講解 時中の結合 ヨハネ福音書、エペソ書― 効果的召しから、神が据える結合へ ―
- thewordforyoujapan
- 2025年12月31日
- 読了時間: 9分
2025.12.31 The Word for you
1. 大前提:主体は常に神のみ
人間中心主義の思考は救い、再生の原因として、しばしば次のことを考える
聖書を読むこと
説教を聞くこと
内容を理解すること
しかし、これらはいずれも救い、再生の原因でも、条件でも、手段でもない。主体は常に神のみであり、人の側に先行条件は存在しない。
2. ヨハネ1章が示す救いの出発点
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」
(ヨハネの福音書 1章1~5節)
救いは、人の内側から始まるのではない。 神ご自身である「ことば」から始まる。ここで語られる「光」は、知識でも理解でもない。「いのち」そのものである。人は、理解によって生きるのではなく、いのちに結ばれて生かされるのである。
3. 効果的召し ― 神が主語の召し
効果的召しとは、御霊が主権的に働き、死んでいる者を生かす召しである。
ここに、説得・納得・準備段階は存在しない。
「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。」
(ヨハネの福音書 6章44節)
「来る」前に、引き寄せられる。これが聖書の順序である。
4. 再生 ― 新しい心を与える
効果的召しの中で起こるのが、再生である。
「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、
あなたがたはすべての汚れからきよめられる。
わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」
(エゼキエル書 36章25~26節)
再生は、「瞬間的、不可逆、完全受動」の神の御業である。
5. 結果としての覚醒
霊的な目が開かれるのは結果
「信仰、悔い改め、悟り」
これらはすべて、再生の実であって、原因ではない。
6. 永遠の結合の時中の顕現(明らかになる)
再生によって、永遠に確立されていたキリストとの結合が、時の中で顕現する。
これは「新しく結ばれる」という意味ではない。
すでに確立されていた永遠の結合が、神の時において歴史の流れの中で現実化するということである。
7. ヨハネ3章 ― 風の比喩が示す神の主権
「あなたがたは新しく生まれなければならない、
とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、
それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。
御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
(ヨハネの福音書 3章7~8節)
イエスはここで、いつ生まれたかどの順で起こったかを説明していない。示されているのは、原因は不可視(神)結果は可視(生の変化)という構造のみ。
聖書を読む/聞く行為は、再生後に神の声として聞かれる結果であって、再生を起こす原因ではない
8. 結合の顕現はゴールではない
神の救いの御業は、結合の顕現で止まることはない。神はさらに、ご自身の摂理の中で、試練・出来事・歴史の進行を用いながら、その結合を信仰者の存在・時間・生き方の中心として据え続けておられる。
ここで言う照明とは、内面的体験や霊的感覚の高揚ではない。神が、みことばと摂理によって、現実の歴史の中で、拠り所がどこにあるのかを明確にし続ける御業である。
照明は必ず、苦難、行き詰まり、失敗、失う経験、望みが断たれる状況と結びついて現れる。それは、信仰者を内面へ閉じ込めるためではなく、現実の只中で、偽の神、偶像、虚無を剥ぎ取るためである。
9. 照明とは何か(拠り所の所在を示す御業)
照明とは、理解力の向上、神学知識の増加、経験の蓄積ではない。照明とは、神が、その摂理の中で、人間的な支え、自己義、理解、選択、経験を取り除き、拠り所がキリストご自身以外にないことを、現実として示す御業である。
ここで重要なのは、結合が拠り所になるのではないという点である。拠り所は常にキリストご自身である。
結合とは、そのキリストに実際に結ばれているという、神の側の秩序と関係の実在である。
照明は、結合を対象化したり、実体化したりする働きではない。
照明は、拠り所がキリストであるという現実を逃がさず、同時に、自分がそのキリストから切り離されていないという事実の中に、信仰者を立たせ続ける神の御業である。
10. 神が与える結合の確信が生き方を変える
ここで言う「確信」とは、把握、説明、整理ではない。神が、摂理による試練を通して、信仰者の過去・現在・未来の読み方を、「キリストを拠り所とし、そのキリストに結ばれている」という現実に基づいて、再構成することを指す。
<過去>
→ 自分の選択や失敗の連なりではない。
→ エペソ1章において、世界の基が据えられる前から、
キリストにあって選ばれ、永遠の結合の中に置かれていた者であったが、
エペソ2章が明確に語るとおり、その結合が時間内に適用され、再生が起こるまでは、罪過と罪の中に死んでおり、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者の下に置かれていた者である。
→ しかし神は、その定めた時に、
効果的召しによる再生と十字架の適用を通して、永遠の結合を通して真に神であり、真に人であるキリストと信仰者を結合させ、その結果として、
そのキリストが担われた十字架の御業に信仰者を結合させ、信仰者を死と支配の領域から解放した。
したがって、ここで言う過去とは、自分が信じるに至った経緯や、宗教的努力の積み重ねではない。
永遠において確立されていた結合が、神の定めた時に、真に神であり真に人であるキリストとの結合として現実化し、その結合を通して十字架の御業が適用され、死と支配からの解放として、不可逆的に歴史の中に貫入した出来事の連なりである。
<現在>
→ 自分が信仰を維持している状態ではない。
→ 同じ結合の中で、
すでに生かされた者として、十字架の御業が適用された者として、今もなお、神の摂理によって歩まされている時間である。
現在の歩みは、自分の努力によって保たれている宗教生活ではなく、神の作品として、あらかじめ備えられた歩みの中を進まされている現実である。
<未来>
→ 自分の忠実さに左右される可能性ではない。
→ キリストご自身にある救いが確実であり、
そのキリストに結ばれているがゆえに、摂理を支配する神によって完成へ導かれる確定した将来である。
11. なぜ神学は分けて語るのか
効果的召し・再生・結合を分けて語るのは、実在が分かれているからではない。人間中心主義を完全に否定するためである。
分けない場合に必ず起こる誤解
誤解① 「呼ばれた」=「理解した」 → 説得・納得モデルへ転落
誤解② 「生きた」=「自分が決断した」 → 決心主義へ転落
誤解③ 「キリストに来た」=「自分で選んだ」 → 自由意志至上主義へ転落
ここが極めて重要 区別 目的
・効果的召し:主体が神であることを明確にする
・再生:人が完全受動であることを明確にする
・結合の顕現:救いの根拠が永遠にあることを明確にする
時間的に「先・後」を言っているのではない人間中心主義を否定するための論理的分節
1) 聖書自身が「分けて語る」から 聖書は、同じ出来事を複数の角度から語る
•ヨハネ6:44 → 「父が引き寄せる」(召し)
•エペソ2:5 → 「死んでいた私たちを生かした」(再生)
•ガラテヤ2:20 → 「キリストと共に生きる」(結合)
これは別の出来事を言っているのではなく、 一連の神の御業を、異なる角度から語っている
2) ウェストミンスター信仰告白の知恵 告白はこう教えている
•分けないと → 人は「自分がやった部分」を作る
•だから → あえて分けて → 人の寄与を一つずつ否定する
つまり、人間中心の誤り
•効果的召し:聖書を読んでわかったから
•再生:自分で信じたから新たに生まれた
•結合:自分でイエスを招き入れた
これら一つずつ人間中心の考えを切り落とすため
12. まとめ
"信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。
そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さが
どれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。
そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、
あなたがたが満たされますように。"
エペソ人への手紙 3章17~19節
パウロは語っている
「その愛」とは、信仰によってわたしたちの心にキリストが住まわれること――すなわち、キリストとの結合そのもの。
私たちがもつような人間的な愛ではなく、結合として実在している愛をパウロは語っている。
<エペソ3:17–19の文脈>
① 起点は「キリストが住むこと」
信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。
ここで語られているのは、
•回心後の体験
•心理的な親密さ
ではありません。
これは結合(union)
キリストご自身が、御霊によって住まわれるという実在的関係。
② 次に出てくる「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」
この「愛」は、突然出てきたことではない
•主語は依然として神
•土台は「キリストが住まれること」
したがって、愛に根ざす、愛に基礎を置くとは、キリストとの結合という愛の中に、すでに置かれているという存在論的状態を指す。
<ここが重要>
これは人間の感情的な愛、主観的に感じる愛、人が理解して把握する愛ではない
パウロが指す「キリストの愛」とは:
父によって永遠に定められ
子によって十字架で成し遂げられ
御霊によって時の中で十字架のキリストに結合されることによって適用される
救済史的・契約的・結合的な愛
つまり、キリストとの結合の中で現実となっている、神の救いの愛の全体構造
すなわち、
「父なる神は、キリストに結ばれている者たちを、永遠の過去・現在・永遠の未来、またその広さ、長さ、深さ、高さへと、目を向けさせておられる」
そして伝道者の書 3章11節は言う
"神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。"
すべては神の主権による。栄光は、ただ神にのみ帰される。


