目を覚ましていなさい
- 1月17日
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2026.1.11 豊川の家の教会礼拝メッセージ
今日の言葉は、第一テサロニケ5章5〜6節を中心に、「目を覚まし、身を慎んでいる」ということについて話をしています。
テサロニケ人への手紙 第一 5章6節を読みます。
「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。
私たちは夜の者、闇の者ではありません。ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」
(新改訳2017)
「目を覚ましていなさい。」
この言葉はいろいろな教会では、「努力して目を覚ましていなさい」「自己管理しなさい」「夜寝る時間を削って、祈りにささげなさい」といった命令として受け取られて話されるところが多いです。
しかしパウロは、この御言葉を、自分の位置、自分の所属であるということを認めよう、という命令で話しています。
この御言葉の直前でパウロは、「あなたがたはみな光の子、昼の子なのです」という言葉を置いていることに注意してください。パウロは意図的にこのように語っています。
つまり、この言葉は、私たちが努力して自己管理して、夜も寝ずに一生懸命祈ることによって光の子になる、という話ではない。神が私たちを光の子に変えている。「昼の子なのです」と言っています。
これは、私たちが、みことばによって新しく生まれた者である、ということを認めるということを言っています。それは、神がそのようにされた、あなたを新たに生まれさせた、その事実を認めなさい、ということです。
なので決して、「あなたの意思で警戒して目覚めている必要がある」という意味ではありません。そういう命令ではない。それは宗教的な間違いの理解です。
宗教は、「警戒する」「理解する」「気づく」というような人間主体的な行いに変えていくのです。しかし再生によって、試練と苦しみの中で聖霊の照明を受ける。それは、キリストとの永遠の結合の源泉に置かれている者の生き方、そのものです。
「目を覚ましていなさい」というのは、生き方のことを言っています。生き方、つまり、あなたの内におられる神ご自身と、あなたが共に生きているという、その生き方を認めなさい。理解しなさい。そしてその命を生きなさい。あなたの存在の仕方について言っています。
全く違います。
そして二番、「眠っている」とは何か。
「眠っている」というのは、あなたが睡眠をしているということではない、ということを理解してください。「眠っていないで」と言ったからといって、そのまま書いてあるとおりに、額面どおりに取ってはいけません。
パウロが言っている「眠っている」という意味は、聖書の中では大きく分けて二つあります。
聖書で言っている「眠っている」という意味は、二つの意味を持っています。
4章で「眠っている」という言葉が使われていますが、それは信仰者の肉体的な死のことを言っています。なので決して、「眠っている」という言葉をそのまま「霊的な眠り」だとか「心理的な状態」だというふうに取ってはいけないです。文脈によって意味を変えています。
パウロは、4章の「眠る」は信仰者の死。そして5章6節の「眠る」というのは、主の日と裁きに無感覚、「平和だ、安全だ」「大丈夫だ」と思っている時に主の日が来る、という前提のもとで話しています。これは無感覚で、自分の状況をわきまえていない人たち、そのことを「眠る」と言っています。
そして、第一テサロニケ5章10節の「眠る」という言葉。「生きていようと眠っていようと」という言葉を使っています。この言葉の意味は、「眠る」という言葉を「死」として捉えています。
ここではギリシャ語の定義をいろいろ入れていますが、ギリシャ語はその使い分けを表しています。
第一テサロニケ4章13節は κοιμάω(コイマオー)という単語を使っています。コイマオーというのは「眠る」という単語ですが、ここの単語は、第一テサロニケ5章6節で「眠る」という単語を使っていますが、コイマオーという単語は使っていません。
καθεύδω(カテウドー)という単語を使っています。このカテウドーというのも「眠る」ですが、ここでは「無警戒で眠る」という意味で使う単語です。
この二つの意味によって、私たちは「眠る」というのが単純に睡眠をとるということではない、ということがわかります。
そして最後の第一テサロニケ5章10節は、ζάω(生きる)という単語、それから καθεύδω(眠る)という単語。この二つの単語は、「生きている者/死んでいる者」という、包括的に言い表す対句の表現として用いられています。したがって、1、2、3の文脈とギリシャ語の区別から、5章6節で「眠っている」というのは、救いの外にある者の典型的な在り方を言っています。
「眠っていないで」というのは、その様式に同調して振る舞うな、ということです。
眠っている人の特徴は、自分を基準に世界を理解している人、自分を中心に聖書を勝手に解釈している人です。「私が、私を、私に、私へ、私の、私から、主は私」。そしてその「私」に聖書用語を用いて、表面的な経験を装って、神の主権とキリストを認めない。この世、思想、宗教、偽りの宗教など、この世の仕組みそのものです。これが「眠っている状態」です。
なので、「眠っている状態」というのは、実際に睡眠を減らせたとか、警戒して祈るとかではないです。そのような表面的な命令ではない。ここに理解をしっかり置いてください。
そして「眠っていないで」ということは、この世の教えに顔を向けるな、と言っています。永遠の結合から目を離すな。地にあるものを見てはならない。上にあるものを思いなさい。
御座におられるキリストと、私たちが聖霊によって結ばれているということ、これを「聖霊により結ばれている」と言うのです。そしてそれは神の御業による事実だということを認めよ、ということです。
このようにパウロは、「眠らないで」という意味を全体の文脈の中で伝えています。
そして「身を慎む」というのは何か。
5章8節でパウロはこう言っています。
「しかし私たちは昼の者なのですから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みを兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」
これはどういうことか。自己抑制だとか道徳管理だとか修行ではありません。ここで語られている「身を慎む」は、全くそういう意味ではないです。
ここで語られている「身を慎む」というのは、聖化の過程のことを言っています。なぜか。今から説明します。
試練や苦難の中で、自分の偶像が砕かれていきます。そして神により照明を与えられて、神のみにより頼りにする者に変えられていく。これが聖化の過程です。
そこで何が起こるかというと、あなたは救いの源泉である永遠の結合へ、絶えず帰っていく。その中で胸当てや兜のたとえをこういうふうに理解するのです。
胸当てや兜とは、唯一、神が与える試練、苦しみ、悲しみ、絶望のただ中で、照明によって信仰者が受ける救いの装備なのです。
もう一つ、ここに深く入っていきます。
例えば、信仰というのは盾です。しかし信仰を「自分が思い込んで信じ切ること」だと思うでしょう。「私は信じ切ります」と言って、信じ切ってそれを盾にする、と思うでしょう。しかしそんなものではありません。
信仰は賜物です。最初からそうです。
神が、「自分はダメだ」ということを教えて、神だけにより頼む者にする。信仰はそれ以外にありません。
この信仰は成長するのです。最初に与えられた信仰は、だんだん成長していく。キリストの御姿に従って成長していきます。
信仰は、神が与える試練と苦難の中を通って、照明によって与えられる。そして精錬されるのです。
信仰は、あなたが打ちのめされた時に、初めて精錬されるのです。
神によって信仰は成長させられる。そしてその苦しみを通ってあなたに与えられた「キリストのみに頼る」というその思いは、あなたの信仰となり盾となるのです。そして初めてあなたは、その盾の裏側に隠れるのです。その時に、悪しき者が放つ火矢が、その信仰の盾によって初めて消えます。
あなたが「信じ切る」という自己義認的な、また宗教的な理解によって想像で作る盾というのは、盾ではありません。本当に火が来た時に燃えてなくなる。役に立たない。第一ペテロ1章7節が言うように、偽物は火で焼かれて消えます。
だから「自分で信じ切る」という信仰は、本当に悪しき者が放つ火矢が来た時に燃えてなくなる。役に立たない無用の置物です。
それが武装です。
神が与える武装は、苦しみの中を通らなければつかない。来ない。神が照明としてあなたに与える、「神が私を守ってくださる」というその信仰は、苦しみと痛みを通してのみ与えられる。それは精錬の火です。
これがパウロの言っている胸当てや兜のたとえの本質です。すなわち、これらの武具はたとえであって、そのたとえの本質は、聖化によって神からあなたに与えられる信仰の実体なのです。
それは楽しては来ないし、自分で表面的なキリスト教になって、「私は教会に行っている、献金している、それで私は守られている」というような表面的なものは、火が来た時に消え、燃えてなくなります。
「身を慎む」をまとめると、「身を慎む」というのは結局、救いの源泉であるキリストとの永遠の結合へ絶えず帰らされることです。時の始まる前の源泉から来るのです。この源泉から湧き出てくる。
そして神がその湧き出てくる聖化という、あなたを清めていく過程です。
「清める」とは何か。
簡単に洗い流れないから、あなたの汚さはものすごく汚い。あなたの心の中にこびりついている、苦難の時に偶像を頼るという本性は、あなたと共にずっとあり続ける。
その時に神は、試練と苦難と苦痛と悲しみと絶望をあなたに与えて、あなたが偶像に従っていく本性を暴露して、あなたの偶像を神が破壊することによって、あなたは「神しかいない」ということを知らされる。そしてその中において、あなたは神に望みを置く者に変えられていく。
そしてその変えられていく過程の中で、「私の神よ」という告白、心が神により頼む、その思いは神から来ていて、その盾が火矢を消すのです。
これがキリスト教です。
そしてその恵みが供給としてあなたに与えられていく。それが聖化の中で進行していく現実です。それをあなたは感謝して歩む者へと変えられていく。
まず試練の中において、神が与える御心に対して、人は前はつぶやくのです。「なんでこんなことが私に起こるんですか」と。分からないから。「どうしてですか」と。必ず言う。そして逆らう。
そして打ちのめされて、従順に従う者に変えられていく。そして、その意味が分かる。
「なぜですか」と言っている人は意味が分かっていないのです。聖書の神のご計画の意味が分からない状態で、「なんでですか」と神に食らいつく。しかし分からないから。神はそれを照明によって与える。
人は泣きながらひざまずく。人生の中で、神に逆らい、打ちのめされ、逆らい、打ちのめされる。しかし永遠のご計画の中で選ばれているから、救いの中に入っている。
あなたは永遠の救いの中、永遠の時の中で既に救われている。しかし今現在、罪の中にいる。罪の身体、罪の本性がある。
そうすると、「私は今救われているのに、こんなに苦しんでいるのに、私は永遠の中で救われている。どういうことですか」となる。
これは、既にあなたは救われていて、神の永遠の御計画の中では御国にいる。実は。キリストとともにあなたは上げられている。エペソ書がそう言っています。
しかしあなたの現実は、罪との格闘が続く。しかしあなたは一人ではない。神があなたと共にいる。御霊があなたと共にある。
これを「すでに/いまだ」という聖書の真理が表している。
あなたは存在すべてが罪の性質で、そのままなのです。あなたの一部が罪の性質なのではない。あなたのすべてが罪の性質です。人間中心です。
それをあなたは知っている。これは神の恵みです。
それを知らない人は、自分のすべてが人間中心であること、自分が罪の性質そのものであることを知らない。
あなたの心、感情、意志、思い、理性、すべて罪の性質に汚れている。あなたの身体も罪の性質に汚れている。あなたの存在すべてが罪の性質に汚れていて、あなたは罪の性質なのです。
だから救いようがない。
これをまず理解しなければならない。
そうすると人は言う。「御霊が私を支配して、私は御霊に起こされているのに、そんなことあるんですか」と。
御霊は、あなたの全存在と結合しているのです。
キリストはあなたの全存在、意識、感情、思い、理性、そして身体、あなたと結合している。信仰者が語るのはこれです。
そして契約的にあなたは結合している。アダムの契約によってではなく、キリストの契約によって、あなたは永遠に救われて結合している。
救済史のすべて、永遠の過去から永遠の未来まで、あなたは結合している。この結合の実態、この現実があなたにある。
そうすると、「私は二つの結合があるんですか」と言うなら、そのとおりです。二重構造なのです。
永遠においても、現実においても、あなたはキリストと結合している。しかしあなたの生まれつきの形は罪の性質そのもの。
ではどうなるのか。
あなたは既にキリストと結合していて、永遠の未来まで保証されている。そして今は、その永遠に向かっていく過程の中で、罪の性質は支配権を失っている。あるけれども残骸としてある。しかしキリストとの結合によって、キリストの支配がそこにある。
これが「すでに/いまだ」の二重構造。神は罪の性質を殺していく。あなたの人生の中で。それが聖化の過程です。あなたの変化は、罪の性質が殺されていく聖化の展開状態です。
そして第一テサロニケ5章19節でこう言います。
「御霊を消してはいけません。」
「御霊を消してはいけない」というのは、次のような意味ではありません。
祈りを怠ると聖霊が去るだとか、不従順、罪を犯して不従順の状態になると聖霊がいなくなるだとか、感情や熱心さが下がって教会に行きたくないと思うと御霊が弱まるだとか、クリスマスパーティーをやって嬉しくなって御霊が復活するだとか、そういう話は一切ありません。これは偽りの教えです。
聖霊は、あなたが再生した時に永遠にあなたと共にいる。それは永遠の昔から、時の始まる前から、あなたと共にいる。そのことが時の流れの中で現れて、はっきり見えるのです。
だから文脈から見ると、「御霊を消してはなりません」という命令の直前と直後の文脈から、こう言えます。
御霊とは、すでに選ばれた人々に与えられた御霊。この御霊は、人々の集まりの中で、パウロが教える福音――神の主権とキリストとの結合を軸にした神中心の福音――これに反対する思考、考え、教え、またそれに従うことへの警告なのです。
御霊を消すということは、人間主義をそのまま受け入れること、そのことです。
「イエス様、私はあなたを救い主として認めます。どうか私の内に入ってきてください。」この時点で、もう間違っています。
神は、あなたの心なんか関係なく、あなたの意思なんか関係なく、すべて神のご計画の中においてあなたを選ばれている。聖書はそう言っています。
それなのに、「神よ、私はあなたを救い主として認めよう。ところで私は今つらい、暗いところにいる。いろんな問題を抱えている。だから私が望むところに連れて行け。」そして「イエス・キリストの名によってお祈りします」という宗教的な決め事で締める。
これが人間主義的な祈りの恐ろしさです。ここへ行くな、ということです。
これを、何も思わず受け入れている時に、あなたは御霊を消している。そう言っているのです。「そうしてはいけない」。
その後にパウロはこう言っている。
「御霊を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。」
同じことです。
「預言」というのは、未来を語るという意味と、聖書の御言葉を取り次ぎ、解き明かすという意味があります。ここは、聖書の御言葉の真理を解き明かすこと、それを軽んじるな、ということです。
パウロは、エペソ書からずっと一貫して語っています。永遠の過去・現在・永遠の未来を結ぶ「キリストとの永遠の結合」が福音である。これを軽んじるな、と言っている。
つまり、御霊を消すということは、復活を軽んじること、律法主義、決心主義など、行いによって救いを得るという人間主体の教えに従うこと。
だからディスペンセーション主義に従って、時代で聖書の一貫性、救いの永遠の一貫性を否定して分割して、ユダヤ民族に福音が先に全部行って彼らが救われて、それから私たちに来る、などと構造を変えてしまうものに従った時、あなたは御霊を消している。
(もっとも、その前に救われていないと思いますが。)
このように、キリストとの栄光の結合という真理を退けることが、御霊を消すということです。
結合の視点から言うなら、真の信仰者は、永遠の時の始まる前からキリストとの結合の中に置かれている。聖霊によって、その結合が時の中で顕在化される。聖霊は命として与えられる。
したがってこの命令は「結合を失うな」ではなく、「あなたがすでに置かれているキリストとの親しい交わりを否定する立場に立つな」という警告です。それは救いを否定するのと同じだから、心の中でそれを疑ってはいけない。
そして、そのような人間主義の「私の内に入ってきなさい」という邪悪な祈りを受け取ってはいけない。
この命令の本質は、世の命令のように「御霊は人間の意思で願えば来る」かのように教えるカリスマ主義――「さあ祈って油注ぎをもらいましょう」「ワン、ツー、スリー、フォー」――そういう構造を拒むことです。
「御霊よ来い」という人間主義。戦勝意欲と表面的経験を偽装して、御霊の証言を抹殺する。なんと傲慢で醜い教えか。
パウロはそれを厳粛に否定している。だから「御霊を消してはいけない」と言うのです。
そして次、「御霊によって歩みなさい」。
私は何度も「御霊によって歩みなさい」について話しています。今日は、ここにいる一人でも二人でも照明を受けてほしいです。
この命令は、真理です。
もう一度言います。永遠の過去、現在、永遠の未来は、キリストとの結合において一つに結ばれているのです。永遠の過去、現在、永遠の未来、あなたの目の前に広がっている永遠は、一つの接点――キリストとの結合――にすべてがある。
これは、「自分で頑張って霊的な生活を送れ」という話とは程遠い。
神の主権のもとで永遠の結合、あなたはその接点に置かれている。その真理の中を歩むというのは教理です。キリストとの教理です。
永遠、現在、未来をつないでいるこの一つの結合は教理です。ふわふわした霊的感覚ではない。
神は言葉であった。言葉は神と共にあった。真理の言葉。真理の言葉とは何か。キリストとの結合の真理です。ここを歩むのです。ここから目を離してはいけない。
「御霊によって歩く」とは、様々な人間中心主義的侵略、支配侵略、律法主義、霊的戦い思想、決心主義、フリーグレイス、ディスペンセーション、ユダヤ主義、あらゆる偽りの宗教、また仏教などの人間宗教、そういったものから逃げることです。
そして、キリストとあなたが全身で結ばれている、神があなたを結合してくださっている、この救いの真理、教義、ここに立つこと。
それが「御霊によって歩く」です。
御霊とは何ですか。真理の御霊です。御霊はみことばです。御霊は福音の真理を明かし、照明し、適用し、確証する方です。
だからパウロは言うのです。この真理に捉え続けられ、この教理に従って生きること。真理は人を自由にします。
上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはいけない。上にあるものとは神の御座、キリストの御座。あなたはそこにキリストとともに、すでに着座させられているのです。
永遠の結合のこの現実は、喜びと感謝と平安を与えます。命の水が溢れ出る。あなたの救いの源泉です。
だから「御霊によって歩みなさい」とは、この源泉から汲め、ということです。他に泉はない。命の泉はキリストとの結合にある。すべてはキリストにある。すべてはキリストに隠されている。他を探ってはいけない。それがパウロの言っていることです。
御霊は三位一体の神です。御霊が内住するということは、三位一体の神が臨在されることを意味します。
御霊は真理の御霊。私たちを全存在でキリストと結合させる方です。
したがって、私たちは「御霊によって歩む」「御霊によって生きる」ということを、空想や霊的感覚に置き換えてはいけません。
それは、あなたとキリストが永遠に離れないという神の愛です。パウロがエペソ書で言っている神の愛。広さ、長さ、高さ、深さ。人知を超えたキリストの愛。
それは「人間の感情」ではない。感覚でもない。パウロが示す愛とは、父によって永遠に定められ、子によって十字架で成し遂げられ、御霊によって適用され、私たちがそれに結合させられている愛です。全人格的、契約的、全救済史的な愛です。
それが御霊が語る真理そのものです。救いの全体構造、それが真理です。
そしてあなたは、この御霊と結合している。そのことを忘れてはいけない。ここに「御霊によって歩きなさい」という神の照明がある。
他に歩く道はない。行ってはいけない。あなたは、キリストと絶えず一つであることを喜び、この救いの源泉から水が溢れていること、それがあなたの内にあること、その現実に生きることです。
伝道者の書3章11節は言います。
「神のなさることはすべて時にかなって美しい。
神はまた人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることはできない。」
私たちは、永遠の始めから終わりまで、どのように何が行われているのか、神の摂理がどのように働くか、さっぱり分かりません。
しかし私たちはイエスを見ます。十字架につけられたイエス・キリストを見ます。
神はご自分の子どもたちを、この真理を見つめ、真理を見つめ続けて生きる者へと変容させるのです。地のものから、永遠へ、永遠を見つめ続けて生きる者へと。
神が人の心に永遠を与えられた。これは神の御業です。
選ばれた人々は、絶えずこの真理へと目を向けさせられていく。
すなわちパウロが言います。「御霊によって歩みなさい」「目を覚ましていなさい」。それは、あなたはその中にもう置かれているのだ、ということを認めなさい、理解しなさい、認識しなさい、ということです。
そして周りにある教えを吟味し、識別し、避けなさい。何でも受け取ってはいけません。人間中心主義の祈りを受け取ってはいけません。それは御霊を消すことです。
ペテロは言っています。パウロの書いていることは難しい。しかしそれを曲解して誤読し、自ら裁きを確定させる者たちがいる。あなたもそうなる。だから逃げなさい。識別しなさい。
聖書は神の息吹です。神が息吹き、選ばれた人々に与え、預言者を通して語られたものです。
だから教会は選ばれた者の集まりです。何でもかんでも混ぜてしまって、教会の交わりを崩してはいけない。伝道は伝道、教会は教会。切り分けるべきです。
祈ります。
愛する天の父なる神様。
私たちが本当に受けているこの恵みの素晴らしさを感謝します。
私たちが、永遠のあなたの御座と現在、そして永遠の未来までも、イエス・キリストにあって結ばれていることを感謝します。私たちが、この方によって永遠の命の源泉から湧き出る水に生かされていることを、心から感謝します。
私たちは永遠は遠すぎて見えません。しかし私たちはあなたが示された御子を見ます。十字架につけられたイエス・キリストの死を見ます。そこに私たちが共に結ばれ、共に死に、共に蘇ること。十字架の御子と私たちが一つであることを、心から感謝します。
愛するイエス・キリストを通して、感謝してお祈りします。アーメン。
