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私は腐ってない! ― 信仰義認と聖化の土台 

  • thewordforyoujapan
  • 9月6日
  • 読了時間: 7分

「私は腐ってない! ― 信仰義認と聖化の土台」2025.8.24 礼拝メッセージ

 

ローマ6:21 「ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。」 

― 現代人の叫び「私は腐ってない!」

 私たちは日常でよく耳にします。 「人を傷つけるようなことはしていないから、大丈夫。」

「悪い人もいるけど、自分はそこまでじゃない。」 「犯罪者と比べれば、私はまだマシだ。」

こうした声の根底にあるのは、まさに 『私は腐ってない!』 という自己主張です。

しかし、それは聖書から見れば全くの錯覚であり、神の御前では通用しない言葉です。


 1. 人間の自己主張 ― 「私は腐ってない!」

人は誰でも心の奥底で「自分はそんなに悪くない」と思いたくなります。

「私は腐ってない! まだマシなところもある!」と叫びます。

しかし、聖書はその声を打ち砕きます。

 

  • イザヤ64:6 「人の義は、汚れた衣にすぎない」

  • ローマ3:10 「義人はいない。一人もいない」


神の主権に従わない努力、善行、宗教的熱心さは、神の前では 人の汚れにまみれた衣 にすぎません。

 

 2. 過去を振り返ると「恥ずかしい」ことばかり

パウロはローマ6:21で言います。 「そのころ得た実は、今では恥ずかしく思うものばかり。その行き着くところは死。」 自分の義に頼っていた時代に生み出したものはすべて「死の実」でした。

誇れるどころか、今振り返るとただ愚かで恥ずかしいものです。

現代で真剣にこのような教えをやっていたことを思えばただ恥じ入るばかりです。

 

  • 「救いの祈りを唱えれば救われる」 決断主義的伝道。

  • 「悪霊追い出し、罪を断ち切れば勝利だ」 偽りの霊的戦い運動。

  • 「信じれば繁栄し、癒される」と叫ぶ繁栄の神学

  • そして「信じたのだから、あとは自由に生きてよい」と教える救いの3要素

 

これらはすべて、人間中心の偽りの教え。人の義を取りつくろったにすぎず、最終的には「死に至る実」でしかありません。

 

 3. 自分の義は「人の汚物」 聖書はさらに容赦なく宣言

 

ゼカリヤ3章3–4節

「ヨシュアは汚れた衣を着て御使いの前に立っていた。御使いは言った。『その汚れた服を脱がせよ。…見よ、わたしはあなたの咎を取り除いた。あなたに礼服を着せよう。』」

 

ここで使われる「汚れた衣」(צֹאִים, tso’im)は、原語において 「人糞にまみれた衣」 を意味します。 つまり、「人間の義とは人糞にまみれた衣」であり、とても汚れたものを示します。

 救われていない人々は自分の義を握りしめ、「これは義だ」と神に差し出します。

しかし実際には、それは「己の糞」を神に差し出しているのと同じことです。


 4. キリストの義を着せられる

 わたしたちの義が汚れたものにすぎないからこそ、神はご自身の義を与えてくださいます。

 

  • 大祭司ヨシュアから汚れた衣を脱がせ、礼服を着せたように、

  • 神は選ばれた者から咎を取り除き、キリストの義の衣を着せられるのです。

 

イエス・キリストは罪なき者として十字架にかかり、彼に結合された者にその義を与えてくださいます。だから、私たちは「自分の義を捨て、キリストの義を着せられる」ことによってのみ救われます。


 5. 偽りの福音を退けよ 偽りの福音の行きつく先は滅び

 今日、あなたは「まだ、自分は芯まで腐っていない」と思っていますか?

  • 表面的な福音主義は、「神はすべての人を愛している。あなたは愛されている」と人を慰め、神の主権による再生の救いと改めを語らず、滅びに導く毒入りの水です。

  • 決断主義は、救いを「自分の選択」によって達成できると言う行い崇拝です。

  • 経験主義は、体験感動や癒し、奇跡を救いの証として神の主権の救いを否定

  • 救いの3要素は、悔い改めも聖化も救いには不要、罪を放任する偽りの福音

  • 霊的戦いは、何度も何度も地域の悪霊を縛り、何度も何度も自分が犯した罪を断ち切る、1度きりで完成さられた主イエスの十字架の御業の勝利を否定

 これらの異端は人間中心の行いによるに偽の福音であり「あなたは腐っていない!」と叫びます。

  ➡ 「聖書は神の主権を語ります。」

 

主イエスは言われます。 

「義人はいない。一人もいない」 「人の義はすべて忌まわしい」 

「義とされるのは、ただキリストの義の衣を着せられる者だけ」


  6. 信仰義認と聖化の土台  真の信仰者はどのように救いを歩むのか?

 聖化の出発点は「どう歩むか」ではない! 「How to~ どのように?」 方法ではない!

絶対に方法や知識で神には近づけない。どのようにして歩むと言うアプローチ、考えは神から離れると言うこと。 

 ➡ <警告> それでも「はい、わかりました!」と言って方法に戻る人々

 それはただ、信仰義認と聖化の土台に留まることです。心から普遍の事実として認めることです。

1回きり認めて終わりではない。毎日、毎時間、毎分、毎秒、あなたが呼吸を忘れないように。

このことを忘れてはいけない。

それは大地震が起こっても、地球が消えてもかわらない ロギゾマイ 1+1=2

 

  • 私は腐り果てている。私には義はない。

  • しかし、私の義はキリスト

 

真の信仰者はこの事実を御霊によって悟らされ、神にのみ頼る者へと造り変えられる。

 信仰義認も聖化も、どちらもあなたの欲望による決断や努力ではなく、神の選びにより、神があなたに贈り物としてあなたに与えてくださるのです。

 

  • 信仰による義認は、神の御前で法的に信仰者が律法と罪から解放された宣言

  • 聖化は、日々「私は罪人だ。しかし神はキリストの義のゆえにこんな私を受け入れてくださっている」という確信に生きる

 

➡ 真の信仰者は確かに義人であり、そして同時に罪人

 

これはキリストと結び合わされている結果であり、その人の心には救いの全体構造を知り、喜びがあり、安心があり、そこに良い行いの源泉があります。 

 7.<原則>

①   聖化における「良い行い」は、信仰者の罪の性質の影響を受けている意志、感情、思いから出ません。

 ②   それは御霊の働きによって生み出される実です。 

信仰者に誇るもの何1つなく、ただキリストの義の現実化は神の主権の中で信仰者に起こります。キリストとの結合を源泉として信仰者の意志、感情、思いは聖霊によって御言葉を通して変えられて行きます。

 ③   真の信仰者は一人、一人、このように変えられて行きます。すべてのものはキリストの足の下に従わせられるのです。それは御霊の働きです。

 ④   そして信仰者は。神はキリストとの体、共同体の中でキリストの似姿に立ち上げて行かれます。

それはキリストがすべてとなるためです。

 

パウロは言います。エペソ1:22-23

"また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。"

  8.<まとめ>

  • 自分の義=人の汚物にまみれた衣、死に至る実。

  • キリストの義=真っ白な衣、命に至る実。

  • 「私は腐ってない!」ではなく、

 

「主よ、私は腐り果てた罪人です。憐れんでください」と叫ぶ者の内に神の大能の力は働きます。

 

神はいつも私たちに御言葉を通して語られます。

ルカ18:11~12

 "パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。

私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』"

 

ルカ18:13–14

「一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』 義と認められたのは、この人です。」

 

あなたにはまだ、少しは良いところがありますか?それとも芯の芯まで腐っている罪人ですか?

9.<祈り>

 私が「主よ、私は芯の芯まで腐り果てた罪人です。」と告白します。

皆さんは 『神様、罪人の私をあわれんでください。』と取税人と同じように心の底から声に出して祈り求めてください。 頭を下げてください。3回繰り返します。

 

もう、一度、今から1分 各々、自分の心の中で今の祈りをします。

 

✦ 人の義は「人の汚れ」以外の何物でもない。だからこそ、キリストとの結合により、義の衣を着せられることが唯一の救いであり、唯一の信仰義認、そして聖化の土台、それ以外はありません。

 

 

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