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「代償を量りなさい」ってどういうこと? 福音構造と変わる心

  • thewordforyoujapan
  • 10月4日
  • 読了時間: 8分

2025.9.28  礼拝メッセージ「「代償を量りなさい」ってどういうこと? 福音構造と変わる心

— なぜそれでもキリストに従えるようになるのか —

 

1. イエスさまの問いかけ ― 代償の重さ

イエスさまは群衆に向かってこう言われました。

 ルカの福音書14章

26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。

31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かってくる敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。34 ですから、塩は良いものですが、もし塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」

 

  これは単なる「覚悟の話」ではなく、全存在を差し出すことを求める命令です。塔を建てるには費用を計算する、戦争に出るなら勝てるかを考える。同じように、イエスさまは「わたしに従うなら、すべてを差し出す計算をしなさい」とおっしゃるのです。一見、これは弟子になるための条件のように聞こえます。しかし実際には、人間には不可能な代償を示すことによって、信仰の本質を明らかにしているのです。

2. それは無理だと認めることから ― 信仰者の無力の発見 悔い改め

  イエスさまは「できます」と即答することを期待していません。むしろ「自分には到底できない」と悟ることを求めておられます。

人間は自分の力では、自分の命をも含めたすべてを手放すことなどできません。「家族よりもキリストを愛する」「財産をすべて捨てる」など、人間的には不可能です。

聖書はこう言います。

「あなたがたは、自分の背きと罪の中に死んでいた者であって…」(エペソ2:1)

またローマ3:10–11 「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」

人は霊的に死んでいるため、自分から神に従う力も心も持ちません。

だから「代償を量れ」という命令は、自分の無力を悟らせるための問いかけなのです。

 3. 結合 ― 救いの源泉

では、従えないはずの人間がどうして従えるようになるのでしょうか?その答えは「キリストとの結合」にあります。

 

「神は、天地の基が据えられる前から、私たちをキリストにあって選んでくださった。」(エペソ1:4)

「神は、私たちをキリスト・イエスにあってともによみがえらせ、ともに天の所に座らせてくださいました。」(エペソ2:6)

 

 神は永遠のご計画の中で、信じる者をキリストに結び合わせてくださいました。ジョン・マレーが言うように、救いに属するすべての恵み(再生、信仰、義認、聖化、栄化)は、この結合から流れ出します。

➡ →「代償を量れ」という不可能な問いは、私たちを結合の源泉へ導き、「結ばれているからこそ従える」という真理に目を開かせるのです。

 4. 再生 ― 新しい心をいただく

  結合の現実は、時間の中で「再生」として現れます。これは聖霊による心の造り変えです。

「わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。」(エゼキエル36:26)

「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)

死んでいた心に新しい命が与えられるのです。このとき、人は初めて「自分には無理だ」と悟り、同時に「神にすがりたい」という思いを与えられます。

再生は「できる人間になること」ではなく、無力を悟り、神に頼る心が生まれることなのです。

5. 悔い改めと信仰 ― 無力を認めてキリストにすがる

  再生された人は、こう言います。「自分には不可能だ。だからキリストにすがるしかない。」

これが悔い改めと信仰です。

「あなたがたが救われたのは、恵みにより、信仰によるのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」(エペソ2:8)

「神は、悲しみを伴う悔い改めをもって救いに至らせてくださる。」(Ⅱコリント7:10)

悔い改めとは「自分にはできない」と認めること。信仰とは「すべてをしてくださるキリストにすがること」。この二つが与えられるとき、弟子として歩む入口に立つのです。

 6. 義認 ― 神の前に義とされる

信仰によって結ばれると、神は罪を赦し、キリストの義を私たちに着せてくださいます。

「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって神との平和を持っています。」(ローマ5:1)

「キリストは罪を犯したことがないのに、私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

つまり「代償を払って弟子になろう」と努力するのではなく、すでにキリストが代償を払ってくださったことに結びつくことで、神の前に完全に義とされるのです。

 

7. 聖化 ― 日々キリストに似た者へ

義とされた者はそのままでは終わりません。「結合」から流れる恵みは「聖化」へと進みます。

「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。」(Ⅰテサロニケ4:3)

「キリストとともに十字架につけられています。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)

聖化は、生活の中で実際に小さな「代償」を払う歩みです。

  • 家族や友人よりもキリストを第一にする(ルカ14:26)

  • 正直を選ぶことで損をする(Ⅰペテロ3:16)

  • お金よりも誠実を優先する(マタイ6:24)

これらはすべて「代償」ですが、それを喜んで受け入れる心は、自分の力ではなく聖霊の働きによって与えられます。

福音の救いの構造の中で信仰者はキリストの似姿へと変えられて行きます。

 

キリストとの永遠の結合にあって

ー選びー再生・結合―信仰・悔い改めー義認―聖化

 使徒パウロはこの福音構造のなかで変えらました。

<罪のなかで死んでいたパウロ>

1テモテ1:13

13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

 <義認を通り、聖化を歩くパウロ>

ガラテヤ2:20

19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

 

パウロは自分の財産全部を捨てるどこか、自分の命を捨てました。パウロは自分はキリストとともに死んでいる自分とキリストが自分の結合していること、そのことを愛おしく語っています。

これは福音の構造の中における変化です。

イエスさまの例え この信仰者の変化をイエスさまは次のように話しています。

 塩の譬え ― 証しの効力「塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。」(34節)

塩は保存や味付けに必須ですが、塩気を失えば無価値です。これは「クリスチャンとしての本質(キリストとの結合による新しい命)」を失った宗教的外見を指します。

  • 真にキリストに結合された者は、決して完全に塩気を失うことはありません(聖徒の堅忍)。

  • しかし、表面的福音主義や人間中心の宗教に留まる者は、塩気を失ったように外へ投げ捨てられるのです(マタイ7:21–23)。

聞く耳のある者は聞きなさい

「聞く耳のある者は聞きなさい。」(35節)

これは単なる締めくくりではなく、神の選びにより開かれた耳への呼びかけです。

人は自力でこの言葉を理解し従うことはできません。聖霊によって耳と心が開かれる時にのみ、キリストの厳しい要求が恵みとして受け入れられます。

神学的まとめ

  • 「すべてを捨てる」は救いの条件ではなく、結合から流れ出る従順の実。

  • 「塩気のない塩」は、外面的信仰や表面的福音主義の虚しさ。

  • 最後の呼びかけは、選びと聖霊の働きを前提にした、福音の真の聞き方。

この箇所は、「代償を量る」ことの厳しさと、それでも従えるのは神の恵みゆえという福音の逆説を教えています。

8. まとめ

整理すると、こうです。

  • イエスさまの「代償を量りなさい」とは、人間には無理だと悟らせる問いかけ。

  • 本当の信仰とは「自分をあきらめてキリストに頼ること」。

  • 神が聖書と聖霊を通してキリストの栄光を示してくださるとき、心は変わる。(パウロの回心)

  • そして 結合 → 再生 → 悔い改めと信仰 → 義認 → 聖化 の流れの中で、弟子として従う歩みが実現する。

 

イエスさまは「あなたのすべてを捨てなさい」と言われます。でも、それは自分の努力ではできません。

だからこそ、神が御言葉でキリストの栄光を見せ、聖霊が心を変え、「無理だったこと」を「従いたい心」へと変えてくださるのです。

「代償を量りなさい」という命令は、私たちを落ち込ませるためではなく、キリストの恵みに満ちた招きへ導く真実の問いかけなのです。


<このみことばが私たちの中で真実となりますように> 

ガラテヤ2:19-20

19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

 

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