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主語はゲラサの男ではない

  • thewordforyoujapan
  • 11月22日
  • 読了時間: 17分

2025.11.16 豊川の家の教会礼拝メッセージ

マルコの福音書5:1–17

"こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。

イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた。

この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。

彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。

それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。

彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。

そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」

イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。

イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。

そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。

ところで、そこの山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた。

彼らはイエスに懇願して言った。「私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。」

イエスはそれを許された。そこで、汚れた霊どもは出て行って豚に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖でおぼれて死んだ。

豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は、何が起こったのかを見ようとやって来た。

そしてイエスのところに来ると、悪霊につかれていた人、すなわち、レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て、恐ろしくなった。

見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。

すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した。


 

1.人間中心の2つの誤った教え

 人中心の教えは「神を人中心に置き換える」致命的な間違えに引き込む


1つ目の人中心の教えは、奇跡の中心が 「神の主権」ではなく「人がどう感じたか」 に変換される。

① 「あなたもイエスに近づけば問題が解決する」式の“自己改善ストーリー”

 典型的な読み方:「イエスの方に走っていけば、鎖がちぎれるようにあなたの問題も解決します」

 「あなたがイエスに心を開けば、自由が与えられます」

 → すべて人間の行動・意志・選択を救いの原因にすり替える。

聖書:男が救われたのは「イエス様に走ったから」ではない。

イエスが命令されたからである。

 

② 悪霊を“人生の比喩”に変換してしまう

「あなたの心にも“レギオン”のような問題が住んでいます」「その心の傷をイエスが癒やしてくださいます」

 → 実在の悪霊を否定し、“内面問題”にすり替えることで十字架と救いを心理療法レベルに矮小化する。

 

③ “正気に返った”=「クリスチャンは心が穏やかで優しくなる」「救い=性格改善・癒し」と読み替える。

「クリスチャンになると穏やかになります」「イエス様が優しい心を与えてくれます」

 → 救いの中心である結合・再生・義認・聖化を完全に消滅

 

④ 町の人々の拒絶を“人間の恐怖心”として説明する

  「奇跡があまりに大きくて怖かったのです」「人は大きな変化を恐れるものです」

 → 核心である罪・価値観の闇・光への拒絶という神学構造を消滅

 

 

2つ目は支配神学、霊的戦い神学の歪んだ読み方

これはもっと危険。主語が完全に「人間」になり、救いの出来事がすべて戦い使い方”に変換される。

 ① 「悪霊退治の手法」をこの箇所から学ぶという誤用

  「悪霊に名を言わせなさい(レギオンの名を聞いたから)」「悪霊を命じる力はあなたにもある!」

   「あなたも『出て行け』と宣言しなさい!」

 → 完全な異端。

 この箇所は キリストの権威の物語であり、人間にその権威を委譲した箇所ではない。

 

② 豚の死を“霊的呪いの解除”や“土地の浄化”にすり替える

支配神学はこう言う:  「豚の死は地域の霊が追い出された証拠だ!」「土地の呪いが解かれた!」

   「これは霊的領域での勝利のしるしだ!」

 → 完全な聖書外の解釈。

 豚が死んだのは悪霊の破壊性の現実が出ただけであり、地の解放”など一切書かれていない。


③ 人間に「地域支配の権威」が与えられていると教える

   「あなたにも町を支配する権威がある」   「あなたが宣言すれば、地域の悪霊は出て行く」

   「町の雰囲気が悪いのは霊のせいだ。祈りで押し返せ」

 これは土着宗教から支配神学が採用した異端が根底➡支配するのはキリストだけである。

 

④ 悪霊を恐れることを煽り、人間の“霊的秘密、技法”を求める

「悪霊は大勢いる軍勢軍団(レギオン)を注意せよ」「解放のミニストリーが必要だ」「信仰者には霊的戦いがある」

 → 救いの確信は結合ではなく、霊的秘密、技法に置く。これは人間中心的な聖書理解の絶頂

 

⑤ 男の救いを“霊的戦士の訓練のモデル”として使う

   「彼は霊的戦いに勝利した!」「あなたもこの男のように悪霊に立ち向かえ!」

 → この箇所の本質は男は一度も戦っていないという点である。主は戦っていない。主は悪霊が願ったことを許しただけ!主は出ていけと命令しただけ!

 

なぜこれらは重大な誤りなのか?

 

理由は一つ: 「主語をイエス・キリストから人間にすり替えている」

   •人が悪霊に命じる

   •人が霊を押し返す

   •人が信仰で勝利する

   •人が戦いに勝つ

   •人が地域を支配する

 

これらは全て「人がイエスキリストに置き換わる」思想である。

マルコ5章は、その正反対を語る。

 

悪霊はキリストの許しがなければ一歩も動けない

男は何もできず、ただ解放されただけ

豚は悪霊の破壊性が現れただけ

人々は光を拒んだだけ

キリストは戦わず、悪霊たちの願いを許し、出ていくように命令した。

人間は一かけらも何もしていない。



 

2.マルコ5:1–17の全体シナリオの理解

 この章のテーマはキリストが闇の支配を断ち切り、魂を光の領域へ移す

➡ 主語はすべてキリスト、男、レギオン、2000匹の豚でもない

 

1. 背景

イエスが自ら“闇に支配された地”に踏み込まれた

ゲラサ人の地は、

   •異邦人

   •神なき文化

   •不浄とされる豚が大量に飼われている

   •墓(死と汚れ)の領域

= 完全に“闇の領域”として描かれている。

 

ここにイエスが“自ら”上陸された。これは、光が闇の只中に割り込んでいく主権的な救いの開始であり、人間側の求めではない。

 

2. 状況

人は闇の支配下で無力

悪霊につかれた男は:

   •墓場に住み

   •鎖で縛っても破る

   •昼夜叫び

   •自傷し

   •社会から隔離され

   •誰も彼を変えられない

 

つまり、人間側には彼を救う力は一切ない。これはすべての人間の霊的状態を象徴する。「あなたがたは罪の中に死んでいた」(エペソ2:1)

自力では

   •正気にも戻れず

   •闇からも出られず

   •神を求めることもできない

ここは 新たに生まれる前の“闇の領域” の姿。

 

3. 最初の動き

 男がイエス様に走ったように見えるが、実際は“神が引き寄せる”

 「彼は遠くからイエスを見て走ってきて拝した」これは「彼が信仰を持った」ではない。悪霊が中にいるのに「拝した」時点でそれは矛盾

 これは キリストの絶対主権の接近によって、闇が無力化され、抵抗できなくなった証拠。

 男が動いたように見えても、動かしているのは 神が男を引き寄せている。

 

4. レギオン

レギオンは、イエスに“願う”しかできない= キリストの主権の前で完全に無力 「神によってお願いします。私を苦しめないでください」悪霊は命令せず、要求せず、挑戦もできない。ただ 願うだけ。これは救いの開始において、人間も闇も“受動”という構造を示している。

 救いは

   •人が決断して始まるのではなく、

   •闇が主権によって破られることで始まる。

 

5. 解放

「汚れた霊よ出て行け」— キリストの命令だけが救いを成立させる。男が信じたから救われたのではない。

叫んだからでもない。

 

ただ一言、「出て行け」このキリストの命令こそが、再生の瞬間を構成する主権的出来事。人の意思はまだ何もしていない。

 

6. レギオンの告白

「私たちは大勢です」= 人間では絶対に勝てない敵、レギオン(数千の兵隊)という名は、「人間には絶対に解決不能」であることを明確にするため。

 

つまり:

   •男には打ち勝つ力がない

   •人にも社会にも解決できない

   •解放はキリストの主権だけに依存する

 これが 結合前の“絶対的無力状態”。

 

7. 悪霊の懇願と豚

悪霊はキリストの“許可の範囲”でしか動けない

 悪霊は:

   •地方から追い出さないで

   •豚に入らせて

   と願うだけ

イエスは「許された」。これは憐れみではなく裁きの開始。

 

豚二千頭が死んだ理由は象徴ではなく単純な事実:

   •悪霊は命を保持できない

   •入った先で必ず破壊が起きる

= 闇の本質が表に出ただけ。

 

8. 正気に戻る

再生 → 時の中における結合の顕現

 「服を着て、正気に返って座っていた」

 再生とは:

   •暗闇の力が断たれ

   •心が整えられ

キリストとの結びつきが「経験的に顕現」する正気は “人の努力”の結果ではなく

光の領域に移されたことの結果。

 「暗やみの圧制から、御子の御国へ移された」(コロ1:13)

これは、

永遠の結合 → 時間内での再生 → 正気への回復

という救いの流れの可視化。

 

9. 町の人々の反応

救いより財産(豚)を愛し、光を拒絶した

   •男が救われて喜ばない

   •豚が死んだことにショック

   •「この地方から出て行ってほしい」とイエスに願う

 

理由:

          1.価値観が逆  豚二千頭 > 魂ひとつ

          2.光が来ると罪が明らかになるため拒絶

   3.主権者イエスがいると自分の人生が変わらざるを得ない

 これは救いの喜びではなく、光への拒絶(ヨハネ3章)。

 

10.福音の構造として読む

この物語は、悪霊退治でも、霊的戦いの方法でも、人間の信仰物語でもない。

 結合の源泉(永遠の結合)

主権的介入(キリストが闇に踏み込む)

暗闇の支配の破壊(命令)

再生(正気に戻る)

光の領域への移動(コロ1:13)

拒絶する者と従う者の分岐 

光を憎む者はイエスを追い出す

 

すべての主語はキリスト。

主語を、イエス・キリストから人間にすり替えるような内容は一切入り込む余地がない。

 

3.5章1~17の解説

 「山腹で豚が飼われていた」

この地域(デカポリス)は、異邦人が多く住み、豚は不浄な動物としてイスラエル人は飼わない。つまりこれは典型的な「異邦の地」であり、人々は聖書の神を信じていない社会である。

そこに罪と汚れと霊的支配が満ちていた。

 

「悪霊はイエスに願った」

悪霊は自分の意思で動いているように見えるが、実際にはイエスの許可がなければ何もできない。

 すでに「人間が悪霊と戦う」などという構図は一切存在しない。

•悪霊が行動する前には必ずイエスに願い出る

•イエスの判断が優先される

•その範囲でしか悪霊は動けない

これがマルコの描く「権威の階層」である。

 

2. 悪霊が「豚の中に入らせてほしい」と願った意味

「豚に入れるように送ってください」これは悪霊が「逃げるための要求」ではない。悪霊はイエスが裁き主であることを知っている。

 

つまり:

   •イエスが彼らを“滅ぼす力”を持っている

   •即時に「深淵(アビス)」に落とす権利がある

   •それを避けようとして最低限の猶予を求めた

 

悪霊は、イエスの前では 弱い被造物であり、まったく自由ではない。これが聖書の描く「悪霊とイエスの関係」である。

 

3. イエスが「彼らを許された」という意味

「イエスはそれを許された」この言葉の意味は次の三つだけ。

  1.悪霊の行動はイエスの許可の下でしか起こらない

 2.悪霊が人に留まることをイエスは認めない(人は救われる)

 3.しかし、悪霊を即時滅ぼすのではなく、豚への移動を一時的に認めた

 

イエスはここで

“悪霊をどう扱うかの全権を握っている方”であることを示された。

•人が命じるのではない

•人が戦うのではない

•人が退治するのではない

主権者はイエス・キリストだけである。

 

4. 豚の群れが湖へ落ちて死んだ理由

「二千匹ほどの豚の群れがなだれ込み、死んだ」

 ここで大事なのは「理由」を誤解しないこと。

豚が死んだ理由は:

1.悪霊は“命を守る”ではなく“命を壊す”性質を持つ

2.その性質が豚の行動に直接現れた

3.悪霊がいる場所は必ず破壊と混乱が起きる

 

ここには「象徴」や「霊的な意味づけ」は必要ない。ただ「悪霊はこういうものだ」という事実が起きたのである。

 

つまり:

•人に取り憑いても

•豚に取り憑いても

 

結果は必ず「破壊」になる。

 

5. 二千頭の豚より“魂一つ”が優先される理由

 人々は豚が死んだことでイエスに去ってほしいと言った。

彼らにとっては:

   •豚=商売

   •豚=財産

   •豚=生活の土台

だから二千頭の損失は巨大な痛手だった。

 

だがイエスにとっては:

•豚は失われてもよい

•一人の魂の救いの方がはるかに尊い

•悪霊に苦しむ者を救うことが最優先

 彼らの価値観と、神の価値観はまったく違う。

 

6.ここまでのまとめ

① 悪霊はキリストの許しがなければ一歩も動けない悪霊退治のスキルや祈りや“霊の権威”などは登場しない。

悪霊を支配するのはキリストだけ。

 ② 悪霊の性質は「破壊」である良い目的を持って動くことは一切ない。

③ イエスは悪霊より強く、悪霊は逆らえない願うしかできず、拒否できず、逃げられない。

④ 一人の魂の救いは豚二千頭より重い神の価値観は「魂中心」であり、「経済中心」ではない。

⑤ 信者は悪霊と戦う必要はない結合によって「光の側」に移されているため、悪霊の側に戻ることはない。

 

この奇跡は「救いの構造」を明らかにする。

•魂は暗闇の支配下にいた(悪霊憑きの男)

•キリストが主権をもってその支配を終わらせた(命令)

•悪霊はキリストの統治に逆らえず人から離れた(屈服)

•男は正気に戻り、光の側に移された(救い)

 

これは信者が経験する「結合」の写し絵である。

 

キリストは結合によって私たちを闇から引き出し、悪霊が触れられない領域へ移された(コロ1:13)。

 

信者は悪霊と戦う必要がない。戦いはキリストが行われ、勝利は完全である。

 •悪霊は願うしかできない

•イエスはそれを許すかどうかを決める

•その結果がすぐ現れる

•豚は悪霊の破壊性によって死んだ

•イエスは魂の救いを最優先される

•すべての主語はイエス・キリスト

•信者は悪霊と戦う必要はない(結合による領域移動)

 

8. なぜ人々は“救いの奇跡”を見ても、イエスに去ってほしいと願ったのか?

 マルコは「なぜ人々がイエスを拒絶したか」をきわめて明確に示す。理由は感情や驚きではなく、価値観と罪の問題である。

 ① 彼らは“救われた男”より“豚二千頭”を価値あるものと考えた

   •男の救い → 喜ばない

   •豚の損失 → 耐えられない

彼らにとって最も大切なのは“魂”ではなく“目の前の経済と生活”、この世のことであった。

 

イエスが町に滞在すれば、今後も同じように彼らの財産が動かされる可能性がある。

彼らの心にあったのは:「この方がいると、また大きな損失が出る。 自分たちの生活が脅かされる。」救いよりもこの世の財産が重要だった。これが拒絶の第一の理由。

 

② 男の救いが「キリストの主権」を明確に示したため、彼らはその主権の前に立ちたくなかった

 この奇跡は、誰にも説明できない「神の直接介入」

   •悪霊はイエスに従う

   •イエスの一言で男は正気に戻る

   •町の霊的秩序が一瞬で変わる

人々はこれを見て、自分たちの生活・価値観・罪の在り方が、イエスの前ですべて明るみに出ると直感した。

 人は、自分を変えられそうな権威を恐れる。

彼らの心には:「この方がいると、私たちの生き方が保てない。だから町から出てほしい。」罪は光を嫌う。 これはヨハネ3章の原理である。

 

③ イエスの臨在そのものが“裁き”として働いた

 イエスが来られたことで、町の人々は「霊的な中立地帯」にいられなくなった。

•自分たちが豚を飼い、不浄の動物を経済に使っていたこと

•異邦文化に深く同化していたこと

•神を無視して生きてきたこと

 これらすべてが、イエスの権威の前では逃げ場がなくなる。人々は「罪の領域」から光が差し込むことを恐れた。

その結果:

「去ってほしい」

=光が来たために、闇が光を嫌って押し返した。

 これが三番目の理由。

 

④ 彼らは“救い主”を求めていなかった求めていたのは“平穏な生活の維持”だけ

この町の人々は、悪霊に苦しむ男を本気で救おうとしていなかった。

 なぜか?

   •常に鎖で縛られ

   •墓場に住み

   •泣き叫び

   •自傷行為を繰り返す

彼は町にとって“迷惑者”であり、同情よりも「隔離の対象」であった。つまり、男の回復より、自分たちの生活の安定のほうが重要だった。

イエスの奇跡は、救い主を歓迎する者にとっては光だが、救いを求めない者にとっては脅威になる。


結局、人々がイエスに去ってほしいと願った理由は次の通り:

 豚二千頭の価値 > 男の魂の価値。イエスの主権が自分たちの価値観を揺さぶった。光が来たことで、自分たちの罪があらわになるのを恐れた。救い主ではなく、生活の安定を優先した

 

彼らは「救い主を求めた」のではなく、自分の生活を乱さない“安全な神”を求めていた。イエスはその願いを受けて町を去られた。

 

これは、光を拒む者への裁きの始まりでもある。この出来事は、信者の救いの構造と一致している。


 

4.この出来事(マルコ5:1–17)の福音構造

救いの全過程が神の側から一方的に働かれるという救済論の構造を啓示している。

 1. 人は霊的に暗闇の支配下にある(自力では脱出不可能)

 救いの前、人は自分で光に向かうことも、自分で暗闇から脱出することもできない。

 これは、

   •エペソ2:1「あなたがたは死んでいた」

   •コロ1:13「暗闇の圧制」

 が指し示す現実である。暗闇の支配から出る力は人間には存在しない。

 

2. キリストが主権をもってその支配を断ち切る

暗闇から光への移行は“決断”でも“応答”でもなく、キリストの主権的介入によってのみ起こる。

   •悪霊はキリストの前に屈服し

   •支配はキリストの命令により終了し

   •人間は何もしていないのに解放が成立する

 救いの開始点は、キリストの主権的働きのみである。

 

3. 悪霊は逆らえない(救いの妨害は不可能)

悪霊が願っているように見えても、実際は“逆らえない状態”である。救いの瞬間、暗闇の力はキリストの命令ひとつで崩れる。信者の救いに関して、悪霊は抵抗も妨害もできない。救いは神の側の行為であり、闇の側の力は介入できない。

 

4. 魂は正気に戻り、光の領域に移される(コロ1:13)

人が自分の力で「正気に戻る」のではない。キリストが働き、確実に光の領域に移す。

•コロ1:13「暗闇の圧制から御子の御国へ移された

(aorist:完了された出来事)」

これは、「人が移った」のではなく、神が移したのだ。この移動こそ、キリストとの結合(Union with Christ) の現実である。

 

結合(Union with Christ)とは何か? 

結合とは:

キリストが、選んだ者を、

永遠のうちに、

再生させ、

信仰を与え、

義とし、

聖化し、

栄光へ導くために、

すべてを開始し、成立させ、保ち続ける、主権的な働きである。

すべては神から発し、神によってなり、神に至る。

ここには 「人が選ぶ」「人が応答する」「人が決める」という要素は一切存在しない。

人間中心を排除すると、 救いの全体は次のように見える:

   •原因:永遠の結合 ➡ 神が選んだ

   •実現:再生 ➡ 神が生かす

   •結果:信仰と悔い改め ➡ 神が与える

   •歩み:聖化 ➡ 神が保つ

   •完成:栄化 ➡ 神が成し遂げる 

 

すべては、常に、「神」である。信者の位置:悪霊と戦うのではなく、“キリストの側に移された者”として生きる信者は霊的戦いの「戦士」ではない。

 聖書が語るのは:

 信者は、戦う前にすでに“光の領域”に移されている。悪霊はその領域に入れない。ゆえに信者の霊的生活は、

   •悪霊と戦って勝つではなく、

   •キリストが勝利した領域で守られて生きる

という構造である。

戦いはキリストが行われ、勝利は既に確定している。信者はその勝利の中に置かれている。

 

【最終まとめ】

・救いは人の選択ではなく、神の主権の開始

・闇の支配との分離は神だけが行う

・悪霊は救いに反抗できない

・魂は神によって光へ移される

・結合とは神が救いを全行程にわたり成し遂げ続ける働き

・信者は戦う者ではなく“光の側に移された者”

 

すべての主語は神であり、救いは始めから終わりまで神が主語である。

 このことを覚えよ。ゲラサの男が主語ではない。

主が光を差し込み(マルコ5:6–8)、主が悪霊を砕き(5:13)、主が彼を宣教者として立て(5:19)、

主がデカポリス全域に福音を広げた(5:20)。

 すべては、主が永遠の時の始まる前から選んでいた悪霊に憑かれた狂った男を時の流れの中で結合し、光を入れたことから始まった(5:15)。

憐れみと慈しみによって男を選ばれ、時の中で光を地域に押し広げたのも主であり(5:20)、異邦人の群衆を動かしたのも主(7:31→8:1)。その中で、主は使徒たちを「あなたはキリスト」(8:29)という核心へ導いた。

 主は異邦人に開かれた神の国を語り(10:14–15、11:17、13:10)、十字架と復活によって福音を完成した(15–16章)。そのうえで主は命じた。

「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えよ」(16:15)。

 主語は人ではない。すべて主が行った。

光を差し込み(5章)、広げ(5:20)、導き(8:29)、完成し(15–16章)、遣わす(16:15)のは主のみ。

 ― 主語は人ではない。

光を差し込み、広げ、導き、完成し、遣わすのは、ただ主だけである。

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