恵みの商品化
- thewordforyoujapan
- 2025年12月20日
- 読了時間: 14分
2025.12.17 The Word for you
今からは「恵みの商品化」というテーマで、マタイの福音書10章7、8節、そして第一テモテ5章17、18節を読みます。
テーマは「恵みの商品化」です。
「行って、『天の御国が近づいた』と述べ伝えなさい。
病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに侵された者をきよめ、
悪霊どもを追い出しなさい。
あなたがたは、ただで受けたのですから、ただで与えなさい。」
(マタイの福音書10章7~8節)
次に、第一テモテ5章17、18節。
「よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。
みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。
聖書に『脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない』、また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と言われているからです。」
(第一テモテ5章17~18節)
このマタイ10章7、8節と第一テモテ5章17、18節。今日はこの部分を、文脈と神学構造を見ながら講解します。
1.マタイ10章の文脈と核心
まず、マタイ10章の文脈と核心を簡単に説明します。
このみことばは、十二弟子が派遣説教の中で語られています。彼らはイスラエルの失われた羊に派遣され、王国の接近の宣言を受けます。そしてその中に伴って、癒し、解放、清め、悪霊追放が起こっています。
ここでイエス様は、**神の国の到来を証明する「しるし」について語っています。イエス様はそのしるしについて、「ただで受けたのであるから、ただで与えよ」**と言っています。
このしるし、そしてこの贈り物は、真の救いが神の贈り物である、すなわち、神からの贈り物はフリーギフトであるということを意味しています。
ですから、「ただで受けた」「ただで与えよ」の意味は、こうなります。
2.「ただで受けた/ただで与えよ」の意味
イエス様は禁じられています。何を禁じているかと言ったら、神の恵みを対価取引に用いるな、ということです。
• 教会はビジネスではない
• 恵みを商品化するな
• しるしを努力や報酬の根拠にするな
イエス様のこの「ただで受けた、ただで与えよ」という御命令は、
• 神の恵みは無償である。
• それは無償であり続け、誰も売ったりすることはできない。
という宣言です。
主語は神です。
• 癒すのは神であり
• 生かすのは神であり
• 清めるのは神であり
• 悪霊を追い出すのは神である
すべて神です。
そして遣わされている十二弟子は器であり、これらの力の所有者ではありません。恵みはすべて神からの贈り物である。マタイの福音書10章7、8節で、イエス様はそう言っています。
ですから、恵みは永遠にただです。無償です。そしてそれは売ることはできない。ここがポイントです。
3.第一テモテ5章17、18節との混同禁止
次に、第一テモテ5章17、18節。ここを見ていきます。
マタイの福音書10章7、8節と、第一テモテ5章17、18節を混同することはいけません。全く意味が違います。
では、なぜパウロはこう言うのか。
第一テモテ5章17、18節。
「聖書に『脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない』、
また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と言われているからです。」
マタイの福音書10章7、8節は、御国の宣言と、それに伴うしるしが神の恵みであるということを、イエス様が語っています。
奉仕者、いわゆる教会、またキリストの御言葉を伝える奉仕者の人々に対して、
「彼らの生活の支援や報酬のことを“ただ”にしなさい」と言っているのではありません。これはとても重要です。
マタイの福音書10章は最初にも言った通り、
• 「天の御国を述べ伝えなさい」
• その宣言の中で、癒される人、死人が生かされる、ツァラアトが清められる、悪霊が追い出される
これらは全て、真理の宣言の後に、それを証明するために与えられているものです。これは一続きの派遣命令の中で語られています。
したがって、「恵みの贈り物」と言っている部分は、これを伝える人たちの
• 生活費
• 労働報酬
にはかかっていません。
御国の宣言と、真理を証明するために与えられたしるし、すなわち、信仰と恵み、福音の構造にあるすべての救いが、無代価で、無償で与えられるということを言っています。
4.奉仕者の生活費と報酬は神の秩序
それでは、真の信仰者、奉仕者の生活費、労働報酬は、どのように言われているのか。それは神の秩序にあることがわかります。
なぜなら同じイエス様は、ルカの福音書10章7節でこう言います。
「働く者が報酬を受けるのは当然です。
その家にとどまり、出される物を食べたり飲んだりしなさい。
働く者が報酬を受けるのは当然だからです。
家から家へと渡り歩いてはいけません。」
ここから分かるのは、マタイ10章8節、ルカ10章7節、そして第一テモテ5章17、18節。この意味に全く矛盾はありません。
• マタイ10章8節:教会はビジネスではない。恵みを売り物にするな。
• 第一テモテ5章17、18節:神の救いの秩序の中で福音を伝える者を支えなさい。それは教会の義務である。
この二つは、対象が全く違います。次元が違います。
5.人間中心主義という二つの歪み
恵みでなく、人間中心の思想と行いに、実はこの御言葉の二つは関係しています。
恵みではなく人間中心。それは、神の恵みが、人間の行為の業によって恵みとすり替えられるという現実が、教会の中で起こるということです。そして、そのとき恵みはもはや恵みではなくなる。
牧師が、「私は報酬は要りません」と言う。
自分の貧困の報酬美学、「私は貧乏だもん。神に仕えるという貧乏の報酬美学」のゆえに、彼は無償であるべきだと思う。
また、信仰者の人たちの中には、生活の貪欲から、「ただで得たんだから、ただで教えてくださいよ」と言う人たちがいます。
このような構造に立つとき、主語は神ではなく人に置き換えられて、結果として人間中心主義の構造になります。神の主権を無視して従わないということです。
結論から言うと、このような人々は、どちらも神が定めた秩序を否定しています。
もう一度言います。一方の牧師、御言葉を伝える側の人たちの中には、人間の徳、自分が作り上げた貧窮の中にある美意識によって自己を正当化する者がいる。もう一方の人々は、神の秩序を無視し、拒否し、「自分がお金を持っておきたいから、無償であるべきだ」という心を持っていく。それは、神が奉仕者に与えた権利を奪う。これが神が定めた秩序を破壊します。
一方は、教える側にいる自己義認の基準すり替え。もう一方は、アナニアのように、奉仕者の権利を自分の懐に納める人々。本当に僅かなものを納めるという行為がアナニアの命を奪いましたが、同じことが現代の教会の中に起こっている。
そのように、神の定めた秩序を自己義認に、偽りの信仰で上書きする。彼らは神の定めた秩序を拒否して、神の救いの恵みを人の行為にすり替えます。それは歪んでおり、歪んだ報酬を求めます。
6.「ただで受ける」と選び
なぜなら、神は恵みを「ただで受けるもの」に与えると言います。それはすなわち、恵みを選ばれた者に与える、ということです。
人間中心主義のまま読むと、「ただで受ける」ということが、ただの一般論になります。しかし「ただで受ける」には、選ばれた者と、選ばれていない者の区別があります。
「ただで受けたもの」、すなわち、時の始まる前に選ばれた者たちは、ただで選ばれたことを知っています。
なぜなら、あなたの意思はそこに関係ないからです。あなたが何か努力したわけじゃないからです。あなたが祈ったからでもないんです。
あなたは、永遠の時の中でイエス・キリストと永遠に結合されている中で選ばれた。それだけです。
なので、「ただで受ける」の本質は、永遠の時の始まる前に自分が選ばれたということを悟るものです。しかし、選ばれていない者、すなわち、「私が頑張った」「私は強い信仰を持っている」そのような考えは、私が主体になります。
その私が主体の考えは、選ばれていない、もしくは迷っている。彼らは恵みを行いにすり替える。
7.マタイ6章:肉の行いは取引通貨になる
マタイの福音書6章でこう言います。
「人に見せるために善行をしないように気をつけなさい。
そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。
……彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」
ここで、人間主体、人間が主語となる見方と、選びの見方を見れば、肉の行いの本質が、「人からの報酬を先に受ける心」であるということがわかります。
人に見せるために、人からの報酬を受ける心。それは神から出たものではありません。行いは人の評価を動機にします。行いは、人からすでに受け取った評価報酬です。肉の行いは、行いを取引可能な通貨に変えています。
例えば、福音を伝えるときに、相手の人の感情を害さないだろうかと相手の気持ちを先に入れて、
「あの人に言ったら、お父さんが、傷つくから私は言わないようにする。でも言わなかったら傷つく。だからこう言おう」
こういう取引条件が発生します。
相手の感情を先に置く。それは、人に見せるために善行を行うことだ、ということです。非常にトリッキーですけど、これが起こります。
聖書が一貫して語る構造をもう一度理解すれば、
肉は、
• 行いを積む
• 見返りを要求する
• 誇ろうとする
それは肉の性質、罪の性質そのもの。彼らは行いを売り買いする。これが肉。罪の性質です。
一方で、御霊による行いは、時の始まる前にあなたは選ばれたというところに立っています。神と永遠に結合している。それはあなたの行いによるということではない。そこに立ったとき、報酬は必要ありません。神に委ねる心があります。そして、あなたは何一つしていないので、栄光を神に返す。そのようなものとなっています。
8.第一テモテ5章17、18節は神の秩序として明示する
第一テモテ5章17、18節は、明確に神の秩序として明示しています。
• 長老の働き
• みことばと教えの労苦
• それに対する報酬、尊敬
「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」なぜか。牛は食べながら脱穀をしているからです。それが牛に対する報酬です。
「働く者が報酬を受けるのは当然である。」これは、人間の根拠ではなく、神の御言葉そのままです。
にもかかわらず、「長老は無償であるべきだ」という考えを持つなら、それは神が命じた秩序を否定しています。自分が考える清さ、謙遜、理想像を神より上に置いている。それは偶像礼拝。その人は、神から人へすり替えて、偶像に居座っている。そういう状態です。
9.長老が恵みの贈り物を「行動美学」に転嫁する危険
長老が恵みの贈り物を自分の行動美学にしていると考えてみてください。
長老が、本当の永遠の結合から、再生、信仰、悔い改め、そして義認、聖化、栄化、これを、「私が貧困だとカッコいいじゃん」とか、「パウロもそういう決断をしたから私もそうしていいや」とか、そういう方向に使う。
そもそも、恵みそのものが贈り物です。神の力は売買できないという神の秩序。しかし長老が、牧者が、奉仕する者が、「いや、私たちは無償であるべきだ」と言った瞬間、神が与えてくださる恵みの贈り物を人間の行いにすり替える危険性がものすごく高まります。
パウロがガラテヤ6章で、献金または報酬を取らないと言っているのは、彼には別の意味があります。戦略的な福音戦略における態度です。しかしそれは、第一テモテ5章の趣旨とは違う目的で言っていることを知る必要があります。
神が与えてくださる恵みの贈り物を人間の誇りに変える。
「私の生活が正しい」「清いから」
「貧しさを見せる」
「私の犠牲」「自己犠牲」
こうして私が主語になる。
そしてそれは行いです。売り物となって人の報酬を受けます。「あの牧師さんは本当に素晴らしい人ですね」
と人から褒められる。それは報酬です。
これは神の恵みの贈り物を、人間の行為で売り物を作り上げて売る行為。行いによる義の積み上げ。典型的な行いによる自己義認、そのままです。
10.二つの自己義認:無償の誇り/貪欲の搾取
「誰も支えを受けない自分は霊的に優れている」と思う者。またアナニアのように、自分の欲によって「出したくないから自分のところに入れておこう」とする者。
この二人の姿はどちらも自己義認構造にあります。
「無償で奉仕する長老は清い」という前提が生まれるとどうなるか。
教会内には必然的に、
• 支えを受ける長老は霊的に劣る
• 報酬を受け取るのは世俗的
• 無償=より聖い
という偽りと序列化と比較と誇りが発生する。この思想は教会を内部から破壊します。
これはキリストの義ではありません。自分の在り方、犠牲、態度によって自分を正当化する偽りの構造。
パウロが最も強く否定した自己義認、行いによる義の一形態です。
11.恵みを「行いで得られるもの」に変えてはならない
神の恵みを、行いで得られるものへ変えてはいけない。恵みは神からの無償の贈り物。神ご自身が守り、神の主権に属する。
しかし、無償で奉仕をすると恵みはさらに増す、より良い、より清い、という発想にたどり着くと、恵みの純粋性を人間の行動で得ようとする構造に変えていきます。
これは事実上、信仰は恵みと主張しながら、その実は、「私の信仰は強い」「私には素晴らしい信仰がある」と自我自賛している偽りの信仰の構造になります。
「信仰は恵みだ」と主張しながら、「私には信仰がある」「私は聖書をよく知っている」こうなっていきます。
神の恵みは、人が正しく振る舞うか振る舞わないかで保つことはできない。神の恵みは無償です。
12.まとめ:恵みの商品化は教会を破壊する
まとめます。
「長老は無償であるべきだ」という牧師側の主張や、信徒側のアナニアのような貪欲。この二人の思想は教会を破壊します。
なぜなら、神が定めた教会の秩序を退け、否定するからです。恵みの贈り物は、人の態度や犠牲、貪欲によってどうなるか。恵みの贈り物は消えます。代わりに、人が作った行為がそこに座ります。人が作ったものは売り買いの商品になっていく。
イエス様はこう言われた。「ただで受けたなら、ただで与えなさい。」
すなわち、恵みは、選ばれた者たちだけが受け取ることのできる命の水、対価なしに与えられるということを覚えてください。
そのような恵みの本質を、人間の行いと歪曲する。それは教会の中心、「主語は神」を神から人に置き換えることです。
恵みの贈り物、福音の救いの全工程を、人の美徳や人の貪欲の行為とすり替えていく。神の恵みを行為とすり替えて商品にする。
偽りの宗教の中で、あなたがたは多くの商品を見て買ってきました。しかしそれは、神が教会に置かれた奉仕者、真の福音を伝える者たちに対する秩序を破壊するので注意してください。それは自己義認です。教会にある福音の構造を内部から破壊する行為です。人間中心主義がどのようにして敬虔さの仮面をかぶるのか、ここにあります。
そして真の福音を伝える者を疲弊させ、困窮させます。信徒は行為を求め、恵みから目が遠くなる。そのような構造が教会内に広がります。恵みの贈り物は人間の作り物となるからです。
しかし神は、秩序を軽んじる教会を露呈させ、枯渇させ、裁きによって倒します。それは神がご自身の秩序を守るための処置です。
イエス様の命令は、御国の宣言と、それを証明するしるし、神の力は永遠に無償であり続けるという宣言。
そして福音の救いの全工程を、人間中心の行いの業にすり替えて、「恵み」という名で売り買いするな。これがイエス様の命令です。
13.命の水:黙示録22章1節
神の救いは、信仰を通して恵みにより、選ばれた人々のみに、代価なしに永遠に限りなく与えられるものです。それは永遠の結合を源泉としています。
黙示録22章1節でこう言います。
「御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て――」
アーメンです。命の水は永遠に、神と子羊の御座から川のように流れ続ける。神はキリストと、私たちが永遠の結合の中にいる、その中において、御座から川が、命の川が流れ続ける。限りなく、永遠に、永遠に限りなく、御座から流れ続ける。
誰も自分が誇ることがないように。
その永遠の流れは、あなたが頑張ったからでも、あなたが行いをしたからでもない。ここに絶えず戻ったときに、恵みは、神の秩序は、神が定めた通りになります。
教会の責任、それは人間中心、罪の性質に対して、私たちが逃げることです。偽りの謙遜、美徳を見抜いて、信徒の偽りの思いを見抜いて、この肉の性質から絶えず、神の主権に逃げる。
パウロはその上でこう言います。
「私が伝えたいことは、こうです。
わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。
一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。
神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」
(第二コリント9章6~7節)
「みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。」
(ガラテヤ6章6節)
すべては、神が恵みによって人を自由にし、その自由の中で、御霊の自由の中で、喜びをもって、心から与える者として用いられる。
神の御心はいつもそうです。「みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人とすべての良いものを分かち合いなさい」という言葉は、その現実を語っているみことばです。
神の恵みによって人を自由にし、その自由の中で私たちはそれぞれ、強いられてでもなく、嫌々ながらでもなく、心で決めたとおりに、良いものを分かち合っていく。それは、今後現れてくるすべての奉仕者に対して、私たちが持たなければいけない心です。
では、お祈りします。
祈り
愛する天のお父様、私たちのこのみことばに対する理解が、あなたの教えによって開かれたことを心から感謝します。私たちは心から思います。本当にみことばを教えてくれる人は、私たちにとってとても重要です。
そしてそれは、あなたが用い、私たちに与えてくださったことを感謝します。
そして、すべての良いものを分かち合うこと。今後現れてくるすべての奉仕者、この人たちとも、心からすべての良いものが分かち合えますように。決して人間中心主義の欺瞞に陥ることのないように。教会が破壊されることのないように。あなたが守ってください。
愛するイエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


