされること。御霊によって歩かされることの現実なのです。
肉はすぐこう見ます。「この試練が終わればいい。」「この問題がなくなればいい。」「この苦しみから解放されることが恵みです。」「神様、どうか私をこの苦しみから解放してください。」こう肉は考えるのです。これが肉の思いです。人間は普通そう考えるでしょう。だから肉の思いなのです。「ああ、解放されたい。」イスラエルもそうだったでしょう。「エジプトから出されたのは、ここで餓死させるためなのか。肉が食べたい。」肉はそう働くのです。
しかし聖書はこう言うのです。本当の解放はそうじゃない。真の苦しみからの解放は、問題がなくなることじゃない。状況が改善することじゃない。神が、御霊によってあなたを満たしていくでしょう。その中で忍耐が現されるのです。
聖書は言います。試練は忍耐を生み、忍耐は品性を生む。パウロも言ったでしょう、「棘を取ってください。しかし神は、「私は取らない。」「あなたの弱さの中に私の力を現す。」と言われた。つまり、以前受けていた同じ試練の中でも、以前のように御霊に満たされることを知らないあなたではなく、この試練の構造を、照明を受け理解していく中において、あなたは、その肉が砕かれていくのを見るのです。
それは、あなたが頼りにしているものが剥ぎ取られること。神の代わりになっている偶像が破壊されること。以前あなたを支配していた、「問題がなくなればいい」という思いが砕かれること。それは肉が破壊されていくことです。
そして信仰者は、「神よ、どうか私を助けてください。私はあなたに頼るしかありません。」と言わされる。
「たとえ死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたの杖、あなたの鞭、それが私の慰めです。私の敵をよそに、あなたは食卓を整え、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。」
みことばが、あなたをキリストに頼る者として歩かせていくのです。つまり、解放というのは、試練の消滅ではない。神が試練の中で、信仰者に忍耐を現され、キリストへの信頼を現されることです。それが神の恵みです。同じ試練であっても、信仰者にこの照明が来た時に、パウロと同じ告白が現される。「私は弱い時にこそ強い。」なぜなら、キリストの力が現れるから。キリストに頼る者とされるから。私の心は、主に依存するものとされていく。そしてキリストが、その信仰者の強さとなって現れてくださる。
これは神の永遠の約束です。
「わたしは決してあなたを見捨てない。わたしはあなたを守る。何があっても守る。」
神が御霊によって、信仰者を満たされる。福音とは、永遠の始めから永遠の未来までの、救いの全体構造です。再生、信仰、悔い改め、義認、聖化、栄化。すべて構造です。そしてそれは保証されている。試練もまた、聖化において現される救いの構造のうちにあるんです。なぜなら、恵みとは救いの全体構造だからです。
「すべてのものは、神から発し、神によって成り、神に至るのです。」
これが福音です。では終わります。
お祈りします。
愛する天の父なる神様。
あなたが私たちを決して見放すことなく、決して見捨てることなく、最後の最後まで守り通してくださると約束してくださっている、この福音のみことばを感謝します。
私たちは、自分では分からないところにいます。
しかしあなたは語ってくださいます。
「試練を恐れることなく、わが子よ、この試練の中を歩いて来なさい。」
それは、あなたが私たちを御霊によって歩む者としてくださっているということです。
主よ、私たちは、自分の肉に対処する方法が本当にないということを教えてくださったことを感謝します。
天の父なる神様。
どうか今週も一週間、あなたが聖徒たちとともにいてくださり、この試練の中に、この構造の中に私たちを置いてくださり、キリストに頼らざるを得ない者としてくださることを感謝します。
すべては、なんと深く、高く、長く、広い、あなたの愛の現れでしょうか。
イエス・キリストの御名を通して、感謝してお祈りします。
アーメン。
