top of page

罪の中で死んでいる構造、そしてキリストとともに生かされる構造

  • 6 日前
  • 読了時間: 9分

2026.5.24 豊川の家の教会礼拝メッセージ

“あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むままを行い、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かし、あなたがたは恵みによって救われたのです。”

エペソ人への手紙2章1〜5節

 

 福音が、救いの全体構造の照明で与えられていることは、とても重要である。なぜなら、単独の聖句だけを切り取ると、いくらでも人間中心に曲げられるからである。「信じなさい」だけを切り取れば、信仰が人間の決断に見える。「悔い改めなさい」だけを切り取れば、悔い改めが人間の努力に見える。「従いなさい」だけを切り取れば、救いが人間の行いに見える。しかし聖書全体の福音構造で見るなら、そうならない。

 

“神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。”

エペソ人への手紙1章4節

 

 神が選ばれる。神が召される。神が再生される。神がキリストとともに生かされる。神が信仰と悔い改めを与えられる。神が聖化される。神が保たれる。神が完成される。

 

“あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神の賜物です。”

エペソ人への手紙2章8節

 

 だから、福音が救いの全体構造の照明で与えられていない者は、聖句を使っても福音を壊す。偽りの教えは、聖句を使う。しかし、その聖句を神中心、キリスト中心、救いの構造の中で読まない。人間の決断、人間の努力、人間の体験、人間の成功へすり替える。

 

“こういう人たちは偽使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。”

コリント人への手紙 第二11章13節

 

 だから偽りの教えの問題は、聖句を使っているかどうかだけでは判断できない。問題は、その聖句が、神の主権、キリストとの結合、罪の中で死んでいる人間、キリストとともに生かされる救いの構造の中で語られているかどうかである。

 

 偽りの教えは、福音の言葉を使いながら、中心をすり替える。恵みを人間の可能性にすり替える。信仰を人間の決断にすり替える。悔い改めを人間の努力や反省感情にすり替える。御霊の働きを人間の体験にすり替える。聖化を人間の改善にすり替える。キリストとの結合を、人間の宗教的熱心にすり替える。肉によって歩く者の姿である。

 

 したがって、識別とは、表面の言葉を見ることではない。聖句の量を見ることでもない。語りの熱心さを見ることでもない。主語が神であるか。救いの源泉がキリストとの結合にあるか。罪人が死んでいる者として語られているか。救いが神の憐れみによって、キリストとともに生かされることとして語られているか。ここを見ることである。

 

 福音が救いの全体構造の照明で与えられているとは、神が信仰者に聖書を単語で読むことをさせないことである。聖句を切り取って読むことをさせないことである。偽りの教えの識別は神の主権、キリストとの結合、罪の中で死んでいる人間、キリストとともに生かされる救いを、一つの全体として与えられている信仰者のみへの神からの賜物である。だから、福音が救いの全体構造の照明で与えられているとは、神が神の主権、時の初め、キリストとの結合、十字架、罪の中で死んでいる人間、キリストとともに生かされる救い、永遠の御国、完成を一つの全体構造の理解として信仰者の信仰に結びつけることである。

 

 エペソ2章は、ただ「人間は罪人である」と言っているだけではない。この聖句が示している中心は、キリストである。人間が罪の中に死んでいること、神が憐れまれること、キリストとともに生かされること、この全体が一つの救いの構造として語られている。だから福音は、1つの節を切り取って理解することではない。断片で理解することではない。「罪」「救い」「信仰」「悔い改め」「恵み」という言葉を一つずつ切り離して説明しても、福音の中心は見えない。それらはすべて、キリストを中心とする救いの全体構造の中で意味を持つ。

 

 罪の中で死んでいる構造を見る。聖書は、人間を「悪いことをする存在」として語る前に、「罪の中に死んでいる存在」として語る。つまり罪は、ただ行動の問題ではない。罪は存在の構造である。

 

“義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。”

ローマ人への手紙3章10〜11節

 

 人は、神と罪の真ん中に立って、どちらへ行くかを自由に選ぶ存在ではない。アダムにあって堕落し、神から離れ、罪と死の下にある者として現れる。

 

“こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死がすべての人に広がったのと同様に――”

ローマ人への手紙5章12節

 

 だから人は、罪を外側から選ぶ前に、すでに罪の中にいる。魚が水の中にいるように、堕落した人間は罪の中にある。だから怒り、高ぶり、隠し、奪い、ごまかし、自分を守る。それは毎回「罪を選ぼう」と決めているからではない。罪の中に死んでいるからである。

 

 死んでいるとは、神へ向かわない構造である。神を愛さない。神を求めない。神に従わない。むしろ自分を中心にする。ここで人間中心主義は、人間を選択の主体として置き、「最後は人が決める」と言う。しかし聖書は違う。人は罪の中に死んでいる。だから罪人であることも、滅びの下にあることも、人が自分で支配しているのではない。人間はアダムにあって堕落し、生まれながら御怒りを受けるべき子として現れる。これが罪の構造である。

 

 次に、この罪の構造の中で、救いの構造が明らかになる。エペソ2章は、「しかし、あわれみ豊かな神は」と語る。ここで主語は完全に神である。死んでいる者は、自分で生き返れない。罪の中に死んでいる者は、自分で神へ向かえない。だから救いは、人の決断から始まらない。神の憐れみから始まる。神が、死んでいた者へ向かわれる。神が、背きの中に死んでいた者を、キリストとともに生かされる。

 

“だれも、わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、わたしのもとに来ることはできません。”

ヨハネの福音書6章44節

 

 ここで重要なのは、救いの中心がキリストであることだ。神は、罪の中に死んでいた者を、ただ「助けた」のではない。キリストとともに生かされた。つまり救いは、単なる助けではなく、キリストとの結合において与えられるいのちである。キリストなしに救いはない。キリストなしに再生はない。キリストなしに信仰も悔い改めもない。神は、罪の中に死んでいた者を、キリストに結びつけて十字架のキリストとも死につけ、キリストとともに生かされる。この構造を外すと、福音はすぐに人間中心になる。

 

“私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。”

ガラテヤ人への手紙2章20節

 

 だから信仰も、救いの原因ではない。信仰は、神が生かされた者に現れる実である。「信じたから生きた」のではない。神がキリストとともに生かされたから信じる。悔い改めも同じである。人が自分の力で悔い改めを作るのではない。神が罪を照らし、高ぶりを砕き、キリストへ向かわせられる。だから信仰も悔い改めも、キリストとともに生かされる構造の中で現れる。

 

“神は、異邦人にもいのちに至る悔い改めをお与えになったのだ。”

使徒の働き11章18節

 

 この構造で見る時、十字架の意味も明らかになる。十字架は、人間にチャンスを与えるためではない。罪の中に死に、神の怒りの下にある者を、神がご自分の民として救うためである。本来、裁かれるべきは罪人である。しかし神は、御子に裁きを負わせられた。だから十字架は、人間の罪の深さを示す。神の御子が死なれるほど、人間は罪と死の下にある。そして同時に、十字架は神の恵みの大きさを示す。神は、罪の中に死んでいた者を、キリストとともに生かされた。

 

“神は、罪を知らない方を、私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。”

コリント人への手紙 第二5章21節

 

 御霊に満たされることも、同じく構造である。御霊に満たされるとは、神が御霊によって、キリストとともに生かされた者を支配される神の御業である。

 

“酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。”

エペソ人への手紙5章18節

 

 そして神は、その御業を試練の構造の中で現される。試練は1つの不運な出来事ではない。試練は神が時の始まる前、御心により、すべてご計画された福音の全体構造にある。試練の構造は、神が、救われた者のうちに残る肉、自分で立とうとする心、自分を守ろうとする心、自分を義としたい心を暴かれる、砕かれる場である。試練、砕き、痛みは神のいつくしみと恵みであり、信仰者のいのちの日の限り信仰者を追ってくる。それは信仰者を肉の思いからキリストに戻し、とどめ続けられる神の守りである。

 

"たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。"

 神は試練を通して、痛みや苦しみを取り除くのではなく、罪の中で死んでいた者がなお自分を頼ろうとする肉を砕き、キリストだけが義であり、キリストだけが最後の望みであり、キリストだけがいのちであることを示される。そして御霊は新しい創造をもたらす神である。

“だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。”

コリント人への手紙 第二5章17節

 

 神は摂理、試練の構造の中に信仰者を置かれ続けられる。御霊なる神はその働きによって信仰者にキリストに頼らざるを得ない心を与えられ、キリストに頼らざるを得ない心によって心を満たしていき、肉の思いは砕かれる。これが御霊に満たされる構造である。

 

 だから、福音の中心は、人間の汚さを単独で語ることではない。罪の中で死んでいる構造を語り、その死んでいる者を、神がキリストとともに生かされる構造を語ることである。人は、罪人であることを自分で選んだのではない。アダムにあって堕落し、罪と死の下にある者として現れる。そして人は、救いも自分で選び取るのではない。神が、あわれみのゆえに、キリストとともに生かされる。それは、神の永遠のご計画である。

 

“神は、あらかじめ知っていた人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定め……お召しになり……義と認め……さらに栄光をお与えになりました。”

ローマ人への手紙8章29〜30節

 

 人間は、罪を外側から選ぶ中立的存在ではない。罪の中に死んでいる存在である。そして救いは、死んでいる者が自分で神へ向かうことではない。神が、その死んでいる者を、キリストとともに生かされることである。だから福音は、その構造から、決して人に栄光を与えない。

 

“わたしは主。これがわたしの名。わたしはわたしの栄光をほかの者に与えない。”

イザヤ書42章8節

 

栄光は神にのみある。

 

以上。

​お問い合わせはこちらから

bottom of page