エペソ人への手紙2:16講解
- thewordforyoujapan
- 2025年12月27日
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2025.12.21 豊川の家の教会 礼拝メッセージ
エペソ2:6
「神はまた、キリスト・イエスにあって、
私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」
1. 主語は神 ― 結合の源泉
この節のすべての動詞は、神が主体で行われた完了の事実である。
•「キリストにあって」
•「ともによみがえらせ」
•「天上へ上らせ」
•「座らせ」
いずれも、結合(in Christ)という永遠の源泉から流れ出た神のわざ。
私たちが上がったのではなく、神がキリストに結んだゆえに、神が私たちを天上へキリストとともに引き上げ「座らせた」のである。
2. 「キリストにあって」—結合がすべてを説明する
この聖句こそが、聖書の救済論を貫く中心軸である。
「キリストと共によみがえらせた」がなければなにもない。
復活は「領域の移行」
•死 → いのち
•暗闇 → 光
•アダム → キリスト
•この世 → 神の国
つまり、「キリストの復活なくして、天上に座る私たちの位置はありえない。」
天上の座は「復活のいのちに結ばれた者だけが信仰によって喜び受ける天上の生活」
3. 結合の順序
ジョン・マレーが強調し続けた中心真理:
永遠の結合→復活のいのち→支配の中にある位置 Union→resurrection life→position in the reign of Christ
源泉は永遠の結合。救いは、キリストの十字架と復活によって達成された。その救いは、神の召しと再生によって、私たちの現実となる。
エペソ2:6は、その実際の結果として「共に生かされ/共に座らされた」ことを語る。
4.「福音の中核」 十字架の御業
キリストは受肉され、 ベツレヘムに生まれ、神の御前において完全な義の生活を全うされた。
そして、時の中に来られ、ゴルゴダの丘で十字架にかかり、死なれた。
この死は、神が永遠において、私たちをキリストに結合しておられたがゆえに、私たちの死とされた。
キリストが死なれたとき、私たちもまた、キリストにあって死んだのである。
キリストは三日間墓に葬られた。それは、キリストが完全に死なれたという事実であり、同時に、私たちがキリストにあって完全に死んだという事実である。
なぜなら、神は私たちを永遠にキリストに結合しておられ、その結合に基づいて、時の中で私たちを呼び出し、再生によって新しいいのちに生かされたからである。
「キリストがよみがえられたゆえに、私たちもまた、キリストにあってよみがえらされた。」
この事実は、神がすでに確立しておられる現実であり、信仰者が試練と苦しみの中を歩むそのただ中で、神ご自身の照明によって明らかにされる事実である。
「キリストとの結合」において、神は私たちを再生させ、復活のいのちに生かし、私たちをキリストが座しておられる、御座のご支配の中へと招き入れられた。
私たちは、キリストとともに復活させられ、天上にあるキリストの支配のもとで生きる者とされたのである。
5. 「ともによみえがえる」とは、「天上と地上の二つの構造の真理」への道
天上と地上の二つの構造とは:信仰者が「地上の現実」と「永遠の天上の御座」で二重に同時に生きること
わたしたちは外的には地上の現実を生きているが、その同一の私たちは、キリストにあって復活のいのちに生かされている。
その結果:二つの現実に同時に生きる
1)外側:地上の現実 → 苦難がある
外側の人は絶えず、苦しみがある、しかし、同一のわたしたちの中に。
2) 内側:天上の現実 → 勝利と確定した座にある
神が、復活のいのちによって、私たちを内側において生かしておられる。
天上のキリストの支配と地の歩みが同時に存在する。それが外なる人と内なる人の同時存在である。
3)もし、イエスの十字架の死と復活と自分が一体であるという照明がなければ:
この2つの構造はなく、外側の困難のみがある
天上の御座は「意味不明な御言葉」
地上と天上を結ぶ線は存在しない
すべて心は常に虚しく、そして、その虚しさを何かで埋めようともがくあなたがいる。
6. 神はキリストと私たちを結合し、ともに復活した。その御業は「結合の力」を示す中心点
「御座に座らせた」とは、私たちの生きる場所が、キリストの支配の中に移された。「キリストと共によみえがえる」はキリストの命によって生きるということ。
キリストとともに座る(キリストの支配)
キリストとともによみがえる(キリストの命)
結合によって、信仰者は、キリストの命に生かされ、キリストの支配の中で守られる。
もし聖句にある「座る」を人間中心に読むと、この聖句は理解できない;
天に座るって何?
なんのことわからない
実感がない
抽象的すぎる
心理的なこと
しかしパウロはこう言う:
ローマ6:10-11
"なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。"
あなたはキリストに結ばれ、すでに復活のいのちに生かされている。それゆえ、あなたの天上の位置は心理的な妄想ではなく現実であり、あなたはキリストの支配の中で生きている。
7. 「キリストとともによみえがえる」そして「キリストともに天上に座る」
パウロの言葉は、福音のもっとも重要な箇所である。
•結合
•信仰者は外なる人、内なる人の二つの構造に生きる
•復活の命をうけ
•キリストの支配に生きる
キリストの復活がなかったと言うなら、信仰はむなしく、福音は骨抜きとなる。私たちは、キリストから切り離されたまま天に座らされたのではなく、キリストに結ばれているがゆえに、キリストの御座とその支配のもとに置かれている。
よみがえりも、座ることも、永遠の結合に土台があり、そこから流れている。
独立した出来事ではなく源泉は結合、そこから恵みは流れている。ここに人間の努力・経験・感覚は一切無関係である。すべて神の恵み。
8. 感謝 — 二つの構造は「神の恵みの豊かさ」への引き上げ
最終的にパウロが語る目的は:「神の限りなく豊かな恵みを示すため」(エペソ2:7)
あなたが日々の生活の中で、礼拝においてこの二つの構造は、恵みの豊かさの証明である。
地上では苦しむ
しかし天上のキリストの支配の中に置かれた事実は永遠に変わらない
これは、あなたは完全に神の手の中にあり、救いは聖霊により、キリストとの永遠の結合している。それは聖霊の証印で確証されているのである。
9. まとめ
永遠の結合は源泉であり、その源泉から二つの構造が流れている。その二つの構造は信仰者の心を慰め、この驚くべき神の恵みへの感謝へと導く。
ゆえに、地上の歩み、地上で喜ぶとき、涙するとき、苦しみのとき、いかなる状態にあっても、信仰者の位置はキリストの支配の下に確立されている。
「神のイスラエル」は神に叫ぶ;
新しい創造(ガラ6:15)
信仰による義
すなわち、キリストと結ばれ、選ばれている者はすべて叫ぶ;イザヤ書 12章2~5節
見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。
その日、あなたがたは言う。主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。
御名があがめられていることを語り告げよ。主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。
「神のイスラエル」に主は答えられる。
イザヤ書 43章1~5節
"だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。
わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。"
神のイスラエルは叫ぶ;
私たちの神が褒めたたえられますように、栄光が限りなくとこしえにこの方にありますように!
アーメン


