不品行を避けなさい
- thewordforyoujapan
- 10月11日
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2025.10.5 豊川の家の教会礼拝メッセージ
1.律法主義:「見るな!」
コロサイ人への手紙 2章20~22節
"もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。
これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。"
「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めは、禁止命令です。
禁止命令。 聖書はこれらの考えを律法主義と呼びます。律法は神が定めました。しかし、「律法主義」とは、神の恵みではなく「自分の努力・行い・規則の遵守」で義とされる(神に認められる)と考える誤りです。
このような命令では人の心を外側から縛りますが、心の中の欲は決してなくなりません。律法主義はむしろ、人間の欲を強く刺激します。
ローマ人への手紙 7章7~11節でパウロはこう言います。
"それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が隣人のものを「欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。
しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、
私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。
罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。
律法主義によって人の心のなかは、むしろ「やってみたい!」って欲望が強くなってしまうのです。
それは、人間が自分の力で罪の性質に勝とうとするやり方の結果です。
人間中心の律法主義、必ず、人間は罪の性質に負けるとパウロは教えています。
2. 神の命令は「逃げなさい!」
聖書はどう教えているのでしょうか?
日本語の新改訳聖書にはⅠコリント6:18にこう書いてあります。 注意して読みましょう。
「不品行を避けなさい」 この教えの意味を人間中心の考え方で読んではいけません。
ここで使われている「避けなさい」という言葉はギリシャ語では「φεύγε(フェブゲ)」、「逃げなさい!」という意味です。
新改訳聖書の「避けなさい」と言う表現は自分の意志の力で努力して避けるように聞こえてしまいます。それは原語から検証すると良い解釈ではありません。
何度も言いますが、自分の力で努力して良いことを行い、義を得ようとする行為は律法主義です。律法主義は自分の力で戦うように求めます。そして律法主義では、必ず、主語は「私」が主語、自分になります。
自分は律法主義に陥っているかどうかの見極め方はとても簡単です。
罪を避ける行為の主語が「あなた」はとなるとき、あなたは律法主義、人間中心となっています。 「私は避けなければならない」、「あなたは○○をしなければならない」 これは人間の欲望と「自身」の戦いです。そして「あなたは」必ず、負けます。
しかし、主語が「私には律法を守ることはできない、でも主よ、あなたの律法に従いたいです」「イエスさま、助けてください」と自分をあきらめ神にすがるとき、中心はもはや「あなた」ではなく、「神」となっています。その時、あなたは御霊によって歩いています。それはもはや、あなたの欲望とあなたの戦いではなく、あなたの欲望と「御霊」の戦いです。そしてあなたは「御霊」が勝利するのを目撃して驚き、神をほめたたえる者となるでしょう。
「逃げなさい!」 「不品行から逃げなさい!」
「私には律法をまもれない、イエスさま、私を助けてください」 神の主権、神が中心におられます。
その欲望に襲われる、まさにその時とき、「欲情の思い、考えの衝動」からあなたの心は天を仰ぎ、神に祈りに入ります。「祈りのなかで神に助けを求めること」 自分をあきらめ、イエスさまに助けを求めるのです。
•動画を前に「自分で頑張ってがまんする」のではなく、「神のもとに逃げなさい」
•ゲームを前に「自分で頑張って我慢する」のではなく、「神のもとに逃げなさい」
•人を憎む中で「自分で許さなくてはと頑張る」ではなく、「神のもとに逃げなさい」
•人生の不安のなかで苦しむのではなく、「神のもとに逃げなさい」
神への疑い、心配、人生への不安、人への怒り、憎しみ、許さない心、嫉妬、お金、健康、名誉、不品行への思い、世を愛する心、そのような思いから 「すぐに、逃げなさい!」
これは神さまが教える戦い方です。
老人、大人、子ども、ユダヤ人、ギリシャ人、日本人、金持ち、貧乏人、健康な人、病人、障害者の違いはありません。
すべて救われている人は「罪から逃げなさい!」
「欲情の思い、考えの衝動」からあなたは心で天を仰ぎ、祈りに入ります。
「逃げなさい」、祈りのなかで神に助けを求めるのです。その思いから、出てくる、抜けなさい。
3. 聖書における「逃げなさい」の意味
Ⅰコリント6:18
「不品行を避けなさい(φεύγετε τὴν πορνείαν)」
→「避ける」は「走って逃げる」「距離を取る」という強い命令。
しかし、単に体の行為を止めるのではなく、その欲望の心に入らないという意味を持ちます。
Ⅱテモテ2:22
「若い時の情欲を避け、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」
→逃げるとは、別の方向へ心を向けること。
罪から逃げると同時に、神の義と愛を追い求める方向転換が含まれています。
1)スプロールの説明:罪の欲は心の戦場
スプロールは『The Holiness of God』の中でこう言います:
「罪はまず心のうちに巣をつくり、思いと感情を支配する。
逃げるとは、思考の中で罪が根を下ろす前に、その場から退くことである。」
つまり、逃げるとは「欲望の思考過程にとどまらないこと」。
罪の映像や記憶、快楽の想像、復讐の感情に心が入りかけたとき、それを考え続けない・追わない・掘り下げない。そこから「出てくる」「抜ける」ことが、聖書の教える「逃げなさい」です。
2)神学的まとめ
「逃げる」とは律法的な「しない努力」ではなく、
神の主権と恵みのもとへ心を移す信仰の行為です。
人間中心では「自制の努力」になるが、神中心では「神の支配の中へ退避する信仰」になる。
実際にはこうです:
「罪から離れる」=「神の支配に入る」
4.神に従い、悪魔に抵抗する、神に近づくこと、逃げることは同義
ヤコブ4:7–8"ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。
1)ここでヤコブは4つの命令を出していますが、文法的にも神学的にも「神に従う」→「悪魔に抵抗する」→「神に近づく」は「神へ逃げる」 一本の流れです。
つまり、「悪魔に抵抗する」とは、神に従うことの現れであり、「神に近づく」とは、逃げることの目的地です。
2) 「神に従う」と「悪魔に抵抗する」
R.C.スプロールは『Holiness of God』でこう説明します:「神への服従は、単なる服従行為ではなく、主権の認識である。神の権威を受け入れることは、同時にサタンの権威を拒否することである。」
したがって「神に従う」と「悪魔に抵抗する」は同義的関係にあります。従順は抵抗であり、抵抗は従順の形です。
3) 「逃げる」と「神に近づく」
パウロはⅠコリント6:18で「逃げなさい(φεύγε)」と命じます。この「逃げる」は単に後退ではなく、方向を持った逃走です。つまり、罪や悪魔から逃げるとは「神に向かって走る」ことです。
ジョン・マッカーサーはこう言います:
「誘惑から逃げることは臆病ではない。それは信仰の積極的行動であり、神の臨在に避難することだ(refuge in His presence)。」
したがって、「逃げる」と「神に近づく」は異なる命令形でも、内容的には一体です。逃げる方向が神に向かい、それは神に近づく行為そのものです。そして神、ご自身が助けてくださいます。
4) 福音が教える逃げ方(フェブゲ:φεύγε)
聖書が「逃げなさい」と命じるとき(Ⅰコリント6:18、Ⅱテモテ2:22)、それは単なる外的行動―― その場から離れるという行為―だけを意味しているのではありません。
それは、心の中に生じた罪の欲望・衝動・思考から逃げることを意味しています。R.C.スプロールはこのことを、「心の中の戦場から逃げる霊的行為」と呼びました。
罪はまず心の中で形を取り、思い・感情・意志を支配します。だから神は、選ばれた者の心の中に「逃げなさい」という思いを与えられます。この“逃げなさい”という思いは、神の恵みの働きであり、聖霊が内側でくださる警告の声です。
あなたは、その声を聞くときにわかります。
「ここにとどまってはいけない」「考え続けてはいけない」「見続けてはいけない」—その御霊の思いに逆らわず、すぐに従って逃げることです。
そのとき、こう祈ってください。
「神さま、私は無力です。自分の力では勝てません。どうか助けてください。」
それは敗北ではなく、信仰の行為です。逃げると言うことは、信仰によって神の主権へ、神の支配の中へ、天と地と造られた神へ、すべてを支配しておられる方、良いことも、悪いことも、涙も喜びも、疑いも罪も死も私たちの人生のすべてを支配しておられる方へ、このお方へ逃げ帰ることだからです。
あなたは「この神の主権とキリストと結ばれている」ことを思い出してください。キリストはあなたの罪のために十字架で死なれ、復活されました。そのキリストがいつもあなたと結合されており、御霊によって「そこから逃げて私のもとに来なさい!」と命じておられるのです。その思いに従う力さえ、神があなたに与えてくださいます。だから、逃げるときにあなたは一人、孤独ではありません。逃げる者を支える方、すなわちキリストがあなたと共におられるのです。
5. 罪の性質とは?
聖書は、私たちに「罪の性質」があると教えます。これは単なる悪い習慣ではなく、アダムから受け継いだ根本的な性質です。
ローマ7:18 「私のうち、すなわち私の肉のうちには、良いものが住んでいない」
罪の性質は意志・思い・感情、体に働きかけ、そしてそれによって造られたものを通して働きかけます。 「欲しい、楽しみたい、見たい、自分は正しい、怒り、嫉妬、嘘、無責任」――心の奥からわき上がる衝動。これが「罪の性質」の姿です。
6. 誘惑と罪の誕生
ヤコブ1:14–15はこう言います。「人が誘惑されるのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」罪は外から突然やってくるのではありません。心の内側の欲が呼び水になり、外の誘惑に結びついて「罪」が生まれるのです。
7. 本当の戦いの場
だから戦いの本当の場所は、外側の世界ではなく 心の中 です。
•律法主義は心の外側を縛りますが、心を変えることはできません。
•神の命令(「逃げなさい!」)は、心の中の罪の性質に対する抵抗です。
スプロールはこう言いました。
「罪との戦いは欲望の戦いだ。欲望を直視して立ち向かうのではなく、その欲から逃げることが戦いの勝利なのだ。」
8. 福音による勝利
福音は「罪を避ける方法」を教えるのではなく人を新たにキリストの荷姿に変えていきます。
•キリストの死と復活によって、罪の支配から解放された(ローマ6:6)。
•キリストに結ばれている者には、御霊が「逃げなさい!」と内側で声を与える。
•その思いに従う力も神から与えられる。
だから「逃げる」とは単なる方法論ではなく、 神の恵みによる従順の実、それは聖化 なのです。
9. まとめ
行為 | 神学的意味 | 対象 | 聖句 |
神に従う | 神の主権を認める、神の主権に従う) | 神 | ヤコブ4:7 |
悪魔に抵抗する | 偽りの支配の教え(人間中心)を拒絶する | サタン | ヤコブ4:7 |
逃げる | 神の主権、支配の教え(福音)に逃げ帰る | 罪の性質・誘惑 | Ⅰコリ6:18、Ⅱテモ2:22 |
神に近づく | ご同上 | 神 | ヤコブ4:8 |
福音が教える「逃げなさい」――神の主権と御霊の導きの中で
「罪からにげる」とは、まず、神さまがすべてを支配しておられるということを思い出すことです。
神さまはキリストにあってあなたを造り、選び、キリストと結合しました。神はあなたをいつもその御手の中で守っておられます。
だから、誰もあなたを罪に定めることは出来ません。また、罪があなたを支配することもできません。
「罪から離れる」というのは、自分の中に起こる罪の思いや欲望から心を離し、
すべてを支配しておられるあなたの神さまのもとに逃げ帰ることです。
それは、新しく神さまの支配に「入る」ということではありません。
あなたはもうすでに、キリストと結ばれて、神さまの恵みの支配の中に生かされている人だからです。だから、「罪から離れる」とは、キリストと結ばれているという現実に、いつも心を向ける状態ことです。神さまの恵みの中にとどまり、その支配の中で安心して従うことです。
そのとき、あなたの心の中で御霊が静かに「逃げなさい」と語られます。その御霊の思いは、神さまがあなたを清くしようとしておられるしるしです。御霊は「いのちの御霊の律法」(ローマ8:2)として、外から命令するのではなく、あなたのうちでいのちの力として働き、志と行動を与えてくださる方です。
ピリピ2:13にはこう書かれています。
「神は、御心のままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、また行わせてくださるのです。
すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」
ですから、御霊が「逃げなさい」と心に語るとき、それはあなた自身の決意ではなく、
神の恵みの御手が、あなたを罪から守ろうと動いている瞬間です。
その御霊の思いがあなたの心に「逃げなさい」と現れたら、つぶやかず、疑わず、ためらわずに、すぐ従いましょう。御霊はあなたに志を与えるだけでなく、従う力と喜びも与えてくださいます。
逃げるという行為は、「イエスさまが私の主です。私の神です。」と心から信頼して、御霊の導きに従ってその肉の思いから、神の主権、神のご支配の中に逃げ帰る信仰の行為です。

