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なぜ、信じても苦しみが続くのか?2 すでに/いまだの救い

  • thewordforyoujapan
  • 10月31日
  • 読了時間: 8分

第2回 すでに/いまだ ― 二つの次元を生きる

聖書箇所エペソ2:6/ローマ8:23/コロサイ3:3–4


 

→ すでに

「神はまた、キリスト・イエスにおいて、私たちをともによみがえらせ、

ともに天の所に座らせてくださいました。」(エペソ2:6)

 

→ いまだ

「しかし、私たち自身も心の中でうめきながら、子とされること、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」(ローマ8:23)

 

→ そして栄光

「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている。

あなたがたのいのちであるキリストが現れるとき、あなたがたも彼とともに栄光のうちに現れる。」(コロサイ3:3–4)


 

1.  信仰者は「二つの世界」を生きている

前回(第1回)で学んだように、「上にあるものを思う」とは、努力して天を目指すことではなく、

外からサタンと罪の誘惑、うちにある罪の性質から神の完全な支配へと逃げ込み、とどまる信仰の姿でした。

しかし、その「上にとどまる」信仰生活には、

①   永遠の救いがすでに完成している現実と、

②   今も未完成の中を栄光に向かい生きている現実

①    と②とのあいだに、ひとつの緊張があります。

 

それはすでに救いが完成していながら、 

いまだその完成を待っている

と言う信仰者の生き方です。

それが、「すでに」と「いまだ」の間を生きるという現実です。

私たちは「すでに永遠に救われた」けれど、

「いまだ時の流れの中で完成へ進んで行く」。

この二つの現実が信仰の中で常に交差しています。

 

2. 「すでに」――永遠における完成した現実

パウロはエペソ2章で言います。

「神はキリストにおいて、私たちをともによみがえらせ、天の所に座らせてくださいました。」

「ここで注目すべきは、『座らせてくださいました』という、完成を示す表現。

それは「ました」と言う表現が示すように、救いはすでに神のうちで完成しており、今もそうであり、永遠に完成しているのです。」

神は永遠のうちにあなたをキリストと結び、その結合の中であなたはすでに天において義とされ、永遠に変わることのない義とされました。

 

永遠の結合とは、神があなたを永遠の昔にキリストとひとつに結び、もう決して離さないという約束のことです。

 

したがって、真の信仰者の信仰生活とは「完成を求めて登る」旅ではありません。「完成された場所から地上を歩く」旅なのです。

 

繰り返します。真の信仰者の信仰生活とは「完成を求めて登る」旅ではありません。「完成された場所から地上を歩く」旅です。


 

3. 「いまだ」――時間の中で進行する現実

しかし、私たちはまだこの地上に生きています。

肉体は弱く、感情は揺れ、サタン、罪が誘惑し、罪の性質の欲が働き私たちを苦しめます。

 

パウロはローマ8章で言います。

「私たちはうめきながら、からだの贖われることを待ち望んでいる。」

これは「いまだ完成していない現実」です。

永遠の中で、完全に救われた者でありながら、完成を待ち望む者。

すなわち、神の御前で義人でありながら、時の流れの中では罪人。

 

この「いまだ」は、神が私たちを御子と同じ姿に形づくられる、

神が定められた救いの段階です。神学ではこれを聖化と呼びます。

聖化において聖霊は絶えず、

私たちを「上にあるもの」へと心を戻し続けます。


 

4. すでに/いまだ ― 永遠と時間の交差点

この二つの現実は矛盾ではなく、交わっています。

 

あなたの魂は「すでに」キリストと共に天の御座にあり、

あなたの肉体と心は「いまだ」地上を歩んでいます。

 

信仰生活とは、この交差点で生きることです。

『すでに』:永遠に救いは完成している。

『いまだ』:その完成を日々味わいつつ、御子のかたちへと形づくられる

ローマ8:29 

"神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。"

もし「すでに」だけを強調すれば傲慢になり、

「いまだ」だけを見れば辛さに押し潰される。

 

神がお与えになった信仰はその二つの間に立ち、永遠の結合が与えたれていると言う聖書のみことばに従うこと、すなわち、逃げること、戦うことに導きます。

 

再度、説明しますが、逃げる、戦うとは、神の支配が絶対であり、この神のうちにあなたがキリストと結合されて共にいるという聖書の御言葉にとどまることが従順です。それはサタン、罪の誘惑、罪の性質への不従順です。


 

5. 現在の戦いと完成の確信

この「すでに/いまだ」の間には戦いがあります。

肉の思いは「地のもの」を求め、御霊は「上のもの」を思わせます。

しかし信仰者の確信は、決して「どちらの現実に立つか」ではありません。

→ 誰に結ばれているかにあります。

神は信仰者の確信をキリストとの結合に導きます。

 

あなたは“すでに”キリストに結ばれている。

“いまだ”戦いがあっても、その結合は永遠に揺るがない

パウロはローマ6:11でこう語ります。

"同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。"

「『認めなさい』=ロギゾマイ。

神の宣言を事実として数え入れること。

感情の波ではなく、1+1=2の確定事実として受け取ること。


 

6. 「上を思う」信仰の成熟

「上にあるものを思う」とは、

実に神のご支配は圧倒的であり、永遠に全ての権威、権力、主権の上あります。この神をご支配の中に永遠に自分がおり、神があなたを永遠に守っているという聖書のみことばの真理に心から従うことです。

信仰生活とは、永遠における完成の中を歩む時間的な聖化です

神はあなたをキリストと永遠に結び、「すでに」その救いを完成し、「いまだ」聖化の中でその栄光を現しておられます。


 

7. まとめ ―

「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている」

あなたがたのいのちであるキリストが現れるとき、あなたがたも彼とともに栄光のうちに現れる。」(コロサイ3:3–4)

パウロはここで、「信仰者の命」はこの世には見えないと語ります。

あなたの救いの本当の姿は、この世の人の目には隠されています。

 

“隠されている”とは、消えているのではなく、神の手の中で完全に守られているという意味です。

神ご自身が、その命をご自分のうちに保管しておられ、誰もそこに手を伸ばすことはできません。

 

R.C.スプロールはこう語ります。

「再臨とは、キリストが新しい救いを始める時ではなく、すでに神のうちに完成していた救いを、

すべての被造物の前に明らかにされる時である。神の民が長い間“信仰によって見ていた現実”が、今度は“目で見る現実”として啓示されるのだ。」

スプロールは再臨を“啓示の時”として描きます。

神の側ではすでに完成している救いが、

時の流れの中で、全世界に栄光のうちに示される。

それが「あなたがたのいのちであるキリストが現れるとき」という意味です。

 

要約すれば、「隠された命」とは、永遠の中で完成している救いが、

時の流れの中で栄光のうちに全世界に示されることです。

 

それは新しい命が生まれる瞬間ではなく、

すでに神のうちで完成していた救いが、

再臨のときに歴史、時の流れの中で啓示される出来事なのです。

 

さらにRCはこう述べます。

「再臨の日こそ、神の約束が歴史の舞台で目に見える形で現れる時だ。

その日、キリストにある者は皆、公にその栄光を共有する。」

 

再臨とは、永遠において完成した救いが、時の流れの中で目に見えられる形で現れ、神の栄光の中で明らかにされる時です。

 

その瞬間、

 

キリストが雲とともに現れ(マタイ24:30)、

信者は栄光の体に変えられ(ローマ8:23)、

隠されていた命が全世界に示されます。

 

「見えない現実こそが、永遠の現実です。

神の民は、まだ見ていないものを見ています――

それが信仰であり、再臨の日にその信仰が目に見えるように現れます。

 

「あなたの命は神のうちに隠されている」とは、あなたの救いが「すでに」永遠の中で完成しており、キリストの命の中に確保されていることです。

神は時の流れの中では、まだ「いまだ」その完成を現わしていません。

 

しかし再臨の日、

その“隠された完成”が歴史の中に、栄光のうちに現れるのです。

 

だから、いまだ戦いの中にあっても、罪と弱さを抱えていても、あなたの命はすでに永遠の中で完成しており、

キリストのうちに保たれています。聖霊はその証印です。

 

「再臨とは、神がご自身の約束を完全に見える形で実現する日です。

その日、信仰によって見ていたものが、栄光の光の中で明らかにされます。」

 

あなたがたのいのちであるキリストが現れるとき、

あなたがたも彼とともに栄光のうちに現れる。

 

キリストの中に隠されているあなたがたの命とは

永遠の中で完成している救いが、

時の流れの中で栄光のうちに全世界に示されることです。

 

信仰者の歩みは、キリストの再臨と栄光の体が与えられることを待ち望む  「『すでに』 永遠の結合と、『いまだ』 聖化の過程」の間の中で、

人生を進んでいく勝利への旅なのです。

 

もう一度言いますが、信仰生活とは、

神が成就された永遠の救いにあって

同時に時の流れの中で選ばれた者が歩み、

御前で聖なる傷のない者にされることです。

 

(エペソ1:4)

"すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。"

 

―「すでに」―

神はあなたをキリストと永遠に結び、「すでに」、その救いを完成し、

 

―「いまだ」―

「いまだ」、聖なる、傷のない者にされようとする段階の中で

その栄光をあなたに現れる義の変容を通して現しておられます。

 

そして再臨の日、隠されていた命が全世界に啓示されるのです。

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