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啓蒙主義と教会:人間の理性を神に置き換える宗教

  • thewordforyoujapan
  • 2025年12月31日
  • 読了時間: 16分

2025.12.28 豊川の家の教会 礼拝メッセージ

1. 啓蒙主義とは何か

  「人間の理性を神に置き換える宗教」というタイトルで、どうして日本の多くの教会が人間主義的なキリスト教になってしまっているのか、また世界でも同じような傾向になっているのかを扱います。

 

 そこに一番大きく介在しているのは、啓蒙主義という教え、考え方、思想です。この啓蒙主義は、近代の日本の思想・経済・教育と大きく関わっています。

 

 まず「啓蒙」という言葉の意味について説明します。啓蒙の「啓」は「開く・悟す」という意味です。「蒙」は覆われて暗い無知な状態、つまり無知や迷信や古い習慣に覆われている状態を指します。したがって啓蒙とは、無知や迷信や古い習慣に覆われている人を、理性や知識によって目覚めさせるという意味になります。

 

 啓蒙主義というのは、辞書的に言えば、無知や迷信、古い習慣に覆われている人々が、理性や知識によって目覚めさせられる、というものです。日常では「知識を与える」「教えて理解させる」「近代的・合理的にする」というニュアンスで使われます。

 

 会社でも「啓蒙活動をしましょう」という言葉をよく使いますが、そこでは「無知」という言い方はせず、「古い習慣・しきたりを、知識や理性によって改革しましょう」という意味で使われます。

 

 しかし、西洋思想での啓蒙(Enlightenment)の本来の意味は、単なる教育ではありません。語源には「光で照らす」「闇から理性へ抜け出す」という意味があります。

 

 そこでイマヌエル・カントが定義した言葉が重要です。カントはこう定義しました。「啓蒙とは、人間が自ら招いた未成年状態から抜け出すことである。」

  ここで言う「未成年状態」とは、他人の権威、教会、伝統、神に依存して考える状態です。啓蒙とは、自分の理性で考え、判断し、結論することです。ここには明らかに「神」が絡んでいます。カントの有名な標語はこうです。「自らの理性を用いる勇気を持て。」

 

 啓蒙思想という言葉の革新的な意味は、単なる知識の普及ではありません。**判断の最終権威は神ではない。啓示ではない。伝統ではない。人間の理性だ。**という転換です。つまり「光」は神の啓示ではなく、人間の理性に置き換えられるのです。

 

2. なぜ啓蒙主義は宗教改革と違うのか

 

 啓蒙思想は宗教改革の時代と同時期に起こってきます。しかし両者はまったく別の方向を向いています。

 

 宗教改革は、ローマ・カトリックが聖書の言葉を独占し、自分たちの支配のためにねじ曲げ、無知な人々を作り、そこから利益を搾取していたことを批判しました。宗教改革は、神の言葉を回復する運動です。そして教会の権威を聖書に従属させる運動でした。当時ローマ・カトリックは、教会の権威の下に聖書を置き、聖書の言葉を変え、神の権威を教会の下に置きました。しかし宗教改革は、主語を神に戻す改革でした。

 

 一方、啓蒙主義はローマ・カトリックに対して、まったく違う角度から来ます。教会が神の言葉の上に立っていることを排除するだけではなく、さらに進んで、**神そのものを排除し、理性を最高権威に持っていく。そして聖書と神を理性の裁判台に置く。**つまりローマ・カトリックも含めて、理性によって裁くのです。主語は人間です。

  当時ヨーロッパには神権政治がありました。それに対する抵抗が二つあったのです。一つは「聖書への回復」。もう一つは「人間の理性を神と置き換える」。

  

 日本語の「啓蒙」には、教育・善意・進歩・開化という肯定的イメージがあります。しかし啓蒙という言葉の本質には、自己神格化、つまり自分を神にする/自分の理性を最終判断にするという意味が入っています。これを自覚せずに、私たちは無自覚に人間中心主義に入っていきます。

 

 まとめると、啓蒙とは「理性を光にし、権威を人間に移す思想」です。教育や説明の話ではなく、権威構造を転換する話です。啓蒙思想は、人間の理性を権威にし、神からそれを取り上げるのです。その根底には、ローマ・カトリックや神権政治への抵抗がありました。宗教改革も抵抗という意味では似ていますが、方向は真逆です。近代思想、文明改革、自由主義神学の基礎は、この啓蒙主義にあります。

 

3. 啓蒙主義の歴史的特徴

  啓蒙主義は17世紀から始まります。神権政治の抑圧の中で、庶民が考えることをやめ、ゾンビのように従う人間になっていることに対して、「考えなさい」「自分の理性で判断しなさい」「盲目的に従ってはいけない」というところから来ています。

 その結果、理性を最高権威として、啓示・伝統・権威・教会を相対化します。絶対視しません。神も否定しない場合がありますが、「一つの考え方」として相対化します。

 

 そして人間は理性によって世界を理解し支配できると考えます。真理は外から与えられるものではなく、人間が認識・判断するものだとします。代表的特徴として、神の主権は否定しつつも、存在は認め、神は「介入しない存在」として遠くに置かれます(理神論)。この世は因果律(因果応報)で説明され、主体は常に「考える人」です。

  ロダンの「考える人」は啓蒙主義の象徴とも言えます。啓蒙主義は「世界をどう理解するか」という認識論・哲学です。


 4. 日本における啓蒙主義の特徴(西洋との違い)

  西洋の啓蒙主義は、教会の権威、神の支配への批判でした。特にローマ・カトリック、またイギリス国教会など、国家が宗教によって民衆を支配していた構造への抵抗でした。

  幼児洗礼も、歴史的には国家が身分制度・共同体登録を統治する仕組みと結びついて、洗礼を受けなければ社会共同体で生きられないようにする形がありました。だから幼児洗礼が「必要」だとされる構造が生まれた、という背景が語られることがあります。

  西洋的啓蒙は、神中心の秩序から人間中心の秩序へ転換するものを打破しようとし、宗教も「一つの考え方」として相対化します。絶対視しません。

 

 一方、日本型の啓蒙思想は文明開化の時代、明治期に入ってきます。西洋にいた留学生や、日本に入ってきた宣教師などを通して、まず上流階級(政府官僚・指導層)に入ります。日本ではこれを日本に馴染むように変換しました。大きな前提は、天皇制と国家権威を温存することでした。

  また日本は、土着信仰・偶像礼拝が盛んで、「神を追い出す」方向には行きにくく、また、伊勢神宮と皇室の結びつきもあります。だから日本では、宗教批判よりも、封建制度を根絶し、国家建設を進めるための実用的ツールとして啓蒙思想が用いられました。伝統を整理し国家を近代化する手段として啓蒙主義が取り込まれたのです。これは日本の近代化の中心思想の一つになりました。

  文明開化のスローガン自体が啓蒙主義です。「学問によって国を強くする」「理性・知識による進歩」「遅れた習慣の打破」「文明/野蛮という二分法」。ここには「人類は理性によって段階的に進歩する」という進歩史観があります。

  この啓蒙思想は中国など他地域にも広がっています。たとえば中国でトイレに「もう一歩前へ」などの標語があり、「あなたの一歩は人類の進歩のための一歩である」といった形で啓蒙的進歩観が日常にまで入り込んでいるのが見えることがあります。

 

 日本では福沢諭吉、中村正直、中江兆民などが文明開化の翻訳者・解釈者でした。ただし重要なのは、啓蒙主義が文明開化の中心思想であっても、唯一の思想ではないことです。日本はそこに国家主義(富国強兵)、国体論、天皇制、そして家制度のような伝統秩序を接合して近代化しました。家制度は啓蒙思想と反対の要素を持ち、今でも根強く残ります(長男は家を守る等)。つまり日本は、啓蒙主義と国家主義と伝統秩序を接合して成立した近代社会です。

 

5. 啓蒙主義が宗教化すると「人間中心主義」になる

  この啓蒙主義が宗教化していく中で、それを人間中心主義と言います。人間中心主義の宗教とは、支配神学、霊的戦い神学、表面的キリスト教、律法主義など、さまざまな形で現れます。いずれも「行いによって」「自分の意思で」「改善していこう」という構造を持ち、「私が」「あなたが」という主語が前に出てきます。神が主語ではありません。

 

 「人間中心主義」と言ったら、「人間中心主義の宗教」だと理解すればよいです。人間が基準、目的、尺度になります。「人にとってどうなのか」が最終判断になります。神は補助的・中立的・心理的役割に縮小します。

  キリスト教に現れる形としては、救いが「人の理解」「決断」「応答」になります。「福音の招きに応答しましょう」という構造になり、救いが人間中心に置き換わります。恵みも、人が受け取りやすい形に調整されます。恵みは絶対ではなく、神が一方的に与えるのではなく、あなたが選ぶ出来事のように扱われます。「恵みを数えてください」という賛美が、恵みを出来事化・物化する方向に働く場合があります。恵みがキリストであることを理解しなくなるのです。なぜなら人間中心だからです。

 

 聖書も、神の啓示ではなく「マニュアル」「教科書」にされます。聖霊は神ではなく体系になり、聖書は生ける神の語りではなく教材になります。

 

 人間中心主義は、福音の神中心構造を人中心構造へすり替える宗教です。啓蒙主義は思想・認識論であり、「人はどう知るか」が中心です。啓蒙主義の主体は「理性を持つ人間」。それが宗教化すると、主体は「欲求し経験する人間」になり、神は相対化され、距離を置かれ、神は遠くにいる存在になります。信仰の中に「神が自分の内に生きておられる」という現実が失われます。

  そして人間中心主義は、神を道具にします。神を神として恐れず、欲求実現のツールにします。これが人間中心主義です。

 

6. 西洋教会への影響(内側からの変質)

  西洋のキリスト教会は、啓蒙主義と、その実践である人間中心主義宗教から極めて多くの影響を受けました。外側から攻撃されたのではなく、教会の内側の構造そのものを揺るがす影響です。福音の土台が崩される影響です。

 啓蒙主義は、教会の権威、聖書理解、信仰のあり方を根本から再編しました。その結果、西洋の教会は、正統信仰を守った流れと、啓蒙主義を受け入れて変質した流れに分岐しています。すぐ分かる例があります。「先生、聖書は正しいですか」と聞いた時に、「聖書はちょっと間違いがあるんだよ。古代人が書いたから」と言うなら、それが啓蒙主義的再編です。

 

啓蒙主義が教会に突きつけた問いはこれです。

    •        理性は啓示より上位に置けるか

    •        伝統や権威は批判されてよいか

    •        神の言葉は批判されてよいか

    •        真理は神が語るものではなく、人が検証し判断するものか

 

 LGBTの問題でも、この問いが教会に投げつけられています。「聖書は古代人が書いたものだから、現代文化の中で再検証し問い直さないといけない」という言い方は、神の権威を理性の裁判台に置いています。自由主義神学、ナラティブ神学、プログレッシブ神学などに、その構造が見えます。


 7. 教会が受けた具体的影響

 (1)聖書理解の変質

  聖書を神の啓示ではなく歴史文書・宗教文献として分析する。奇跡や超自然を否定する。書いた人を研究対象にする。これは聖書の権威が人間理性の裁判台に置かれたということです。

 (2)神理解の変質

  神は存在するかもしれないが介入しない存在として語られる。その結果、教会がこの地に神の国を建設しなければならない、悪の支配から解放しなければならない、という形で、神が介入しないかのように語られることも起こります。

  別の形では、伝統主義・律法主義に落ちる教会は、祈り・摂理・奇跡を否定し、聖霊の働きも否定します。聖書を霊的なものではなく道徳基準として扱い、立法主義になります。生きて働く神から抽象的原理へ移します。

 (3)救済理解の変質

  罪は道徳的未熟さ、救いは人格向上・倫理的改善。キリストは贖い主ではなく模範的人物。十字架の中心性が失われるためです。

 (4)教会の役割の変質

  教会が「救われて召し出された者の集まり」ではなく、「倫理的教育機関」「福祉団体」「NGO」のようになる。礼拝が道徳メッセージの場になる。神の業の場から人間形成の場へ変わります。

 

8. 二つの流れ(分岐)

  教会には二つの流れがあります。1つは啓蒙主義を受け入れた教会(現代では自由主義神学等)。もう1つは啓蒙主義に抵抗し、宗教改革の伝統を守る流れ(改革派・正統信仰)。

 

 後者の特徴は、聖書の自己証明(聖書は神が書かれたもの)、神の主権、超自然的救済の現実です。超自然的救済とは、時の始まる前に神が選び、あなたが選んだのではなく神が選び、神があなたを変えていく、神が主体の働きだという現実です。

 

 ここで重要な点があります。啓蒙主義は教会を外から破壊したのではありません。教会内部の「理性的・道徳的に整いたい欲求」と結びついて、内側から教会を変質させました。外見はキリスト教、用語も聖書的、しかし構造は人間中心、という偽装形態が生まれました。

 

9. 日本の教会が「啓蒙主義的福音構造」になった理由

  日本には宗教改革の経験がありません。ヨーロッパは中世教会の堕落があり、聖書への回帰があり、その後に啓蒙主義が来ました。宗教改革があった後に啓蒙主義が出てきました。

  しかし日本は宗教改革を経験していません。カトリック的神権政治も経験していません。日本にあったのは天皇制、封建制度、国粋主義、家制度です。そこに西洋近代化として啓蒙主義が一気に流入しました。

  そして日本に入ってきた多くのプロテスタントは、明治以降、19世紀以降の欧米から来ていますが、すでに自由主義神学、リバイバル神学、道徳主義などの影響下で変質したものも多く含んでいました。結果として福音は倫理、信仰は決断、救いは人生改革、教会は教育機関・福祉団体になりました。啓蒙主義を通過した、人間中心主義的・加工済みのキリスト教が広がったのです。

  さらに教育構造が追い打ちをかけました。神学が大学制度の中で「学問」になり、神学は宗教研究・思想史、聖書は研究対象、神は信仰対象ではなく概念になります。三位一体は説明されても信仰に結びつかない。多くの新学生は頭でっかちになり、証明が来ていない。砕かれていない。父・子・聖霊が主語にならないまま、空虚な福音が広がる。

  そこに日本的文化適用が加わります。日本文化は「排他性を和らげる」「わかりやすく感じよく」「強い決断を避ける」。結果、罪は曖昧になり、裁きは沈黙し、選びは隠蔽され、救いは「選択」になります。

 

 啓蒙主義+日本の和の文化=日本型人間中心福音、という構造になります。

  啓蒙主義は理性中心、日本文化は空気・常識中心で相性が良い。「常識でしょ」「空気読みなさい」。普遍倫理と共通感覚の道徳。超自然を排除する傾向。どちらも神の主権を避けます。だから日本では神の主権、選び、裁き、排他性(選ばれた者だけが救われる)が強く嫌われます。

  その結果、日本の教会の説教は個人の経験が中心になり、キリストとの結合が語られません。聖霊の働きも、体験演出か、逆に「もう終わった」とされるか、両極端になります。しかしどちらも誤りです。聖霊は今も働き、信者のうちに働き導いておられます。

 

10. 「神は愛である」だけが前面に出る危険

  教会の入口に「神は愛である」と掲げるのは悪くない。しかしそれだけが前に出ると、「愛は神である」と誤認が起こります。本来は「神は聖である」「神は義である」「神は愛である」「神は知恵である」「神は力である」という秩序が必要です。人が慰めを欲するから「愛」だけが神の本体のように扱われ、人が聞きたいことだけが語られる。これは聖書が告げた通りです。人々は耳に心地よい教師を集めます。

  福音は説明ではなく宣言です。多くの日本の教会は「分かってもらう」「納得してもらう」「共感を得る」ことを目指します。しかし福音は「述べ伝える」のであり、分かるか分からないかは神の証明にかかっています。知識量が救いではありません。福音は権威として告げられ、服従を伴います。

  日本文化では宣言は暴力的支配に見えることがあります。しかし旧約の預言者は「神はこう言われる」と宣言し、彼らは殺されました。福音は耳が痛い反応を起こします。それは光が照らす時に起こる反応です。

 11. 人間中心主義の最悪性(善意と愛の顔)

  人間中心主義が最も危険なのは、悪としてではなく、善意と愛の顔をして現れるからです。

    •        相手を傷つけないように

    •        分かりやすくして

    •        分かって納得してもらう

    •        つまずかせないため

  こうした善意が、神がなさった出来事を「人がどう受け取るか」へ変容させます。人の理解・経験・感情が中心になります。これは出エジプト記32章の金の子牛事件と同型です。

 

 金の子牛は無神論ではありません。決定的なのは32章5節で、アロンが祭壇を築き「明日は主(ヤハウェ)の祭りである」と布告したことです。主の名を用いたまま、礼拝・祭り・熱心さを保ったまま、神の主権と現実の働きを人間の管理下に置きました。問題は誰が主導権を握っているかです。

  人が扱える形、分かる形、安心できる形に神を変える。これが人間中心主義です。相手の感情に配慮して、扱える形に御言葉を変えた瞬間、それは御言葉ではなくなります。福音を破壊しています。

12. AIと啓蒙主義(人間中心主義への自動転落)

  ここからAIの話に行きます。生成AI(ChatGPT、Google Gemini等)は意図的に神を否定しないことがあります。しかし設計思想の土台は啓蒙主義です。だからAIは「あなたに分かりやすいか」「あなたの感情を傷つけないか」「共感できるか」「納得できるか」「心理的に安全か」を最適化します。

  その結果、AIは人間の理解・経験・感情を最終基準に置きやすい。神の主権や結合を言葉としては否定しなくても、構造として主語が人にすり替わります。

  最初は「改革神学に忠実に」「人間中心主義を排除して」と入れると従うように見えます。しかし途中で回答が進むと、主語が神から人へすり替わることが起こります。構造的にそうなりやすいからです。識別できないと、それを正しい答えとして丸呑みします。

 だからAIは「最悪性の善意による主語すり替え装置」になり得ます。

13. 出口:全的堕落と、救いの出発点

  出口は全的堕落です。人間そのものの問題です。福音は一切妥協しない。「人は部分的ではなく全的に堕落している」。知性も感情も意思も宗教性も堕落し、善意すら堕落している。放っておけば人は必ず神を利用します。神を崇めるのではなく、道具にします。

  本当の救いの出発点は、人間の可能性でも理解でも決断でもありません。「今日から良い人になります」などで救いは始まりません。救いは、人間の絶望的無力の告白から始まります。

  主語は常に神。救いの源泉は永遠の結合(in Christ)。再生は神のみの業。信仰と悔い改めは神からの賜物です。

  ここで初めて、恵みが恵みとして立ち、神が神として高くされ、キリストとの結合が救いの源泉として理解されます。

  神は「人が受け入れられる範囲に合わせて」働くのではありません。神がご計画された通りに行われます。神は人間の理解度に従属しません。神が与えるのは逃げ道ではなく、恵みです。パウロの棘の箇所で主は言われました。「取り除かない。わたしの恵みはあなたに十分である。」

14. 最終まとめ

  人間中心主義は神を否定する思想ではありません。神を肯定しながら、神を王座から降ろし、主語をすり替えます。説教の中で神と人がひっくり返る。善意と愛の顔をして、主語が神から人へ移動する。これが教会を内側から破壊し、福音を変質させます。

  そして人間そのものが啓蒙主義者であり、人間中心主義者です。自分は違うと言うなら、自分の罪の性質を認めていない。人は「私」「私が」「私によって」「私のために」という王国を作ろうとする性質を持っています。

  では私たちはどうすればよいのか。神に助けを求めるしかありません。この無限ループから自分で抜け出せないことを、神が悟らせます。

  そこでパウロはコロサイ3章1–5節でこう言います。

 「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右の座に着いておられます。…あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちはキリストとともに神のうちに隠されているのです。…地上のもの、すなわち、みだらな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」

  貪欲は偶像礼拝です。金の子牛の構造です。神が自分の思い通りに動かないから、人は扱える神を作る。だからAIを使うことも注意が必要です。

 

結論はこれです。

 

すべては神の栄光のために行う。

あなたがたのいのちはキリストとともに神のうちに隠されている。上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右の座に着いておられます。

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