なぜ信じても苦しみが続くのか?「すでに/いまだ」の救い
- thewordforyoujapan
- 10月25日
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更新日:10月31日
キリストとの結合 ― すでに、いまだ 結合が福音の中心
2025.10.18 豊川の家の教会 礼拝メッセージ
私たちがクリスチャンであるのは、神が私たちを救われたからです。しかし、救いとは「罪が赦されること」だけではありません。救いとは、キリストと結ばれることそのものです。ジョン・マレーはこう語ります。
「救いのすべての祝福は、キリストとの結合から流れ出る。結合は恵みの順序の中の一項目ではなく、全体を貫く中心軸である。」
この“結合”があって初めて、選びも現実となり、再生も起こり、そして義認・聖化・栄化も実を結びます。
1. 神のなさることは、すべて時にかなって美しい
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」
― 伝道者の書 3章11節
私たちは、永遠と時の流れという二つの次元の中で生きています。しかし、私たちの救いは、単に時間の中で起こった出来事ではなく、神の永遠のうちにある結合です。神は永遠の計画の中で、キリストのうちに私たちを選び(エペソ1:4)、それは単なる「救いの予定」ではなく、キリストの中にいるあなたを、永遠の喜びと満足をもって見つめておられたという意味です。
父なる神は、御子キリストのうちにあなたを見、御子の義と美しさの中にあなたを見、「これこそわたしの愛する者、わたしの心にかなう者」と喜ばれました(マタイ3:17)。すなわち、神はキリストの中にあるあなたを永遠に愛し、喜ばれたのです。
同時に、神はキリストのうちに教会全体を見ておられました。すなわち、あなたはただ個人としてではなく、キリストの体の一員として、愛と喜びの中に選ばれたのです。この教会的選びこそ、神が「キリストにある者たち」を御自身の民として抱かれる愛の広がりです。
これこそが、神のうちにあるあなたの永遠の結合の始まりです。
そして神は、その永遠の結合を時間の中での結合として現実にするために、聖霊によって私たちを再生させてくださいました。
伝道者の書は語ります――神は人の心に「永遠を思う思い」を与えられた。それは、人間が時間の中に生きながらも、永遠の神との結合を求める存在として造られたからです。
今日は、この「永遠における結合(永遠の結合)」と「時間の中で実現する結合(時間の中での結合)」
という二つの側面を見つめながら、なぜ神が私たちの心に永遠を思う思いを与えられたのかを学びたいと思います。
それこそが、私たちの信仰の土台そのものだからです。今日のメッセージはその信仰の土台のことです。
2.救いのすべての段階
救いの各段階は別々の出来事ではなく、一つの源から流れ出ています――キリストとの結合です。
永遠の選び(エペソ1:4)
「すなわち、神は、天地創造の前に、私たちをキリストにあって選び、御前に聖く、傷のない者にしようとされました。」
時間の中での再生(ヨハネ3:5)
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」
神の御前における一度きりの義認(ローマ5:1)
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」
御霊による聖化(1テサロニケ4:3)
「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、不品行を避けることです。」
終わりの日の栄化(ローマ8:30)
「神はあらかじめ定めた人たちを、さらに召し、召した人たちを義と認め、義と認めた人たちを、さらに栄光を与えました。」
これらはすべて、「キリストとの結合」という一つの現実の中で展開します。だからこそ、私たちの信仰生活の全体を要約する言葉があるとすれば――それは「キリストとの結合」なのです。
3.一つの結合 ― 「すでに」と「いまだ」
ここで大切なのは、結合が二種類あるのではないということです。「結合は一つ」です。ただし、その一つの結合が、二つの次元――「すでに」と「いまだ」――の中で現れるのです。
「すでに」― 永遠における結合(神の側の完成した現実)
「いまだ」― 歴史の中での結合(聖霊による現実化)
福音はこの二つの次元の中で結合を理解することによって、私たちはキリストとの結合を表面的な理解から、その神的深みへと導かれます。
4.「すでに」― 永遠における結合
エペソ1:4にはこう書かれています。
「神は天地創造の前に、私たちをキリストにあって選び、御前に聖く、傷のない者にしようとされました。」
神はあなたを個別に愛する前に、キリストにあってあなたを見ておられました。
選びそのものが、キリストとの結合の中で行われたのです。
R.C.スプロールはこう語ります。
「神の義は神の本性上の義務であるが、あわれみは神の自由な御心の選びである。神は罪人に義を求める義務をお持ちだが、赦しを与える義務はお持ちでない。したがって、救いとは神の恵みの選びである。」
この「神の自由な恵みの選び」の中で、私たちはすでにキリストに結ばれていたのです。
5.「いまだ」― 時間の中での結合
しかし、私たちは時間の中を生きる存在です。神が永遠において定められた救いは、歴史の中で現実化されます。
「私たちはこの御子にあって、その血による贖い、すなわち罪の赦しを受けています。」(エペソ1:7)
「あわれみ豊かな神は、私たちをキリストと共に生かし、共によみがえらせ、共に天の所に座らせてくださいました。」(エペソ2:4–6)
再生とは、聖霊がキリストとの結合を現実に適用し、私たちに新しいいのちを与える、歴史の中の瞬間です。信仰とは、その結合から生み出される、人間の側の応答です。
ジョン・マレーはこう言います。
「結合は再生を含み、信仰を生み出し、義認・聖化・栄化のすべてを抱える。結合なしに、救いのどの段階も成立しない。」
したがって、「再生してから結合する」のではなく、結合したゆえに再生が起こるのです。
6.「すでに」と「いまだ」の交差点
信仰生活は、この「すでに」と「いまだ」の間を歩むことです。
「すでに」 私たちはキリストと共によみがえらされ、天の所に座しています(エペソ2:6)。
「いまだ」 私たちは罪との戦いを続け、完成の時を待っています(ローマ8:23)。
この構造は、信仰義認と聖化の関係にも現れています。すなわち、「キリストにあってすでに義とされた者が、キリストにあっていまだ聖くされつつある」― これが永遠の義であり、いまだ聖くされつつある信仰生活の真実な姿です。
7.教会的な結合
聖書はこの結合を多くの比喩で語ります。
• 体 ― キリストが頭、私たちは肢体(エペソ4:15–16)
• 神殿 ― 神の御霊が内に住む(1コリント6:19)
• 花嫁 ― 教会はキリストの花嫁(エペソ5:25–27)
特に聖餐は、「すでに―いまだ」の結合を目に見えるかたちで味わう時です。パンと杯を受け取るとき、「すでに」与えられたキリストの十字架の結合を思い起こし、同時に「いまだ」完成していない栄光の食卓を味わいつつ待ち望むのです。
聖餐は単なる記念ではありません。それは、キリストとの結合が今ここで確かに働いているという聖霊の印です。「すでに」赦され、「いまだ」完成を待つ者として、私たちはパンと杯を通して、キリストの臨在と交わりの現実を経験します。
8.苦難と結合 ― 共に死に、共に栄光にあずかる
「もし彼らがわたしを迫害したなら、あなたがたも迫害する。」(ヨハネ15:20)
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。」(ガラテヤ2:20)
R.C.スプロールは言います。
「神の聖徒たちが苦難を通して栄光にふさわしい者とされるのは、彼らが御子の苦難にあずかるからである。
苦しみは恵みの欠如ではなく、恵みの深まりである。」
苦しみは、結合の破れではなく、むしろ結合の証拠なのです。「すでに」起こった十字架の一致は、「いまだ」見ぬ、栄光の一致へとつながります。だから私たちは苦難を恐れません。それはキリストが共におられる証だからです。
9.永遠の安全と現在の歩み
「だれが神に選ばれた者たちに訴えを起こすのか。神が義と認めてくださるのだ。」(ローマ8:33)
「どんな被造物も、キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできない。」(ローマ8:39)
私たちの救いは、永遠の中で「すでに」確立され、歴史の中で「いまだ」進行し、やがて「完全に」成就します。
10.まとめ
永遠の昔、時が始まる前から、神は私たちをキリストにあって、ご自身のうちに結び合わせておられました。そして歴史の中で、御子キリストが十字架にかかり、選ばれた者の罪を贖われました。さらに時の流れの中で、聖霊が働き、その者をキリストに結び合わせ、罪の中で死んでいた心を新しく創造し、再生させ、永遠のいのちへと導かれたのです。
この驚くべき、神の恵みの結合の真理こそ、私たちの信仰の確かな土台です。
もう一度、最初に話したことを説明したいと思います。この理解はあなたのクリスチャン人生を大変革します。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」― 伝道者の書 3章11節
私たちは、永遠と時の流れという二つの次元の中で生きています。しかし、私たちの救いは、単に時間の中で起こった出来事ではなく、神の永遠のうちにある結合です。
神は永遠の計画の中で、キリストのうちに私たちを選び(エペソ1:4)、それは単なる「救いの予定」ではなく、キリストの中にいるあなたを、永遠の喜びと満足をもって見つめておられたという意味です。
父なる神は、御子キリストのうちにあなたを見、御子の義と美しさの中にあなたを見、「これこそわたしの愛する者、わたしの心にかなう者」と喜ばれました(マタイ3:17)。すなわち、神はキリストの中にあるあなたを永遠に愛し、喜ばれたのです。これこそが、神のうちにあるあなたの永遠の結合の始まりです。
そして神は、その永遠の結合を時間の中での結合として現実にするために、聖霊によって私たちを再生させてくださいました。
伝道者の書は語ります――
神は人の心に「永遠を思う思い」を与えられた。それは、人間が時間の中に生きながらも、永遠の神との結合を求める存在として造られたからです。
これが、キリストとの結合 ― すでに、いまだ。救いのすべての始まりであり、終わりです。

