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コリント人への手紙 第一 7章13~15節 講解
"また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。
しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。"
「主語=神」、「結合が源泉」、「人間中心主義の完全否定」の三原則


病、災害、死に対する神の主権1 ヨブ記
病、災害、死に対する神の主権がどのようなものであるかを聖書から理解して行きましょう。
選ばれている人々と選ばれていない人々、それぞれに病、災害、死の意味は大きく変わります。このことを最初に心において忘れないようにしてください。


不品行を避けなさい
律法主義によって人の心のなかは、むしろ「やってみたい!」って欲望が強くなってしまうのです。
それは、人間が自分の力で罪の性質に勝とうとするやり方の結果です。
人間中心の律法主義、必ず、人間は罪の性質に負けるとパウロは教えています。
聖書はどう教えているのでしょうか?
日本語の新改訳聖書にはⅠコリント6:18にこう書いてあります。 注意して読みましょう。
「不品行を避けなさい」 この教えの意味を人間中心の考え方で読んではいけません。
ここで使われている「避けなさい」という言葉はギリシャ語では「φεύγε(フェブゲ)」、「逃げなさい!」という意味です。
新改訳聖書の「避けなさい」と言う表現は自分の意志の力で努力して避けるように聞こえてしまいます。それは原語から検証すると良い解釈ではありません。
何度も言いますが、自分の力で努力して良いことを行い、義を得ようとする行為は律法主義です。律法主義は自分の力で戦うように求めます。そして律法主義では、必ず、主語は「私」が主語、自分になります。
自分は律法主義に陥っているかどうかの見極め方はとても簡単


日本における決断主義的伝道の歴史
世界的な流れと日本におけるキリスト教の歴史をみると明治時代から現代まで日本で伝道された福音は人間の自由意志とその選択により救われると言う決断主義の福音でした。SNSがない時代においては神の主権による福音を聞くことは極めて稀なことだったと言わざるを得ません。
神は語る者を再び立てる。神は今も生きておられ、御心にかなう者を必ず立てられます。
その者は、
人の承認を第一とせず、
制度に逆らうのではなく、
制度を福音のために改革し、
十字架と義認の真理を、何者をも恐れずに語ります。
「ただ主の召命と御言葉によって語る者」
それはRCスプロールやジョン・マッカーサーのように、福音の純粋性に生きた者たちです。
あなたは今、何をなすべきでしょうか?
語る召命を受けたなら、沈黙してはいけません。
教会の制度に仕えるなら、語る者を見分け、正しく立てなさい。
教会に属する信徒なら、語る者を支え、聖書の制度回復のために祈りなさい。


「この岩の上に、わたしはわたしの教会を建てる」
「私は芯の芯まで腐っています。イエス様、どうか助けてください。このような者をあわれんでください。」
この叫びが心の底から湧き上がるということは、いったい何を意味しているのでしょうか?
これは単なる悲鳴でも、芝居がかった感情表現でもありません。
これは、神によって砕かれた魂の叫びであり、聖霊によって与えられたまことの信仰告白なのです。
すなわち、これが信仰と悔い改めそのものです。
この信仰と悔い改めにより、神はその人を義と認めてくださいます。
これを信仰義認と呼びます。


「救いと教会 ― 教会との結合」
「教会に属していないと救われないのですか?」「救われたあと、自分に合った教会を選べばいいのでは?」この問いは、現代の教会、信仰者、すべての人々にとって非常に重要な問題です。
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