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福音の二重構造 摂理と 病・災害・死を考える
今日はヨエル書で学んだ福音の2重構造を復習します。
主は神。キリストとの永遠の結合。人間中心主義の誤った教えの否定。この3原則に基づいて講解します。
病気、災害、そして死。人が最も恐れ、最も避けたいと願うこれらの出来事は、すべて神の摂理のもとにあります。


ヨエル書2章28節、29節
ヨエル書2章28節、29節


光に照らされる悔い改め
もし、今あなたの心に、「主よ、あわれんでください」
という祈りがあるなら、それは弱さではありません。
それは、イエスの死と命が、聖霊によってあなたの魂に結びつけられている証です。
再生は神のわざ。照明は神の光。悔い改めはその実。信仰は向けられた心の向き。聖化はその心が栄光の前味をもって歩む生涯。
すべて同じ キリストの命 です。 アーメン。


十字架の神学 ― 第二コリント4章10–12節
私たちはいつもイエスの死を身に帯びています。それはイエスの命が私たちの身に現れるためです。」
これは第二コリントの4章10〜12節のところに書いてあります。
ここは、十字架の神学を最も深く語った箇所の一つです。
ここには、キリストとの結合によってキリストの死と命が信仰者の生活の中に同時に現れるという真理が示されています。


聖なる光に貫かれる 再生と照明――聖霊が心を照らす恵み
神の聖なる光があなたの心に触れるとき、あなたは自分の罪の闇を知り、 同時に神の美しさと栄光を悟ります。
それは裁きの火であり、同時に再生の光です。 その光は人を砕き、同時に生かします。
真の信仰者は祈ります。
「聖なる、聖なる、聖なる主よ、 あなたの光は真実で、美しく、栄光に満ちています。」
Ⅱコリント4:6 「初めに『光あれ』と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光の知識を、 私たちの心に輝かせてくださったのです。」
人間の知恵によって神を知ることはできません。 神が聖霊によって、御言葉を通し、 キリストの真理を悟らせてくださいます。 そして、あなたは変えられていくのです。
私たちの再生と照明は、 すべてキリストとの結合から流れ出る恵みです。 キリストとの結合は救いの源であり、泉です。 聖霊は、 この結びつきを私たちの現実の歩みの中で 確かに働かせてくださいます。 だから私たちは―― 『恐れと喜び』で主に近づき、 御言葉により生かされ、生きるのです。


ハイデルベルク信仰問答(Heidelberger Katechismus)
ハイデルベルク信仰問答(Heidelberger Katechismus)は、プロテスタント(改革派教会)で最も広く用いられてきた信仰教育文書の一つであり、特に改革派神学(カルヴァン主義)に基づいた教理問答です。


なぜ、信じても苦しみが続くのか?2 すでに/いまだの救い
信仰者は「二つの世界」を生きている
前回(第1回)で学んだように、「上にあるものを思う」とは、努力して天を目指すことではなく、
外からサタンと罪の誘惑、うちにある罪の性質から神の完全な支配へと逃げ込み、とどまる信仰の姿でした。
しかし、その「上にとどまる」信仰生活には、
① 永遠の救いがすでに完成している現実と、
② 今も未完成の中を栄光に向かい生きている現実
① と②とのあいだに、ひとつの緊張があります。
それはすでに救いが完成していながら、
いまだその完成を待っている
と言う信仰者の生き方です。
それが、「すでに」と「いまだ」の間を生きるという現実です。
私たちは「すでに永遠に救われた」けれど、
「いまだ時の流れの中で完成へ進んで行く」。
この二つの現実が信仰の中で常に交差しています。


何から逃げるのか- 1ペテロ5章8節「悪魔と罪の心の関係」
選ばれた者の守りとサタンの限界
(1)神の守りの境界線
カルヴァンはこう言います。
「選ばれた者たちは堕落の中にあっても、神の秘められた御手のもとに保たれており、悪魔はその魂を完全には支配できない。」(『キリスト教綱要』II.4.2)
再生前でも、選ばれた人は完全にサタンの支配下にはありません。神の見えない御手がその人を囲み、堕落の只中でも保たれています。
(2)ヨブ記が示す制限
「では、彼のすべてをおまえの手にゆだねよう。ただし、彼自身には手を触れてはならない。」(ヨブ1:12)
サタンは神の許しなしには何もできません。攻撃できるのは外側――肉体や環境――の範囲に限られ、魂そのものには一切手を触れられないのです。
「神はサタンをも用いて御旨を成し遂げる」(創世50:20)
(3)神の鎖につながれた敵
R.C.スプロールは言います。
「サタンは神の鎖につながれた犬のようなものだ。神が鎖を伸ばさない限り、一歩も動けない。」(『The Holiness of God』)
サタンの「自由」は見せかけに過ぎません。


なぜ信じても苦しみが続くのか?「すでに/いまだ」の救い
私たちがクリスチャンであるのは、神が私たちを救われたからです。しかし、救いとは「罪が赦されること」だけではありません。救いとは、キリストと結ばれることそのものです。ジョン・マレーはこう語ります。
「救いのすべての祝福は、キリストとの結合から流れ出る。結合は恵みの順序の中の一項目ではなく、全体を貫く中心軸である。」
この“結合”があって初めて、選びも現実となり、再生も起こり、そして義認・聖化・栄化も実を結びます。


病、災害、死に対する神の主権1 ヨブ記
病、災害、死に対する神の主権がどのようなものであるかを聖書から理解して行きましょう。
選ばれている人々と選ばれていない人々、それぞれに病、災害、死の意味は大きく変わります。このことを最初に心において忘れないようにしてください。


病、災害、死に対する神の主権 ヨブ記(ショート)
病 、災害、死に対する神の主権がどのようなものであるかを聖書から理解して行きましょう。
選ばれている人々と選ばれていない人々、それぞれに病、災害、死の意味は大きく変わります。このことを最初に心において忘れないようにしてください。
1. 神の主権を認めない考え方の主張
「病気は罪の結果である。だから悔い改めれば癒される。」
この誤った教えはしばしば「因果応報の教え(retribution theology)」と言われます。この教えは旧約のヨブ記の友人たちが代表として聖書の中に現れます。
ヨブ記の中で、ヨブの友人たち(エリファズ・ビルダデ・ツォファル)が「ヨブの苦しみは罪の罰」だと主張して責める場面がいくつもあります。


不品行を避けなさい
律法主義によって人の心のなかは、むしろ「やってみたい!」って欲望が強くなってしまうのです。
それは、人間が自分の力で罪の性質に勝とうとするやり方の結果です。
人間中心の律法主義、必ず、人間は罪の性質に負けるとパウロは教えています。
聖書はどう教えているのでしょうか?
日本語の新改訳聖書にはⅠコリント6:18にこう書いてあります。 注意して読みましょう。
「不品行を避けなさい」 この教えの意味を人間中心の考え方で読んではいけません。
ここで使われている「避けなさい」という言葉はギリシャ語では「φεύγε(フェブゲ)」、「逃げなさい!」という意味です。
新改訳聖書の「避けなさい」と言う表現は自分の意志の力で努力して避けるように聞こえてしまいます。それは原語から検証すると良い解釈ではありません。
何度も言いますが、自分の力で努力して良いことを行い、義を得ようとする行為は律法主義です。律法主義は自分の力で戦うように求めます。そして律法主義では、必ず、主語は「私」が主語、自分になります。
自分は律法主義に陥っているかどうかの見極め方はとても簡単


「代償を量りなさい」ってどういうこと? 福音構造と変わる心
イエスさまの「代償を量りなさい」とは、人間には無理だと悟らせる問いかけ。
本当の信仰とは「自分をあきらめてキリストに頼ること」。
神が聖書と聖霊を通してキリストの栄光を示してくださるとき、心は変わる。(パウロの回心)
そして 結合 → 再生 → 悔い改めと信仰 → 義認 → 聖化 の流れの中で、弟子として従う歩みが実現する。
イエスさまは「あなたのすべてを捨てなさい」と言われます。でも、それは自分の努力ではできません。
だからこそ、神が御言葉でキリストの栄光を見せ、聖霊が心を変え、「無理だったこと」を「従いたい心」へと変えてくださるのです。
「代償を量りなさい」という命令は、私たちを落ち込ませるためではなく、キリストの恵みに満ちた招きへ導く真実の問いかけなのです。


交わりについての学び
私たちが共に持つ礼拝後の交わりについて学びたいと思います。礼拝後の交わりを休憩やお茶菓子タイムと思っている理解の浅いクリスチャンは多くいます。多くの教会ではお茶菓子タイム、お食事タイムなどありますが、それを礼拝と理解している人々はいません。
礼拝後の交わりは単なる休憩や慰めの時間ではありません。礼拝の一部なのです。これは、神が御自身の民を建て上げるために与えてくださった聖なる恵みの手段です。したがって、交わりをどう理解し、どう実践するかは、神の御前でとても重要です。


「結合と人の子」 ― 天が開かれ、人と神がつながる
イエスさまは「神」であり「人の子」
イエスさまは、「アブラハムが生まれる前から、わたしはある(I AM)」と言われました(ヨハネ8:58)。
これは、「わたしは永遠の神である」という意味です。(出エジプト3:14)イエスさまは「わたしはある(I AM)」と語られた永遠の神であり、同時に「父の独り子(神の子)」として来られました。
「神の子」とは、父と一つであり、永遠に父と御霊とともにおられる方、という意味です(ヨハネ1:14,18)。神の子としてのイエスさまは、父なる神を完全に現し、神の栄光をあらわす方です(ヘブル1:3)。
「人の子」とは、イエスさまがご自分を紹介するときによく使った名前です。
聖書では80回以上使われています。「人の子」とは、神と人の間をつなぐために来られた救い主という意味です。
「人の子」は人間性を強調する表現、同時にイエスさまは「神の子」としての完全な神性を持っておられることを忘れてはいけません。


十字架の御業と本当の救い
「十字架の御業」、また「あがない」は救いにおける中心教義です。
これをわかっていないということは、その人は救われていないのか?
ここについて少し話したいと思います。
救いというのは、どのように私たちに来るのか?
聖書をしっかりと見つめて考えていくと、聖書はこのように言っています。
救いにおける一番重要な部分、それは「選び」です。
そして選びに基づいて何が行われているかというと、イエス・キリストとの結合の中において選びが行われているのです。
この選びの現れは、神の御指によって行われています。
決して私たちの意思によるものではありません。
また、決して私たちの知識によるものでもないということを理解する必要があります。


律法による義、信仰による義-律法主義、霊的戦い神学、福音の三要素はなぜ十字架の御業を冒涜するのか
信仰による義がもたらす結果
ローマ10:1-11はキリストとの結合を源泉とする救いの実際的な適用を説明している。信仰から来る告白は義認の条件と言うより、むしろ、救われた結果の信仰が外的・継続的にその人に現れると言う聖化そのものである。
・ローマ10章の中核
救いの土台はすでに成し遂げられたキリストの御業
人は自分の努力で天に登ったり、死の陰府からキリストを引き上げたりすることはできない(10:6–7)。 これは「律法による義」の不可能性を示す。
すべてはすでに キリストの受肉・死・復活という完成された福音 による。
信仰による義は、人間の行為ではなく、神の恵みの絶対的主導。
信仰と告白は聖霊によって与えられた心の動機のあふれ
「心で信じて義と認められ、口で告白して救われる」(10:9–10)。
スプロールはこれを「救いを獲得する条件」とは理解しない。
むしろ、神が新しい心を与えたときに必ず現れる内的動機の外的表現。
したいこと=志しとしての告白であり、律法主義的な「しなければならない」ではない。


神との結合10 律法、罪からの解放
ローマ7章においてパウロはまず、律法が人を支配するのはその人が生きている間だけであるという律法の原則を話した。
その上で、夫の死によって妻が律法の拘束から解かれるという例を示す。ここでの「死」は、夫の妻に対する支配権の消滅を意味した。
それは律法がキリストに結合されている者に対して支配的な力を失ったと説明しています。
続いてパウロは、この原則をキリストと結合している者にあてはめて話した。
すなわち、真の信仰者はキリストとの結合によってキリストと共に十字架で死んでいる。キリストはまことに人であり、真の信仰者はこのキリストとともに律法に対して死んだ。罪に対して死んだ。自己に対して死んだ、この世に対して死んだ。キリストとの結合は信仰者をキリストとともに死につけた。
ゆえに律法はもはや信仰者を支配することは出来ない、信仰者は神である復活された永遠の神、キリストに結ばれており、実を結ぶ者とされた。律法の効力は信仰者に対して無効となり、その人はもはや律法の下にいない。裁かれることはない。罪の支配的な力を無力にしました。
罪も自己もこの世もはや信仰者を支配する


ローマ人への手紙 8章26節 祈り2
ローマ書7章と8章のメインテーマは「私はみじめな人間です」というところから始まります。
この「私はみじめな人間です」から、深いうめきが起こってくる、とパウロは言っています。
この「うめき」とは何でしょうか。
キリストを知らない人、再生していない人は、このうめきを「人生の苦しみ」と捉えます。
自分が抱えている問題に自分を重ね合わせ、そこから脱出したい、その問題から逃れたいという思いを「深いうめき」だと思い込み、聖書にかぶせてしまいます。


ローマ人への手紙 8章26節 祈り
キリストとの結合と祈りについて更に学んでいきたいと思います。
ローマ8:26はこう言います:
「私たちは何を祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が言葉に表せないうめきをもって、私たちのためにとりなしてくださる。」
この聖句をよく見ると、何を祈ったら良いかわからない時に御霊ご人身が信仰者のためにうめきとりなすと言っていません。注意して読んでください。
→ 何を祈ったら良いかとは「信仰者がある特定の状況の時に何を祈ったらよいかと言う意味ではありません」 また、「特別に何か意識して」「何を祈ったら良いのか」と言うことでもありません。
むしろ「ただ、信仰者は何を祈ったらよいか分からない」 信仰者が何を祈ったらよいのかと言うことはその人の状態を表しています。つまり、実際に、神の御前にあって、ただ、わたしたちは何を祈ったらよいかわからない、そう言う人なのです。
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