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「救いと教会 ― 教会との結合」

  • thewordforyoujapan
  • 6月12日
  • 読了時間: 9分

「救いと教会 ― 教会との結合」 2025.6.8 礼拝メッセージ


 「教会に属していないと救われないのですか?」「救われたあと、自分に合った教会を選べばいいのでは?」この問いは、現代の教会、信仰者、すべての人々にとって非常に重要な問題です。

【第1:救いは信仰のみ、教会は救いの“結果”として与えられる】

まず、断言できます。 救いの条件に「教会所属」はありません。

「人は律法の行いとは関係なく、信仰によって義とされる」(ローマ3:28)

「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われた」(エペソ2:8)

人は、神の恵みによって、キリストへの信仰により義とされる。これがSola Fide(信仰のみ)の福音です。

スプロールも言います:“We are saved by grace alone, through faith alone, in Christ alone.”


【第2:神の選びから結合・内住まで ― 信仰者の教会への召命】

神の救いは、以下のような一つの鎖のように結ばれています:

・予知(前もって知る)―ローマ8:29

・予定(あらかじめ定める)―ローマ8:29

・召命(召す)―ローマ8:30

・再生(新しく生まれる)―ヨハネ3:5「御霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできない」

・信仰―ピリピ1:29(信仰は与えられる)

・悔い改め―使徒11:18(悔い改めは神からの賜物)         

・義認(義と認める)―ローマ5:1

・聖化(聖い者に変えられる)ローマ6:22

・栄化(栄光を与える)―ローマ8:30     

1)救いの御業の目的は個人の救いを通して、神の栄光がこの地上に現れること私たちは、神との選びにおいて、キリストのからだなる教会に計画され、召され、結合されているのです。「私たちは、神の御心により、御子にあって前もって定められ…」(エペソ1:11)「教会はキリストのからだであり、すべてをすべてで満たす方が満ちておられるところです」(エペソ1:23)


2)信仰者は、キリストと結合し(1コリント6:17) 霊によって新しく生まれ(ヨハネ3:5)、

信仰と悔い改めを神から与えられ(ピリピ1:29, 使徒11:18)

その結果として教会という共同体に結合される(1コリント12:13)

「ひとつの御霊によって、私たちは皆、ひとつのからだにバプテスマされ…」(1コリント12:13)


3)さらに、父・子・聖霊の三位一体の神が、信仰者のうちに永遠に住まわれます。

・「わたしたちは、御父と御子が、その人のところに来て、住まう」(ヨハネ14:23)

・「キリストがあなたがたのうちにおられる」(コロサイ1:27)

・「あなたがたのうちに住まわれる聖霊」(ローマ8:11)


4)真の信仰者たちは神の神殿とされる

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊が宿っておられる」(1コリント3:16)

結合(Union)は、一度きり、全人格的、契約的に、有機的にキリストに結ばれたこと。

内住(Indwelling)は、神が信仰者のうちに臨在され続けること。ペンテコステの聖霊降臨の重要性はここにあります。 ➡ この結合、内住は教会が生まれることの土台となる。



<結合と内住の違い>

区分

結合(Union with Christ)

内住(Indwelling of God)

定義

全人格・契約・有機的な結合。再生と同時に成立

結合に基づく神との霊的交わり

時期

再生と同時、一度限り

継続的に続く

主体

キリストとの関係(位置)

三位一体の神の臨在(経験)

聖句

1コリント6:17、ローマ6:5

ヨハネ14:23、ローマ8:10、2コリント13:5

 

 

【第3:キリストの内住 ― 教会と信者における現実】

「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」(コロサイ3:11)

この御言葉は、単なる象徴ではない。再生された者には、実際にキリストご自身が聖霊を通して内住している。

・信者の心の中に、キリストが住まわれる

・教会全体に満ち、満ちるキリスト

・その結果、私たちは内から造り変えられていく(これが「聖化」)


【第4:なぜ「あとから教会を選ぶ」ではいけないのか?】

「救われたあと、自分に合った教会を探せばいいのではないか」「教会に行かなくても、個人的に礼拝して信仰があれば十分」一時的な迷いや偽りの教会で傷を負った場合を除き、

・長期にわたって教会を拒絶し、悔い改めず、交わりを避けるなら、

➡ 聖書の基準から見て、その信仰は偽である可能性が極めて高い。

➡ その人は「名ばかりの信者(ノミナル・クリスチャン)」か、あるいは

➡ まだ再生に達していない「自然の人」である

➡現代の自己中心的な個人主義の影響

スプロールはこう警告:“The church is not a spiritual shopping mall. It is the body of Christ, ordained by God.”教会は「霊的なショッピングセンター」ではありません教会は神により定められているキリストのからだです。

 

【第5:結論 ― 教会は「選ぶ場所」ではなく「結合された命」】

・組織教会に属さないと救われない? → ❌ それは異端的

・教会は信仰に関係ない? → ❌ それも聖書に反する

✅ 救いとは、キリストに結ばれること。そしてキリストに結合されるとは、キリストのからだである教会に結合されたということです。

➡ あなたは、信仰を与えられた、その瞬間から、神の永遠のご計画の中で「教会に召された者」


【終わりに ―教会とは何か?】

あなたが本当に救われているなら――キリストは、あなたのうちに住んでおられます。そして、あなたはキリストのからだである教会に結合されています。それはあなたの聖書の教義の理解が浅くとも深くと全く関係ありません、結合されています。これはまさに、あなたがキリストの十字架の御業に結合されていること、復活に結合されていることと同じです。

 

➡ それは 「私は芯の芯まで腐っています。助けて、イエス様、どうかわたしを憐れんでください!!」

と言う心からの叫び 神から与えられた憐みと恵みより与えられた信仰より神に義(神の御前で正しい)とされることから来ています。最後の望み、イエスキリスト、それ以外になにもありません。


➡ この福音の現実を信じてください。

✨ 「教会は、キリストのいのちが満ちあふれる真の信仰者たちの集まり」

✨ 「真の信仰者とは、キリストの内住によって造り変えられる者」

「だから、教会を信じた後で選ぶとか、行くとか、行かなくても信仰生活はできるとか言うような次元の話は聖書的に間違っています。」

真の信仰者たちは神により、教会に計画され、選ばれ、新たに生まれ、信仰によって生きるのです。

そして神の栄光を信仰者たちが集まり、ともにほめたたえ、イエスの福音をこの地上で延べ伝えます。

それが神の教会です。 

 

 

<神に栄光をほめたたえる教会>

  • エペソ 1:6

「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」

  • エペソ 1:12

「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」

  • エペソ 1:14

「聖霊は、私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」


パウロの祈り ― 教会がキリストを知るために

エペソ 1:18–19

パウロは、教会が

  1. 神の召しによる望み、

  2. 聖徒が受け継ぐ栄光、

  3. 信じる者に働く偉大な神の力を「知る」ように祈っています。


R.C.スプロール/ジョン・マッカーサーの要約的解説

キリストを知るとは

「キリストをかしらとする神の主権と結合によって、単なる聖書知識の習得ではなく、選びから栄化に及ぶ救い全体において

 

・霊的再生の現実、

・神の力の体験、

・キリストの愛の深い理解、

 

そして キリストをかしらとし、そのからだである教会との結合 によって、信仰者が“神の満ち満ちた豊かさ”に満たされることを意味する。」


キリストと教会

  • エペソ 1:22

「神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会にお与えになりました。」

宇宙、時間、霊的な世界、すべての被造物の主権はキリストにあり、キリストは教会のかしらである。

  • エペソ 1:23

「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」

 

キリストと教会 ― 宇宙の主権と教会の栄光の器

(エペソ1章・コロサイ3章より)

エペソ書とコロサイ書は、キリストの宇宙的主権と教会との関係を壮大なスケールで描いています。

 

エペソ1:22–23では、神がキリストを「すべてのものの上に立つかしらとして教会にお与えになった」と語られています。

宇宙、時間、霊的世界、すべての被造物は、キリストの御足の下に従えられています。

そしてこの万物の主権者であるキリストが、教会においてかしらとして与えられているのです。

「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」(エペソ1:23)

 

この御言葉が語る通り、教会はキリストの満ち満ちた臨在の現場であり、ただの集会や組織ではなく、神の救済のご計画が現実に働いている契約共同体です。

これは神の臨在が教会において具現化されている証しと理解されます。

 

コロサイ書はこの主題をさらに具体的に描き出します。

「そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」(コロサイ3:11)

 

ここで語られているのは、キリストの臨在があらゆる違いを超えて、教会を一つのからだとして統合するという現実です。人種や文化、地位を越えたキリストにある新しい人(再創造)の共同体としての教会こそ、神の栄光を表す場所なのです。

さらに続く3:16では、次のように命じられます。

「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。」

 

これは「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と同義であり、キリストの臨在は御言葉と聖霊によって教会のうちに住まわれていることを示しています。ジョン・マッカーサーは、「満たしとは感情的高揚ではなく、神のことばに支配された状態である」と語っています。

RCスプロールも、「教会における“満たし”とは神の真理によって構造的に統治される臨在であり、それは再生された民が共有する契約の現実である」と述べています。


🔚 結論

キリストは全宇宙の主であり、その主権をご自身のからだなる教会に注いでおられます。教会は、みことばによって建てられ、聖霊によって満たされ、キリストの栄光をこの地に表すために召された神の民です。


➡ 文化や身分の差異は意味持たず、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」という現実が、「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。」と言う命令とお互いに響きあいながら、愛と赦し、感謝と賛美によって変えられて教会に生きられていきます。

これこそが、「すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところ」(エペソ1:23)の意味であり、私たちが属するキリストのからだとしての教会の真の本質なのです。


Soli Deo Gloria ― ただ神にのみ栄光を。

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