不法な者とは誰か
- 2月14日
- 読了時間: 16分
2026.2.7 豊川の家の教会 礼拝メッセージ
今日のメッセージのテーマは「不法な者とは誰か」というテーマで話をしたいと思います。
第二テサロニケの2章の1から2節、そして第二テサロニケの2章の3から7節。
「どんな手段によっても、誰にも騙されてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。
不法の者は、すべて神と呼ばれる者、礼拝される者に対抗して、自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。
私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話していたのを覚えていませんか。
不法の者がその定められた時に現れるようにと、今はその者を引き止めているものがあると、あなたがたは知っています。
不法の秘密はすでに働いています。ただし秘密であるのは、今引き止めているものが取り除かれる時までのことです。」
この御言葉は、人間中心主義と神の主権の両側面で解釈すると全く違ったものになります。人間が考える考え方で解釈すると全く変わります。
私たちがこの御言葉をどのように理解しているのか。
まず第二テサロニケは、終末の出来事を説明する手紙ではありません。ここをしっかりと理解する必要があります。終末の出来事を説明する手紙ではないです。
この手紙が語っているのははっきりしています。
神がすべてを支配していること。神が選んだ者をキリストと結びつけて救うこと。神が歴史を導いて最後まで守ってくださるということ。そしてイエス・キリストの再臨の時、神が正しく人を分けられること。毒麦と麦を分けます。
そして、そのためにパウロは、間違った終末の考え方をやめさせるためにこの手紙を書きました。これが第二テサロニケの目的でした。
止めたことというのは何かを説明します。
2章の1節から2節でこのように言っています。
「さて兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの再臨と、私たちが神のもとに集められることに関して、あなたがたにお願いします。」
再臨の時に集められるということに関してのパウロのお願いです。
2節。
「霊によってであれ、言葉によってであれ、私たちから出たかのような手紙によってであれ、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。」
この御言葉の言っているイメージ、わかりますよね。主の再臨が来る、また来た、というような話が出てくる。霊によったかであれ、これは偽預言者が出てきて言うということです。
また、偽預言者が御言葉を持って説明したりとか、私たちから出たかのような、教会の中からそういう話が出てくると言っています。
ですが、それを聞いて、落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
パウロはイエス・キリストが来られるということを否定していません。むしろ肯定しています。来るよって。来るけど、パウロが止めているのは、主の日は来た、またはもうすぐ来るとか、今どこまで進んでいる、こういうことが印だ、これをパウロは止めています。
こういうことを言う者が出てくるから、その言葉を聞いて落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
こういう教えが広がると、心が不安になります。教会が混乱しだします。そして実際この現実の社会においてやるべきことを放り出して、訳の分からない世界に入ってきます。
これは、事例で言えば、ある人が間違ったそういう教えに入ってきます。そうするとその教えは、だいたいイスラエル国家と結びつけて、この地上の出来事に結びつけていきます。
または偽のキリストが現れて、自分こそキリストだと言います。そして再臨がもう起こっているという話をします。このような考え方、偽の教えが出てくると、イスラエルで何か事件が起こるたびに、その人の心は騒ぎます。落ち着きを失います。
また、偽のキリストが出てくるというと、その人の心は騒ぎます。落ち着きを失います。
そして結果的には、偽のキリストが出てきている、それがキリストだとすると、私たちはもう大丈夫だと思って、やることはないって、この現実の社会においてやらなきゃいけないこと、責任を放り出します。
イスラエルに何かが起こって、それが印だと見ると、そちらの方に目が行って、現実にやるべき責務、クリスチャンとして与えられている責務、または社会の一員としてやらなきゃいけない、本当にやらなきゃいけない責任を放り出します。そしてそちらに入っていってしまいます。
だからパウロははっきり「騙されるな」と言いました。
現実の社会から目を背けて、実際の日常生活の困難から目を避けて逃げるんです。
それがこのパウロが止めていることです。このテサロニケの手紙の目的です。
そして終末という教えに必ず、人間中心主義的な人が読み取ろうとする。この人間中心主義というのは、自分で終末がどういうふうに起こってくるのかを、聖書を紐解いて読み取ろうとします。
このことがまた間違いです。年表作りと言います。
再臨における年表作り。いつ何が起こって、こういうことが起こって、こういうことが起こって、こういうことが起こって、順番こうなって、流れがこういう風になっている。これを年表作りと言います。年表作りの考え方というのは非常に問題です。
これは聖書を未来を当てる本として読む。だから聖書は命の書ではありません。彼らにとって未来を読み解くための、未来を当てるための本になってしまいます。
そして何を今度その人はするかというと、情報を集め出します。その聖書の中に書いてあることが、情報になってしまいます。
そこには命も実体もなく、ただ情報になって、こういう順番でこれが起こる、あれが起こる。そして神が決めている時を、人の理解で管理しようとする。管理したがる。それは間違った終末の考え方。
年表作りも、出来事探しも、これを止めるために、この第二テサロニケは書かれています。
なぜなら、聖書の中心は神の主権です。
聖書はこう語ります。使徒の働き1章7節でこのように言います。
「それは、父がご自分の権威によって定めておられる時や時期です。」
ここに立てつきます。
この御言葉に、神が決めていて、神の時、あなたの救いも神の時だけど、あなたは自分の救いをいつ起こるのか分かってなかった。
だけど自分は神に救われておいて、そしてそれに対して再臨の時を当てよう、調べる、そのような行為になります。
パウロはこれを厳しく止めています。
神が定めている時は人のものではない。神のものです。神が定めている時を人のものに変えようとする。すなわちそれは、人間が自分が主語になって、自分がそれを解釈して自分が管理する。
しかし聖書は、父がご自分の権威によって定めておられる時や時期、これが終わりの時だと言っています。
パウロが教えている本当の前提、これを説明します。
パウロは第二テサロニケの2章の3から7で、不法の者について話しました。最初に読んだ御言葉は、不法の者が現れると言っています。
この不法の者というのはどういう意味なのか。
まずこの不法というのは、不法の者は乱暴をする、または反キリスト的な悪い人という意味ではないです。
この不法というのは、神が決めた時、神が隠されていること、神の主権、再臨の時、これを人の理解で動かそうとすることです。不法というのは、神が決めて、神が隠されて、神が神の時に行おうとしていることを、人の理解で変えて動かそうとする人たちです。
年表作りや出来事探しは、何を意味しているか。
それは神が隠していることを、人が分かる情報に変えて、そしてそれをもってまだ大丈夫だと安心したり、または他より優位に立とうとする考え方です。
年表作りや出来事探しの真意は、神が隠していることを自分が分かる情報に置き換えて、安心したい、優位に立ちたい、そういう考え方、これが不法です。
すなわち、それが人間中心の自分勝手な考え。これを行う者が不法を行う者です。
つまり、不法の者の正体。
2章の4節に不法の者の正体が書いてあります。
彼はすべて神と呼ばれる者、また拝まれる者に反抗して、自分を神の座に据え、自分こそ神であると宣言します。
自分こそ神で宣言する。すなわち、自分を神の位置に置く。神が決めるべきことを人が決める。神の主権を自分の理解と判断で置き換える。こういう構造です。
すなわち、「私が、私のために、私によって、私による宗教。」人間中心の宗教です。
教会の中に現れるという警告があります。私たちの側から出てくる。パウロが問題にしているのは、外の世界の悪人ではない。
そしてパウロは言います。
「誰にも、どのような方法によっても騙されないようにしなさい。」
思いっきり騙されてる人いますけど、誰にも、どのような方法によっても騙されないようにしなさい。
これは、教会の中に、キリスト教と言われている教会の中に、信仰の言葉を使って聖書を引用しながら、実際には人間中心で考える人々が現れるという警告です。
私のために、私が、私によって、すべて私。神ではない。
頑張ればなんとかなる。聖書を毎日読んで訓練すれば私は変わる。これすべて人間中心です。
私には強い信仰がある。私は心まで腐ってない。すべて自分中心です。
このような人たちは教会の中にいて信仰の言葉を使います。信仰の言葉、聖書の言葉を引用します。しかし何も分かっていない。実際には自分中心で考えている人々です。
そういう人たちが現れるという警告です。
この主題と絡めて言えば、不法の思想とは、例えば次のようなもの。
今は、どの段階にありますか。主の再臨は近いですか。
この出来事が印だ。
赤い雌牛が現れた。
赤い雌牛が印だと判断できる。
正しく地理的に神の計画を読まなきゃいけない。
今のような考え方はすべて、「父がご自分の権威によって定めておられる」というイエス・キリストの御言葉に反しています。
それは反キリストです。それは反キリストです。
なぜなら、神が隠していること、隠されていること、人が人間の力で読解できないことを、さも読解したように情報に置き換えるんです。
そしてそこには、安心と興奮と優越性がある。自分たちは知っている、自分は知っているというような愚かな優越性を持たせる。そして愚かな安心を持たせる。疑わない。
パウロは第二テサロニケ2章10節でこのように言っています。
「これらの人は、真理を愛することを受け入れなかった。」
パウロは、そのような考えを持ってキリスト教の中から現れてくる人々が、いかに不法な者であり、そして彼らは神の権威を否定して、神が隠されていることを自分の理解で折り曲げて、そして安心や興奮や優越性を持ち、「自分は知っている」という愚かな考えに導いていく。
そしてパウロはそれらの人のことをこう言ったんです。「真理を愛することを受け入れなかった。」
ですから第二テサロニケが言っていることは、不法の者とは、人間中心に神に逆らって立つ者が現れると言っています。
そしてそのような思想を持つ人々が、教会の中に現れてくると言っています。
彼らは神の主権と時を、自分の理解で管理しようとします。それは反キリスト的な構造です。これを第二テサロニケでパウロは批判して止めています。
これが真意です。第二テサロニケの。
ですからパウロは2章15節でこう言います。
「ですから兄弟たち。しっかり立っていなさい。」
この「立つ」という意味は、見抜くことでも、裁くことでも、そういうことは言っていません。ここでは。見抜くことも裁くことも言っていない。
言っていることは、神が主である、すべては神の主権の中の秩序にある、この秩序、支配の中に留まりなさいと言っている。
そしてパウロは2章6〜7節でこう言います。
「今はその者を引き止めているものがあることを、あなたがたは知っています。不法の者がその定められた時に現れるようにです。不法の秘密はすでに働いています。ただし、それが秘密であるのは、今引き止めているものが取り除かれる時までのことです。」
ここで語られているのは、神の主権による抑制があります。神の主権の抑制、つまり神の支配によって押し留められているものがあるということです。
この箇所(6と7)の前提は、終わりの印を当てるということではなくて、「主の日はすでに来た」という誤った教えの反論です。
「主の日はすでに来た」という誤った教えの反論であって、不法の者が勝手に出現するということではなく、不法の者は、神が定めた秩序と時の中でのみ現れるという宣言をしています。
不法の者が勝手に現れてきたのではない。不法の者が、神の定めた秩序と時の中で現れるという、そういう宣言をしています。
では、ここの不法の者を引き止めているものとは何でしょうか。この不法の者と言われている反キリストを引き止めているもの。「今はその者を引き止めているものがある」「今引き止めているものが取り除かれる時まで」。
ここで重要なのは、何者かを特定することではないんです。
ここで重要なのは、その不法の者は、神が支配の中で抑制しているということです。
もう一つ言えば、この抑制というのは神の支配の下にあって、人間や悪魔ではない。
パウロはこう言っています。
不法の秘密はすでに働いている。全面的には現れていない。なぜなら神が止めているから。こういうことです。
この不法の秘密はすでに働いている。全面的には現れていない。神が止めているから。
この「秘密」という意味。
不法の秘密はすでに働いています。この「秘密」というのは、陰謀論みたいな隠された陰謀ではないです。裏の組織じゃないんですよ。見えない霊的な悪霊のネットワークじゃないです。
この「秘密」というのは、神が今は制限された形で働かせていて、定めの時にのみ全面的に明らかにする御計画、そういう意味です。
神が今は制限された形で働かせていますけど、定めの時に全面的に明らかにする。
つまり、不法は存在しています。先ほど不法の定義を言いましたね。不法は存在しています。しかし、支配権は与えられていない。時が来るまで拘束されている。
では、「取り除かれる」とは何を意味するか。
ここも重要です。
「取り除かれる」とは、神が敗北する?違います。善が消える?違います。世界が悪に明け渡される?全く違います。
それは神が、神の裁きの計画を次の段階に進めるということです。
抑制を押しとどめていますね、神が。それを解くということは何を意味するか。それは神がご自分で次の裁きに移行させるために行う、神の主権的な行為です。
これはローマ書の「引き渡す」裁きと同じ構造です。
ローマ書では偶像礼拝を行い、そして人は神のものを神以外の形に変えると言っています。そこで「放置の裁き」というのがあります。それは「引き渡される」という裁きです。
偶像礼拝を行う者たち、この偶像礼拝を行う者というのは、偶像という作り物を拝む者だけではないです。それは、その人が一番大事なものを神の代わりに、自分の大事なものにすり替えるという行為をする人たちのことです。
その人たちに神は、みだらな思いを与えます。そして、みだらな思いは、究極、神の裁きに行きます。そのような裁きを「放置の裁き」と言います。引き渡される。しかしそれは裁きの一つの形態です。
この箇所が語っていることを整理すると、この不法の者を止めているものが抑制している。そしてそれを解く。すなわち、不法の者が現れる。それは、不法は神の許可なしに一歩も進めない。サタンも反キリストの存在も、神の主権の中でのみ動かされている。
なので、教会は不法が広がっているから終わりだと怯える必要はない。なぜなら、不法の出現から、その時からすら神が支配しているから。
神はこの不法の者を罰せるということです。裁きの中に置かれていくということです。
神は今も世界を制御しておられ、不法の者ですら神の秩序の中でしか存在できない。そしてその不法の者は教会の中に現れてくる。
それは自分を神に置き換え、自分が神のように神の御座に座るという者たちです。
第二テサロニケの中に現れてくる不法の者とは、教会の中に信仰の言葉を使い、聖書を引用しながら、神の再臨の時を当てるために、いろんな技術、方法を使いながら、そして今がどの段階にあって、この出来事の印が何なのか、正しく使う、正しく理解する。
そしてその心は、神が隠していることを暴き出したり、人が解読できる情報に変えたり、そしてそういうことをしながら、安心と興奮と優越性を得ようとしていく。
これは「真理を愛することを受け入れなかった」という言葉のとおりです。
第二テサロニケが言っていることは、不法の者とは人間中心主義に従う者、そのような思想を持つ者たちが、神が抑制している時の中で教会の中に出現してくるということです。
彼らは神の主権と時を自分の理解で管理している。そしてそれ自体が反キリストです。
聖書の告白はこうです。
救いの始まりは、永遠のキリストとの結合。すべての救いの構造、歴史は、神の計画によって進む。終末について知れるのは、私たちの神が示したことだけです。救われている者、選ばれている者は、判断せず、目を覚まして待つ。この人間中心主義をしっかり見ながら、しっかり見極めながら、そして御霊の中を歩いていく。
永遠のキリストとの結合、そして永遠の救い。天に目を向けながら、この現実の中をしっかりと、誠実に逃げずに、苦難の中を歩いていく。
年表作り、時の出来事を見極める、これは全く逆です。これは意見の違いではない。主語が違う。
神が支配する歴史か、神が支配する救いの全体構造か。人が管理しようとする再臨の時か、歴史か。
第二テサロニケは、神によって、神が神の時に、終末の時も定められ実行すると言ってあります。
第二テサロニケで語っていることはこれだけです。
主ご自身が、第二テサロニケ3章16節でこう言います。
「主ご自身が、あなたがたに、いつでも、どのような場合にも、平安を与えてくださいます。」
神はキリストに結ばれた者を、その救いの始めから永遠まで、その歴史の中で、時の流れの中でも確実に守り、そして混乱から遠ざける。
そして再臨の時に、義人と不義人は正しく分けられます。そしてその選ばれた者たちを最後まで守り通し、神がその栄光の中に導かれていく。この救いの秩序は、すべて神の支配と主権によるもので、決して、決して揺らがない。
これが第二テサロニケの教えている教義の中心です。
では終わります。
祈り
愛する天のお父様、感謝します。今日のこのメッセージを、あなたが与えてくださったことに感謝します。
私たちが今日、「不法の者はどういうものであって、反キリストの構造とはどういうものであるか」ということを、あなたがしっかりと示してくださったことを心から感謝します。
この中において、以前は不法の者の中にいた者がいますが、心から悔い改めてあなたの御前に来ています。どうかその者をお赦しください。
騙されて、知らずに行っていたことです。どうか憐れんでください。
本来そのような者たちは滅び行くものでしたが、あなたが憐れみによって、時の中において、キリストと結んでくださったことを感謝します。
私たちの人生が確実にあなたによって守られ、そして混乱から遠ざけられること、そして再臨の時に私たちが迎え取られる、この保証を心から感謝します。
それはあなたの主権です。あなたの支配です。あなたのご支配によって行われるものです。私たちはそのことを今日学びました。
決してあなたのご支配は揺らぐことがない。あなたの御言葉は永遠になくならない。あなたの救いは永遠に、とこしえまである。
感謝して、御子イエスの御名を通してお願いいたします。アーメン。
