1コリント10章13節 PART1なぜパウロは「試練」と「偶像礼拝」を同じ文脈で語るのか?
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2025.12.7 1豊川の家の教会 礼拝メッセージ 1コリント10章13節 PART1
"あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。
私は賢い人たちに話すように話します。私の言うことを判断してください。"
コリント人への手紙 第一 10章13~15節
なぜパウロは「試練」と「偶像礼拝」を同じ文脈で語るのか?
理由は一つ。試練は“偶像に逃げる心”を暴く。そして、偶像礼拝とは、キリストとの永遠の結合、救いの源泉以外の何かに救い・安全・支えを求めること。
1. 主語=神
(13節)
「神は真実な方です」
– 試練を支配し、量り、制限し、脱出の道を備える方は神。
このとき聖書は厳密に、神が試練を支配していることを土台にする。
だから人は試練の中で主語を人に戻してはいけない。
2. 試練=神が量られた「信仰の場」
パウロは語る
「耐えられない試練にはあわせない」
「脱出の道を備えている」
これは「神が結合している者を守る」という神の真実
つまり試練とは
• 神ご自身が与え
• 神ご自身がその枠を決め
• 神ご自身が脱出の道をつける
それは、神の摂理の中にある、信仰の場。
3. 試練が続くと、人の心は必ず“逃げ道”を探す
人間中心主義はこう働く:
•自分で耐える
•自分で解決する
•自分で慰める
•自分で安全を作る
•人・金・関係・快楽で心を支える
これらすべては偶像礼拝
4. 試練の真の目的は「苦しさ」ではなく“偶像へ逃げる心”を暴露する
だからこそ、パウロは13節の直後にいきなり14節でこう言う:「ですから…偶像礼拝を避けなさい」
この「ですから)」は原因と結果を一直線に結ぶ強い論理接続です。
•神は試練を与え
•神は脱出の道を備え
• 神は真実である
→だから神以外に頼るな、偶像礼拝を避けよ
パウロの意図は完全に一貫している。
5. 試練の本質的な誘惑は“神以外に助けを求める誘惑”
試練の時こそ、人は神以外に支えを求めやすい。
パウロは「偶像礼拝」を
• 黄金の牛
• 異教の祭り
• 神殿での食事
だけではなく、神の代わりになる「すべて」を含めている
試練の時に心が
•人
•金
•快楽
•安全
•家族
•宗教行為
•自己義
•自己防衛
に逃げるなら、それは偶像礼拝。だから試練と偶像礼拝が同じ文脈にある。
6. 「私は賢い人に話すように話します」
φρόνιμοι(賢い者)=照明された者
再生による初発の照明を受けた者は、神中心と人間中心の違いを判断できる人。
パウロは語る、「あなたがたは照明されているはずだから、私の言うことを自分で判断しなさい。」
照明された者ならわかるはずだ。
試練と偶像礼拝の関係は誰に頼るかと言う点で同じ根でつながっている。
まとめ
「試練は神の摂理であり、試練の本質的な誘惑は神以外に逃げる心である。ゆえに試練と偶像礼拝は直結する。」
試練の時、“神以外に頼る誘惑”が最大化する。それをパウロは“偶像礼拝”と呼ぶ。それは結合以外に頼ること。
「最も危険な偶像は、自分が“信仰しているつもり”である心である。」
「試練の時に神以外に逃げるなら、その信仰はまだ自分のものだ。」
そして神は信仰者が持つすべての人間中心の心が頼る偶像を破壊する。
「聖化=神が偶像を砕き、結合の恵みをさらに深く注ぎ込む過程」
信仰者が純粋に神のみを頼る者に変えられる。
「試練も偶像破壊も、すべてはキリストとの結合から流れ出る恵みである。試練のただ中で「神に向かって叫ぶ祈り」を生み出すのは“神ご自身”である
パウロは言う:
「神は真実な方です…脱出の道を備えてくださいます」(13節)
ここで重要なのは“脱出の道”とは外側の状況変化ではなく、心の中において神へ近づくこと、そのものである。
そして心の中で神に近づくとは:
祈る心
助けを求める叫び
神への依存
偶像から離れる動き
罪への痛み
悔い改めの生起
これらはすべて神が結合している者に与え、実行させる恵みの働き。神へ走り、逃げこむこと。
パウロは命令する。
"こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。"
コロサイ人への手紙 3章1~2節
ここで決してこう言ってはいけない:
「人が祈ることで脱出の道が開かれる」
「祈りは人間側の応答である」
これはすべて人間中心主義で誤り。
聖書の構造は逆:
祈る心は“再生した者に聖霊が生み出す結果”であり、人間の原因ではない。
これをカルヴァンはこう言います: 「祈りは信仰の第一の呼吸である」(Institutes 3.20)
✦ 呼吸は “自分で理由を作ってするものではなく”、「生きている者だから自然に出る」。再生した者にだけ、祈りが自然に与えられる。
つまり:
再生 → 初発の照明 → 神への叫び
神は試練のただ中で、キリストに結合された者のうちに “神に叫ぶ心” を造り出し、祈りを与え、実行させる方である。
人間は自分で祈り始めることはできない。祈りは人間の決断や努力ではなく、再生と初発の照明から流れ出る“結合の恵み”の実である。
試練とはまさに、
偶像に逃げる心を暴き、
その心を砕き、
神に叫ぶ祈りを内側に生み出し、
その祈りを実行させる
という 神の摂理的な働きの場である。
ゆえに「脱出の道」とは、外側の環境ではなく、神が内側に創造される “神への祈り” そのものである。
悔い改めと信仰も、試練を通して与えられる恵みであり、これは人間中心ではなく、すべて結合から流れ出る神の業である。
まとめ
試練は神が完全に支配し、量り、備える。
試練の誘惑は「神以外に頼る」=偶像礼拝。
パウロが偶像礼拝を結びつける理由はそこにある。
神は試練の中で、人間中心の逃げ道を砕く。
神は同時に、結合している者に
祈り・叫び・悔い改め・信仰を与え、実行させる。
これが「脱出の道」であり、すべて神の恵み。
選ばれた者には神の試練は“照明へ続く偶像破壊のための神の道具”であり、選ばれていない者には破滅への序曲となる。
神は真の信仰者を決して虚無に渡すことをしません。神は永遠の結合、生ける神の泉へ羊たちを導いています。

