愛によって働く信仰の源泉――御霊による新しい創造
- 5月2日
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2026.4.26 豊川の家の教会礼拝メッセージ
「キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受けるか受けないかではなく、愛によって働く信仰なのです。」
ガラテヤ人への手紙 5章6節
「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」
ガラテヤ人への手紙 6章15節
この二つの御言葉の対比は、とても深いものです。
パウロは、「愛によって働く信仰」と「新しい創造」を、別々のものとして語っているのではありません。5章6節で新しい創造の内実を語り、6章15節でその存在の根を語っています。つまり、パウロは「愛によって働く信仰」とは「新しい創造」である、と語っているのです。
そして、新しい創造は、御霊なる神の働きです。
まず押さえなければならないのは、ここで言う「愛」は、私たちが普通に考える愛ではないということです。
人間の優しさ、感情、親切、思いやり、道徳的な行いを指しているのではありません。パウロが「愛によって働く信仰」と言うときの愛とは、御霊によってキリストに結ばれた者の内に、キリストのいのちが働くことです。ですから、この愛を人間的な愛として読むなら、信仰はすぐに道徳や実践の話に落ちてしまいます。表面的なキリスト教に落ちてしまいます。しかし、パウロが語る愛は、人から出る愛ではありません。
御霊によってキリストに結ばれた、新しい創造のいのちから出る愛です。
5章6節でパウロは言います。
「大事なのは、愛によって働く信仰なのです。」
これは、新しくされた者の現れです。ここでの信仰は、ただ頭で正しい教理を認めることではありません。また、人間が自分で起こす宗教的な決断でもありません。
キリスト・イエスにある者の内に、神が起こしてくださる、生きた信仰です。
そしてその信仰は、愛すなわち、新しい創造は、御霊なる神の働きによって働きます。
なぜなら、その人の内に御霊が働いておられるからです。
6章15節でパウロは言います。
「大事なのは新しい創造です。」 ここでは、その信仰の源泉が語られています。愛によって働く信仰があるのは、その人がまず、新しい創造とされたからです。
ですから、順序としてはこうなります。
外面的なしるしが決定的なのではありません。決定的なのは、神の創造の御業です。
神が新しく創造された者の内に、生きた信仰が与えられます。そしてその信仰は、愛によって働くのです。
つまり、愛によって働く信仰とは、新しい創造のいのちが現れている姿です。
そして、新しい創造は御霊なる神の御業です。
人は、自分で自分を新しく創造することはできません。
人は、自分で本当の信仰を生み出すこともできません。
人は、自分で神への愛を起こすこともできません。
御霊が新しく創造し、御霊が信仰を起こし、その信仰が愛によって働くのです。
だからここでパウロが切っているのは、単に「割礼か、無割礼か」という儀礼の対立ではありません。
パウロが話しているのは、外面か、神の内なる御業かということです。
肉か、御霊かということです。
宗教的なしるしか、新しい創造かということです。
死んだ宗教か、生きた信仰かということです。
さらに言えば、ガラテヤ5章6節と6章15節の間には、5章22節の御霊の実がそのまま入ります。
「しかし、 御霊 の 実は、 愛、 喜び、 平安、 寛容、 親切、 善意、誠実、柔和、 自制 です。このようなものに 反対 する 律法 はありません。」
愛によって働く信仰。
御霊の実。
新しい創造。
これは別々のものではありません。
すべて、同じ神の救いの現実を、別の角度から語っているのです。
ですから、パウロの意図はこうです。
キリスト・イエスにある者とは、神によって新しく創造され、その創造を源泉として、時の中で新しい創造を信仰者に起こす御霊よって働く信仰を生きる者です。
これは非常に重要です。
なぜなら、ここでパウロは「本物の信仰とは何か」を定義しているからです。
本物の信仰は、口先の同意ではありません。
外面的な人間愛の宗教行為でもありません。
律法的な熱心でもありません。
しるしの保持でもありません。
本物の信仰は、御霊による新しい創造から出る、生きて働く信仰です。
そして、その働き方をパウロは「愛によって」と表現し、「新しい創造」と表現しました。
ですから「愛によって」と言う表現を、人間中心の「愛の実践運動」していけない。
それは神が新しくされた者の内に、御霊によって働いてくださる、キリストのいのちの現実です。
新しい創造とは、御霊なる神が人を新しく造り、その結果として、その人の内に愛によって働く信仰を生じさせてくださる、神の創造的な救いの御業です。
「愛によって働く信仰」を、ただ「愛のある信仰」や「愛を実践する信仰」程度に読むなら、それはすぐに表面的なキリスト教に落ちてしまいます。
その読み方では、人の内面の性質や行動にすり替わってしまうからです。
パウロが言っているのは、まず、御霊によってキリストに結ばれた者がいる、ということです。
そしてその結合の中で、キリストのいのちが働きます。
その結果として、愛によって働く信仰が現れるのです。
ですから中心は、「愛があるかどうか」ではありません。
中心は、「誰に結ばれているか」です。 ここを外すと、すべてがずれてしまいます。
愛を人格の優しさに変えてしまいます。
信仰を前向きな宗教心に変えてしまいます。
新しい創造を性格改善に変えてしまいます。
御霊の働きを道徳的成長に変えてしまいます。
こうして、福音は破壊されてしまいます。
そして6章15節の「新しい創造」は、まさにその結合の結果です。
新しい創造とは、人が新しい決心をしたことではありません。
御霊なる神が、キリストにある者を新しく造られたということです。
ですから流れはこうです。
永遠の結合が源泉です。
時の中で、御霊によってキリストに結ばれます。
新しい創造が起こされます。
信仰が与えられます。
その信仰が愛、すなわち「新しい創造」によって働きます。
この順序です。
ですから、「愛によって働く信仰」は、信仰プラス愛という並列ではありません。
また「信仰が本物なら愛も出ます」という表面的な道徳説明でもありません。
そうではなく、キリストに結ばれた信仰は、キリストのいのちにあずかっているゆえに、
愛によって働くのです。
愛は源泉ではありません。源泉はキリストとの結合です。
しかし、その結合は死んだ観念ではありません。御霊による実在です。
そこから信仰が生きて働きます。
ただし厳密に言えば、結ばれる対象はキリストであり、結ぶ方は御霊です。
そして、その結合の中で信仰が愛によって働くのです。
ここを混同して、愛そのものに結ばれるかのように言うと、
今度は「あなたが考える定義の愛」が「キリストの位置」に来てしまいます。
ですから、正確にはこう言うべきです。
愛によって働く信仰とは、御霊によってキリストに結ばれた者の内に、キリストのいのちが働いている信仰です。結合の中で与えられるいのちの現実です。
さもなければ、表面的なキリスト教にすり替わり、落ちます。
「愛のある人が本物だ」
「優しい人が霊的だ」
「熱心に仕える人が信仰者だ」
このように考えてしまう。
しかしパウロは逆です。
彼は、割礼か無割礼か、外面的なしるしがあるかどうかを切り捨てました。
なぜでしょうか。問題は外面ではなく、御霊によってキリストに結ばれた新しい創造かどうかだからです。その新しい創造のしるしとして、信仰は愛によって働きます。
つまり結論はこうです。
「愛によって働く信仰」とは、御霊によってキリストに結ばれた者の内に、キリストのいのちが現実に働いている姿です。だから、「愛によって」をキリストとの結合抜きで語れば、それは福音ではなく、表面的な宗教になってしまいます。
「愛によって働く信仰」とだけ言うと、人はすぐにこう読みます。
信仰がまずある。
それが愛を伴って働く。
だから愛の行為が大事なのだ。
しかし、パウロの本質はそこではありません。
本質は、御霊が働かれるということです。
信仰が自立して先にあって、そこに愛が付け加えられるのではありません。
御霊が新しく創造し、御霊がキリストに結び、御霊がその結合の中で信仰を生かしてくださるのです。ですから中心は、信仰が働くことでも、愛が働くことでもありません。
中心は、御霊が働かれることです。
パウロは「愛によって働く信仰」と言います。
しかしそれを人間中心に読むなら、信仰と愛を人の側の性質や実践に落としてしまいます。
実際には逆です。「愛によって働く信仰」とは
御霊が働かれます。
御霊がキリストに結ばれます。
御霊が新しい創造を起こされます。
御霊が信仰を生かされます。
その信仰が愛それは「新しい創造」によって働かされます。
この順序です。
ですから、「愛によって働く信仰」が人間の側の本質なのではありません。
御霊の働きによって生かされている信仰こそが本質です。
パウロが言おうとしている本質は、御霊によってキリストに結ばれ、新しい創造とされた者の内で、御霊ご自身が働かれることです。
愛によって働く信仰とは、その御霊の御業によって生かされている信仰です。
ですから、言葉の重心は、「愛」でも「信仰が働くこと」でもなく、御霊の創造的で、結合的な働きに置かなければなりません。
愛によって働く信仰とは、御霊がキリストに結ばれた者の内で働かれる、その御業によって生かされている信仰です。
ガラテヤ5章6節と6章15節は、結局こう読まなければなりません。
外面的な宗教的しるしは無力です。
決定的なのは、御霊なる神がキリストにある者の内に働かれる新しい創造です。
ここで気をつけなければならないのは、「その現れが愛として出る」という言い方です。
この言い方をすると、愛が外に見える性質や行為のように聞こえてしまいます。
すると結局、また愛情深さ、優しさ、親切さ、良い行いの話に落ちやすくなります。
けれども、パウロがここで言っている中心は、そういう表面の現象ではありません。
中心は、あくまで御霊が働かれるということです。
整理するとこうです。
主体は御霊です。
対象は、キリストに結ばれた者です。
源泉は、新しい創造です。
生かされているのは信仰です。
その信仰は、新しい創造です。
5章6節の「愛によって働く信仰」と、6章15節の「新しい創造」は、二つの救いではありません。同じ一つの救いの現実を、角度を変えて重ねて言っているのです。
つまり、5章6節は、時の中で信仰が生きて働いている面から語っています。
6章15節は、その存在の源泉から語っています。
しかし中身は一つです。
パウロは、「愛が大事です」と言ったあとに、「いや、新しい創造が大事です」と話を切り替えたのではありません。そうではなく、あの信仰とは何かを、さらに深く言い直して、「それは新しい創造なのです」と語っているのです。
ですから、これは重複であり、言い換えであり、深まりです。
しかもこの重複は、単なる言い換えではありません。
パウロが、同じ救いの実在を重ねて確定している語りです。
まず外面を宗教的な、また、人間的な価値観を切り捨てます。
「割礼か無割礼かは、大事ではありまません。」
次に本質を言います。
「大事なのは愛によって働く信仰です。」
さらにもう一度、別の言葉で同じ本質を語ります。
「大事なのは新しい創造です。」
つまりパウロは、外面宗教、人間的価値観を切ったあと、本質を一度で終わらせず、重ねて確定しているのです。
その意味で、こう言うことは正しいのです。
「愛によって働く信仰とは、新しい創造のことです。」
新しい創造とは、御霊によってキリストに結ばれた者の内に、キリストのいのちが働いていることです。
ですから、ここは二項対立ではありません。
信仰か、新しい創造か、ではありません。
新しい創造とされた者の内で、信仰が生きて働いているのです。
「義人は信仰によって生きる。信仰が生きて働いているのです。」
そしてその背後にある主体は、もちろん人ではありません。
御霊なる神です。
だから結論はこうなります。
パウロは、5章6節と6章15節で、御霊によってキリストに結ばれた者の内にある、同じ救いの現実を重ねて語ったのです。
さらに言えば、この重なりは、ただ同じことを繰り返しているだけではありません。
ここでパウロは、永遠と時の中とを重ねて語っています。
5章6節の「愛によって働く信仰」は、時の中で生きて働いている現実です。
6章15節の「新しい創造」は、その時の中に現れているものの根源的現実を語っています。
つまり、6章15節は、神の側の創造の現実を語っています。
そして5章6節は、その創造が時の中でどのように生きて働いているかを語っています。
だからこれは、単なる重複ではありません。
永遠にある源泉と、時の中での現れが重ねて語られているのです。
ここで大事なのは、新しい創造を、単なる現在の変化に縮めないことです。
新しい創造とは、人が少し変わったとか、信仰生活が始まったとか、性格が柔らかくなったとか、そういう話ではありません。現在の自分の変化に対する評価に落としていけません。
それは、御霊によってキリストに結ばれた者において、永遠のキリストとの結合が、時の中で創造として現れていることです。
だから5章6節は、その永遠の現実が、時間の中でどのように生きて働くかを語っています。
信仰が愛によって働く。これは地上での現れです。
けれども、その源泉は人の心ではありません。
永遠におけるキリストとの結合です。
整理すると、こうなります。
永遠において、神はキリストにあってご自分の民を持っておられます。
時の中で、御霊がその者をキリストに結び、新しい創造として現されます。
そしてその者の内で、信仰が愛によって働きます。
だからパウロは、6章15節で存在の源泉を語り、5章6節でその時間の中での現れを語ったと言えます。
さらに言えば、新しい創造は、永遠の結合が時の中に現れた現実です。
そして愛によって働く信仰は、そのいのちが時の中で生きて働いている姿です。
これならずれません。
重要なのは、5章6節を人の実践へ、6章15節を抽象的な教理へと、ばらしてしまわないことです。
パウロはそうしていません。
彼は一つの実在を語っています。
永遠の側から言えば、新しい創造です。
時の中での現れから言えば、愛によって働く信仰です。
パウロは、永遠における神の創造的な救いの現実を「新しい創造」と呼び、
その同じ現実が時の中で生きて働いている姿を「愛によって働く信仰」と呼んだのです。
さらに厳密に言うなら、6章15節は源泉に触れ、5章6節はその現れに触れています。
以上

