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結合、再生と内住の違い
結合、再生と内住の違い


マタイ24章 選びの民は誰か 黙示録3
マタイの24章の選びの民は誰か、また反キリストと獣の刻印、そして終末的迫害をどう位置づけるべきか。


結合の民は最後まで地上に置かれて完成に導かれる 黙示録2
神は選ばれた者たちを守り続け、再臨は逃避の開始ではなく、完成そのものです。


目を覚ましていなさい
今日の言葉は、第一テサロニケ5章5〜6節を中心に、「目を覚まし、身を慎んでいる」ということについて話をしています。


復活の神学的理解 要点
復活の神学的理解


聖霊の内住とその偉大さ
聖霊の内住とその偉大さについて。最初に誤りを明確にする。聖霊の内住について、今日多くの教会において、誤った聖霊(御霊)の内住が語られている。


講解 時中の結合 ヨハネ福音書、エペソ書― 効果的召しから、神が据える結合へ ―
信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。
そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。
そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。


エペソ人への手紙2:16講解
エペソ2:6
「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」


1コリント10章13節 PART2 「試練」と「偶像礼拝」
コリント人への手紙 第一 10章13~14節
なぜパウロは「試練」と「偶像礼拝」を同じ文脈で語るのか?


1コリント10章13節 PART1なぜパウロは「試練」と「偶像礼拝」を同じ文脈で語るのか?
コリント人への手紙 第一 10章13~15節
なぜパウロは「試練」と「偶像礼拝」を同じ文脈で語るのか?
理由は一つ。試練は“偶像に逃げる心”を暴く。そして、偶像礼拝とは、キリストとの永遠の結合、救いの源泉以外の何かに救い・安全・支えを求めること。


福音の二重構造 摂理と 病・災害・死を考える
今日はヨエル書で学んだ福音の2重構造を復習します。
主は神。キリストとの永遠の結合。人間中心主義の誤った教えの否定。この3原則に基づいて講解します。
病気、災害、そして死。人が最も恐れ、最も避けたいと願うこれらの出来事は、すべて神の摂理のもとにあります。


天の御国は激しく攻められている
マタイの福音書11章12節「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、神の御国は激しく攻められています。そして激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」この言葉は、神の国がどのようにこの世に現れているのか、また人の心をどのように作り変えていくのかを示す大切な御言葉として理解します。


光に照らされる悔い改め
もし、今あなたの心に、「主よ、あわれんでください」
という祈りがあるなら、それは弱さではありません。
それは、イエスの死と命が、聖霊によってあなたの魂に結びつけられている証です。
再生は神のわざ。照明は神の光。悔い改めはその実。信仰は向けられた心の向き。聖化はその心が栄光の前味をもって歩む生涯。
すべて同じ キリストの命 です。 アーメン。


十字架の神学 ― 第二コリント4章10–12節
私たちはいつもイエスの死を身に帯びています。それはイエスの命が私たちの身に現れるためです。」
これは第二コリントの4章10〜12節のところに書いてあります。
ここは、十字架の神学を最も深く語った箇所の一つです。
ここには、キリストとの結合によってキリストの死と命が信仰者の生活の中に同時に現れるという真理が示されています。


聖なる光に貫かれる 再生と照明――聖霊が心を照らす恵み
神の聖なる光があなたの心に触れるとき、あなたは自分の罪の闇を知り、 同時に神の美しさと栄光を悟ります。
それは裁きの火であり、同時に再生の光です。 その光は人を砕き、同時に生かします。
真の信仰者は祈ります。
「聖なる、聖なる、聖なる主よ、 あなたの光は真実で、美しく、栄光に満ちています。」
Ⅱコリント4:6 「初めに『光あれ』と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光の知識を、 私たちの心に輝かせてくださったのです。」
人間の知恵によって神を知ることはできません。 神が聖霊によって、御言葉を通し、 キリストの真理を悟らせてくださいます。 そして、あなたは変えられていくのです。
私たちの再生と照明は、 すべてキリストとの結合から流れ出る恵みです。 キリストとの結合は救いの源であり、泉です。 聖霊は、 この結びつきを私たちの現実の歩みの中で 確かに働かせてくださいます。 だから私たちは―― 『恐れと喜び』で主に近づき、 御言葉により生かされ、生きるのです。


なぜ、信じても苦しみが続くのか?2 すでに/いまだの救い
信仰者は「二つの世界」を生きている
前回(第1回)で学んだように、「上にあるものを思う」とは、努力して天を目指すことではなく、
外からサタンと罪の誘惑、うちにある罪の性質から神の完全な支配へと逃げ込み、とどまる信仰の姿でした。
しかし、その「上にとどまる」信仰生活には、
① 永遠の救いがすでに完成している現実と、
② 今も未完成の中を栄光に向かい生きている現実
① と②とのあいだに、ひとつの緊張があります。
それはすでに救いが完成していながら、
いまだその完成を待っている
と言う信仰者の生き方です。
それが、「すでに」と「いまだ」の間を生きるという現実です。
私たちは「すでに永遠に救われた」けれど、
「いまだ時の流れの中で完成へ進んで行く」。
この二つの現実が信仰の中で常に交差しています。


何から逃げるのか2- 1ペテロ5章8節「悪魔と罪の心の関係」
キリストと結ばれた者の勝利
サタンの働きは、社会や文化の見えない流れを通して起こります。彼のねらいは人の中の罪の性質であり、目的は信仰を壊すことです。
しかし――キリストと結ばれた人は、永遠の契約によって完全に守られています。その魂の中心は神のもの。聖霊が内に住み、サタンは外から火を投げても燃え上がることはできません。
「罪はあなたを支配しない。あなたは律法の下ではなく、恵みの下にいる。」(ローマ6:14)
「あなたがたのうちにおられる方は、世にいる者よりも偉大です。」(1ヨハネ4:4)
信徒は、サタンの吠え声を恐れる必要はありません。彼は吠えることはできても、かみつくことはできません。ただし、エペソ4:27の警告を忘れてはなりません。
「悪魔に機会を与えてはいけません。」
私たちは、すべてのことが神の主権の御手の中にあることを覚え、キリストの勝利のもとに歩む者として、常に上にあるものに心を向けていなければなりません。(コロサイ3:1)
それは、信仰の大盾となります。(エペソ6:16)
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