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病、災害、死に対する神の主権1 ヨブ記

  • thewordforyoujapan
  • 10月17日
  • 読了時間: 6分

2025.10.12  豊川の家の教会 礼拝メッセージ 

病、災害、死に対する神の主権

 

病、災害、死に対する神の主権がどのようなものであるかを聖書から理解して行きましょう。

選ばれている人々と選ばれていない人々、それぞれに病、災害、死の意味は大きく変わります。このことを最初に心において忘れないようにしてください。

 

Ⅰ.異端の教えの主張

 1. 神の主権を認めない考え方の主張

 「病気は罪の結果である。だから悔い改めれば癒される。」

この誤った教えはしばしば「因果応報の教え(retribution theology)」と言われます。この教えは旧約のヨブ記の友人たちが代表として聖書の中に現れます。

  ヨブ記の中で、ヨブの友人たち(エリファズ・ビルダデ・ツォファル)が「ヨブの苦しみは罪の罰」だと主張して責める場面がいくつもあります。

  ・エリファズの発言(ヨブ記4:7–8)

「思い出してみよ。罪のない者が滅びたことがあるか。どこで正しい者が断たれたことがあるか。私の見たところでは、不義を耕し、害悪の種を蒔く者は、それを刈り取る。」

エリファズは「人は罪を犯すから苦しむ」と主張し、ヨブの苦難を「彼の隠れた罪の当然の報い」と見なしています。

  ・ビルダデの発言(ヨブ記8:4–6)

「もしあなたの子どもたちが神に罪を犯したのなら、神は彼らをその咎のために捨てられたのだ。だが、もし、あなたが神を熱心に求め、全能者に祈るなら、あなたが潔白で正しいなら、神はすぐにあなたのために立ち上がり、あなたの住まいを回復してくださるだろう。」

ビルダデはヨブの子どもの死を「彼らの罪の結果」と断定し、ヨブ自身も「悔い改めれば回復できる」と因果応報的に語ります。

 ・ツォファルの発言(ヨブ記11:4–6) 「あなたは言う、『私の教えは純粋だ。私は神の前に潔白だ』と。しかし、どうか神が語り、あなたに答え、知恵の奥義を明らかにしてくださるように。神があなたの罪よりも少なく罰しておられることを知るがよい。」

ツォファルは、ヨブが「むしろ本来受けるべき罰より軽く罰されている」と言い放ち、ヨブの病と苦しみを神の罰と決めつけます。

 

神の最終的な裁き(ヨブ42:7)

さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主は手マン人エリフェズに仰せられた。

「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりのともに向かって燃える。それは、あなた方がわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ・

(ヨブ記42章7節)

 

神ご自身が、友人たちの教え―神は「罪が病の原因である」という報いの神学―を誤りとして神の怒りを燃やされています。

 

<まとめ>

登場人物

聖句

内容

エリファズ

ヨブ4:7–8

「罪のない者が滅びたことはない」=因果応報の教え

ビルダテ

ヨブ8:4–6

「子どもたちが罪を犯したから死んだ」

ツォファル

ヨブ11:4–6

「神はおまえの罪より軽く罰している」

神の裁定

ヨブ42:7

「おまえたちは真実を語らなかった」=異端へ教えへの怒り

この一連の流れが、まさに「罪が原因だとして病を説明する異端の教えの原型」です。

ヨブ記全体は、「義人の苦しみは罪の罰ではなく、神の主権的摂理の中にある」という真理を啓示しています。

 2. ヨブの友達3人の理屈構造

⑴.神は正しい者を祝福し、罪人を罰する。

⑵.病気は罰である。

⑶.ゆえに病気になった人は、何らかの罪を犯している。

⑷.その罪を悔い改めれば、病気は癒される。

  この理屈は一見「正義の神」を擁護しているように見えるが、実際には神の主権を人間の行いの下においています。 神の怒りはこの異端の教えの上にあります。

 Ⅱ. 聖書における誤りの指摘

 1. ヨブ記の例(ヨブ2章)

 ヨブの友人たちは、「ヨブが苦しんでいるのはヨブが行った罪のせいだ」と非難した。しかし神は明言される: 「あなたがたはわたしについて真実を語らなかった」(ヨブ42:7)すなわち、人の行いの罪によって病や苦しみが来たと結びつける教えは神の主権を卑しめるものであり、神への冒涜である。

  2. ヨハネ9:1–3

「この人が生まれつき盲目なのは、本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現れるためである。」

 イエス・キリストは、罪と病の単純な因果関係を完全に否定された。病は神の栄光の現れの機会であり、神の摂理のもとにある。

  Ⅲ. 現代にある因果応報 異端の教えと聖書の教え

 1.因果応報の教えは、誤った神学にあり、福音を「因果応報」にすり替え教える。

異端の教え

内容の特徴

根本的誤謬

繁栄の神学

信仰と献金によって病と貧困から解放される

神の恵みを報酬化する「取引の神」像

先祖の罪の呪い

先祖の罪の呪いが子孫の病気として現れる

罪責と罰の関係を「血統」に拡大する

悪霊の攻撃

病気は悪霊による攻撃、祈りで追い出せる

悪霊に因果を転嫁し、神の摂理を否定

律法主義

神の祝福・呪いを行いで決定する

義認の恵みを破壊し、十字架の意味を無化

これらはいずれも、神の主権を否定し、福音を人間の罪の結果、罰であると変える。

2. 聖書の教え

⑴.神の主権と摂理のもとにある病

病は信仰者にも、「未信者」にも神の摂理のもとで病は起こります。しかし、「目的」と「意味の現れ方」は、選ばれた者と未信者とで根本的に異なります。

⑵.普遍的摂理 ― 病はすべて神の主権下にある

カルヴァンは『キリスト教綱要』I.16章でこう述べています:「何ひとつ偶然はない。人の病も、災害も、死も、神の御旨の外では起こらない。神の手の外に出るものは一つもない。」ゆえに、信者も未信者も、病の出来事そのものは神の主権的摂理の下にあります。これは自然的因果ではなく、「創造主の統治秩序」に属するものです。

 ⑶.選ばれた者における病 ― 聖化の道具・父の訓練

ヘブル12:6–10は、信者に対して次のように語ります:「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子をむち打たれる。」

<カルヴァンはこれをこう解釈します>:「神は御子たちを罰するためではなく、御自分のかたちに似せるために鍛錬する。」 (『綱要』III.8.5) したがって信者の病は、神の怒りのしるしではなく、聖化と御旨の実現のための恵みの手段(discipline in love)です。神の父なる愛の中で、罪の残滓を清め、天への備えとして用いられます。

 ⑷. 未信者における病 ― 裁きの前触れ・悔い改めへの呼びかけ

一方、未信者の病も同じ摂理下にありますが、その目的は異なります。カルヴァンは『綱要』I.17.1でこう区別します:「神は同じ出来事をもって、信者を清め、悪人を罰する。」

 つまり、

     • 信者にとっての病=父の愛の訓練

     • 未信者にとっての病=神の義の警告、あるいは裁きの予告

 しかし、ここでもなお、神の慈愛は現れています。ローマ書2:4にあるように、「神の慈愛はあなたを悔い改めに導くためである。」神は病を通して、未信者にも悔い改めの機会を与えられるのです。

ゆえに未信者の病も、「無意味な苦痛」ではなく、神が救いへと招く「外的召し(external call)」としての摂理なのです。

 

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