「この岩の上に、わたしはわたしの教会を建てる」
- thewordforyoujapan
- 6月12日
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更新日:8月11日
「この岩の上に、わたしはわたしの教会を建てる」― マタイ16:13–18より 2025.6.10みことばをあなたに
「私は芯の芯まで腐っています。イエス様、どうか助けてください。このような者をあわれんでください。」
この叫びが心の底から湧き上がるということは、いったい何を意味しているのでしょうか?
これは単なる悲鳴でも、芝居がかった感情表現でもありません。
これは、神によって砕かれた魂の叫びであり、聖霊によって与えられたまことの信仰告白なのです。
すなわち、これが信仰と悔い改めそのものです。
この信仰と悔い改めにより、神はその人を義と認めてくださいます。
これを信仰義認と呼びます。
【ペテロの信仰告白とキリストの宣言(マタイ16:13–18)】
「あなたは、生ける神の御子キリストです」
「わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」
ペテロのこの告白は、イエスがキリストであり、神の御子であるという信仰の核心を表しています。
そして主は言われました。
「この岩の上に、わたしの教会を建てる」
ここで言う「岩」とは、ペテロという人物ではなく、
彼の語った信仰告白そのもの――つまり、キリストご自身とその救いの福音を指しています。
【ロードシップ・サルベーション:主の主権による救いと教会の土台】
ジョン・マッカーサーは次のように語ります:
“真の救いとは、イエス・キリストを主(Lord)として告白することである。それは、人が自分の意志で決断するものではなく、神によって心が砕かれ、主にひれ伏すしかないと認めさせられた者の叫びなのだ。”
「イエスは主です」という言葉は、自分の力で言えるものではなく、
再生された者の信仰の実です(1コリント12:3参照)。
「イエス様、あなたしかいない」という叫び。
「私は腐っています」という自己絶望の中から出る祈り。
これこそが、まことの教会が建てられる岩なのです。
【信仰義認の恵みと教会のかたち】
改革神学はこう教えます:
「義とされる(Justified)」とは、罪人が神の前で正しいと宣言されること。
それは、キリストの完全な義がわたしに転嫁された結果であり、
罪人が信仰を通して神から受ける恵みの賜物です。
この信仰はどこから来るのでしょうか?
エペソ2:8は明確にこう語ります:
「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。
それは自分自身から出たことではなく、神の賜物です。」
つまり、信仰は人間の選択や努力ではなく、神の賜物です。
ゆえに、その信仰によって義とされた者たちの集まり――教会とは、神のわざそのものであり、
人間の制度や組織ではありません。
【教会とは、信仰告白に結ばれた者たちの契約共同体】
教会は、「信じたから入れるクラブ」ではありません。
神の永遠のご計画の中で、選ばれ、再生され、信仰によって義とされた者たちが、
キリストに結合されて生きる契約的な命の共同体です(エペソ1:22–23参照)。
「教会はキリストのからだであり、すべてをすべてで満たす方が満ちておられるところです」
イエスはこう語っておられるのです:
「この信仰の告白、この信仰の上に、わたしの教会を建てる」
「イエスは主です」、つまり、
「私は芯まで腐っています。イエス様、助けてください」――
この告白こそが、教会の真の土台なのです。
【この土台は神の業である】
教会に通えば救われるのでしょうか?
親や友だちに合わせて教会に来ているだけではないでしょうか?
ただ雰囲気が好きで教会に来ているだけではありませんか?
神はあなたに問いかけています:
「あなたの心の底から、
『私は腐っている。神よ、私の希望はあなたしかいない』と叫んだことがあるか?」
この信仰の叫びこそが、
キリストがご自身の教会を建てられる“岩”なのです。
そして、あなたが今日もなお、この叫びの中に生きているなら――
あなたは主の教会の一部なのです。
まとめ
教会は、人間の組織や制度ではありません。
教会とは、神の恵みによって信仰が与えられた者たちの集まりです。
イエス・キリストが語られたその岩とは――
「私は芯まで腐っています。イエス様、どうか助けてください」
というまことの信仰の叫びなのです。
この叫びの上に、キリストは今日もご自身の教会を建てておられます。
教会とは、立派な建物の中にあるものではありません。
十字架が立っている場所にあるわけでもありません。
教会とは、「私は本当に罪人です。どうかこんな私をあわれんでください」と告白する者たち自身なのです。
