コリント人への手紙 第一 7章13~15節 講解
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コリント人への手紙 第一 7章13~15節 講解 2025.11.30豊川の家の教会礼拝メッセージ
"また、女の人に信者でない夫がいて、その夫が一緒にいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。
しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。"
「主語=神」、「結合が源泉」、「人間中心主義の完全否定」の三原則
1. 聖書が語っている主語は「神」
■主語=神 とはこういうこと;
神が選ぶ
神が結ぶ
神が呼ぶ
神が生まれさせる
神が照らす
神が信仰を与える
神が義とする
神が聖とする
· 神が守る
神が栄光へ連れていく
この箇所は、結婚を人間の努力や選択の産物として読むと誤る。実際は神の摂理の下にある結婚を語っている
という大前提から読む必要がある。
「今日覚えてほしいのは一つです。
ここで『聖なるもの』とは、信仰者と結婚した未信者、その子どもは救われているという意味ではなく、神がその家庭を“神の「可視的契約領域」 「契約的な外形領域」 ”に置いておられることです。
神は、救われて真の信仰者となった者と未信者の結婚が生じる状況そのものをご自身の摂理として支配しておられる。ゆえに、パウロは「離婚せよ」と命じていない。
2. 各節は神が中心
1)13節「離婚してはいけません」
未信者の夫(妻)が、共に住み続けることを承知している場合、離婚してはならない。
これを神中心に読むと:神が認め、共に住まわせる。神が結んだものを人が勝手に壊してはならない。結婚生活は、神が継続させておられる秩序。ここで主語は「神が保たれる」、決して「人が夫(妻)を保つ」ではない。
2)神は「聖なるものとされている」
14節 信者でない夫は妻によって聖なるものとされており…
この聖なるものとは決して「未信者が救われている」という意味ではない。
未信者の夫(妻)のみならず、信者自体も芯まで罪人 これは聖書の出発点。
パウロは再生後の自分をこう語る:
「私は肉的で、罪ある人間です。」(ロマ7:14)
「わたしのうちに良いものは住んでいません。」(ロマ7:18)
「私は惨めな人間です。」(ロマ7:24)
信者はみな「結合の外側からキリストの聖を受けている」だけで、自分の内には“聖”はひとかけらもない。これがわからないと、自己義認へ暴走する。子どもに“自分の聖”を継がせるという異端に落ちる。聖書を誤解し、信仰と恵みの救いに混ぜ物を混入させるという深刻な異端に陥る。
3)「聖なるもの」とは 信者の内的な性質を指さない
14節でいう「聖なるもの」は本質的にきれい/敬虔/霊的に高いという状態ではない。
真の信仰者の本質は汚れ、「聖は神の義、キリストのみ」である。「結合ゆえにそのキリストの義が着せられる」。それが信仰義認。これは 結合(union with Christ)の絶対構造。
ジョン・マレーはこう言う:
「聖は人間の内側に由来しない。すべてキリストとの結合という源泉からくる。」
つまりクリスチャンの「聖」とは キリストの義のみ。ならば、未信者に「 キリストの義」はなく、「聖もない」
4)神は「キリストの義」を一人ひとりに与える。信仰者が神より与えられたキリストの義はその信仰者のみを義とする、決してそれはその配偶者、子どもを義としない。
14節の「聖なるものとされている」は信仰義認のことではないことは明白。
すなわち、再生の継承、伝承はない。義認は一回きり・永続的であり、その効果が親から子へ継承されることは絶対にない。信者の聖さは子へ継承されない。
ここを間違えるとローマ・カトリック化し、一部のプロテスタント教会の中でもこの考え方はある。
「親がクリスチャンだから → 子どもの救いへの継承」
「父親が有名な牧師だから → 子どもの信仰も素晴らしい」
「私はクリスチャンホームに生まれた → だから救われている」
このように血統、親の信仰、家庭環境により救いが継承されると言う誤った思想は、信仰義認の否定であり、異端の始まりである。信仰義認による救いは絶対に継承、伝承されない。親も子ども、老人も男も女も、ユダヤ人、ギリシャ人、自由人、奴隷、救われるのは、神の選びとキリストとの結合の以外にない。
「カルヴァンは、救いが家族単位で自動的に継承されるという考えを明確に否定している。
親の信仰が子どもを救うのではなく、救いは神が個々に選び、キリストとの結合を与えられることによると述べる(Inst.4.16.6–8)。
3.完全な堕落と神の義
1)すべての人の本性は芯まで罪に汚れている
「信仰義認による聖、キリストの義は神の賜物」
神が信仰と恵みを与えられ、キリストの義、すなわち聖が衣として与えられた結果、それは信仰者の人生において1度きり起こり、永遠に変わらない。親の信仰義認が子を救うことは決してない。
**ここは福音の信仰義認の中核であり、決して誤解することは許されない**
1コリント14節でパウロが言う「聖なるもの」とは、信仰義認によって与えられる神の義ではないことを繰り返し、明言する。
1コリント7章14節の「聖なるもの」とは
「神がその家庭を“神の秩序の中に置く”。つまり、神が信仰者の配偶者(未信者)の夫(妻)、子供はその神の秩序の中におかれる」と言うことである。
それは真の信仰者が家庭内に存在することによって現実となる。神がキリストと結合している真の信仰者を通して、その家庭を聖別、すなわち。分けのである。
これは神が「家庭」を聖別して、その領域を神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」として、そこに未信者の夫(妻)、子どもを置くことである。
2)「神の「可視的契約領域」 「契約的な外形領域」 に置くと言う意味はなにか?
【救いの内側と可視的契約領域の理解】
■【救いの内側 Invisible】
救われた者のみが属する領域
選び、結合(union)、再生、信仰、義認、聖化 ➡ 見えない神の領域
■【可視的契約領域 Visible】
可視的な外形領域と契約的な外形領域は同じことを言っている。神学者の表現方法。
<その領域>
礼拝の環境、聖書の言葉、祈りの声、親の福音、教会との接触、神の摂理による保護、良心への光 ➡ 目に見える神の領域
➡ 子どもは 契約の秩序・福音のメッセージ・祈り・教会に置かれている
**これは 救いの保証ではない**
神が恵みの手段を注ぎ込む「場所、すなわち、領域」に置いていること。
ここに置かれるということを「聖なるもの(hagios)」と言う。
◆ カルヴァン:
子どもは“契約の家に属する(external kingdom)”
カルヴァンの表現(Institutes 4.16.6–8):
「信者の子どもは、神の家に属する者として、異邦人の子どもとは聖別(区別)される。」
ここでカルヴァンが言う「属する」は、再生ではなく、家庭の外見的・制度的枠組みに置かれるという意味。
つまり:
内側=救い(選び、再生、信仰、悔い改め、義認、聖化、栄化
外側=「神の「可視的契約領域」 「契約的な外形領域」
(家庭にあるメッセージ・聖書・祈り・礼拝・教会・交わりなど)
◆ジョン・マレー:
神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」=神が恵みの手段を置く領域
「1コリ7:14 の“聖なるもの”は、救いではなく、
神がその家庭を“恵みの神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」”として扱われることを意味する。」
つまり:
子どもは救われているわけではない。しかし神はその家庭を“恵みの舞台”とする。神の福音が届く領域(sphere)に置かれる。
◆マッカーサー:
信者家庭は“光の下にある領域”
マッカーサー(1 Corinthians Commentary):
「キリストと結ばれている選びの民が家庭にいることで、家庭は“光のある領域”に置かれる。これは救いそのものではないが、神が摂理的に働かれる重要な場となる。」
「光のある領域」は「神の「可視的契約領域」 「契約的な外形領域」 の意味。
3)神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」に置かれると、何が起きるのか?
【1】完全な異邦の暗闇ではなくなる
子どもが
偶像支配
倫理崩壊
この世の王国の流れに完全に放置されない。
【2】福音の下に置かれる(means of grace)
聖書、礼拝、祈り、親の信仰、教会の交わり
これがジョン・マレーの言う “救いの手段”が与えられる領域と聖別される。
【3】祈りの対象になる(特別扱い)
信仰者の祈りは 契約的祈りであり、神はこれを特別に扱われる。
【4】道徳的・霊的な破滅への直行を“遅延・抑制”する
これはマッカーサー、スプロールが一致して語る。サタンの支配が絶対的にならない。良心が働く。堕落のスピードに抑制が働く。
【5】選ばれた子どもの場合、後の救いの「道筋」となる
これはとても意味深い。
救いの「道筋」=神が救いへ導くために使う舞台
救いの原因:永遠の結合(in Christ)と神の選び
救いの道筋: 神の秩序にある領域の恵み(福音・祈り・礼拝・教会)
改革神学ではこれを連帯的聖別(federal holiness)と呼ぶ。
再度、言う。
「神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」=「聖とされる」
**子どもが救われているという意味ではない**
神がその子を“神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」に置き、福音の光と恵みの手段の下で扱われるということ。
4.15節 神は言う「離れて行くなら、離れさせなさい」
1)信者でない者が離れて行くなら、離れさせなさい
神中心に読むと:神がその結婚を否定し決定された場合、未信者は去っていく。その場合、信仰者は「縛られる必要がない」。
つまり、神が結婚契約を解かれたという意味。これも主語は常に“神が結婚を結び、神が解く”。
2)「神は平和を得させようとして召された」
パウロが言う「平和」とは、感情的な平穏ではなく、神が秩序を保ち、混乱を終わらせる神の側の働き
すなわち:信者に“平和”を与えるために、神がその結婚を続けさせたり、あるいは終わらせたりされる
という意味。
それは、神が未信者を去らせるとき、あなたは“自分の失敗”ではなく、神が平和のために結婚の枠組みを解かれたのだと受け取ること。
ここでも主語は明確に 神のみ。
「神が召し」「神が平和を与え」「神が家庭を導く」。
5. 神中心のまとめ
1)神が結婚の継続か、離婚かを決める。人間ではなく神
真の信仰者が家庭にいるとき、家庭は神の摂理の中で区別され、聖書、祈り、礼拝、教会の中に置かれる
神が未信者を去らせるとき、それは神が契約を解く摂理。信者はその場合「縛られない」(罪に問われない)
神は信者に平和を与える目的で召しておられる
すべての動きの主語は 主語=神
2) この箇所が示す “結合の秩序”
家庭における秩序は、救いの根源であるキリストとの永遠の結合から流れており、
再生(神の働き)
↓
照明
↓
信仰・悔い改め
↓
聖化
↓
家庭の秩序
↓
すべてが神の側から発する一つの流れ。
未信者との結婚においても、結合の恵みが家庭全体を“神の秩序”に置くという摂理が現れる。
6.神が子どもに与えられる神の恵み・取り扱い
「救いではないが現実に働くもの」
1)神の言葉に触れ続ける “神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」特権”
親のうち一人が真の信仰者なら、家庭は完全な異教家庭ではなくなる。家庭に聖書、祈り、礼拝、福音の声が流れ込む。子どもは神の言葉の光の下に置かれる。カルヴァンはこれを 「神の家に置かれる恵み」 と呼ぶ。
2)サタン・偶像の完全支配からの“聖別”
未信者家庭の子どもは当然、“この世の王国” の支配領域にある。しかし、真の信仰者が家庭にいるとき、神はその家庭を“可視化的契約領域”に置かれる。
これは 摂理的保護(providential protection) であり、悪魔が“完全に支配する家ではない”という意味。
3)祈りの対象として扱われる恵み
信仰者である親の祈りは、神が契約的に特別に扱われる祈り。信者の祈りは一般恩寵ではなく、結合の恵みから流れる祈り。神がその子どもを特別に取り扱う。しかし、これは「救いの保証」ではない
マッカーサーもこう言う:「信者の家庭に生まれた子どもは祈りによって特別に扱われる。」
4)罪・破滅へまっしぐらに進む道からの“遅延”
真の信仰者のいる家庭では、子どもが完全に滅びへ突き進むスピードに対して、神の摂理で悪が暴かれ、ブレーキがかけられる。
破壊的状態、環境から守られる。悪習・犯罪・偶像への道が断たれ、遅らされる。良心が多少でも啓発される。
これらは回心の保証ではない、神がその子どもを「滅びへの直行から守る」恵み。
5)後に救われる場合、家庭の“聖別”が手段として働く
救いの原因は神の選びと結合だけだが、神はしばしば以下の外的恵みを救いの手段に使われる:
親の祈り
福音の声
礼拝、
教会、
教会の交わり
※注意: **これらは救いの“原因”ではない** 「手段」である。
7.未信者の夫(妻)が去った場合はどうなるのか?
1)真の信仰者は平安に召され、子供が信仰者につくか、未信者につくかによって神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」は決まる。
未信者の配偶者に子どもがついて行く場合は、子どもの「可視的契約領域」は失われる。だから子どもは「一般恩寵だけの領域」に戻る
しかし、ここで強調すべきは:「可視的契約領域」の有無=救い有無」ではない。
子どもが選ばれているなら、神は手段を変えて、どこからでも救いに導く。
2)神の「可視的契約領域」は真の信仰者にあるキリストとの
結合を源泉とした救いの秩序
神は結婚と家庭という秩序を尊ぶ。神は結婚と家庭を創造秩序としての神のものとして扱われる。家庭は結婚が前提にある。
よって、未信者の両親の家庭に属する子どもは「可視的契約領域」には置かれていない。
3)福音の声が届く場をつくる
神は真の信仰者の子どもに対して
福音を聞く機会
聖書を知る機会
神を知る環境
を与える目的で領の中で“聖別”する。
4)将来の救いのための手段として置かれる
選びがあるなら、神は神の「契約的な外形領域」 「可視的契約領域」を「救いの導きの道」として用いる。
選びがなければ、この領域に置かれていても救いには至らない。
8.最後に
1)神が子どもを「可視的契約領域」に置くのは何のためか?
答え:神がその子どもを福音の中で扱うためである。
・選びの保証ではない
・救いの保証でもない
・しかし明確に「神の恵みの領域」に置かれる
これは、神が子どもに与える摂理的・契約的恵みであり、家庭を通して働く神の “扱い” である。
ジョン・マレーは契約の家庭は「手段としての聖別」に置かれる 「救いの源は永遠の結合であり、子どもの「聖別」は救いの原因ではなく、救いへと導くために神が用いられる“外的手段”である。」
と語り、それは、「選びでもない また、 再生でもない」。ただ“神が働く舞台を整える恵み”であることを明確にしている。
●「聖なるもの」=救いではない(選びではない)
再生ではない
結合でもない
選びの印でもない
意味するのは “神の「可視的契約領域」での聖別”
●神が子供を 家庭全体を 神の語りかけの領域 に置く
サタンの完全支配から引き離す
●恵みの手段を提供
ジョン・マレーが示すように、
神はこの神の「可視的契約領域」を救いの手段として働かせる。
福音が聞こえる
祈りの対象となる
教会の交わりに接する
聖書的倫理の中で育つ
これらはすべて選びがある者には救いの通路となる。選びがない者には届かず終わる。
●この神の領域は真の信仰者が家庭の中に存在する限り継続
真の信仰者がいなくなった家庭は一般恩寵の領域に戻る
「可視的契約領域」は消え、聖別は消える
ただし、子どもが選ばれているなら神は別の手段によって必ず救いに導く
聖”とは:選びでもない。再生でもない。救いでもない。
しかし、神がその子を可視的契約も恵みの領域” に置くという恩寵である。
“真の信仰者が家庭にいるだけで聖別される”とは何か
カルヴァンはこう言います(1コリ7:14註解):家庭は偶像的領域ではなく、神の領域に区別される。しかし、未信者の配偶者も子も 救われてはいない。
➡ これは「すでに」の側面
すでにとは?
•神の秩序に分類される
•神の守りの秩序の下に入る
•罪の洪水状態ではなくなる
•神の御言葉・祈り・礼拝の光が家庭に流れ込む“土台”が置かれる
ここは 真の信仰者が家庭にいるだけで起こる外的聖別 です。
➡ すでにがあるとは「いまだ」がある
これは家庭の聖別が 内的に深まり・広まり・高まり・長くなっていく過程 のことです。
これは以下によって進む:
•信者が御言葉の照明に深く生かされていく
•祈り・礼拝・賛美が真実になっていく
•信徒自身の聖化が進む
•御霊の実が家庭で現れる(ガラ5:22–24)
•教会からの光、説教、交わりの恩恵が家庭に流れ込む
カルヴァン(III.vi–viii):「結合の豊かさは、時間の中で徐々に開示される。」
スプロール: 「聖化は“現れ”であって、深まりは生涯を通して続く。」
マッカーサー: 「信者の成熟に比例して、家庭の“霊的領域”は広がる。」
➡ この“現れ・深化・拡大”が 「いまだ」
まとめ:可視的契約領域における “すでに/いまだ”
◆すでに
•信仰者の存在自体が家庭を「可視的契約領域」”に置く
•救いではないが、確実な外的聖別
•家庭は“神の方に属するもの”として扱われる
•家庭の雰囲気、方向、関係の秩序が神の規範の下に置かれる
◆いまだ
•結合の豊かさが時間の中で徐々に現れる
•信者の成熟に応じて、家庭の聖別は深まり、広がる
•御霊の現れ(祈り・御言葉・礼拝・愛・秩序)が増し加わる
•罪の構造が徐々に崩れ、神の秩序が形成されていく
•家庭が“キリストの香り”によって支配されるようになる
目的は:神の言葉の下に置くため。祈りの対象とするため。神が用いられる “救いの手段” を提供するため。
完全な悪の支配から区別するため
源泉はキリストとの結合:キリストとの永遠の結合に属する親が家庭にいることによって、その恵みが家庭全体に流れ出す。
源泉は結合された者にあり、神はその者を“契約の器”として扱われる、それは憐れみの器。
神がその結合された者により、家庭全体を「可視的契約領域」と聖別されるキリストとの結合を源泉とした福音構造にある結婚と家庭に与えられた恵みである。
私たちのうちには罪の性質が絶えず働き、思い・感情・意志を人間中心へと戻そうとします。しかし、神が御霊によって信仰者を引き寄せ、主語を神へと戻させ、自分の思い・感情・意志を光の下で見張らせ、肉が自然に向かう人間中心の方向を拒否させてくださいます。この志そのものを、神が与え、保ち、成長させてくださいます。

