top of page
All My Stories
ブログ・記事


なぜ、信じても苦しみが続くのか?2 すでに/いまだの救い
信仰者は「二つの世界」を生きている
前回(第1回)で学んだように、「上にあるものを思う」とは、努力して天を目指すことではなく、
外からサタンと罪の誘惑、うちにある罪の性質から神の完全な支配へと逃げ込み、とどまる信仰の姿でした。
しかし、その「上にとどまる」信仰生活には、
① 永遠の救いがすでに完成している現実と、
② 今も未完成の中を栄光に向かい生きている現実
① と②とのあいだに、ひとつの緊張があります。
それはすでに救いが完成していながら、
いまだその完成を待っている
と言う信仰者の生き方です。
それが、「すでに」と「いまだ」の間を生きるという現実です。
私たちは「すでに永遠に救われた」けれど、
「いまだ時の流れの中で完成へ進んで行く」。
この二つの現実が信仰の中で常に交差しています。


神との結合10 律法、罪からの解放
ローマ7章においてパウロはまず、律法が人を支配するのはその人が生きている間だけであるという律法の原則を話した。
その上で、夫の死によって妻が律法の拘束から解かれるという例を示す。ここでの「死」は、夫の妻に対する支配権の消滅を意味した。
それは律法がキリストに結合されている者に対して支配的な力を失ったと説明しています。
続いてパウロは、この原則をキリストと結合している者にあてはめて話した。
すなわち、真の信仰者はキリストとの結合によってキリストと共に十字架で死んでいる。キリストはまことに人であり、真の信仰者はこのキリストとともに律法に対して死んだ。罪に対して死んだ。自己に対して死んだ、この世に対して死んだ。キリストとの結合は信仰者をキリストとともに死につけた。
ゆえに律法はもはや信仰者を支配することは出来ない、信仰者は神である復活された永遠の神、キリストに結ばれており、実を結ぶ者とされた。律法の効力は信仰者に対して無効となり、その人はもはや律法の下にいない。裁かれることはない。罪の支配的な力を無力にしました。
罪も自己もこの世もはや信仰者を支配する


私は腐ってない! ― 信仰義認と聖化の土台
「私は腐ってない! ― 信仰義認と聖化の土台」
ローマ6:21 「ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。」
― 現代人の叫び「私は腐ってない!」
私たちは日常でよく耳にします。 「人を傷つけるようなことはしていないから、大丈夫。」
「悪い人もいるけど、自分はそこまでじゃない。」 「犯罪者と比べれば、私はまだマシだ。」
こうした声の根底にあるのは、まさに 『私は腐ってない!』 という自己主張です。
しかし、それは聖書から見れば全くの錯覚であり、神の御前では通用しない言葉です。


十字架の血により贖われ罪と戦う
キリストはすでに贖いを完全に成し遂げられました。しかし、罪との戦いは今も続いています。それは、神が私たちをきよめ続けておられるしるしです。御霊が日々、戦いの中で私たちを支えてくださっています。
bottom of page