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試練を軽く扱わない

  • 6 日前
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2026.5.27 The Word for you

 それでは始めます。今日のテーマは、「試練を軽く扱わない」です。

ヤコブの手紙1章12節を読みます。

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」


 救いは、信仰義認によって、キリストの義のみによる。これは救いの土台であり、そこには差はない。神が救われた者を義と認められる根拠は、ただキリストの義のみである。信仰者の忠実さでも、忍耐でも、従順でもない。ただキリストの義によって義と認められる。

 しかし聖書は、救われた者、義とされた者の地上の歩みには差があると言っている。同じ試練の中で、神の慈しみと恵みとして砕かれ、御霊によって主に従わされていく者がいる。一方で、同じ試練の中で逃げ、自己憐憫に沈み、肉を正当化する者もいる。ここに、天における報いの差がある。

 

 報いとは、救いの条件ではない。救いは、ただ神の恵みによって、キリストの義によって、無罪と宣言されることである。しかし報いとは、神が、救われた者の地上での忠実、忍耐、従順を、永遠において無意味にされないということである。報いとは、神が信仰者の地上での困難の中における忠実、忍耐、従順を、永遠に無意味にされないということである。


 だから、試練から逃げるということは、単に「辛いから避けた」ということでは終わらない。辛いから逃げた。嫌だから逃げた。痛いから逃げた。それは、神が与えられた砕き、従順、神に仕える機会、神に従う機会を軽く扱ったことになる。


 逆に、試練の中、困難の中、苦しみの中で、信仰者が神に頼らざるを得ない位置に置かれ、その心に神を頼る心が与えられ、その中で主に従わされるなら、その苦しみは神が覚えてくださる。その苦しみは全く無駄にならない。なぜなら、そこには御霊の実が現れるからである。


 救いはキリストの義。報いは、救われた者の歩みに対する神の永遠の評価である。だから絶対に間違えてはいけない。これは救いを失うという話では全くない。聖化と救い、報いと信仰義認の区別がつかなければ、この聖書の啓示は理解できない。


 ここでの試練は、信仰者のうちに、神が忍耐を、従順を現される場として語られている。ヤコブはこう言っている。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」ここに神の永遠の評価がある。ここには報いの要素がはっきりある。報いが何であるかがはっきり見える。


 間違ってはいけないのは、人間中心でこの部分を切り取って読むと、「自分が頑張って耐え抜く」という話になることである。しかしこれは人の功績ではない。原則はすべて神の御業である。しかし「神の御業」と言った時に、まだ人間中心の人は、「私は何もやらなくていい。神が変えてくれる」と取る。


 ここは非常に間違えるところである。人間中心は絶えず御言葉を曲げて取る。「耐え抜く」「良しと認められた人」ということを、自分が頑張って耐え抜き、神に認められるという話にひっくり返す。ところが、救いはすべて神の御業である。そうすると今度は、「救いはすべて神の御業だから、私はできません。神が私を変えてくれる」と言う。人間中心の人は、両側にひっくり返る。


 パウロはこう言う。「それぞれ自分自身の働きに応じて、自分自身の報酬を受けるのです。」第一コリント3章8節である。また第一コリント3章14節では、「もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます」と語る。ここは聖化の話に入っていく。そして続けてパウロはこう語る。「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」第一コリント3章15節である。


 ここでパウロは、「損害を受ける」ということと、「その人自身は火の中をくぐるようにして助かる」ということを同時に語っている。つまり、報いを失うこと、聖化の実りを失うこと、その歩みが永遠に残らないこと、それが「損害を受ける」という意味である。聖化の実りを失う。聖化の機会を逃してしまう。これが報いを失うことである。聖化の実りとは、愛、希望、信仰、そのような御霊の実のことである。そしてそれが消えてしまうということである。


 しかしパウロはこう言う。「その人自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」人間中心の思考を持っている私たちは、これを曲解する。ここの「火の中をくぐるようにして助かる」というのは、真の信仰者のことを言っている。どこかの違った宗教団体の人のことを言っているのではない。ここは真の信仰者の話である。真の信仰者が、聖化による御霊の実を生むか、生まないかの話をしている。


 その建てた建物というのは、御霊の実であるか、苦しみと困難を通りながら神に従っていく歩みであるかによって分かれる。しかし、「その人自身は火の中をくぐるようにして助かる」というのは、キリストという土台、義認、イエス・キリストとの結合、神の主権によるキリストという土台は決して消えず、永遠に保障されているということである。だから救いそのものは残ると言っている。これが神中心に読む聖書の読み方である。


 ここで明らかなことは、土台はイエス・キリストであるということである。その土台に立つ選ばれた者たちは救われる。しかし、その上に何を建てたのかは、神の前で明らかにされる。金、銀、宝石で建てたのか。木、草、藁で建てたのか。金、銀、宝石とは、神の前に価値あるものである。すなわち、キリストの御性質である。それは苦しみを通って、困難を通って、その中で神により、キリストが唯一の希望であるという心が与えられ、その源泉から現れてくる。すなわち、イエス・キリストとの永遠の結合が、時間の中で現れてくるのである。それが新しい創造である。それが愛によって働く信仰である。


 しかし、木、草、藁とは、神の目に無価値なものである。それは、勝手気ままな礼拝であり、自分中心の礼拝であり、自分中心の行いであり、神から離れた罪である。そしてその日、神は火とともに現れ、それらのものが試される。

 だから聖化は完全に神の御業である。しかし、その神の御業は、人間の責任を決して消さない。「神がすべてやってくれる。私にはできません。」昨日、どこかの荒野に行った人がいるが、その人の証の問題は、「私にはできない。だから神がやってくれる」というところに、自分の責任が隠れてしまっていることである。


 神は、御霊によって信仰者を従順に導かれる。もう少し言うと、信仰者は従わされる者であると同時に、従う責任を負う者である。すなわち、以前にも学んだように、ここを忘れてはいけない。それは、神が志を与えられるということである。神が働かれて、志を与えられるのである。


 ここを人間中心主義で無視して、「神がすべてやってくれる」と願う。しかし神は、すべての責任を信仰者から消されない。神は信仰者に責任を与えられる。なぜなら、志を神がその信仰者に与えられるからである。志は、神がその人のうちに働いて与えられる。


 自分の子どもが障害を持っている。そして夫も家族も私を助けてくれない。その中において、信仰者には「自分にはできない」という思いが働く。その信仰者には母親の問題もある。そのような重圧の中で、神はその信仰者を導いておられる


 しかし、その信仰者が忘れていることがある。それは、神がその信仰者の心に志を与えられるということである。その信仰者に与えられた志は、「私は決してあなたを見捨てない」という志である。そしてその信仰者に与えられた志は、「この障害を持つ子どもを社会にちゃんと送り出す」という志である。それは神が働かれて与えられた志である。


 その信仰者は、とっくにそんなことを諦めていた。この子は大きくなったら施設に入って、薬漬けにされ、社会から隔離され、出ても犯罪者になる。それぐらいしかないと思っていた。しかし神は、この信仰者に、「この子は社会に出る。この子は社会で隔離されない」という志を与えられた。そしてその中心のど真ん中には、「私は決してあなたを捨てない」という神の御業がある。


 信仰者は、神の御業に服する責任を負う。ピリピ人への手紙2章13節は核心である。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」


 順序は、神の御業、神の働きによる志、従順、御霊の実、そして報いである。これは人間中心主義ではない。信仰者の責任は、神の御業から切り離された自力ではない。自力ではない。神が内に働かれるから、信仰者は責任を持って従っていくのである。


 毎晩、責任をもって、そのだらしない夫とミーティングを持ち、今日の反省をするのである。そして課題を見つけるのである。その信仰者もいつか疲れ、弱る時がある。その時に牧師が来て、信仰者を叩く。「忘れるな。神の志を。」その牧師も、ずっと寄り添いながら、二年半もの間、「忘れるな、忘れるな」と言い続ける。

神が与える試練から逃げる者は、救いの土台を失うという話ではない。しかし、御霊によって現されるはずだった実、忍耐、従順、愛、奉仕、そしてその子どもの将来の機会も失うのである。


 それはすべての人に言える。あなたがたが不従順となり、試練から逃げる時、あなたはただ苦しみから逃げていると思う。「私にはできない」と思う。しかしあなたは大きな間違いをしている。御霊によって現されるはずだった神の御業を拒み、自分の安全地帯に入って、自分は安全だと思った時、神が現されるはずだった実、忍耐、従順、愛、奉仕、その機会を失う。


 これは恵みを安く見ているからである。これは、試練の背後にある神の驚くべき恵みを安く見る発想であり、肉であり、罪である。ある人はこう言う。「私は試練は嫌だけど、天国に入れればいい。」この発想は、救いを保険のように扱っている。神の栄光、キリストへの忠実、御霊による聖化、神に喜ばれる歩みを軽く扱っている。


 救いは、報いを受けるための取引条件ではない。救いは、「私は単に天国に入れればいい。後の聖化はいらない。報いもなくていい」というものでもない。それは全く分かっていない。しかし、このような偽物の考えは、その人の実、忍耐、従順、愛、奉仕をすべて失っていることを示す。


 しかし、真に救われた者は、報いを軽んじない。報いを軽んじないというのは、神から与えられた志を大切にするということである。自分の名誉ではない。神が与えたその志、神が与えた恵みの実を、神が覚えてくださるということである。だから本人は、自分の功績としてそんなことを意識しない。しかしその人の内にある、「私は決してあなたを捨てない」「この子を捨ててはいけない」「この子を社会に出す」という志は、その人の奥底まで届いている。だから捨てられないのである。


 だから、「報いがなくても天国に入れればいい」という言葉は、本当に汚い肉の言葉である。正しく言えばこうである。救いはキリストの義だけで十分である。しかし、救われた者は、神が与えた試練、従順、奉仕、愛を決して軽く扱わない。神が与えた試練を軽く扱って、投げ捨てないのである。


 報いを求めるということは、人間中心の功績を求めることでも、宝を求めることでもない。神が備えられた御業を軽く扱わないということである。すなわち、試練を軽く扱わないということである。なぜ、あなたは神の慈しみと恵みだと言いながら、逃げて投げ捨てるのか。


 今、試練の中に置かれている信仰者。私は、これはすべての真の信仰者に言えることだと思う。その人は、無意味な苦しみの中にいるのではない。それを分かってもらいたい。神はその試練の中で肉を砕かれる。神はその試練の中で自己憐憫を暴かれる。その汚さを暴かれる。神はその試練の中で、キリストに頼らざるを得ない心を与えられる。神はその試練の中で、御霊によって忍耐を現される。


 だから、神の慈しみと恵みを軽く投げ捨ててはならない。試練を軽く扱ってはならない。あなたは自分のしていることが分かっていない。あなたは試練を蔑む。なぜ、神の慈しみと恵みをそのように投げ捨て、蔑み、嫌うのか。逃げてよいものとして扱ってはならない。なぜ、あなたは試練の前で自己憐憫に沈み、自分の肉を正当化するのか。


 神が与えられた試練の中で、御霊によって歩かされること。神が置かれた場所で、主に従わされること。それは、あなたの心に与えられた志から、神が働かれるということである。神はあなたの心に働いて志を立たせる。だから、その志を否定してはいけない。


 その歩みは、地上では小さく見えるかもしれない。あなたの人間中心主義にとっては、小さく見えるかもしれない。苦しみの中では、何も残っていないように見えるかもしれない。しかし神は覚えておられる。永遠に覚えておられる。神が与え、神が支え、神が忍耐させ、神が実を結ばせ、神が報いてくださる。


 神は、「私の慈しみと恵みは、あなたのいのちの日の限り、あなたを追っていく」と言われる。だから試練の中にある真の信仰者よ、救いの根拠は、あなたの耐え抜く力ではない。救いの根拠は、イエス・キリストの義である。しかし、そのキリストに結ばれている者の歩みを、神は尊く見ておられる。とても尊く見ておられる。


 神が与えられた試練を軽く扱わず、御霊によって歩かされるのである。主は言われる。「私に従いなさい。私が備えた御業を軽く扱ってはならない。」


 救いはキリストの義のみである。そして報いは、救われた者の歩みに対する神の永遠の評価、神の永遠の喜びである。あなたが御霊によって歩く時、神は喜ばれる。従順、忍耐、希望、愛は、神があなたのうちに新しく創造されたものだからである。


 従順、忍耐、希望、愛。神があなたのうちに新しく創造されたものである。神は言われる。「私の慈しみと恵みは、あなたを追っていく。」だから、神の慈しみと恵みを決して軽く扱ってはならない。神の慈しみと恵みを、最悪なもの、要らないもの、ごみのように扱ってはならない。それは、救われていない者、また神の恵みを知らない真の信仰者の行いである。


 パウロは言う。「御霊に満たされなさい。御霊によって歩みなさい。」神の慈しみと恵みを感謝しなさい。試練の中にある真の信仰者よ、あなたの救いはキリストの義である。しかし、キリストに結ばれた者よ、あなたの歩みを神は尊く喜ばれる。だから、神が与えられた試練を軽く扱うな。御霊によって歩みなさい。御霊に満たされなさい。


 栄光は人にはない。あなたに「よくやった」と誇れるものは何もない。あなたには、自分が神に貢献できるものは何もない。栄光は神のみにある。そして神は、あなたの歩み、試練の中にあるあなたの歩み、御霊によって歩かされるその歩みを喜び、それを高く評価される。そしてそれが、神があなたに与える報いである。それは永遠に消えることがない。


 だから、神の報いを、あなたは人生の中で大切に受け取っていきなさい。


では、お祈りします。

 天の父なる神様。私たちの試練の歩みが、このように尊く、深く、あなたの御前に覚えられるものであることを心から感謝します。苦しみ、悲しみの中にある信仰者の歩みを、主よ、あなたは大切に、また喜んで見てくださいます。その歩みを、高価で尊いものとして見てくださいます。私たちは、どれほどあなたの慈しみと恵みを誤解し、軽く扱い、冒涜してきたことでしょうか。主よ、どうか私たちの愚かさを赦してください。従順、忍耐、希望、愛。あなたが私たちのうちに新しく創造されたこの恵みを感謝します。あなたの慈しみと恵みを通して、私たちのうちに創造された、愛によって働く信仰を心から感謝します。あなたは今も言われます。「御霊に満たされなさい。御霊によって歩みなさい。」主よ、栄光はあなたのみにあります。イエス・キリストの御名によって感謝して祈ります。アーメン。


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