キリストとの結合と摂理 ― 救いのすべてがそこから始まる ―
- thewordforyoujapan
- 7月7日
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キリストとの結合と摂理― 救いのすべてがそこから始まる ―
2025.7.6 礼拝メッセージ
「キリストとの結合」
1.キリストとの結合とは
キリストとの結合(union with Christ)とは、神が選んだ者をキリストと霊的に結び合わせることです。この結合のうちで、私たちは「キリストにある者」とされ、そこから再生・信仰・義認・聖化・栄化といった救いのすべての恵みを受けるのです。
この結合を、3つの側面で理解します。
全人格的:真の信仰者の思い・感情・意志・存在すべてがキリストと結びづけられ、その思い・感情・意志・存在すべてはいつもキリストの影響を受けていきます。
契約的:永遠の約束です。神は永遠の救いを約束として信仰者に与えました。それはキリストと信仰者が約束によって結合しているからです。
有機的:ぶどうの木と枝のように、キリストに絶えず依存して生かされていると言う霊的事実の結合です。
結合は神のご意思により行われます。救いのすべては神の贈り物です。
感覚的、神秘的に「キリストのいのちが信仰者に流れ込み、混ざり合い、一体となる」という神と被造物の区別を消し去るような神秘主義的考え、教えは異端です。信仰者はキリストによって養子縁組をされて神の子とされると聖書は教えています。(エペソ1:5他)
創造主である神と、被造物が本質的に1つになる言う教えは聖書の教えと反しています。創造主と被造物は区別され、その立場は永遠に変わりません!
創造主である神と被造物である信仰者は全く違う本質であり、その区別にありながら、永遠に神と結合されてます。
2.「キリストにあって」「キリストと共に」「キリストがうちに」――
新約聖書には300回以上、「キリストにあって(in Christ)」または同義の表現が使われています。救いの中心はキリストとの結合にあります。
<すべてキリストとの結合を表している言葉>
in Christ(キリストにあって)
キリストのとの結合にあって
with Christ(キリストと共に)
キリストとの結合と共に
through Christ(キリストを通して)
キリストとの結合を通して
Christ in you(キリストがあなたのうちに)
キリストとの結合があなたのうちに
これらはすべて、信者がキリストと霊的に結び合わされている状態(union with Christ)を表す表現です。すべての神の御業はキリストとの結合から始まっています。
3.結合のゆえに、キリストとともに死に、ともによみがえった
この結合の結果、信者はキリストの死と復活にあずかる者とされます。
エペソ2:5–6はこう語ります。結合によってキリストの十字架の死と復活は信仰者の実際となります。
「…キリストと共によみがえらせ、キリスト・イエスにおいて共に天の所に座らせてくださいました。」
神の御前では霊的にキリストと結ばれているがゆえに、私たちの死と復活、天上での祝福も実現されている。
同様にローマ6:5:
「もし私たちが、キリストの死の様と結ばれているのなら、その復活の様とも結ばれることになるのです。」
4.「キリストがあなたがたのうちにおられる」の意味?
「Christ in you」(キリストがあなたがたのうちにおられる)という表現は、神の本質そのものが信者のうちに直接宿るという意味ではありません。それは、キリストと信者が聖霊によって霊的・契約的に結合されているという霊的現実を意味しています。
【カリスマ・神秘主義的な間違った教え】
[神の本質]+[信仰者の本質]= 混合・融合 つまり、「一体化」して「神になる」。
⚫︎ 神と被造物の境界が消えている
⚫︎ ヒンズー教・東方神秘主義・ニューエイジ思想・一部カリスマ神学に見られる
⚫︎ RCスプロール、カルヴァン、マレーらはこれを異端とみなす
【誤った理解:火と鉄の融合】
鉄を火に入れて赤くなると、火と鉄が混ざってどちらがどちらかわからなくなるように思える。こういう考えは「本質的同一化」のイメージに近い。
「神の霊が人に流れ込み、一体となる」
「自分が神になる」という神格化・神化の思想に通じる。
➡ これは異端的な神秘主義。被造物と創造主の区別が崩壊。
【聖書に基づく教え】
RCスプロールはこう説明します― R.C. Sproul, "Union with Christ":
“When the Bible says, ‘Christ in you, the hope of glory,’ it is not saying that the divine essence is distributed spatially into each Christian. Rather, it teaches that believers are united to Christ by the Holy Spirit. That union is real, vital, and spiritual.”
<訳>神は確かに私たちの内におられますが、それは「神と一体になる」という意味ではなく、聖霊によってキリストと結ばれているという意味です。神と私たちは永遠に創造主と被造物の関係を保ったまま、真に、命と霊によって結合しています。
[神(三位一体の創造主)]
↓(聖霊によって)
【キリストとの結合(キリストの霊的な臨在】
↓聖霊を通して信者のうちに
↓キリストご自身が臨在
[信仰者(被造物)]
⚫︎ 神と人の区別は保たれる
⚫︎ 信仰者はキリストに霊的・契約的に結ばれている(ヨハネ14:23)
⚫︎ 三位一体の神は信仰者の内に臨在し、住まわれる(1コリント6:19)
【正統的理解:ろうそくの光の臨在】
ろうそくを部屋に灯すと、部屋は光に満たされるけれど、壁や空気が「光そのもの」になるわけではありません。
神の臨在とは、その栄光と交わりが信者のうちに本当に届いている状態です。でも信者は「神の一部」になったわけではなく、神と交わっている被造物のままです。➡ これが「臨在」「霊的結合」「人格的交わり」
旧約と新約における「神の臨在」の連続性
旧約:幕屋に宿られた神の臨在 ― シャカイナ・グローリー
「それから、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。」(出エジプト記40:34)
幕屋(タバナクル)はイスラエルのただ中に置かれ、神がご自身の民の間に臨在されるしるしでした。 神の臨在は目に見えるかたち(雲と火)で現され、それが後に「シャカイナ・グローリー(栄光の臨在)」と呼ばれるようになります。
新約:信仰者のからだが神の宮(temple)とされる
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる聖霊の宮であり、神から受けたものであり、自分自身のものではないことを知らないのですか。」(1コリント6:19)
神の民(教会)だけでなく、信仰者一人ひとりが「神の宮」とされています。神は、聖霊を通して信者のうちにキリストご自身の霊的な臨在を実現させます。
比較:幕屋と信者のうちなる神の臨在
旧約:幕屋 | 新約:信者の内なる臨在 |
神が幕屋に栄光の雲として臨在された(出40:34) | 神が信仰者の内に聖霊として住む(1コリ6:19) |
民のただ中に神が住む象徴的中心 | 信仰者一人ひとりの内に神が住まう霊的実在 |
目に見えるシャカイナ・グローリー | 霊的で見えないが、真にリアルな結合と臨在 |
年に一度だけ大祭司が神の前に出られた | 常にキリストによって神の御前に大胆に近づける |
旧約時代、神は幕屋に臨在し、ご自身の栄光を雲と火で表されました。それがシャカイナ・グローリー(神の臨在の栄光)です。
しかし今、イエス・キリストによって贖われた信仰者には、聖霊を通して三位一体の神ご自身が住まわれています。あなたは神の宮です。 そのうちにおられるのは、シャカイナ・グローリーではなく、それを超える本物の臨在=聖霊を通して実現されるキリストの臨在なのです。
キリストがうちにおられることを理解する まとめ
旧約において、神の臨在は幕屋を満たしたシャカイナ・グローリーとして現れた。新約においては、神の臨在は信者のうちに霊的かつ契約的に宿られ、キリストとの結合を通して真に実現されている。
この恵みは、贖われた者にのみ与えられた、永遠に変わらない住まいである(ヨハネ14:23)。
5.結合の中にすべての救いがある
このように、キリストとの結合の中にこそ、
再生(新しく生まれる)
信仰(キリストを信じる力)
義認(義とされる)
聖化(主に似せられる)
栄化(最終的に栄光に変えられる)
という、救いのすべての段階が与えられているのです。
6. 聖書全体が結合の真理を土台とする
福音は、「キリストにある」者たちに与えられた神の恵みの宣言です。
「キリストにあって」「キリストと共に」「キリストがうちにおられる」という表現のすべてが、
信者とキリストが、創造主と被造物の区別を保ったまま、霊的に結ばれているという事実に立脚しています。
この結合があるからこそ、私たちは死に、よみがえり、天に座しているのです。
(エペソ2:6)
結合は私たちの信仰生活に大きな変化をもたらす
結合と神の摂理― そして私たちの人生におけるその慰め
私たちは時に、神がなさることに戸惑いを覚えます。なぜこうなったのか、なぜ今なのか、なぜこの人なのか――そうした問いに明確な答えが与えられないまま、ただ神により頼むしかない時があります。
使徒パウロはローマ11:33でこう語りました。
「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。そのさばきは究めがたく、その道はきわめがたい。」
神のなさることが理解できない時。悲劇に見舞われる時、思いがけぬ喜びに驚かされる時、悲しみに押しつぶされそうな時、答えが見つからない時、そして不安に悩み、ただ信仰に踏みとどまるしかない時。そんなときこそ、私たちはキリストにより頼み、神の摂理に信頼します。
「摂理」
1.摂理とは何か?
神の摂理とは、神がその主権によって、万物を支配し、出来事・意志・状況をすべて用いて、御心どおりに計画を成し遂げられる支配の知恵です。これは一時的な奇跡以上に深く、持続的に歴史を通して今も日々、私たちの生活のなかで続く驚異的な神の働きです。
ローマ8:28にはこうあります。
「神を愛する人たち、すなわちご計画に従って召された人たちには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
この「益」とは、29節に明確にされます。
「神はあらかじめ知っておられた人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」 すなわち、神の摂理の目的は、選ばれた者がキリストに似た者とされることにあります。
2.キリストの埋葬における摂理の成就
この摂理の真理は、キリストの死と埋葬という人間的には最も暗い出来事の中にさえ、驚くほど明瞭に現れています。
ローマ兵士たちの無意識の行動
ヨハネ19章では、兵士たちがイエスの脚を折らず、槍で脇腹を突き刺したことが記録されています。彼らは預言など知りません。ただ命令に従って動いていたのです。
しかしそれによって、
•「彼の骨は一本も砕かれない」(出エジプト12:46、詩篇34:20)
•「彼らは突き刺した方を見る」(ゼカリヤ12:10)
という預言が正確に成就したのです。
これはまさに、神が人間の意志さえ用いて御心を成し遂げられる摂理の証です。
アリマタヤのヨセフとニコデモ ― 信者の行動にも摂理が働く
マタイ27章。アリマタヤのヨセフは、ユダヤ議会の議員でありながら、密かにイエスの弟子でした。イエスが死なれたとき、彼は勇気を出してピラトに願い出て、遺体を自分の墓に葬ります。同時に、ヨハネ3章のニコデモも現れ、香料を持ち寄って主の遺体を丁寧に包みます。
これにより、
•イザヤ53:9「彼の墓は富む者と共に設けられた」
•マタイ12:40「三日目によみがえる」
という預言が正確に成就する時間と方法が備えられました。
信仰者はこの世における名誉、地位の破滅を覚悟して行う勇気ある行動をしましたが、それもまた神の摂理によって整えられ、預言の成就に正確に用いられていたのです。
敵対者たちの策略さえ神の手の中に
マタイ27章。祭司長たちは「弟子たちが遺体を盗んだと主張するかもしれない」と言って、墓に封印をし、番兵を置きました。 これは不信仰から出た行為でした。
しかしそれが結果として、イエスの復活の証拠を明確にするために用いられました。敵意さえも、神の計画からは一歩もはみ出すことはできません。
3.そして、私たちの人生においても
キリストの死と埋葬において摂理が完全に働いていたように、今、私たちの人生のすべてにも、同じ摂理が絶え間なく働いています。
私たちは、自分の置かれている状況が理解できないとき、苦しみの意味が見えないときも、そうでない時も、ただ信仰にとどまり、主を仰ぎ見て(みことばを豊かに自分の内に住まわせ)歩むように命令されています。
しかしその試練、すべての出来事が、キリストにある者にとても深い意味を持ちます。神は、キリストとの結合のうちにある者に対して、あらゆることを益に変えてくださるのです。
4.キリストとの結合 ― 摂理の慰めの根源
旧約時代、大祭司だけが年に一度、幕を越えて至聖所に入ることが許されていました。しかし今や、キリストご自身がその幕を裂き、ご自身の死と復活によって神の御前への道を開かれました。そして今、キリストにある者は、その結合によってすでに霊的に神の御前にあり、永遠のいのちと確かな将来に結びつけられてます。
「この希望は、私たちのたましいのための、安全で確かな錨(いかり)のようなものであり、それは天にある神の臨在の奥深くにまで届いているのです。」(ヘブル6:19)
この魂の錨(いかり)――それはキリストとの結合という霊的現実(臨在)にあります。
それゆえ、どんな嵐の中でも、このキリストとの結合は断ち切られることがなく、
神の摂理はキリストとの結合(臨在)を通して確かな慰めと希望と変わります。
「結びに」
イザヤ46:10はこう語ります。「わたしのはかりごとは成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる。」
この主が、キリストの死と埋葬を支配された方です。同じ主が、あなたの人生をも、今も変わらず御手の中で支配しておられます。
たとえ今は先が見えなくても――ヤコブがかつてこう叫んだように: 「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」(創世記28:16) この叫びも、信仰者の心からの叫びです。
摂理の中にあっても、私たちはしばしば見失い、泣き、疑い、それでも主にとどまろうとします。
だからこそ―― キリストと結合している者は、神の摂理にすがり、見えなくても、知らなくても神に信頼して、歩むのです。

