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第2テサロニケ第2章 講解

  • 2月14日
  • 読了時間: 12分

2026.2.11 The Word for you

 まず、ここの終末の話を聖書で読むときに皆さんが一番注意しなければいけないのは、「騙される」ということです。

 この終末を考えるときに、ディスペンセーション的な終末論と、そうではない終末論があります。

 ディスペンセーション的な終末論の特徴というのは何かと言ったら、あれですよね、必ず**「携挙(けいきょ)」**が起こり、大患難がある、そしてキリストの再臨がある、というものです。

 そして、この大患難の時に神殿に「不法の人」が立つ、こういう配置になります。そうすると終末論の解釈って、「いつか分からない将来に第三神殿が立ちます、そこに未来に強力な一人の人物が出現する」という出現を必須としていて、イスラエル国家の回復が全体にあって、だから神殿再建、祭祀制度、動物犠牲の再開、という体系があるのだと皆さんにずっと説明されます。しかし、この体系の中で聖書を読んでいくと、必ず分からなくなります。間違った方向に行きます。

 今日は話をしていきますけど、この部分に気をつけて終末論を読み進めなければいけないということです。

それでは第2章の3節からいきます。


「どんな手段によっても、誰にも騙されてはいけません。まず**背教(はいきょう)**が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。」


 この3節は、終末の出来事を順番に示すための言葉ではありません。この3節は「騙されるな」ということを言っています。騙されることが最大の危険だということです。パウロが最初に命じているのは「騙されるな」です。

 そして、ここで警告されているということは、この「騙し」が教会の中に入り込む「教え」による騙しだということです。決して、騙すということが単純な人間的な騙しなどではないということです。教えとして入ってきます。そして、この騙しの結果何が起こるか。これが次にくる**「背教」**です。


 背教というのは、信仰を失うとか、クリスチャンをやめるとか、そういうことではありません。

 この背教というのは、イエス・キリストと使徒たちが教えた「福音」から離れることを言っています。それは、見た目は宗教的、そして見た目は信仰的なことを言います。外側は聖書の言葉を散りばめながら、「イエスは主です」と言いながら、そして「信じなさい」と言いながら、実は「別の福音」を話すことです。

 聖書はこう言います。「不法の秘密はすでに動いている(2章7節)」。そして、「彼らは真理を愛さなかった(2章10節)」と言っています。さらに、神は彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送られる。

 この背教というのは、真理を退けて偽りを受け入れることを言います。

 ですから背教というのは、クリスチャンであることをやめることではありません。福音の中心が「すり替わる」こと、そのままです。


背教とは、次のような構造になります:

  • 神の主権が中心から外されること。

  • キリストとの結合が語られないこと。

  • 十字架のみわざとその完成が実体化しない、あるいは弱められること。

  • 信者がキリストと共に死んで復活したという、その現実(リアリティ)から離れること。


 そして、救いが人の「理解(私は分かった)」、「選択(私は信じた)」、そして「体験(私は感じた、震えた、涙が出た)」といったものに置き換えられます。

 つまり、神が救いの源泉であることを告白する立場から離されていくということ。これが救いから離れていく背教、そういうものです。

 ですから、ここで背教というのを、単にクリスチャンであることをやめることではなく、キリストとの結合から騙されて離れていくことだと理解してください。見なくなることです。神と自分が一つである、結ばれているということを知らされずに騙されていくことが背教です。

 「すべて神の主権である」と言いながら、実質的にはその主権から離されていく。それは背教です。キリストの十字架において、自分がキリストと結合して死に、よみがえったということから離されていくこと、これを背教と言います。最初からこれを知らない場合は、背教というよりも滅んでいます。

そして救いが、「私は分かった」という人の理解や、「私は選んだ」「私は感じた」「涙が出た」という感覚によって置き換えられ、それを教えて信じていくことを背教と言います。これが聖書で言っている背教です。


 不法との関係を今から説明します。次、不法がありますね。「不法の者は、すべて神と呼ばれる者、礼拝される者に対抗して自分を高く上げる」。この不法というのは、背教と切り離すことはできません。不法とは「神の支配そのものを不要とする」構造です。

 背教は神の主権を形式的に認めます。外側では認めたふりをします。しかし実質的には、自分を最終基準に据えています。

 それは、無神論的な外側からの攻撃や、例えば仏教といった世界からの攻撃ではありません。背教というのは、嘘をつきます。外側ではさも信じているように「神の主権に従います」「試練を受けます」と言いながら、実はそれに従わない教えを受けることです。「神はあなたに素晴らしいものを約束している」「あなたの人生の計画は素晴らしい」「あなたは富んで病気から解放されます」……。このように、神の主権において与えられる試練や苦しみを、聖書と違うように解釈して教えていくこと。それに従うことが背教です。

 ですから、背教の意味をここでもう一度しっかり理解する必要があります。たぶん、皆さんの今までの背教のイメージは「クリスチャンだった人がクリスチャンを辞める」程度のレベルだったと思います。でもそうではないです。そんなレベルじゃない。


 「クリスチャンのふりをして生きていくこと」が背教です。そして最初からクリスチャンではない人が、クリスチャンのふりをしている。それは偽のクリスチャンです。礼拝の中で聖書を語り、キリストを告白します。しかし、それは人間の救いの中心が「神から人へ」移っていきます。背教というのは単なる道徳的な堕落でも、単なる失敗でもありません。それは「福音の中心を神から人へ移す」という教理的な入れ替えを指しているのです。もっと言えば、真理を愛さず、偽りを受け入れて喜ぶこと。これが背教の姿です。

 多くの反キリストの霊が世に出て、偽りの福音が語られ続け、多くの背教が歴史を通して起こります。これをパウロは言っています。

 

 次に「不法」の理解、不法って何ですかという話に戻ります。第2テサロニケ2章が言っている不法は、神の主権を否定する思想構造が、人々に集中して現れていることを言います。人に現れます。思想は不法の根源ですが、不法の者は「人」です。なぜなら、あらゆる神に逆らう思想は人を通して現れるからです。不法は神の支配そのものを不要とする思想構造として働きますが、それは絶対に人を通して、人を中心に、人に集中してそこから現れてきます。それは歴史を貫きながらそうやって現れてきます。だから単なる思考ではありません、不法は。

 この「不法の者」という「人」と言っているからには、人なのです。しかしそれは、多くの反キリストの霊が、多くの偽教師を送り出していく姿です。

 ですから、この不法の者たちは、神の主権を形式的に認めます、外側で。導入は「神の主権、神は素晴らしい、私たちは神に頼って」というストーリーを展開しますが、後半から「人」に、「感情」に、「奇跡」に、「預言」に、そういったものですり替えていきます。そして実際には「人の決定」を最終基準とする、そういう構造です。

 「キリストが成してくださる」と告白しながら、「私たちは頑張らねばならない、リバイバルを!」という風に行きます。礼拝を行いながら、神のご臨在を実質的に不要とするものです。そして、不法の秘密はすでに使徒の時代から働いていると2章7節で言っています。

そしてパウロはこう言っています。


4節「不法の者は、すべて神と呼ばれる者、礼拝される者に対して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。」


 ここで、それらの者が「神の宮に座る」と言っています。この神の宮に座る、という終末の構造をディスペンセーションや歴史的前千年王国説に持っていくとどうなるか。結局、彼らは「イスラエル国家の回復」が主眼になってくるので、必ず物理的な神殿を持ってきます。そうすると、大患難の後半3年半で、神の宮に不法な者が立つ姿を描きます。そうすると、神の宮というのは「第三神殿」しかなくなります。

 ですが、それは間違った聖書理解です。ここのテサロニケ書で「神の宮に座る」というのは、旧約的な石の神殿の再建を前提にしていません。この「神の宮」というのは、神の民の共同体です。旧約から新約に一貫して通底する、この神の民の集まり、それは教会というふうに示されます。イエス・キリストの体です。

 この体の中に、この礼拝領域の内部に侵入するということを意味します。「神の宮に座る」というのは、2章4節にあるように、礼拝の領域の中に入り込んできて、そして**権(けん)**を奪う位置に座る、そういう侵入の仕方をすると語っています。

 これは外部からの攻撃ではありません。内部においてそういったものが現れて、愛する神の宮の中に座を設ける。そこを支配するということです。このように私たちは、不法は歴史の中で広がっていくのだと理解します。

 

 この第2テサロニケの3〜7節の構造は、全体の福音の構造を見ると、決して「携挙があって、大患難があって、そこに神殿が建てられて祭祀が行われ、動物の犠牲が捧げられる中で、そこに人が立つ」という解釈ではありません。どこにもそんなこと書いてありません。

 「神の宮」とは、あなた方が神の宮であることを知らないのですか。神の宮はすべての選ばれた民のことを言っています。そして、不法はパウロの時代からすでに動いています。終末は、この不法が「質的に激化」するということです。

 そして再臨は一回です。イエス様が来られて、8節で「御口(みくち)の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされる」と言っています。

 もう一度言いますが、聖書の終末を読む時に決して忘れてはならないのは、多くの人はすでに騙されて、こう読みます。「イスラエル国家の回復が前提となっている。そして神殿が建つ、祭祀制度がある、動物犠牲の再開が組み込まれた」、そのスキーム(枠組み)の中に置かれています。なので、このように(聖書的に)話を聞くと違和感を持ちます。なぜなら、騙されているからです。

 そういう枠組みを先に作った人たちは、その枠組みにこのテサロニケの本文を配置するために、神学的に曲げて入れていきます。ですから解釈が全く変わっていきます。


 最後にパウロは、「それらが起こらなければ主の日は来ない」と言っています。3節「滅びの子が現れなければ主の日は来ないのです」。これは「印が揃ったら来る」という意味ではありません。これも先ほどの「携挙・大患難」というスキームの中で見るからそうなってしまうのです。

 これは何かと言ったら、神は「毒麦と麦を分ける」と言っています。それは「騙しが完成するまで」です。騙しが完成するまで裁きは行われない、という神の支配の秩序を言っています。

 「滅びの子が現れる」というのは、毒麦がはっきりと現れるということを言っています。しかし、これは歴史の中ですでに起こっています。そして最終末になると、それが激化してもっとはっきりと、多くの毒麦が見えてきます。

 神はご計画をされています。神は選びの民を決して見捨てない。神は、偽りがはっきり見えるまで待つのです。だから「誰も抜いてはいけない」と言います。神は偽り者が、滅びの子たちがはっきりと現れるまで待ちます。それが終末になると激化します。


 キリストとの結合にある者は、騙されない。

 パウロはこの手紙の流れの中で、2章13節でこう言います。

「しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなた方のことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による**聖別(せいべつ)と真理に対する信仰によって、あなた方を初穂(はつほ)**として救いに選ばれたからです。」


 ここで「選び」が出てきます。パウロは、神が選ばれ、そして真理によって聖別され、神の主権によって守られている、と言っています。つまり、騙されない理由は「人の判断」や「知識レベル」ではありません。神と結ばれていることによる「守り」です。

 教会に騙しが入ってくる。選ばれた民のところにも入ってくる。人間中心の考えを権現する人たちが動いてきます。しかし、神はそのすべてを理解しています。キリストに選ばれた者は最後まで守られる。

恐るべきものは終末そのものではない。何も恐れるものはありません。「私は決してあなたを見捨てない」という言葉はそのままです。一番いけないのは、福音が別のものに置き換えられること。そこに「騙されるな、注意しろ」と言っています。

 それはどうやってですか? 私たちに学問的な知識があるわけではありません。聖書の知識もほとんどない、赤ちゃんです。自分を守る術など持ち合わせていない、床のゴミを拾って食べるバカな子供です。しかし神は「騙されるな、神により頼め」と言っている。

 歩く道で、いつも神により頼むことです。自分自身のうちにあるイエス・キリストとの結合をいつも感謝して、たとえ試練や苦しみがあっても、それは神から来て、神が私たちをキリストに導いてくださる摂理であると理解して感謝すること。それが「騙されるな」に対する抵抗なんです。

 私たちには知識などない、聖書の知識などほぼゼロに等しいです。そこに寄り頼むのではなく、神により頼む生活において、私たちの人生において「安価なもの」を選んではいけません。楽な道を選んではいけないです。たとえ辛かろうが悲しかろうが、神が私たちを導いておられるという認識を絶えず持ってその道を進んでいく。そして神により頼む者に変えられていく。私たちの人生には辛く悲しい出来事がいっぱいありますが、そこで逃げずに、たとえ心がしおれても神により頼む時に、私たちは「神により頼む者」という位置に置かれます。それが「騙されるな」ということです。


 お祈りします。

 愛する天のお父様、感謝します。私たちの周りにある多くの背教、騙しによる背教が、なんと多くあることでしょうか。キリストが中心から外される、キリストと結ばれていることを忘れ去らされる、十字架のみわざと一つであることを思い出させない。自分の理解、わかったつもり、自分の選択、体験、そんなものに置き換えられます。主よ、どうかこの世の不法の者による騙し、背教が起こることのないよう、どうか導いてください。守ってください。愛するイエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りします。

アーメン。


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