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マタイ24章 選びの民は誰か 黙示録3

  • thewordforyoujapan
  • 1月31日
  • 読了時間: 25分

2026.1.25 豊川の家の教会礼拝メッセージ 

 マタイの24章の選びの民は誰か、また反キリストと獣の刻印、そして終末的迫害をどう位置づけるべきか。ここのところを整理していくと、終末論は「これから何が起こってくるのか」「どういう出来事が起こるのか」という出来事探しから、神の召しに生きることへ変わっていきます。

  マタイの24章の「選びの者」とは、選ばれた、時の始まる前に選ばれた者たちということです。マタイの福音書24:22にこうあります。「その日数が少なくされなかったなら、だれも救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのためにその日数は少なくされます。」

  また24:31にこうあります。「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方から、その選びの者たちを集めます。」

  このマタイの24:22と24:31は、一つの裁きの後に語られます。イエス様はイスラエルの神殿が破壊されることを予言しています。AD70年のことです。この後に、選ばれた者たちを集めると言っています。そしてその集め方は「天の果てから果てまで、四方から」です。

 すなわち、神殿制度が神によって破壊されて、旧約の祭司による、また動物の犠牲による、また神殿による礼拝を神は否定しました。そして神は、聖霊によって新たに生まれた人たちを四方から集めると言っています。

  選びは民族イスラエルではありません。これは聖書が一貫して言っていることです。キリストの中に置かれている人たちです。エペソ1:4はこう言います。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選ばれました。」

  ここでとても重要なのは、「キリストにあって(in Christ)」、そして「世界の基が据えられる前」です。この中において選ばれたと言っています。

  ですから、聖書は初めからイスラエルという国家民族を選んだのではなく、時の始まる前からキリストにあって、キリストに結ばれた中において、御子の中で人々を選んだとはっきりと言っています。これはローマ書11章でもパウロが「選びの恵みによる残りの者」がいると言っており、そのことを言っています。

  したがって「最初はイスラエルが選ばれていた。そして次に教会が現れたのでそれを教会に置き換える」という考え方は、ディスペンセーションが「置換神学」と呼んで批判するものです。ディスペンセーションを信奉している人たちは「最初はイスラエル、後で教会に置き換えた」ということが、これが聖書的に間違っていると言います。しかし、この枠組み自体が聖書の御言葉をねじ曲げています。もともと選びは民族ではありません。

  神はイスラエル民族全体を救うという根底が、もともと存在していないのです。この考え方は聖書の御言葉をねじ曲げて作られています。それが分かります。その構図、「置換神学」と言っている構図自体が、エペソ1章と全く違います。

  またローマ書も、またその他の箇所も、聖書が一貫して言っている選びは、神の主権によって時の始まる前に行われているということです。ディスペンセーション神学はそれをねじ曲げています。これが真実です。

  最初から選びはイスラエル民族ではなく、神の主権によって、キリストとの結合に置かれている、in Christであり、一貫しています。そして贖いも、子としての身分も、すべてキリストの中で与えられていると聖書は言っています。すべてがキリストにあって、すべてがキリストにあってです。

  「キリストにあって」という一点に集中します。救済史の中心は常にキリストです。アブラハムの民族でも、モーセの契約でもないです。神殿でもないです。祭司制度でもありません。生贄でもありません。御子に結び合わされているという一点です。

  一つの選び、一つの救済史であり、分断されません。そして一つのキリストと結ばれている民がいます。

  マタイの24章の選びの者は、すべての選ばれた人々、すなわちキリストの体です。それを聖書はエクレシアと呼びます。

  だから、民族イスラエルは選びの者ではありません。ディスペンセーションの教えの問題の核心はここです。なぜ私はディスペンセーションを批判しているのか。批判ではなく、これは事実です。そして、このディスペンセーション主義が日本の多くの教会の終末論の根底を今形成しています。どこに行っても、ほとんどの教会はディスペンセーション主義の終末論が入ってきています。それは大きな問題です。

  この選びをディスペンセーション主義的に民族イスラエルと呼ぶためには、どのようにしなければならないのか。なぜ日本の教会はそのようにディスペンセーション主義を取るところが多いのか。

  それは、新約聖書において、すべての選ばれた人々に与えられている言葉があるからです。それは「選び」「聖なる民」「神の所有」という言葉です。新約において、パウロもペテロも、選びの民としてそれを語っています。選び、聖なる民、神の所有です。

  もしこれを将来の民族イスラエル、国家イスラエル、そして教会とは別というふうに分けるのであれば、その「選び」「聖なる民」「神の所有」という選ばれた人々に与えられた言葉を、教会から奪う必要があります。騙して奪って、国家イスラエル民族のものであると認めさせる必要があります。

  ですから彼らの教えの中に何があるか、例えば「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という言葉を、これはイスラエル民族に語られたものだからクリスチャンは関係ないと言います。「あなたがたはこれをイスラエルから取ってはいけない。あなたがたにはあなたがたに向けた言葉がある」と言います。

  そのように騙して、そして選ばれた民から、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という言葉を取り上げます。それは「あなたは選びの民ではない、聖なる民ではない、神の所有ではない」と言っているのと同じです。そのようにして、選びの民から「選び」「聖なる民」「神の所有」を奪います。

  しかし聖書は一貫して言います。神は、時の始まる前から、あなたに言うのです。in Christ、あなたは選ばれている、選びの民です。あなたはキリストの体です。キリストによる新しい契約の民です。そしてあなたが生きるその行いは選びの結果です。宗教的な偽善ではないと聖書は語り続けています。

  従って、マタイの福音書の「選びの者」、また聖書全体に書いてある選び、エペソの選び、ローマの選び、パウロ、ペテロたちが語るこの選び、時の始まる前、そして「聖なるもの」、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という言葉は、国家イスラエル、民族イスラエルではありません。

  もしこれを民族イスラエルだとする論理を持ち出したら、聖書の全体の構造と正面衝突します。聖書の全体の構造とは、永遠の時の始まる前から、神が私たちを選んで、そして召して、再生して、そして信仰、義認、聖化、栄化、永遠の未来までを保障しているという全体です。これと全面的に衝突しています。

  従って、マタイ24章で守られて集められる選びの者というのは、時の始まる前から選ばれている者たちであり、それはイスラエルの中から神が時の始まる前から選んだ人々がいます。また、すべての異邦人から、時の始まる前から選ばれた人たちがいます。そして彼らは召し出されてきます。

  それらの人を、すべての民と言います。そこには老若男女の違い、子ども、老人もありません。すべて選ばれた人たちです。彼らはキリストの体と呼ばれます。ギリシャ語ではエクレシアと言います。そのエクレシアとは、召し出された、選ばれた、集められた者たちの集まりと聖書は正確に呼んでいます。なのに「民族イスラエル」と呼んでいるこの人間中心的な宗教は、なんと人々を苦しめるのでしょうか。

  終末的迫害は、教会の不在の時期かどうかということについて話します。

  ディスペンセーションの傾向思想は、「教会は地上から除去される」「大患難はイスラエルと未信者の時代である」という考え方です。これはディスペンセーションから来ている思想ですが、多くの福音派教会に広がっています。

  この「ディスペンセーション」という言葉を知らない人たちはとても多いです。ディスペンセーション主義という考え方を理解していない人たちは多いです。言葉は知っていても内容を理解していません。だから「ディスペンセーション主義って何ですか」と言っても、その目的と結論を言える人はほとんどいません。

  ディスペンセーション主義の目的は、ユダヤ主義、神殿主義、祭祀主義、動物の生贄に戻ることを目的としています。

  話を戻しますが、ディスペンセーション主義は「教会は迫害から除去されて逃げられる」「大患難は通らなくてよい」「私たちは空の上から迫害と大患難を見るが私たちは大丈夫」という精神に人々を向かわせます。自分たちには関係ないという方向へ行きます。しかし黙示録13:7はこう言います。 「彼は聖徒たちに戦いを挑み、これに勝つことが許された。また彼はあらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」

  ここで私たちははっきりと見ます。聖徒たちは迫害されています。選ばれた者たちは迫害されているのです。さらに黙示録全体で繰り返される言葉があります。それは「ここに聖徒たちの忍耐がある」です。また黙示録13:10でこう言います。「捕らわれの身となるべき者は捕らわれの身となり、剣で殺す者は剣で殺されなければならない。ここに聖徒たちの忍耐と信仰がある。」

  忍耐と信仰が必要であるのです。さらに14:12。「ここに神の戒めを守り、イエスへの信仰を保っている聖徒たちの忍耐がある。」忍耐があるのです。そして患難の中にいるのです。どこに「私たちは空の上から迫害と大患難を見ていればよい」という発想があるのですか。聖書の黙示録の中にはありません。それは全く間違っています。

  「男が二人いて畑にいると、一人は取られ、一人は残される」についても同じです。ノアの箱舟の文脈で固定されていて、取られる者たちは滅ぶ者たちです。いつの間にか携挙思想は、「自分たちは苦しみを避けたい」という人間の欲に従って「逃げること」を選ばせています。しかしイエス様は、その者たちは滅ぶと言っています。

  なぜディスペンセーションが携挙を挟んでくるのか。それはイスラエルが終末期において救いの中心になるというロジックを立てるからです。最初に言った通り、彼らは「イスラエルは神殿が再度再建され、祭祀制度が戻り、動物の生贄が始まる」とします。それを彼らは記念としてだと言いますが、これはヘブル書が言っていることと全く違います。生贄はもうありません。イエス・キリストが神殿です。

  そして彼らのロジックは、終末においてそれをイスラエル国家が、イスラエル民族が回復する、それが神の救いのご計画の第一義だという形で来ます。

  そうすると彼らの考え方で一番困ることがあります。それは「選ばれた者たちはイスラエルでなければならない」ということです。異邦人はおこぼれをもらうという考え方です。

  さらに、教会が大患難期を通って存在していくと困るのです。なぜなら教会がキリストの体であり主役だからです。この主役である教会が大患難期を通って存在していくと、主役がイスラエルに行かないのです。

  だから彼らは教会を取り除くのです。「携挙」という言葉は聖書にはありません。しかし第一コリント15章を携挙だと言って使い、教会を一回外に出して、残りの患難期7年のそこからイスラエルが主役で出てくるとします。そして神殿を作らせて、祭祀制度を始め、動物の犠牲を始める。これは聖書が非難している律法主義に戻ることです。

  だから彼らは旧約を全うしたいのです。なぜなら旧約の中にキリストを見つけることができなかったからです。旧約の中に神の主権とキリストとの結合を見つけられず、旧約を読んでもキリストを見つけられなかったのです。だからそこに行きます。それは滅びの道です。

  患難はこのように選ばれた者たちが必ず通る道です。聖書に患難を通らないクリスチャンなど一つも書いていません。聖書の中で患難を通らないクリスチャンは書いていません。どうしたらそうやって読めるのですか。読めるのです。それは聖書の御言葉をねじ曲げるのです。

  ですから大患難の時代は、イエス様が話している通り、イエス様が昇天してから神殿がローマ軍に囲まれて破壊されたところからもう始まっています。何百万というユダヤ人たちが迫害を受け、殺されていきました。今まで見たこともないような悲惨な状態です。イエス様はそう予言しています。すでにそこで予言が成就しています。そしてこの患難は、イエス様が再臨されるまで必ず続いていきます。

  三つ目に反キリストについて話します。反キリストは一人の超人物か。反キリストをどのように考えるのか。人々は反キリストを探そうとします。反キリストは額に666と書いてあるから、お前の頭の中に666があるか、などと冗談で言っていた時があります。しかし第一ヨハネ2:18はこう言っています。 「子どもたち。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストが来ると聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることが分かります。」

  ここでヨハネは「今や多くの反キリストが現れています」と複数形で語っています。反キリストは歴史の中で現れ続けるということです。そして「それによって今が終わりの時であることが分かります」と言っています。終わりの時は始まっているのです。

  しかしディスペンセーションは「終わりの時はまだ来ていない」と言います。けれどもヨハネは「今が終わりの時であることが分かります」と言っています。なぜなら反キリストが多く現れているからです。だからイエス様が昇天してから再臨される間、反キリストは多数現れるということです。

  そして反キリストというのは、キリストの人性であるキリストと、神であるキリストを否定する者たちです。キリストの受肉を否定するということは、キリストが人であることを否定し、そして神であることを否定します。すなわち十字架と結合を否定しているのです。十字架は、人として来られたキリストと共に死んだことです。それは代表です。これを破壊します。福音を破壊します。彼らは教会の真の教会の内外から現れてきます。偽教師です。そして現れ続けます。彼らは人間中心主義の思想です。

  ヨハネは「目を覚ましていなさい」と語ります。この「目を覚ましていなさい」とは、自分がキリストの子どもであること、キリストと共によみがえったこと、この位置にしっかりと自分がいること、その生き方を続けなさいということです。

  パウロもテサロニケで、この人間中心主義の思想、教えに対して真っ向から戦っています。そのように私たちにパウロは語っています。ヨハネも同じように、獣の支配、偽りの礼拝を描いています。「すべての者が彼を拝んだ」と書いてあります。この「すべての者が彼を拝んだ」とは、刻印を押されているということです。反キリストによって獣の刻印を押されています。

 終末において、権力と宗教が結合した反キリスト体制が政治としても生まれてくる可能性はあります。しかし聖書は、反キリストは一人の人物ではないと言っています。反キリストの霊は福音に対する敵対構造です。それは人間中心主義です。それは外面的な宗教、また啓蒙主義的な人間中心主義の中に潜んでいる霊そのものです。 

  支配神学や霊的戦い神学、決心主義、神秘主義、あらゆる人間中心の「私が私によって、私による信仰」「私は強い信仰を持っている」「私はまだ腐っていない」という態度が反キリストです。そこに反キリストの霊があります。

  では獣の刻印とは何を意味するのか。黙示録13章で刻印のことを言っていますが、最近オカルトや漫画などで、反キリストの刻印をマイクロチップだとか国家管理だとか生体認証だとかワクチンだとか電子通貨だとか言う人たちがいます。これは幼稚です。黙示録を理解していない人たちです。照明がないから分からないのかもしれませんが、それにしても聖書を読んでいないのだと思います。

  ここで刻印の対比構造を見ればすぐ分かります。黙示録7:3を見てください。「私たちの神のしもべたちの額に印を押すまでは、地にも海にも木にも害を与えてはならない。」ここには、「神のしもべの額に印を押す」と書いてあります。その後十四万四千の話が出てきて、その後すべての国民の話が出てきます。こういう文脈です。

  そして「印を押す」ということは、エペソ1章が言っている通り、聖霊によって印を押されることです。選ばれた者たちに聖霊が内住するということです。エペソ書に書かれている、選ばれた人々の救いの証印です。

 また、「四方から集める」とありますが、それはどのように集めるかというと、一か所に物理的に集めることではありません。宇宙的な教会のことです。すべての信じている人たちはキリストにあって御霊によって一つになるということです。

  続けて、黙示録13:16-17に来ます。「また、彼は、小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者に、その右の手か額に刻印を受けさせた。この刻印を持たない者は、だれも買うことも売ることもできなかった。」これを「生体認証だ」「電子マネーだ」と漫画で言うのは違います。この刻印は象徴です。対比構造を見てください。先ほど「聖霊による印」を言いました。そして、今ここで「獣の刻印」が対比で出てくるわけです。

  この刻印は、あなたが聖霊の証印を押されているか、すなわち聖霊の内住を受けているか、獣の刻印を押されているかということです。獣の刻印とは、人間中心主義的な、啓蒙主義的な人間中心主義の思想、思い、感情、それに支配されているかどうかです。そしてその現実は今起こっています。

  あなたが聖霊によって新たに生まれるまでは、獣の刻印を押されているのです。死んでいたのです。そしてあなたが、どこに属しているかの問題は、誰を礼拝しているか、どの支配に従っているかです。あなたが神のものであるか、サタンのものであるか、そのどちらかに忠誠があるかです。それの象徴です。

  刻印とは、あなたが真の神を礼拝し忠誠を保つか、サタンに礼拝し忠誠を保つかという話です。「刻印がないと売ることも買うこともできない」とは、社会で生きる中で必ずそういう時が来るということです。信仰をしていなければ、社会生活で困るという状況が生まれてきます。経済的損失や社会的迫害を受けるということを象徴しています。それは心に押されている刻印です。

  聖霊を受けている人、真のクリスチャンは、どんな時にも神に礼拝し、神に忠誠を保ちます。それが刻印です。聖霊による刻印です。逆に獣の刻印は人間中心主義です。「私は腐っていない」という態度です。表面的なクリスチャンです。ローマ帝国時代にも皇帝礼拝を拒否した者は社会的に生きにくくなりました。中世においても、ある宗教的な同調を受けなければ社会で生きることが困難でした。日本でも日常の中にそのような状況があるでしょう。友達との付き合いもあります。ゲームもあります。iPadもあります。音楽もあります。異端の宗教もあります。

  その中において、あなたが神の主権とキリストとの結合の福音、パウロが伝える福音を聞いた時に、あなたはどちらに従うかと問われます。表面的、人間中心主義のキリスト教に従う場合、彼らはあなたを仲間とします。「教会に行っているから救われている」「信じているから大丈夫」「私は信仰がある」という外面的な言葉でまとまります。しかしそれらを拒絶する者は批判されます。攻撃を受けます。罵声を受けます。損失や迫害を受けます。それは教会の中で、地域コミュニティの中で、家庭の中で起こってきます。

  適当に嘘をついて逃げる人がいます。口先で逃げる人がいます。「今日は法事」の後の食事だけなどと言って妥協する人がいます。しかし問われるのは「あなたは神を礼拝していて、神に忠誠を保っていますか」ということです。

  もし心が嘘をついて逃げるのであれば、それは獣に従っているのと本質的には変わりません。ビンタをされようが、嘲られようが、私はこの神に忠誠を尽くすという姿勢を保つ場合、損失を受け、迫害を受けます。しかし、信仰は聖霊によって証印を受けているのです。

  嘘を言って逃げる人、偽りの外面的な信仰で神に近づく人は、真の神に礼拝と忠誠を捧げていません。そういう人たちは行動で出てきます。外面的には礼拝に来て祈りますが、実態は偽りです。

  それは、聖霊の印を受けていないということです。逆に獣の刻印をまだ持っているのです。だからその人は新たに生まれなければならないのです。死んでいるからです。

  刻印はすぐには剥がれないのです。死なない限り剥がれません。だから「自分はまだ腐っている」と認めることは重要です。それによって神はあなたをキリストと共に死んだところに置いてくださいます。十字架の強盗も主税人も、死んでいるのです。キリストと一緒に死んでいるのです。

  ですから刻印というのは、目に見える印だとかチップではありません。そういう幼稚な考え方は捨てなければならないのです。第三神殿と同じくらい愚かです。真の神に礼拝と忠誠を捧げず、獣の偽りの礼拝に従い、その中で生きる者が獣の刻印を持つ者です。偽りが刻印を表します。これが刻印の意味です。

  五番目に結局、終末論の中心は「誰が残るか」ではありません。「誰に属するか」です。いつもそうです。聖書はいつも「誰に属するか」です。

  終末論が歪められると、「いつ起こるか」「誰が敵か」「どんな事件が生じているのか」そちらに関心が行きます。それは終末論が歪められている状態です。すなわち福音ではありません。しかし聖書が一貫して問うのは、あなたは誰に属していますか、誰を王として礼拝していますか、迫害の中で誰に従い続けますか、です。

  黙示録の核心は獣の正体ではありません。「子羊に従う者たちの忍耐」にあります。子羊に従う忍耐です。しかし忍耐は自分が頑張って作るものではありません。

  ここまでを一本でまとめるとこういうことです。旧約の神殿、神殿制度、動物の犠牲は、AD70年のローマ軍の攻撃によって完全に消滅しました。神殿制度もありません。神殿もありません。動物犠牲もありません。それは神が行ったのです。裁きがイエス様によって行われたのです。イエス様がAD70年に破壊したのです。

  それは、選ばれた民が神の民として教会として出現することにつながっています。キリストの初臨から再臨までが、完全な欠けのない期間として象徴的に描かれています。教会は患難と証しの中に置かれ続けます。反キリスト的勢力は歴史の中を通して現れ続けます。再臨は完成であり、復活、裁き、新天新地が同時に起こります。教会は途中で地上から取り去られません。

 終末の中心の舞台はイスラエル国家ではなく、選ばれた民です。イスラエルの中の選ばれた民と異邦人の選ばれた民で構成されている「十二×十二=十四万四千」が中心です。

 したがって終末論は未来予測のための年表解析ではありません。黙示録は、苦難の中で信仰を保ちながら、また保たれながら生きていく選ばれた者たちを支える啓示です。

  最後に徹底的に重要な点があります。携挙思想や年表終末論は、あなたたちの目を出来事に向けさせ続けたのです。イスラエルに何か起こるとそちらに目が行き、アメリカで何か起こるとそちらに目が行き、起こってくる現象に目が行きます。決して王であるキリストに目が行きません。

  しかし聖書は、信仰者の目を、選ばれている者の目を、常に、すでに王であるキリストに向けさせ続けます。は永遠の時の始まる前の結合から、永遠の未来に目を向けさせます。

  偽りの教えは恐怖による備えになります。必ず携挙思想や年表終末論の中には恐怖に対する備えがあります。そして「自分が救われていなかったらどうしよう」という思いが絶えずあります。

  しかし真の救いは結合にある命です。その命は平安です。新約の終末論の中心です。その中心の中で私たちは忍耐について学びます。黙示録13:10に「ここに聖徒たちの忍耐と信仰がある」とあります。ここで言われている忍耐は、逃げ出さない決意や気合や精神力ではありません。

 文脈上、獣の支配が全地に及び、抵抗すれば殺され、礼拝すれば妥協になるという逃げ場のない状態に、神が民を置いておられることを前提にしています。

 例えば会社で偶像礼拝への同調を迫られ、断れば立場を失い、従えば妥協になるというような状況が来ます。辞めれば生活が損害を受ける。逃げ場がない。これが「忍耐がある」ということです。

  忍耐とは、自分で選び直す余地のない場所、逃げられない場所に神があなたを置いているという現実そのものです。

  黙示録14:12に「ここに神の戒めを守り、イエスへの信仰を保っている聖徒たちの忍耐がある」とあります。

  信仰は神からの賜物です。誰も自分の内から神を信じる信仰を生み出すことはできません。私たちは罪の中で死んでいたからです。私たちのうちに良いものは一つもありません。

  忍耐も神からの賜物です。神が信仰から離れない位置に置いておられるという事実です。

  教会が苦しみを避けて一時的に取り去られる。これは楽です。未信者や不信仰な者は飛びつきます。「楽だ」と言います。しかしそれは「キリストがある」ではなく「自分の都合がある」という態度です。

  ディスペンセーションの教えは、黙示録が語る忍耐と信仰の歩みを破壊しています。黙示録が示すのは、苦難の中にあってもキリストとの結合に立ち続ける者たち、最後まで忠実に歩む信仰の姿です。だからこそ黙示録は、携挙で逃げるのではなく、現実の苦難の中で主に結びついて終わりの日の栄光を待ち望む信仰を強調しています。

  永遠の時の始まる前から、キリストとの結合に選ばれたという源泉から始まって、再生、そして信仰、悔い改め、義認、聖化、そして栄化と続く福音の一貫した全体構造の流れの中で、私たちはどんな試練の中でも、私たちが頑張るのではなく、キリストが私たちと一体であるがゆえに、その立場の中で生かされます。その全体構造を踏まえてこそ、黙示録も単なる未来の出来事探しではなくなります。

  この全体構造を理解してください。キリストとの結合に選ばれたという源泉から始まり、再生、信仰、義認、聖化、栄化と続く一貫した福音の流れを踏まえて黙示録を理解するのです。もはや単なる未来の出来事探しではなく、神の主権の中で結合された者が忍耐の中に置かれ、最終的に栄光の完成へ至る希望の書であることが理解できます。

  結局、すべては神から始まり、神によってなり、神に至ります。その永遠の結合からすべてが展開していっていることを理解してください。

  黙示録14:13にこうあります。「また、私は天からの声がこう言うのを聞いた。『書き記せ。今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。』御霊も言われる。『しかり、彼らはその労苦から解放される。彼らの行いは彼らについて行く。』」

  ここで天の声と御霊が強調しているのは、迫害の時代にあってなお、結合にある者の行き先が破滅ではなく完成であることです。忍耐の焦点は状況を変えることではありません。迫害に勝利することでもありません。

まして信仰の努力が報われるという人間中心主義でもありません。

  忍耐の焦点は、生きるにしても死ぬにしても、結合の中に留められるということです。生きても死んでも、結合の中に留められ、そのまま完成に導かれるということです。

  「主にあって死ぬ」とは単に肉体が死ぬ出来事ではありません。死が訪れる時でさえ、あなたはキリストとの結合の中にいて、神はあなたを守り続け、必ずあなたを完成へ導きます。殉教であっても、そうでなくても、生と死のすべてが結合に貫かれるという意味です。

  「労苦から解放される」とは、途中で苦しみが軽くなることではありません。結合の完成によって労苦そのものが終わるという終末的な解放です。「彼らの行いは彼らについて行く」とは、行いが救いの条件になるのではなく、神がキリストにあって私たちを造られたときに備えられていた良い働きが、時間の中で顕現し、神の前に喜ばれるということです。

  したがって黙示録は苦難からの脱出を約束していません。苦難のただ中に置かれたまま、結合から引き離されることなく、生を通しても死を通しても導かれるという救いの在り方を語っています。

  忍耐とは、この地上で状況が改善されるまで踏ん張ることではありません。生きるにしても死ぬにしても、結合の支配のもとに守られ続け、最終的な栄化、キリストの再臨に至るまで導かれていく過程そのものです。

 「忍耐がある」とは「忍耐を持ちなさい」と言っているのではありません。「忍耐がある」と言っています。その忍耐とは、結合の支配のもとにあなたが守られ続け、最終的な栄光に至るまで導かれている過程のことです。

  忍耐の最終点は生き残ることではありません。忍耐の最終点は、最後まで永遠の結合の中に留め続けられ、

栄化の完成へ至ることです。

  最後に、黙示録は選ばれた人々がどこに導かれるのかを示しています。

黙示録21:3-4にこうあります。「見よ、神の幕屋が人とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をぬぐい去ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

  「見よ、神の幕屋が人とともにある。」これが完成です。神は人々の涙をその手で拭われます。この「神の幕屋が人とともにある」とは、神との結合が現実のものとなっているということです。永遠と実体が一致することです。

  そして「神が涙を拭う」とありますが、神の手があなたの頬に触れるということです。あなたが栄化されていなければ、朽ちる者のままでは神の栄光に耐えられません。神があなたに触れるということは、あなたも栄光化されているという証です。

  選ばれた者の結合の完成とは、神が信者を永遠の過去においてキリストと結合し、時の流れの中でその結合が顕現し、そして完成するということです。これは福音の一貫した救済構造です。

  神は時の始まる前から永遠の未来に至るまで、ずっと結合の中でご自分の民とともにおられ、見失わず、奪われず、引き離されることなく守り続けています。

  ヨハネ10:28に「だれも彼らをわたしの手から奪い去ることはできない」とあります。

  選ばれた人々には罪の性質の残骸があります。死の体があります。この世の苦難があります。時の中において、なお罪の性質と戦い、死の体をまとい、この世の苦難の中に置かれています。

  しかし完成時において、これらはすべて取り除かれます。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくされます。罪の性質は消え、死は勝利に飲み込まれ、この世は過ぎ去り、新しい天と地が到来します。

  第一コリント15章に「死は勝利に飲み込まれた」とあります。黙示録21:1に「最初の天と最初の地は過ぎ去った」とあります。21:5に「見よ、わたしはすべてを新しくする」とあります。

  最後です。黙示録は、苦難から逃げ切った者の勝利ではありません。黙示録は、最後までキリストとの永遠の結合の中に置かれ、患難の中を通過してきた選ばれた十四万四千、キリストの民、イスラエルの中の選ばれた民と異邦人の選ばれた民が、ともに到達する完成です。

  終末とは患難からの逃避でも携挙の時でもありません。終末とは永遠の結合が完全に顕現し、現れ、完成する時です。ハレルヤ。アーメン。ではお祈りします。

  愛する天のお父さま。感謝します。私たちの黙示録に対する考えが今日一変したことを感謝します。私たちの理解をはるかに超えた恵みの素晴らしさ、終末論がこれからどうなるのかという出来事探しから、神の召しに生きるというその意味を、今日あなたが語ってくださったことを感謝します。

  愛するイエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りします。

 

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