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弟子たちの終末に対する2つの質問 

  • thewordforyoujapan
  • 1 時間前
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2026.2.1 豊川の家の教会 礼拝メッセージ 

 マタイの福音書 24章1~3節

"イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。

すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」

イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」"

 

マタイ24章・マルコ13章・ルカ21章 弟子は終末にたいして2つの質問をイエス様にしています。

 

1.  弟子たちのこの質問について

三福音書はすべて、イエス様の神殿崩壊の予告から始まります。 

マタイ24:2「ここでは、石が崩されずに積まれたまま残ることは決してありません。」

マルコ13:2「石が崩されずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

ルカ21:6「石が崩されずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

この直後、弟子たちは「いつ起こるのか」「そのしるしは何か」と尋ねます。

マルコ13:4「いつそれが起こるのですか。すべてが起ころうとするそのしるしは何ですか。」

ルカ21:7「それはいつ起こるのですか。そのしるしは何ですか。」

 

この質問は2つの質問から成り立っています。

マタイ24:3

 ①  これらのことはいつ起こるのですか。②あなたの来臨と世の終わりには、どんな徴があるのですか。

これは弟子たち質問が2つの出来事を1つとしてとらえていることがわかります。

神殿崩壊と、メシアの来臨と世界の終わりを一つの出来事として考えて質問しています。

 

この弟子たちの2つの質問とイエス様の回答を解き明かします。

 

イエス様は「神殿の崩壊は終わりではない」と説明します。イエス様はさらに、偽キリスト、戦争、飢饉、地震が起こること語りながら、しかしイエス様はまず、それが終末ではないと否定します。

 

マタイ24:6 「…これらは起こらなければなりません。しかし、終わりではありません。」

マルコ13:7 「終わりはまだ来ません。」

ルカ21:9 「終わりはすぐには来ません。」

  

これは非常に重要です。イエス様は最初に、 神殿が破壊されること、偽キリスト、戦争、飢饉、地震が起こることは「すぐに世界が終わることではないと明確に正しています。

 

2. イエス様はさらに迫害と混乱は続くが終末ではないと語ります

 続いてイエス様は、迫害と偽りが増えることを語ります。

マタイ24:9–11 「あなたがたは苦しみに引き渡され…多くの偽預言者が起こり…」

マルコ13:9 「人々はあなたがたを議会に引き渡し…」

ルカ21:12 「人々はあなたがたに手を下し…」

弟子の感覚では、そのような状態は「もう終わりだ」と思わざるを得ない状態を聞いてもなお、

イエス様は終末ではない立場は変えません。そのように激しくなっても、再臨の時ではないと教えています。


3.弟子の問いの前半部分に対応する答え

 そしてイエス様は、非常に具体的な出来事を語り始めます。

これは「いつ神殿が破壊されるのか」という弟子の質問に対する答えです。

ルカは象徴を使わず、直接こう言います。

ルカ21:20「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その荒廃が近いことを悟りなさい。」

ルカ21:21「そのとき、ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。」

ルカ21:24「…剣の刃に倒れ、捕虜としてあらゆる国に連れて行かれ、エルサレムは異邦人に踏みにじられます。」これは完全に歴史的戦争の描写であり、弟子の質問のうち「これらのことはいつ起こるのですか」に対する答えです。

 

マタイとマルコでは同じ事態が、ダニエル書9、11、12章の預言語法で表現されます。

マタイ24:15–16「『荒らす忌まわしいもの』…を見たなら…山へ逃げなさい。」

マルコ13:14「『荒らす忌まわしいもの』…を見たなら…山へ逃げなさい。」

しかし、ルカがこれを「軍隊包囲」と説明している以上、三福音書が語っている出来事は同一です。

しかも逃げ方は非常に現実的です。

マタイ24:17–20 「屋上にいる者は…下りてはならない。」「妊娠している人…」 「冬や安息日に重ならないように祈れ。」

これは重要な理解をもたらします。

 

 「逃げなさい」と言う表現は「再臨」には全く合致しません。再臨から誰一人も逃げることはできません。

それは復活と裁きと栄化の成就の出来事だからです。誰一人、逃げることも、隠れることも出来ません。

したがって、ここで語られているのは、弟子の質問の前半に対する答えであり、すなわちエルサレムの滅亡がどのよう起こるかと言うことです。

 

4. 「この世代」発言も、同じくエルサレム裁きを指している

 この部分に対して、時間枠が明確にわかる言葉が与えられています。

それは「この世代」と言う表現です。この世代とはその時に生きていた人々のことを指します。

イエス様がこのことを語ったときにそれを直接、聞いた人々の世代。

その時代の人々が地上から死んで消える前におこることを預言されています。

マタイ24:34「これらのことがすべて起こるまでは、この世代は過ぎ去りません。」

マルコ13:30「これらのことがすべて起こるまでは、この世代は決して過ぎ去りません。」

ルカ21:32「これらのことがすべて起こるまでは、この世代は決して過ぎ去りません。」

「これらのこと」とは、直前に語られた軍隊がエルサレムを包囲し、軍隊は神殿を立ち踏みにじる。

神殿は徹底的に破壊されて、多くの人々は虐殺され、逃げ・捕虜にされる出来事です。

したがって、この時はエルサレムの裁きを指しています。

 

裁きの「世代」について聖書は次のように言っています。

 1) 荒野の放浪:裁きの世代=40年  民数記 14:29–34

「あなたがたの死体は、この荒野に倒れる。

…あなたがたの子どもたちは四十年の間、荒野で羊飼いとなり、

あなたがたの不信仰のゆえに苦しむ。」ここで明確に、

反逆した「この世代」は約40年の間にすべて死に絶え、次の世代に移行するという裁きの単位としての40年=一世代が設定されています。

 

2)「あなたがたの父祖の世代」=40年 詩篇 95:10

 「四十年の間、わたしはその世代を忌み嫌って言った。

『彼らは心の迷った民、わたしの道を知らない。』」ここでも、「その世代」を神の怒りを受けた期間、すなわち、世代と40年が対応づけられています。

 

3)人の生の長さと世代感覚 詩篇 90:10

 「私たちの齢の年月は七十年。健康であれば八十年。」

これは「世代」の定義ではありませんが、一世代が数十年単位で理解されている文化的前提を示しています。

 

4)新約における「この世代」という用語

ギリシア語 Genea(γενεά)は、血縁的世代、同時代に生きる人々を意味し、「種族」や「将来の時代」を指す語ではありません。

 

5)よって、マタイ 24:34

「これらのことがすべて起こるまで、この世代は決して過ぎ去らない。」

ここで使われている hautē hē genea(この世代)は、直前まで語られているイエス様の預言を聞き、神殿崩壊、都市の裁き、逃亡命令、包囲と苦難に対応する時代に生きた人々を指します。

したがって文法的にも文脈的にも、「この世代」は「「将来の遠い世代」や「民族イスラエル一般」、もちろん「異邦人が勝手に思う、世代」ではありません。

 

 5. マタイ24:36 「しかし、その日、その時は」の意味

 ここからイエス様は、弟子の質問の後半、すなわち「あなたの来臨と世の終わり」について語り始めます。

マタイ24:36「しかし、その日、その時は、だれも知りません…父だけが知っておられます。」

マルコ13:32「その日、その時は、だれも知りません…父だけが知っておられます。」

ここで接続詞「しかし(περὶ δὲ)」が使われ、話題が切り替わっていることが文法的にも示されています。

 

それまでの部分では、

・見たら悟れ

・逃げよ

・この世代内 という読み取り可能な出来事が語られていました。

 

しかしここからは、

・兆しでは読めない

・時は不明

・常に目を覚ませ という性質の出来事、すなわち最終再臨が語られます。

 

マタイ24:42 「ですから、目を覚ましていなさい。

あなたがたの主がいつ来られるか分からないからです。」

ルカ21:34–36 「…思いがけないときに臨むことがないように、目を覚ましていなさい。」

マタイ24:36 「しかし、その日、その時は」以降は主の再臨と終末のことが語られています。

これは弟子たちが誤った神学認識に立って尋ねた2つの質問に対する回答でした。

 

6. なぜイエス様は弟子たちの質問に対してこのように語られたのか

弟子たちは、神殿の崩壊について聞いたとき、こう質問しました。

(マタイ24:3)

「それはいつ起こるのですか。あなたの来られる時と、世の終わりには、どんな前兆があるのですか。」 この質問の中で弟子たちは、神殿の崩壊・メシアの来臨・世の終わりを、すでに一つの終末出来事として結びつけています。

この質問には深い意味があります。

 

ディスペンセーション神学を例に説明します。

ディスペンセーションではまず完成像の設計ゴールとして、「イスラエル国家の回復、神殿再建、祭司制度と動物犠牲」の復活が設定されます。その完成にゴール到達するために、教会とイスラエルの分離が置かれ、携挙によって教会が地上から取り除かれ、その後にイスラエル中心の患難期が再開する、という神学的な工程が設計されています。

 

この枠組みが先に固定された上で、「教会時代」「患難期」「再臨」「千年王国」といった時代区分を設定して、

救いの全体構造を無視して、聖書を字義的にどの区分に属する出来事かと言う作業を行い配置しています。

 

この弟子たちの質問は、ディスペンセーションの思考構造とよく似ています。

神殿破壊、偽キリスト、戦争、飢饉、地震といった出来事を、歴史の中の裁きとしてではなく、終末完成へ直結する兆しとしてすでにゴールに設定しています。 ひとつの出来事としてとらえています。

そこにイエス様の言葉を当てはめてこのゴールを完成させようとして質問しています。しかしイエス様は救いの全体構造について語り、すべてが同時に起こるとは語られませんでした。

 

主はまず、福音の構造にあって、弟子たちの世代に臨むエルサレムへの裁きを語られます。それは単に都市の破壊ではなく、旧約的神殿体制、祭司制度と動物犠牲による礼拝が破壊され、キリストによる新しい契約の現実へと歴史が公然と移行する決定的な神の裁きと宣言です。

 

つまり、福音における神殿崩壊とは、「ここから先、神に近づく道はキリスト以外にない」という神の歴史的宣告である。

 

救済の構造そのものが不可逆的に1本にさらに展開したという福音構造の一貫性を宣言しています。

同時にこの裁きは、歴史の中で繰り返し起こる神の裁きの代表例として、最終的な完成、すべてのものが裁かれ、新しくされる時を指し示す「型」としても与えられています。

 

イエス様は、神殿の破壊と再臨とを一つの語りの中で重ねながらも、「しかし、その日その時はだれも知らない」と語りを切り替え、完成そのものは兆しによって読めない出来事として、明確に区別されました。

それは二つの出来事を年表で整理するためではなく、神殿の破壊が、完成へ至る救済史の流れの中に位置づけられていることを示すための語り方です。


7. この神殿の破壊と終末の再臨

これを一つの出来事としてしまうと、エルサレムの裁きも、再臨も、世界の完成も、単なる出来事の配列の管理へと変質します。

その結果、AD70神殿崩壊は神の裁きではなく、将来の患難期に属する出来事として再配置され、神殿再建と犠牲制度復活の余地が残されることになります。これがディスペンセーション、また、弟子たちの理解です。

すなわち、イスラエル国家の再建です。

 

しかし、イエス様、これを完全に否定しました。(使徒1:6、7)

「主よ、今こそイスラエルのために国を再興してくださるのですか」と尋ねています。

"イエスは彼らに言われた。

「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。

それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。"

主イエスはここで、弟子たちの問いの前提そのものを退けておられます。

 

直前の弟子たちの問いはこうです。

「主よ、今こそイスラエルのために国を再興してくださるのですか。」(使徒1:6)

つまり弟子たちはマタイ24章から昇天の直前まで、メシア=民族国家イスラエルの回復という旧来の王国理解の枠組みで救いを考えていました。

それに対して主は、

•時刻表は与えられない

•王国再建スケジュールも示されない

•そのすべては父の主権の中にある とはっきり切り離されます。

 

8. そしてすぐ次に、主は焦点を完全に別のところへ移されます

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受け、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、そして地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

ここで示されているのは、

•国家の回復ではなく

•地理的拡張としての王国でもなく

•結合の民が、歴史のただ中で証人として守り続けられ、広げられていく救いの構造です。

 

これは完全に、「イスラエル国家中心の終末スケジュール」から「キリストにある選びの民の召命と保持」へ

視点が転換されている場面です。

 

ですから使徒1:7は、

•終末の出来事を読むな、という意味ではなく

•終末を出来事探しの対象として扱う読みそのものを拒否している と言うべき御言葉です。

 

ヘブル書もまたこう言います。

キリストは、ただ一度のささげ物によって贖いを完成され、旧約の犠牲制度は影であり、実体はキリストであり、罪のためのささげ物は、もはや必要ないと宣言されています。

つまり、神殿体制は一時停止されたのではなく、十字架によって救済史的役割を完全に終えたのです。

 

だからAD70の神殿崩壊は、偶然の戦争被害ではなく、十字架によって完成した救いを、歴史の中で確定させる神の裁きであり、二度と巻き戻らない転換点です。

 

そして、将来の神殿再建、祭司制度復活、動物犠牲再開という構想は、聖書的に成立しません。そのためディスペンセーションは、神殿崩壊の救済史的意味を消し、出来事を将来へ送り、教会を携挙させ、年表を成立させるために聖書の出来事を再配置しているのです。

 

10. ここで重要なのは、イエス様が区別して語られた二つの出来事

エルサレムへの裁きと、最終完成としての再臨を、

 

ディスペンセーションは再び一つの終末出来事としてまとめ直している、という点です。しかしこれは、弟子たちが最初に持っていた理解と同じ構造です。

弟子たちは、神殿が壊れるなら、それはすぐにメシアの来臨と世の終わりが来る時だ、という前提で質問していました。 だからこそ、

「それはいつ起こるのですか。あなたの来られる時と世の終わりのしるしは何ですか」

という一つの質問の中に、すべてをまとめて尋ねているのです。

しかし、イエス様は、理解を正して、歴史の中の裁きと、救いの完成とを区別して語られました。

 

ところがディスペンセーションは、主が区別して語られたこの二つを、再び一つの終末年表の中に押し込み、神殿裁きと再臨とを、同一の終末局面にまとめ直します。

つまりディスペンセーションは、イエス様が修正された弟子たちの終末理解と、同じ構造の読み方へと、イエス様の昇天前の弟子たちと同じようにもう一度戻っているのです。それは、弟子たちと同じ前提です。

すなわち、メシアとはイスラエル国家を回復するために来られる王である、

という国家回復メシア期待です。

 

弟子たちは、神殿の崩壊も、戦争も、終末のしるしも、最終的にはイスラエル国家の回復と王国の樹立へ至る道筋として理解しており、その国家的回復と再臨と完成とを、同じ終末局面の中で考えていました。

ディスペンセーションもまた、最終完成像としてイスラエル国家の回復、神殿再建、王国の地上実現を据え、そこへ至る過程として患難期と再臨を配置します。

 

その結果、神殿の破壊と再臨と王国回復は、一つの終末的工程の中にまとめられ、救済史的にすでに終わったはずの神殿体制が、将来の計画として再び中心に戻ります。つまりディスペンセーションは、イエスが十字架と復活を通して超えさせようとされた「国家回復メシア期待」という枠組みの中に、終末をもう一度押し戻しているのです。

 

だからこれは、単なる終末スケジュールの違いではなく、メシアとは何のために来られたのか、神の国とは何として実現するのか、という福音理解そのものに関わる問題なのです。なぜなら、聖書が語る救いの全体構造は、イスラエル民族や国家の回復ではないからです。


 

11. 主は弟子たちにいわれました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受け、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、そして地の果てにまで、わたしの証人となります。」

弟子たちが自ら立ち上がる構図ではありません。神が臨み、神が力を与え、神が証人として立たせる。これは、再生・照明・聖化における神の主権的働きと同一の構造です。次に、「地理的拡大」が語られていますが、これは国家拡張ではありません。

   •エルサレム

   •ユダヤとサマリア

   •地の果て

 

これは使徒の働き全体の構成そのものになっていますが、重要なのは、王国が民族単位で再建されるのではなく、選びの民が諸国民の中から召し出されていくという救済史構造が示されている点です。

 

ここで成立しているのは、

   •民族イスラエル中心 → 教会中心

   •土地約束 → 全被造世界への召命

   •政治的王国 → キリストにある霊的支配

 

という転換ではなく、より正確には、旧約の約束が、キリストにおいて成就し、教会において展開されていく構造です。

 

そして「わたしの証人となります」という語は、「あなたがたが証しする」ではなく、「証人として立たされる」という受動的構造を含んでいます。

 

これは、教会の本質が、

   •世界を変革する主体ではなく

   •世界のただ中で、キリストの支配と救いを告白する存在

であることを示しています。

 

したがって使徒1:8は、終末論的に言えば、

   •携挙による退避でもなく

   •王国回復の政治的完成でもなく

   •歴史からの離脱でもなく

 

歴史の中に置かれ続ける結合の民の召命を宣言する御言葉です。主は、弟子たちを歴史から取り去るとは言われませんでした。むしろ、地の果てまで、証人として立たせ続けると言われました。

 

これは、ヨハネ17章の祈りと完全に一致しています。

(ヨハネ17:15)

「わたしは、あなたが彼らを世から取り去ることを願うのではなく、悪い者から守ってくださることを願います。」

 

終末まで、教会は歴史のただ中に置かれ、神の主権によって保持され、完成へ導かれます。

救いの全体構造は、すでに永遠の過去において

         •キリストにあって選ばれ

         •キリストに結合され

         •十字架において贖いが獲得され

         •歴史の中で再生・照明・信仰・義認・聖化へと適用され

         •最後まで守り続けられ、栄化へ導かれる

 

この一本の線の中で、父の主権によって運ばれています。

 

したがって黙示録、終末論は、未来の政治的出来事を配置するための体系ではなく、いま地上に置かれている結合の民が、どのように守り続けられ、完成へ導かれるかを告白する教理です。

 

そのすべての源泉は、キリストとの永遠の結合にあり、その完成は、新しい天と新しい地における被造物全体の更新です。

そこにおいて中心にあるのは、民族でも国家でも地上王国でもなく、キリストに結ばれた一つの民としての教会であり、神がご自分の民を最後まで守り通し、完成へ導かれるという神の主権の働きです。

 

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