第1テモテ1章3節~4節講解
- thewordforyoujapan
- 2025年12月13日
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2025.12.10 The Word for you
「私がマケドニアに行く時に言ったようにあなたはエペソにとどまり、ある人たちが違った教えを説いたり果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。
そのようなものは、議論を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。」
第1テモテの核心のテーマ。それは、テモテがパウロから命じられたことは、
「教会内で異なる教えを教えないように命じる。」この一点です。
教会の中で、パウロが伝えた福音と異なる教えを教えることがないように、命じています。
この異なる教えの中心にあるのは、人を中心とした、人を源泉にすり替えた、人間中心の教え、そして自己義認。
全体は、福音と偽りの教えの戦いを描いています。福音対人間中心の教えが、テモテに宛てている手紙のテーマです。
現代の教会で起こっている現象に当てはめるなら、果てしない作り話と系図であり、それは人間の作り話、デマを信仰の土台に据えることそのまま。
例えば、第三神殿がエルサレムのイスラム教ドームの下に隠されて建造されているというような、極端なユダヤ主義の妄想。また、カリスマ的に、雲や空に偶然できた十字架の形を霊的印として、救いの根拠にすること。終末論とか、政治、現代の国際紛争を、霊的なメッセージとして結びつけようとする支配神学。自分の体験を聖書のみことばの上に置き換える、そのような信仰、これらすべては人間から出てきています。人間の考えです。
人間中心の宗教の構造というのは、自分は正しいという自己義認の一つの形態。
パウロが強く退けているのは、こういった人間の妄想、人間の物語、人間のロジック、自分の義を信仰の基礎に据えるという構造です。
現代にあるこの構造は、古代の偽の経験だとか、ユダヤの経図、そして現代の第三神殿も、現代の政治も同じ構造を持っています。
そして、そのようなものは、パウロがこう言います、「神に委ねられた信仰の務めを実現させない。」そのようなものとして却下しています
また、教会に持ち込まさせたり、話をさせるなという命令を、テモテにします。
自己義認とは何でしょうか。自己義認というのは、自分は正しい。これです。
もっと言えば、これから頑張って良い行いをして良い人になる。これも自己義認。いつも優しく人に好かれる言葉を言う。自己義認。祈りと聖書を読め、すごく聖書的ですけど、そうするとキリストの姿に変えられていく。これは人を救いの源泉に据えている考え、そのまま。
パウロはそれを、第1テモテの1:6で虚しい議論と呼び、1:7で律法の誤解と無理解と言い、4:1では惑わす霊と悪霊の教えというように、断罪しています。
すなわちパウロは人間中心の教えは、自己義認の実現させるためのツールであり、それは悪魔的な考えであり、思想であり、悪魔の教えであると言っています。外側は敬虔に見える。しかし内側は、自己救済の宗教だと言っています。
これはすごく深いです。自己義認に陥る者は、外側の行為は、宗教的であり、敬虔的に見せかけています。
この自己義認の現れ方、ここに入って陥っていく者たちは、外側の行為は宗教的に見えます。宗教的に着飾ります。宗教的にデコレーションします。そして、人への言葉遣いなどは、経験的に見せかけます。宗教用語を散りばめます。
そこには、偽りの奉仕、偽りの祈り、偽りの断食、偽りの従順、偽りの献金、偽りの聖さの追求、そして偽りの聖書の御言葉を語る行為があります。
しかし実際には、内側は空虚です。いくら聖書の言葉を語っても空虚であり、内側は人を許さない、呪う、汚れたもので満ちています。
これが自己義認の実態です。自分で義を積み上げている。しかし積み上げきれない。自分の霊性が素晴らしいと証明する、でも証明されない。自分は頼り、良い、しかし内側は悪い。これが自己救済という自己義認の構造そのものです。そして、イエス様はこう言われています。
マタイの福音書の23章の27 わざわいだ、わざわいだ偽善の律法学者パリサイ人。 自己義認の人たち。宗教的にお前たちは見える。お前たちは、白く塗った墓のようなものだ。お前は白く塗った墓のようなものだ。
外側は美しく見えても、着飾って、宗教言葉を散りばめても、着物を宗教的なものに着替えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。それが、自己義、人間中心主義の教えの実態。そのようにイエス様は言われる。
パウロも、同様に第2テモテの3:5で、こう語っています。敬虔の形を持っていても、その力を否定するもの。敬虔の形を持っていても、実はその力を否定するもの。まさしくイエス・キリストが言われて いるマタイの23:27をそのまま、プリサイスに、正確に、直線的に言っています。
偽善者だ。
敬虔という、偽物の敬虔を作ろうというが、内側が死人の骨やあらゆる欲、汚れでいっぱいのもの、それが人間中心の教え、悪魔の教えそのものであると、パウロに言わしめたものです。
そこにはキリストとの結合の力は存在していない。御霊の力は存在していない。
パウロが対峙していた偽りの経験。
第1テモテの4:3-7でパウロは、禁欲的、外的な行為を霊的だとする偽りの経験を否定しています。それは食物を制限すること、結婚を禁止すること、肉体的な行為の積み上げ、このようなものをパウロは却下しています。否定しています。
これらは見た目に 鍛錬というように見えても、それは人間中心であり、神はそこにいません。
パウロは肉体の鍛錬について、全く無意味ではないと言います。肉体の鍛錬4:8で肉体の鍛錬も少しは有益です。ここの、有益というのは、一時的に、地上的に、外面的な範囲では、健康、また生活の秩序、一時的な自制という意味においては、少しは有益だと言っています。
しかしその後の聖句で、今の命と来るべき命を約束する敬虔は全てに有益です。と言っています。ここで2つの敬虔があります。一つは肉体の鍛錬、少しは有益。対、今の命と来るべき命を約束する敬虔。これを比較させています。
そして来るべき命を約束する敬虔は全てに有益だと言います。なぜなら、肉体的な鍛錬というのは永遠と関係ないからです。救いの源泉にもならずに、霊的命は何もない。
その後に来る今の命と来たるべき命を約束する敬虔とは何を言っているのか。
来たるべき命。
今の命というのは私たちは永遠の時が始まる前にイエス様の内にあって選ばれた、それは永遠の結合が時の中において、結合から流れ、再生、照明、聖化、栄化へと続く、これが今の命。
そして、来るべき命とは、肉体が朽ちない体に変えられる、罪が一切ない、キリストとの完全な交わり、もはや試練も涙もない、神を完全に喜ぶ状態、これが来るべき命です。
そして、この両方ともに、人間の選択はない。私たちが選んだから、私たちは救われたのではなく、私たちは選ばれた上で、そして私たちは救われている。
私たちは信じたから、再生されたのではなく、私たちは再生され、そして信じるものに変えられた。そこには人間の選択、応答、鍛錬は何もない。
永遠の神とキリストにあって、永遠の中で私たちをキリストに置いてくださり、そして神が私たちを選んでくださった結果として約束された命です。生ける泉が私たちの内にあり、その泉から、喜びの井戸から私たちは水を汲む、それは苦しみではなく喜びです。
この敬虔は全てに有益です。
聖書は言います。神の主権の下で、神の主権の、永遠の主権の中で、神が与える恵みの手段の中を歩むこと、つまり、私たちは永遠の結合、再生、照明、信仰、聖化の流れの中に、みことばと信仰と祈りと賛美が、手段として置かれていて、その中を通って私たちは生きていきます 。それは敬虔な歩みそのものです。そしてこの敬虔は私たちに、有益な結果を生みます。
それは、この敬虔は、私たちが結合の現実の中に生きる中において、試練と、壊し、そして照明を私たちは受けます。そして私たちの内側が、心が変えられていく、偶像が破壊されていく、それは聖化として歩ませる恵みそのものです。
この結果私たちは、試練に耐える信仰、欲望に支配されない歩み、誘惑に対する洞察や、教会の一致、キリストの体、つまりこの世での歩みのすべてに影響するということをパウロは言っています。
しかし、これは信者が努力で成長するのではなく、神が働かれるが故に、敬虔は有益なものとなるということ。つまり、パウロが言っている今の命、来るべき命に対する有益さの顕現とは、永遠の結合の証そのものです。私たちはそのような歩みをしています。
その中において私たちは自己義認の実態を理解する必要がある。
自己義認というのは、自分を神の座に置く偶像礼拝のことを言っています。最も重要なのは、自己義認は、実は自分を神にする偶像礼拝そのものだということ。
カルバンはこう言います。
「人間の心は絶えず偶像を生み出す偶像生産工場である。」
私たちの心は絶えず偶像を生み出す生産工場。その偶像とは私たち自分自身。私たちはこの構造をエゼキエル書の28章2節で見ることができます。
人の子よ、ツロの君主に言え。
神である主はこう言われる。
あなたの心は高ぶり。
私は神だ。
海の中で神の座についていると言った。
あなたは自分の心を神のようにみなしたが、
あなたは人であった神でない。
このエゼキエル書の28章の2節は、自己義認の心そのもの、自分が義の源になる。自分の努力で神に近づく。自分の聖さで受け入れられると思う。これはすべて、私は神だという心の翻訳そのものです。
ツロの象徴は、ヨエルの書や預言書で私たちは学びました。人間中心の誤った思想、宗教、高ぶりの象徴です。ツロは繁栄しながらも、神に依存していません。その高ぶりは、自分中心、自分の義、自分の救済、自分の栄光という思想として、旧約の中に登場します。
第1テモテが警告する異なる教えの、根の姿そのものです。 ツロの引用は自己義認そのままです。
人間中心の教えはキリストの義を不要にする反福音です。人間中心の教えはキリストの義を不要にします。
自己義認はこのように言います。
自分はできている。腐っていない。自分は正しい。自分の努力が神に受け入れられる。私は一生懸命努力している。自分の聖さで神に近づける。このような思想は自己義認です。
これはすなわち、これらの言葉は、キリストの義は不要だと言っています。自分は腐っていない、キリストの義は不要だ。自分の努力、一生懸命聖書を読んだ、いいことをしたから、神に受け入れられる。キリストの義は不要である。私は洗礼を受けて聖いから神に近づける、キリストの義は不要である。
これが自己義認。これが人間中心主義の結末。キリストの義は不要である。
見た目は敬虔。白塗りの墓。その実態は、十字架のみわざの破壊行為。死人の骨と腐ったもので満ちている墓の中身。
パウロはこう言います。
キリスト・イエスは罪人を救うために来られた。
罪人を救うのは、人の努力ではなく、永遠の結合から流れる神の恵みです。
第1テモテの福音の構造は、1:12~16で、パウロはこう告白しています。私は憐れみを受けた。私は教会を迫害し、とんでもない人間だった。しかし私は憐れみを受けた。
14主の恵みが満ち溢れます。
パウロが変えられた神の御業、永遠の泉から来ます。人間の努力ではなく、永遠の結合から流れ出る神の恵み、福音の構造がパウロを変えています。
そして、これが神中心の、パウロがテモテが伝えた福音です。
まとめ
第1テモテの福音は 、人間中心主義対福音の戦いです。パウロは、教会から人間中心の教えを排除せよとテモテに命令しています。
人間中心は白塗りの墓です。外見は敬虔に見える。しかし内面は腐っている。一見敬虔に見える自己義認の行為の実態は、神に従っているように見える。見える。実は、しかし、自分を神の座に置く偶像礼拝であり、反福音、その言葉は、自分は正しい、私は腐っていない、自分の努力、私は頑張っている、だから神に受け入れられる。私は洗礼を受けて聖いから神に 近づける。このような考え方は自己義認そして、キリストの十字架を否定する。
私たちは、悪霊と戦わなければいけない、マモンからお金を、マモンから私たちはお金を神に戻さなければならない。このような霊的な戦い神学には、「まだキリストの十字架が不足である。だからあなたたちは戦いなさい。」そのように、人々に語り、キリストの十字架が完全に私たち、そのサタ ン、悪霊に対して勝利している、コロサイ2:15、「捕虜として凱旋の列に加えられた」という、このみことばを否定します。
そのように、自己義認を教える教えは、悪魔の教えです。
ではお祈りします。
天のお父様、パウロがテモテへ当てた手紙で、自己義認が、いかに私たちの信仰、また教会を汚すか。
私以外に神を、偶像を作ってはならない、私以外に神はいないという、あなたの宣言を私たちは守ります。私たちは偽りの教えに対し、憤慨し、偽りの教えを拒否します。
人間が中心の教えのその実態は、悪魔の教えであるとあなたが教えてくださっていること、神の主権、キリストとの結びつき、そして永遠に溢れる救いの泉が私たち一人一人 の心に与えられていること。
このパウロの教えを心から感謝します。どうか私たちが人間中心に騙されることなく、あなたの御霊によって敬虔に歩むものとされますように。
イエス・キリストの御名をとおして、感謝してお祈りします。アーメン


