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結合の民は最後まで地上に置かれて完成に導かれる 黙示録2

  • thewordforyoujapan
  • 1月24日
  • 読了時間: 12分

黙示録シリーズ2 2026.1.21 The Word for you 

ヨハネの福音書の17章、ローマ書の11章、黙示録の7章、そしてまた14章を、一本の救済史の線で読むというメッセージです。

 これは先週、ローマ書の11、7、黙示録の7、14、マタイの24をテーマに話していきますと言い、前回はイントロダクションで終わりましたが、今日はそこの部分に少し入っていきます。

 時間は30分ぐらいで終わればいいと思いますが、終わらければ、また次回という形でしたいと思っています。

 テーマは、「結合の民は最後まで地上に置かれ、完成に導かれる」です。神はご自分の選ばれた民をこの世の外に避難させるということはしません。

 この世の中で守り続け、完成へ導かれます。

 これが聖書全体に一貫している救済の全体構造です。

 この真理を主イエスご自身は祈りにおいて明確に語られています。

 ヨハネの福音書の17章15節から読んでいきます。

「私がお願いすることは、あなたが彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」

 彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。

 20節。

「私は、ただこの人々のためだけではなく、彼らのことばによって私を信じる人々のためにもお願いします。」

この祈りは弟子たちだけではなく、すべての時代の教会に向けられています。そして、ヨハネの福音書の17章21節から23節、ここで私たちは驚く言葉を聞きます。

「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちのうちにいるようにしてください。あなたが私を遣わされたことを、世が信じるようになるためです。また私は、あなたがくださった栄光を彼らに与えました。私たちが一つであるようになるためです。私は彼らのうちにいて、あなたは私のうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。」

 イエス様の祈りは大祭司の祈りです。そしてイエス様がはっきりと言っています。

 取り去ることではなく、悪い者から守ってください。そしてイエス様は、「私は彼らのうちにいて、あなたは私のうちにおられます。」

 教会は世から取り去られるのではなく、三位一体の神と結合し、この世のただ中で守られ続け、完成へ導かれるという、救いの源泉から流れる終末構造を、永遠の時が始まる前から真理として確定されています。

 驚きますね。そして、ローマ書の11章は、取り去られず継ぎ木された一本の民を言っています。パウロがローマ書の11章で扱っているのは、イスラエルの不信仰、異邦人の継ぎ木、しかし、神の選ばれた民は、一本のオリーブの木、そういう構造です。選ばれた民は最初から一本の木として理解されています。

 ローマ書の11章24節で、パウロは、野生であるオリーブから切り取られて栽培されたオリーブに継ぎ木されたのであれば、本来栽培されていた彼らは、もっと容易に自分の元のオリーブに継ぎ木されるはずです。

 このみことばで言っているのは、重要なのは、異邦人が別の木に移されたのではなく、同じ木に継ぎ木されたという点です。

 結論はここです。

 賜物と召命は取り消されることがありません(ローマ書11章29節)。

 救いは決して、選ばれた者に与えられている救いは決して取り消されることはない。それは一本の木に約束されています。したがって、教会が途中で退場し、別の民が地上史を受け継ぐという構造は、パウロの教えている救いの全体構造と正面から衝突します。

 救済史は常に同じ選ばれた民が、同じキリストとの結合の中で完成に導かれるという一本線で進んでいきます。  

 そして、黙示録の7章に来て、私たちは大患難を通ってきた群衆を見ます。ヨハネは14万4千人の、象徴的な完成数としての神に印された神の民を見ます。

 「イスラエルの子らのすべての部族から印された者の数を聞いた。十四万四千人であった。」黙示録7章4節です。

 この十四万四千の「144」は、12×12×1000。

 この12×12はどこから来ているか。それは黙示録の新しいエルサレムの情景の中に、すでに刻印されています。

 すなわち、都には十二の門があり、それはイスラエルの十二部族の名。また十二の土台があり、それは小羊の十二使徒の名。

 一つの「12」は旧約の民、契約の民を表し、そしてもう一つの「12」は、新約における選ばれた民、使徒的教会を表します。

 そして、この二つの12は混ざり合います。別々の民ではなく、結合して144になる。そして、ローマ書11章が語るとおり、同じ一本のオリーブの木、すなわちキリストにおいて継ぎ木され、旧約と新約を貫く一つの神の民として統合されていきます。

 そしてそこに「1000」が掛け合わされて十四万四千になります。この「1000」は人を増やしているという計算ではありません。「1000」は象徴的数として、限界のない充足、欠けのない完成、徹底した充満を表しています。

 それは神の救いが、どこにも欠けるところがなく、完成されていることを示す数字です。

 すなわち、十四万四千という数字の意味は、旧約と新約にわたる神の選ばれた民が、キリストにおいて完全に一つとされ、そして神の主権の下で完全に保たれ、完成に導かれていることを示します。これは救済史の全体構造の完成の象徴数です。

 また、私たちは黙示録7章9節で、同じ民を別の角度から見ます。

「その後、私は見た。すると見よ、すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が、御座の前と子羊の前に立ち、白い衣をまとい、手にナツメヤシの枝を持っていた。」

「この人たちは誰ですか。」と長老が私に言った。「私の主よ、あなたこそご存じです。」と答えると、長老は言った。

「これらは大きな患難から出てきた者たちで、その衣を洗い、小羊の血によって白くしたのです。」黙示録7章14節。

 ここで描かれているのは、地上から取り去られた人たちではありません。守られ続けてきた人たちです。しかも彼らは、小羊の血によって贖われた者たちです。

 特別な時代の特別な信徒ではない。小羊の贖いの血潮によって救われた教会は、患難を回避される集団ではなく、患難の中で守られ続ける集団として描かれています。

 世界のただ中を通過して、完成へ導かれていく勝利者。

 黙示録14章、最終的勝利の場面です。

 黙示録14章1節でこう言います。

「また私は見た。すると見よ。小羊がシオンの山に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と小羊の父の名が記されていた。」

 13章ではこう言います。

「獣は聖徒たちに戦いを挑んで勝つことが許された。また、あらゆる部族、民族、言語、国民を支配する権威が与えられた。地に住む者たちで、世界の基が据えられた時から、ほふられた小羊のいのちの書にその名が書き記されていない者は、みなこの獣を拝む。」黙示録13章7〜8節。

 つまり、14章の勝利者たちは、支配と偽りの礼拝が世界を覆う時代、その歴史のただ中を通過して、そして守られ続け、完成に至った人々です。

 黙示録14章の勝利者たちは、世界を覆う巨大な獣の支配、そのただ中を通過しつつ、そこから守られ完成に至った民です。

 黙示録13章、14章、7章、ヨハネ17章、マタイ24章の構造的連結から明確にされています。

 黙示録13章の獣の支配は、全地に及ぶ歴史的事実です。前提として黙示録13章では獣の支配はこう言われています。

 獣はあらゆる部族、民族、国民を支配する権威を与えられた。13章7節。13章8節で、地に住む者たちは皆彼を拝むと言っています。

 ここに描かれているのは、地域的な一時的事件ではなく、全世界的な規模で反キリスト的な構造があるということです。そこには偶像礼拝があり、偽りの礼拝が行われていると言っています。

 そして13章10節でこう言います。

「ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。」

 この獣の支配のただ中に、聖徒たち、選ばれた者たちが存在しているということが明言されています。

 構造を見ます。

 獣の支配が広がります。偽りのキリスト教が広がります。そして同じ時間帯に、選ばれた者たちは地上に置かれ、忍耐を求められています。

 教会が携挙された後の時代ではありません。本文はそのような構造を一切取っていません。

 そして14章で勝利者たちは、獣の時代を通過した後に現れてきます。14章1節。

「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っており、小羊とともに十四万四千人がいた。」

 13章の直後に配置されています。文学構造上、これは逃避ではありません。これは通過後の到達点を意味しています。

それはさらに重要なのは14章12節です。

14章12節でこう言います。

「ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を保っている者たちの忍耐がある。」

これは13章10節と対応しています。

13章10節「ここに、聖徒の忍耐が必要である。」

14章12節「ここに、聖徒の忍耐がある。」

 つまり13章は戦いのただ中にある聖徒たち。14章はその戦いを通過してなお、守られ続けている姿という連続的構造になっているのが見えます。

したがって14章の勝利者は、獣の時代を逃げた人々ではなく、時代を通過してなお、信仰を保たれた人々です。

 黙示録7章に戻ります。

大患難から出てきた群衆。同じ構造は7章でさらに明確になります。

7章14節でこう言います。

「これらは大きな患難から出てきた者たちで、その衣を洗い、小羊の血によって白くしたのです。」

 ここで「患難から出てきた」とは、患難を経験した後に到達した状態を示しています。ここでは、患難を回避した者とは書かれていません。

 そして、十四万四千人と数えきれない群衆は、象徴構造は違いますが、見せ方としては同一の神の民を別角度から描写しているのが分かります。

 黙示録の構造は一貫して、「安全地帯に行く勝利」ではありません。そんなことは一切書いていません。戦場を通り、守られ続ける完成という形を取っています。

 マタイ24章で、再臨と裁きが同時に到来する構造を私たちは見ることができます。主イエスは終末を、教会が途中で地上から消える出来事としては一切語られていません。

 むしろ、教会が地上に置かれ続ける現実と、そのただ中で終末が一挙に到来するという現実を並べて語られています。

 まず、教会が苦難を通されることが前提として語られます。

「その時、あなたがたは苦しみに引き渡され、殺されます。」マタイ24章9節。

 ここで重要なのは、苦しみの有無ではありません。この予告が教会の地上存在を前提にしているという点です。

 主は終末が近づく過程を、避難する過程としてではなく、地上に置かれたまま守られ続ける過程として語られています。

 終末の到来点をこう示されます。

「そのとき、人の子のしるしが天に現れ、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて来るのを見るのです。」マタイ24章30節。

 ここに描かれているのは、まず教会がなくなり、その後で主が来るという順序ではありません。

 再臨そのものが終末の決着だと言っています。

 この構造の核心は、再臨が完成、裁き、分離の同時到来だということです。完成、裁き、分離は同時です。

 再臨は次の段階の開始ではありません。栄化の成就です。完成です。

 そして主は分離がどのように起こるのかを示されています。

 マタイ24章40節でこう言います。

「二人の男が畑にいると、一人は取られ、もう一人は残されます。」

 主が描くのは、世界が集団として地上から消える光景ではありません。同じ畑、同じ作業、同じ瞬間、同じ歴史空間の中で、取られる者と残される者が分かれるという形です。

 これは空間移動としての救済ではありません。裁きとしての分離です。

 ここで重要なのは、その直前の文脈です。ノアの日の例が語られています。洪水で取り去られたのは、裁かれた人々でした。その意味をイエスは文脈上固定しています。

 その上で「一人は取られ、一人は残される」と語っています。すなわち、取られる者は裁かれる者です。

 なぜ選ばれた民は地上で守り続けられているのか。答えは、人の行動でも、熱心さでも、努力でもありません。理由は一つです。すでにキリストと結合されているからです。

コロサイ3章3節。

「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。」

この「隠されている」とは、この世界から別の場所に移されたという意味ではなく、この地上に置かれていても、最終的に失われることのない位置にあるということを示しています。

ヨハネ10章28節。

「だれも、わたしの手から彼らを奪い去ることはできません。」

守られる根拠は、人の忍耐でも忠実さでもありません。神が民を守るという主権的事実です。

イエス・キリストとの結合は逃避の手段ではありません。裁きの中で絶対に失われることのない存在のあり方そのものです。

 ヨハネ17章で、取り去るのではなく守るという真理が語られています。

 だから主イエスは地上に残る民について、こう祈られました。

「あなたが彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」

 この祈りは弟子たちだけではなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、ヨハネ17章20節で、そう祈られています。

 それは、教会が世から取り去られるのではなく、この世のただ中で悪から守られ、完成に導かれる終末構造をそのまま確定しています。

 なぜこの構造が崩されやすいのか。

 宗教性は、救いを苦難からの回避に変えます。自分たちを安全圏に移動させるという欲望によって、御言葉を変えるからです。

 それは、イエス・キリストが神であり、神の主権によって人々が選ばれているということを知らないからです。

 しかし福音の構造は、十字架においてすでに示されています。

「もし私たちが彼とともに死んだのであれば、彼とともに生きることになる。」ローマ6章8節。

「私たちはキリストとともに苦しむなら、共に栄光を受けるためです。」ローマ8章17節。

 福音は回避ではありません。死を通って命です。通過の先に復活があります。苦難の先に栄光があります。

だから終末も同じ構造を持っています。回避ではなく、患難を通る。試練を通る、苦しみを通る。しかしそこは破滅ではありません。

 神は選ばれた者たちを守り続け、再臨は逃避の開始ではなく、完成そのものです。

 一本の救済史の線を整備すれば、

 ヨハネ17章は取り去られない。

 ローマ11章は一本の木として選ばれた民が守られ続ける。

 黙示録7章は患難を通過する選ばれた人々。

 黙示録14章は獣の時代を越えて立つ勝利者たち。

 そしてマタイ24章は、再臨と裁きが同時に起こる。

 取り去られることを願う人々は、取り去られてどこに行くのか。裁きに行きます。

 結論は明確です。

 選ばれた人々、教会は最後まで地上に置かれ、裁きの中で守られ続け、再臨と同時に完成に導かれます。

 再臨は回避ではなく、完成の成就です。すべてはそこで成就します。

 そして大祭司である主イエス・キリストは、私たちのために父なる神に祈られています。

ヨハネ17章15節。

「私がお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」

祈ります。

愛する天の父なる神様。

あなたが私たちをこの患難の時代の中において守り続けてくださっていること、私たちは死の陰の谷にあっても、あなたと共に歩んでいること、この素晴らしい啓示を感謝します。

どうか、誰一人、「取り去られたい」という思い、回避したいという人間の欲望によって、ディスペンセーション主義がもたらした誤った教えの中に入り、永遠の滅びに至ることのないように守ってください。どうか助けてください。

主イエスのお名前によって感謝してお祈りいたします。

アーメン。


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