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主語はゲラサの男ではない
マルコの福音書第5章1節から17節の全体シナリオの理解。 この章のテーマはキリストが闇の支配を断ち切り、魂を光の領域へ移す。主語はすべてキリスト、男、レギオン、2000匹の豚でもない。


なぜ信じても苦しみが続くのか?「すでに/いまだ」の救い
私たちがクリスチャンであるのは、神が私たちを救われたからです。しかし、救いとは「罪が赦されること」だけではありません。救いとは、キリストと結ばれることそのものです。ジョン・マレーはこう語ります。
「救いのすべての祝福は、キリストとの結合から流れ出る。結合は恵みの順序の中の一項目ではなく、全体を貫く中心軸である。」
この“結合”があって初めて、選びも現実となり、再生も起こり、そして義認・聖化・栄化も実を結びます。


「代償を量りなさい」ってどういうこと? 福音構造と変わる心
イエスさまの「代償を量りなさい」とは、人間には無理だと悟らせる問いかけ。
本当の信仰とは「自分をあきらめてキリストに頼ること」。
神が聖書と聖霊を通してキリストの栄光を示してくださるとき、心は変わる。(パウロの回心)
そして 結合 → 再生 → 悔い改めと信仰 → 義認 → 聖化 の流れの中で、弟子として従う歩みが実現する。
イエスさまは「あなたのすべてを捨てなさい」と言われます。でも、それは自分の努力ではできません。
だからこそ、神が御言葉でキリストの栄光を見せ、聖霊が心を変え、「無理だったこと」を「従いたい心」へと変えてくださるのです。
「代償を量りなさい」という命令は、私たちを落ち込ませるためではなく、キリストの恵みに満ちた招きへ導く真実の問いかけなのです。


「結合と人の子」 ― 天が開かれ、人と神がつながる
イエスさまは「神」であり「人の子」
イエスさまは、「アブラハムが生まれる前から、わたしはある(I AM)」と言われました(ヨハネ8:58)。
これは、「わたしは永遠の神である」という意味です。(出エジプト3:14)イエスさまは「わたしはある(I AM)」と語られた永遠の神であり、同時に「父の独り子(神の子)」として来られました。
「神の子」とは、父と一つであり、永遠に父と御霊とともにおられる方、という意味です(ヨハネ1:14,18)。神の子としてのイエスさまは、父なる神を完全に現し、神の栄光をあらわす方です(ヘブル1:3)。
「人の子」とは、イエスさまがご自分を紹介するときによく使った名前です。
聖書では80回以上使われています。「人の子」とは、神と人の間をつなぐために来られた救い主という意味です。
「人の子」は人間性を強調する表現、同時にイエスさまは「神の子」としての完全な神性を持っておられることを忘れてはいけません。


キリストとの結合と摂理 ― 救いのすべてがそこから始まる ―
キリストとの結合(union with Christ)とは、神が選んだ者をキリストと霊的に結び合わせることです。この結合のうちで、私たちは「キリストにある者」とされ、そこから再生・信仰・義認・聖化・栄化といった救いのすべての恵みを受けるのです。
この結合を、3つの側面で理解します。
全人格的:真の信仰者の思い・感情・意志・存在すべてがキリストと結びづけられ、その思い・感情・意志・存在すべてはいつもキリストの影響を受けていきます。
契約的:永遠の約束です。神は永遠の救いを約束として信仰者に与えました。それはキリストと信仰者が約束によって結合しているからです。
有機的:ぶどうの木と枝のように、キリストに絶えず依存して生かされていると言う霊的事実の結合です。


広さ、長さ、高さ、深さ
パウロは、エペソの信徒たちのためにこう祈りました。
「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、
あなたがたに知恵と啓示の御霊を与えて、神を知ることができるようにし、
心の目をはっきり見えるようにしてくださいますように。」
(エペソ1:17–18)
この「知る」とは、ただ情報を得ることではありません。
それは、心の目が開かれ、神の救いのご計画を全体として御霊により啓示され悟ると言うことです。


「救いと教会 ― 教会との結合」
「教会に属していないと救われないのですか?」「救われたあと、自分に合った教会を選べばいいのでは?」この問いは、現代の教会、信仰者、すべての人々にとって非常に重要な問題です。
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