福音の二重構造 摂理と 病・災害・死を考える
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福音の二重構造 摂理と 病・災害・死を考える 2025.12.3 The Word for you
― 選ばれた者と選ばれていない者に対する神の御手 ―
今日はヨエル書で学んだ福音の2重構造を復習します。
主は神。キリストとの永遠の結合。人間中心主義の誤った教えの否定。この3原則に基づいて講解します。
病気、災害、そして死。人が最も恐れ、最も避けたいと願うこれらの出来事は、すべて神の摂理のもとにあります。
しかし、その摂理は 二つの全く違う意味 を持って働きます。福音の二重構造です。
選ばれた者には、“恵み”として働く病・災害・死
選ばれていない者には、“義”として働く病・災害・死
出来事そのものは同じでも、その意味と方向は、選ばれた者と選ばれていない者によって二つに分かれます。
1. 出来事は一つ。しかし意味は二つ ― 病・災害・死の二重構造
カルヴァンは言います。「神は同じ出来事をもって、信者を清め、悪人を罰する。」(綱要 I.17)
つまり、病そのものは「ひとつ」。災害そのものも「ひとつ」。死そのものも「ひとつ」。
しかし、神がその人を“どちらの群れ”に置いておられるかによって、目的は完全に違います。
2. 選ばれた者にとっての病・災害・死 ― それは必ず、恵みとして働く
選ばれた者にとって、病も、災害も、死の影も、「罰」ではありません。
神はそれらを、高ぶりを砕くために、人間中心の考えを砕きます。
罪の残滓を清めるため、信者の中にある神のかわりに頼むものを暴く。それは砕き、 そして照明を与えます。
照明は砕きの中で深く、深く信仰者の心を貫きます。
「主はその愛する者を懲らしめる。」(ヘブル12:6)
「すべてが益となる。」(ローマ8:28)
病によってすべてが心にある神に属さないものが砕かれ、病を通して、すでに与えられている信仰が深められていく。これは選ばれた者だけに与えられる「恵みの摂理」です。
病 → 聖化の手段
災害 → この世を頼らない信仰を形づくる
死の恐れ → キリストの復活への望みを深める
選ばれた者の人生において、“悲劇のように見える出来事が、恵みの階段となる”これが恵みの摂理です。
3. 選ばれていない者にとっての病・災害・死 ― 義として働く
選ばれていな者は、同じ病でも、同じ災害でも、同じ死でも、人間中心の思想の中で働き、そこには神の主権、永遠の結合を求める心はない。
選ばれていない者の者にとっては、恵みではなく“義”の徴です。
聖書はこう語ります:
「神の怒りが現れている。」(ローマ1:18)
「苦しみにあっても、彼らは神に悔い改めない。」(黙示録16:9)
つまり、選ばれていない者の者における病・災害・死は、神の怒りの警告となり、悔い改めへの外的呼びかけ、 不信仰の固定化、裁きの前触れとして現れます。
出来事は同じでも、目的は恵みではなく義。これが摂理のもう一つの顔です。
4. 二重構造の中心は「選ばれた者」
ここで重要なのは:病が軽いから恵み、重いから裁き、ではない。災害に遭ったから裁かれた、ということではない。
出来事の「重大さ」や、災害に遭うかどうかではなく、神がその人をどちらに置いておられるかが決定する。
これが二重構造の中心です。
選ばれた者 → 病は恵みの手段
選ばれていない者 → 病は義の徴
結局、あなたが選ばれているなら、どんな出来事も神の恵みの摂理に転換されます。
あなたが選ばれていないなら、どんな出来事も義の摂理として働きます。
しかし、我々は誰が選ばれていないのかを知らない、主語は常に神です。
5. この二重構造は、人間中心主義を完全に砕く
この視点は、すべての異端的教えを破壊します。
「信仰が強ければ病にならない」
「献金すれば災害を避けられる」
「悪霊が病の原因」
「行いで運命が変わる」
これらは共通して神の主権をみとめない、人間中心 です。
しかし聖書は、病も災害も死も、神の二つの目的のどちらかを必ず表す摂理と教え、反対に人間中心を完全に否定します。
6. まとめ:病・災害・死は、二つの道のどちらかを必ず示す
同じ病が、ある人には聖化となり、他の人には裁きとなる。
同じ災害が、ある人には信仰を深め、他の人には不信仰を固める。
同じ死が、ある人には栄光の入口となり、他の人には義の宣告となる。
神は罪の原因ではない。しかし、神はそれをも利用する。出来事は一つでも、その意味は二つ。
すべては、「神の恵みの栄光」と「神の義の栄光」を現すため。
「主は憐れみ深く、正しい方。」(詩篇116:5)
「すべては神に帰する。」(ローマ11:36)
病・災害・死は、恵みか義か、そのどちらかの摂理です。
なぜ、神は愛であるならすべての人々を救わないのか?この質問は人間中心主義の頂点。
聖書は静かに語る。神は聖なる方、神の本質は聖、聖の実行は義、神の愛は聖、義の土台に上にある、
義のない、愛は偽り、恵みは愛である。憐れみと慈しみは神の自由な御心による選び、
聖は神のご性質であり、義はその実行。それは神が必ず行う。神の選ばれた者だけ。
選ばれた者にとって病・災害・死が恵みの手段となるのは、彼らがキリストと結び合わされており、父なる神が御子に結ばれた子どもたちを、結合の恵みによって懲らしめ、清め続けておられるからです。
しかし、わたしたちは知らなければならない。神は不信仰の者にも、太陽、雨、家庭、文化、秩序などの「良きもの」が実際に与えられている。
それを「共通恩寵(common grace)」と呼ぶ。神は不信仰者にも良いものを与え続ける。しかしそれさえ最終的には、神の義と怒りを証しするものになりうるし、悔い改めへの外的呼びかけでもある。
彼らが最後の裁きまで悔い改めなかった場合、受けてきた“良きもの”そのものが、神の怒りの正しさを証言する。
パウロの言葉:ローマ人への手紙 2章4節
「それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」
「私はあなたの心を判断しない。しかし罪の道は必ず破滅へ導く。だから悔い改めよ。」
Soli Deo Gloria
ただ神にのみ栄光がありますように

