鞭と杖による聖化
- 5月23日
- 読了時間: 8分
2026.5.21The Word for you
今日のテーマは、「鞭と杖による聖化」です。
詩篇23篇を、先週のメッセージでも話しましたが、ダビデは追い迫ってくる敵の前で、このように告白しました。
“たとえ死の陰の谷を歩むことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです。”詩篇23篇4節
ここでダビデは、「鞭と杖」を神の慈しみと恵みとして語っています。ダビデは続けてこう告白します。
“まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私は いつまでも【主】の家に住まいます。”
この詩篇のテーマは、「慈しみと恵み」です。そしてダビデは、その慈しみと恵みが、「鞭と杖」であると言うのです。つまり、神は、ご自分に属する羊を放置されないということです。
“主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。”神は、迷い出る羊を、杖と鞭によって戻される神です。神は、ご自分の羊を放置せず、人間中心の歩みから引き戻される
では、迷い出る羊とは何か。それは、自分の判断を道として歩む人の姿です。自分の感情、自分の思い、自分の意思を、判断の基準として歩もうとする羊です。しかし、神に属する羊を、神は放置されません。神は、危険へ向かっていく羊を、鞭と杖によって止められます。
なぜか。危険へ向かうということは、自分の欲、自分の安心、自分の都合を基準として歩む、人間中心の歩みだからです。
神は、羊が「自分の力で歩ける」と思うことを許されません。なぜなら、「自分で立てる」という思いこそが、最大の敵だからです。それは、神への依存を失った肉の高ぶりそのものです。
だから神は、鞭と杖を使われます。しかし、それは罰ではありません。神が、人間中心へ傾いていく信仰者を、ご自身へ引き戻される慈しみと恵みです。神が、自分の欲、自分の安心、自分の都合を基準として歩もうとする信仰者を、ご自身へ向け直される。それが、鞭と杖の意味です。
聖化とは、人が立派になることではなく、神がキリストに結ばれた者を御自身へ向け続けられる御業である。
だから、「聖化」を考える時、聖化とは、人が立派な信仰者になることではありません。神が、キリストに結ばれた者を、ご自身へ向け続けられる神の御業です。
“神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。”ローマ8章
事実、私たちは神の前で腐った罪人です。ここを忘れてはいけません。
“義人はいない。一人もいない。”
“私のうちには、善が住んでいないことを私は知っています。”
しかし私たちは、いつの間にか、この御言葉を忘れます。自分で立てると思う。自分で理解できると思う。自分で進めると思う。自分で守れると思う。このような肉の思いに、私たちは戻っていきます。
試練は、神の鞭と杖として、肉を砕き、罪人である照明を与える
“主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、鞭を加えられる。”
ヘブル12章
試練は、神の鞭と杖です。神は、試練の構造の中に、すべての神の民を置かれます。そしてその中で、照明を与えられます。「私は罪人である」という照明です。
悔い改めは、その信仰者の人生の中に絶えずあります。自分には功績も価値もない。自分では立てない。それを、神が絶えず示されます。
それは宗教的な言葉ではありません。心の奥底から、「私は罪人である」「自分には功績も価値もない」「自分では立てない」という姿を、神が置かれるのです。
この照明は、自分で作るものではありません。頭で理解するものでもありません。神が、心の奥へ差し込まれるものです。
「自分で立てる」も「自分には無理だ」も、どちらも肉の思いであり、神はそれを砕かれる。
また反対に、「自分にはできない」「私には無理だ」と嘆き続ける人もいます。しかし、「自分には無理だ」と嘆き続けることは、謙遜ではありません。それは、神の御業を見ていない。自分の不能、自分の愚かさ、自分の弱さを中心に置き続けている肉の思いです。
自分の弱さを理由にして、神の召し、神の導き、神の鞭と杖、神の慈しみと恵みを拒もうとする。それは傲慢です。わがままな肉そのものです。
しかし神は、どちらの肉も砕かれます。試練によって砕かれます。なぜか。神が、ご自身だけを頼る者として、その信仰者を歩かされるためです。神は、弱さの中でキリストの力を現し、「キリストが私の義である」所へ導かれる。
そして神は、“あなたがたのうちに働いて、みこころのままに志を立てさせ、事を行わせてくださる”
と語られます。
ピリピ2章
また神は、その弱さの中で、キリストの力を現されます。パウロは第二コリント12章でこう言いました。
“私が弱いときにこそ、私は強いからです。”
これは強がりではありません。神が肉を砕かれた時、その人は、キリストを最後の望みとして持つからです。
自分の判断、自分の希望、自分の感情、自分の安全、それらを神が砕かれる。そして、
「キリストが私の義である」というところへ、その信仰者を導かれる。これが聖化です。
そして、このキリストへの望みは、神が新しい創造として、その人の内に現される、「愛によって働く信仰」です。
御霊に満たされること、御霊によって歩くことは、試練と切り離せない
御霊に満たされる。御霊によって歩く。これを、試練と切り離して語ってはいけません。
多くの人は、「御霊に満たされること」と「試練」を別のものとして考えています。しかし聖書は、それを切り離しません。
ヘブル11章の信仰者たちは、試練の中に置かれ、試練の中で死んでいきました。
なぜか。試練の中でこそ、神は古い人を砕かれるからです。
人間中心の思い、感情、意思、誇り、それらを打ち砕かれる。そしてその中で、新しい創造を現される。
信仰者は、その試練の中で、
「自分がどれほど罪人か」
「どれほど醜いか」
を知らされます。
そして、「キリストこそ望みである」というところへ導かれる。
だから、御霊によって満たされるとは、感情的高揚ではありません。神が御霊によって支配されることです。
“エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みを置く。”
ローマ15章12節
最後の望みを置く。それが、御霊によって歩くということです。
自分の判断で歩くことではありません。神が、試練によって肉を砕き、キリストに結ばれた新しい創造として歩かされる。それが御霊によって歩くことです。
だから、方法論や計算によって、「どうすれば満たされるか」を考え始めた時、人はすでに肉によって歩いています。そこに神の御業はありません。
本当に溺れている人間は、計算しません。ただ必死です。藁にもすがる。そのように、御霊によって歩くことは、神の御業です。
“ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。”
第二コリント5章
そして神は、その新しい創造を、人生の中で現され続けます。
“古い私は終わった。”
“肉によって立つ私は終わった。”
“自分の力で守る私は終わった。”
この神の証明を、一生涯、その信仰者に現されます。もし、一時的にそう思って忘れるだけなら、それは単なる知識です。
神は、命の日の限り、鞭と杖によって追い、キリストを最後の望みとして現される
神は、ご自分の民を放置されません。
神は、命の日の限り、
「古い私は終わった」
という照明を与え続けられます。
そして、キリストに結ばれた新しい創造を、神の御業として現されます。
ガラテヤ5章16節。
“御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲を満たすことは決してありません。”
御霊によって歩くとは、苦しみが消えることではありません。どこにそのように書いてありますか。
パウロは、苦しみの中を歩きました。神は、パウロの痛みを取り去られませんでした。しかし神は、鞭と杖によって、パウロをキリストへ向け続けられました。
“私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。”
ガラテヤ2章20節
詩篇23篇でダビデが語る「慈しみと恵み」は、優しい慰めだけではありません。鞭と杖です。
神は追って来られます。
自己中心へ逃げる羊を追われる。
肉へ戻ろうとする羊を追われる。
自分で立とうとする羊を追われる。
そして、鞭と杖によって、「キリストが最後の望みである」というところへ戻される。
神は、慈しみと恵みによって追って来られる。試練によって追って来られる。御霊によって歩かせ、新しい創造を現される。これが聖化です。
ダビデは言いました。“私のいのちの日の限り。”それは、人生の最後までということです。神は、ご自分の羊を最後まで放置されません。最後まで、鞭と杖によって追われます。
最後まで、キリストへ向け続けられます。そこに、聖化があります。結論として、聖化はすべて神の慈しみと恵みである
そして私は言います。すべては神の慈しみと恵みです。
鞭と杖も、慈しみと恵み。
試練も、慈しみと恵み。
砕きも、慈しみと恵み。
弱さの中に現れるキリストの力も、慈しみと恵み。
御霊によって歩かされることも、慈しみと恵みです。
キリストが、あなたの最後の望みです。神は、そのように、ご自身の民を歩かされます。
お祈りします。
愛する天の父なる神様。あなたの慈しみと恵みを感謝します。あなたの鞭と杖を感謝します。あなたは、ご自分の羊を放置されません。試練を通し、砕きを通し、御霊によって歩かせ、新しい創造を現してくださいます。命の日の限り、あなたの慈しみと恵みが、あなたの民を追って来ることを感謝します。
キリストが、私たちの最後の望みです。イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

