罪・死・律法の支配から、キリストの支配へ移される構造変革
- 4 日前
- 読了時間: 7分
2026.6.7 豊川の家の教会礼拝メッセージ
"そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。"コリント人への手紙 第一 15:54~57
「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。
神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」
死は単なる肉体の終わりではない。罪によって人を刺し、律法によって罪を有罪として確定し、人を神の裁きの下に閉じ込める支配構造である。罪とは単に悪い行いだけではない。
神から離れ、神なしで存在しようとする人間全体の状態である。アダムの堕落によって、罪は世界の中に支配構造として入った。
罪について
聖句の整理と正しい理解はローマ書から
ローマ5章12節は言う。
"こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──"
この聖句は罪が歴史的にどのように世界に入ったのかを説明する、単に人間の中に罪が入ったというだけの話しとして捉えてはならない。神中心の秩序から、罪の支配の秩序構造へと、世界全体が転落したという構造の変革であった。本来、人は神との交わりの中に置かれていた。神がいのちの源であり、人は神に従い、神の光の中で生きる者として造られていた。
【本来の秩序】
神 → 神との交わり → いのち → 義 → 従順
しかし堕落によって、この秩序は破壊された。
【堕落後】
神からの断絶 → 罪の支配 → 死 → 腐敗 → 神への敵対
罪とは、外側についた汚れではない。思考、意志、感情、行動、人間関係、世界の見方、そのすべてを支配するのである。
ローマ5章は「一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入った」という原罪・アダムから始まる歴史的説明である。しかし、今の世界を見たとき、すべての人はすでに死の支配の中に生まれている。だから現実には、人は罪を犯すから死ぬのではなく、すでに死んでいるから罪を犯す。エペソ2章は、「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた」のであってと言う。ここではアダムの話ではなく、現在の人間の状態が語られている。
その意味で、この世に生まれた人は、初めから神から分離されている、死の支配下にある、神に敵対している、律法の下で有罪である。という状態に最初から置かれている。
聖書は人間を「罪の奴隷」「罪の中に死んでいる者」「肉にある者」「アダムにある者」と語る。その意味において罪は部分的な欠陥ではなく、存在全体を支配する力である。
死について
死とは、単なる肉体の死ではない。根本は神との断絶である。神がいのちの源であるなら、神から切り離されることは、いのちから切り離されることである。これが霊的死である。そしてその結果が肉体の死である。
霊的死とは、神のいのちから切り離され、「神を求めず、神を愛せず、神に従えず、むしろ神に敵対している状態」である。すでにこの世は死の支配の下にある。
ローマ8章7節は言う。 「肉の思いは神に敵対するからです。」
すべての人は死んでいる。死の支配の下にある人間、すまわち、神から離れている人間は自分を中心に置く。自分で義となろうとし、自分で自分を守ろうとし、自分で自分を満たそうとする。それを聖書は「肉の思い」と言う。それは神と敵対する。その結果、人間の内側から、絶えず、個々の罪、すなわち、空虚、欲望、自己憐憫、偶像、自己義認が噴き出す。これらは、死の支配の下にある人間から現れる罪の実であり、その背後には「死のとげは罪、罪の力は律法」という構造がある。
律法について
律法は人を救うために与えられたものではない。律法は罪を明らかにし、有罪を確定する。律法の前で、人は神を愛せない者、神に従えない者、自分で生きようとする者であることを暴かれる。
【律法の構造】
死→ 罪というとげ → 律法による暴露 → 律法による有罪確定
ここで大切なのは、Ⅰコリント15章では文の主体が「死」であることだ。「罪は、死が人を刺すためのとげ、武器として語られている」。そして「律法は、その罪の力を確定」する。「死は、罪のないところでは支配権」を持てない。「死が人を支配する法的根拠は罪」である。「律法はその罪を暴き、有罪として確定」する。
だから「罪の力は律法」である。
この構造の中に、人間は完全に閉じ込められている。死の支配の下にある人間は神から分離されており、律法がその分離と反逆を有罪として確定し、死がその有罪判決の結果として支配している。 これが罪と死と律法の構造である。
しかし福音は、この構造のただ中に現れる。福音とは、罪の支配の中に死んでいた者を、神がキリストとの結合において新しい創造として生かされることである。救いとは、単に罪を赦すことではない。あなたの正しい人になると言う決意ではない。感情的な反省ではない。神が行う構造的な変革である。選ばれた神の民を罪と死の支配から、キリストの支配へ移されることである。
「神は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」コロ1:13
アダムにある構造はこうである。
アダム → 罪 → 死 → 呪い → 滅び
キリストにある構造はこうである。
キリスト → 義 → いのち → 和解 → 栄光
キリストは、選ばれた者に代わって神の怒りをすべて受けた。十字架で罪を負われた。律法の呪いを受けられた。死に入られた。そして復活によって死を打ち破られた。キリストは、罪を処理し、律法の要求を満たし、死の支配を打ち破られた。だから、死のとげは力を失った。罪はキリストにおいて処理された。律法の呪いはキリストが受けられた。死は復活によって勝利を失った。
だからパウロは宣言する。
"そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
"この箇所でパウロは、復活の完成において何が起こるのかを語っている。
「朽ちるべきものが朽ちないものを着る」とは、復活のからだを受けることである。「死ぬべきものが死なないものを着る」とは、死の支配そのものが終わることである。その時、イザヤ25章8節の「死は永久に吞み込まれる」という預言が完全に成就する。
そしてパウロは、死の正体を説明する。死は単なる肉体の死ではない。死は罪によって人を刺す。罪とは単なる悪い行いではなく、アダムにおいて人類全体に及んだ神への反逆の状態である。しかし罪は律法により、その罪が罪としてさらに明らかにされる。律法が罪を暴き、罪を有罪として確定し、神の裁きを宣告する。
死の支配の法的根拠は罪であり、律法はその罪を有罪として確定する。そのため死は裁きの支配者として人を捕らえる。
死の力の背後には罪があり、罪の力の背後には律法がある。ところがキリストは十字架において罪を負われ、律法の呪いを負われ、死を味わわれた。そして復活された。そのため、キリストと結ばれた者に対しては、罪の有罪宣告は取り除かれ、律法の呪いは終わり、死は最終的支配者ではなくなったのである。
だからパウロは、「しかし、神に感謝します」と言う。感謝の対象は人ではない。信仰者の決断でもない。努力でもない。神が、主イエス・キリストによって勝利を与えてくださったのである。主語は最初から最後まで神である。そしてこの勝利は、信仰者が将来獲得する勝利ではない。キリストの復活によって既に確定した勝利である。
だから信仰者は、今日、なお死を経験し、苦難を経験し、肉体は衰える。しかしそれは最終的敗北ではない。なぜなら復活の日に、罪は完全に除かれ、律法による有罪宣告は存在せず、死そのものが滅ぼされるからである。
パウロが見ている中心は、人がどう勝つかではない。神がキリストにおいて、罪と律法と死を打ち破られたという救いの完成である。罪の支配から、キリストの支配へ。神の怒りから、キリストにある神のあわれみと恵みへ。罪の責任から、キリストにある義へ。アダムにある滅びから、キリストにある栄光へ。すべては神の御業による構造の変革である。
すべては神の御業である。神は、キリストにあって選ばれた者を永遠に御子に結びつけ、その結合を源泉として、キリストの十字架の死と復活にあずからせている。そして時間の中で再生、信仰、悔い改め、聖化を与え、ついには栄化に至らせられる。救いのすべてがその源泉から溢れ流れ出している。
栄光は神にのみある。
以上
