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黙示録1

  • thewordforyoujapan
  • 1月24日
  • 読了時間: 13分

2026.1.18 豊川の家の教会礼拝メッセージ 黙示録シリーズ1

今週から終末論について話を進めていきます。

この終末論は、教会が「結合の民」であり、選ばれている民が最後まで地上に置かれ、完成に導かれるという視点で話をしていきます。


 イントロダクション

 黙示録をどこまで話していくかにもよるのですが、ローマ書の11章、それからマタイの24章、黙示録の7章と14章を合わせて、一本の救済史の全体構造として話していきます。今週から何週間かに分けて講解していきたいと思います。

  黙示録は黙示書・預言書ですので、ゆっくりと味わいながら講解していきたいと思います。

 

 黙示録の主題は一つです。

  •     神の民は誰か

  •     教会は終わりまでどこに置かれるのか

  そして現代の多くのクリスチャンは、むしろ終末論の議論になると、出来事の順番、またイスラエルがどのようになるか、そのような話になりがちです。

  しかし聖書が語っている中心、黙示録が語っている中心は、出来事の順番やイスラエルがどうなるかではありません。そこに中心はありません。

  聖書が語る中心、すなわち創世記から黙示録までのすべてに対して聖書が語っている中心は、神がどのように永遠の過去においてキリストにあって選び、召し、再生させ、義とし、聖化し、栄化へ導くのかという福音の全体構造です。

  この福音の全体構造なくして黙示録は理解できません。

  イントロダクションとして、現代の教会にある終末論理解の全体像を、今から簡単に説明します。どのように教会が終末論を理解しているのか、どのように語られているのかを整理します。

  それは、聖書全体の読み方、福音の捉え方の違いを反映しています。

 

 まず黙示録の理解は、大きく二つに分けられます。黙示録という本の全体像についてです。

  それを「循環的解釈」と「直線的解釈」として整理できます。

 

 黙示録の二つの読み方

 1)循環的解釈

  循環的解釈とは、黙示録が同じ救済史の構造を、角度を変えながら何回も描写しているという理解です。これが重要です。

  黙示録は、イエス・キリストの初臨、すなわち受肉されたイエスが来られてから、イエスが再臨するまでを描きます。これが一周です。

  イエスが来られ、十字架の死があり、復活があり、そして再臨するまで。これが一つの区間です。黙示録は、この同じ区間を何度も、角度を変えて繰り返し語ります。

  このように理解していく読み方を循環的解釈と言います。

  循環的解釈は、宗教改革においても前提とされてきた読み方です。20世紀に至っても、聖書の書き方そのものがそのようであるため、そのように読むという立場が続いています。

  

 2)直線的解釈

  もう一つが「直線的解釈」です。直線的解釈は、ディスペンセーション神学に代表される読み方として広く知られています。

  この立場は、出来事が時間順に一度ずつ進行していくという捉え方を取ります。

 

 この違いがそのまま終末論に影響します。神殿、第三神殿、イスラエル観、王国、再臨の理解など、すべてに影響します。

 一つは循環的な解釈、すなわち神の救いの全体構造をいろんな角度で繰り返し語る読み方です。

 もう一つは直線的解釈、すなわち時間軸に従って出来事が順に進行する読み方です。

 それでは、この二つを順に見ていきます。まず循環的解釈の基本構造から話します。

 1)循環的解釈の基本構造

  この理解では、主イエスが来られてから御霊の働きが始まります。選ばれた者たちが地上に現れます。ペンテコステ以降、教会が歴史の中に成立します。

  イエスの初臨から再臨までを、黙示録の中でどのように描いているかというと、黙示録は七つの循環に分かれています。

  ここで「七つ」と言っても、A、B、C、Dと順番に進んで、七つ目で終わるという意味ではありません。同じストーリーを、違う表現、違う強調点で見せています。しかし語っている内容は同じです。

  それは、イエスが来られ、十字架につかれ、復活し、そして終末が来るという流れです。これを違う角度で見せています。しかし同じことを語っています。これが黙示録です。

  ですから、救いの全体構造、裁き、迫害、勝利という構造を繰り返し、象徴を用いて語っています。

  つまり黙示録は、全体構造を七つに分割したのではなく、七つの表現で反復して示しています。

  七という数字は創造の完成です。契約の完成、御業の完成を示します。聖書において七は完全を表します。

  黙示録は最初から最後まで七によって構成されています。七つの教会、七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢など、七つの構造で世界を描写しています。

  黙示録が七つの循環ブロックに分かれていることは意図的です。偶然では起こりません。

 七つの循環ブロック(概観)

  •     七つの教会(黙示録1–3章)

  •     七つの封印(4–7章)

  •    七つのラッパ(8–11章)

  •    女と竜と獣(12–14章)

  •    七つの鉢(15–16章)

  •    バビロンの滅亡と白馬の勝利(17–19章)

  •    千年王国と最終完成(20–22章)

 

 これらは別々の時代を順番に描いているのではありません。初臨から再臨までの王国時代、すなわち教会時代全体における地上の選ばれた者の歩みを、視点と強調点を変えて描写しています。

  そして各循環ブロックの終わりには、必ず最終の裁きと完成が描かれます。

 

循環構造の前提:結合と「すでに/いまだ」

  この循環構造の前提は、福音の中心がキリストとの結合にあるということです。

  王国はすでに始まっています。イエスは「神の国はあなたがたのただ中にある」と語られました。王国はすでに存在しています。

  そしてすべての選ばれた者は御国に属しています。

  同時に、私たちの人生には苦難と勝利が同時進行します。そこには「すでに/いまだ」という構造があります。

  この「すでに/いまだ」の構造が終末論にもそのまま適用されます。

  将来的に何が起こるか、いつ出来事が来るか、神殿がどうなるか、という話ではなく、今も「すでに/いまだ」の構造の中で進行している霊的現実の描写が黙示録です。

  私はすでに永遠の結合の中に生きています。しかし罪の残存の中も歩みます。これは個人の「すでに/いまだ」です。これが救いの全体構造へ広がっているだけです。

 

この理解では、次の結論になります。

  •     第三神殿は不要です(キリストが真の神殿です)

  •     イスラエル国家が特別なのではなく、イスラエルの中で選ばれた者、異邦人の中で選ばれた者が、教会として一つに集められ、神のイスラエルとなります

  •     千年王国とは、初臨から再臨までの王国時代全体を指します

  •     救済史は一本の契約の下で進みます。二本の計画ではありません。救いは恵みによる信仰のみです

 

2)直線的解釈(ディスペンセーション)の基本構造

 

 次に、直線的解釈としてディスペンセーションの基本構造について話します。

  ディスペンセーション神学は、歴史的には19世紀後半にダービーによって体系化が進み、その後スコフィールドなどによって広く整理されていきました。

  この立場では、出来事が時間順に一度ずつ進行していくという前提を置きます。

そのため黙示録は、封印、ラッパ、鉢、大患難、再臨、千年王国、最終審判といった順番に進む年表として理解されやすい傾向があります。

  またこの枠組みでは、イスラエルと教会を明確に区別することが多く、教会時代を「挿入」として捉える説明がなされる場合があります。

その結果、終末では再びイスラエル中心の歴史が前面に出る必要があるという構造が組み込まれます。

 そしてこの体系では、神殿と祭祀と国家・王国の回復が重要要素として位置づけられやすく、第三神殿や祭儀の回復が語られることがあります。

千年王国も、霊的支配というより地上の政治的王国として説明されることが多いです。

 

 しかしこの点で私たちは、ヘブル書の教えと注意深く照らし合わせる必要があります。

  ヘブル書10章18節はこう言います。

「もし罪の赦しがあるなら、もはや罪のためのささげ物は不要である。」

  ここで語られているのは、罪のための犠牲が再び必要になるという方向ではなく、キリストの贖いが完結的であるという論理です。

 同じヘブル書10章は、同じささげ物の反復が罪を除き得ないことを示すとも語ります。

  このヘブル書の筋道に照らすと、終末において動物犠牲が何らかの形で再開されるという説明は、少なくとも非常に慎重に扱わなければなりません。

 なぜなら、キリストの十字架の十分性とどう整合するのかという問題が必ず出てくるからです。

 したがって私たちが問うべき点は、単に読み方の好みではありません。

 どちらの枠組みが福音の全体構造、すなわちキリストの贖いの完結性と、結合に基づく救済史と一致しているのか。ここが決定点になります。

 

循環構造の聖書的根拠(預言の語り方)

 

 循環的理解に着目すると、旧約の預言でも、バビロンの裁き、終末の裁き、メシア王国が混在して語られます。そこでは時間軸が整備されていません。

  イエスの説教も、神殿の崩壊の話、再臨の話、世界の終わりの話が重なって語られます。代表例がマタイ24章です。マタイ24章には二つの終わりが含まれます。しかし注意して読まなければ読み取れません。

  一つの終わりは神殿制度の崩壊、すなわちユダヤ教体制の終わりです。その後に宇宙的な終わり、すなわち最終末の終わりが語られます。

  これを理解するためには、御霊による照明なしに理解できません。

  聖書の語り方そのものが、裁きと救いを同時進行として語ります。人間の年表整理に従って語られていません。

  したがって、聖書自体の語り方を尊重し、循環構造の理解を採用するというのが私の立場です。

  

決定点:どちらが福音の全体構造と一致するか

 

 循環構造の解釈では、中心はキリストとの結合です。王国はすでに存在しています。救済史の全体構造は一つの契約によって成り立っています。恵みによる信仰のみです。

  他方、直線的解釈は、関心が将来の政治的王国や出来事の配列へ強く向かいやすい傾向があります。

 その結果として、出来事を追い、出来事によって終末を測ろうとする方向へ流れやすい場合があります。

 しかし聖書は一貫して、救いの中心を人間中心、制度中心、民族中心に置きません。中心は神の主権と、キリストの贖いの完結性と、結合に基づく救済史です。

 

まとめ

 

 循環的解釈は、教会時代全体を終末的現実として、象徴を用いて反復描写します。キリスト中心、結合中心、契約は一つです。

  直線的解釈は、終末を未来の段階的イベントの列として読みやすく、イスラエル中心、神殿、祭祀、動物犠牲の回復が重要要素として語られやすい傾向があります。

  したがってこれは単なる解釈技法の違いではありません。福音の全体構造の理解の違いがここに表れます。終末論の違いではなく、福音構造の理解の違いが、二つの違いを生みます。

 

循環構造の再確認(黙示録1–3章)

  もう一度整理します。黙示録は教会時代全体を七つのサイクルで反復描写しています。同じ初臨から再臨までを、象徴を変えて何度も語っています。視点と強調点を変えます。そして各循環ブロックの終わりには必ず最終の裁きと完成が来ます。

  第一の循環ブロックは七つの教会で、黙示録1章から3章です。この範囲は、キリストの昇天から再臨直前までの教会の実態を表しています。迫害、偽教師、妥協、忠実な残れる者、そして終わりが書かれています。

  臨在の約束と裁きの警告が各教会に与えられています。当時実在した教会も含みますが、「すべての諸教会」として、教会時代全体の教会に向けた言葉でもあります。

  私たちはすでに終末的緊張の中に教会が置かれていることを理解すべきです。

  千年王国の始まりは、イエスが来られ「御国があなたがたのただ中にある」と語られた時からすでに存在します。神の王国であり、霊的現実です。

第二の循環ブロック(黙示録4–7章:封印)

  第二は七つの封印で、黙示録4章から7章です。

  これは初臨から再臨までの時代の中で起こる歴史的苦難です。戦争、飢饉、疫病、迫害、殉教、そして終わりが描かれます。天地震動の中で、王も奴隷も裁きの前に立ちます。

  その終わりには、明らかに最終審判の姿も描かれます。

  7章では地上の視点で十四万四千人が出てきます。ここは多くの人が関心を持つので、少しだけ触れます。

 

黙示録7章:印と十四万四千

  黙示録7章で「印」と「十四万四千人」という言葉があります。

 「生ける神の印を押すまでは、地も海も木も害してはならない」(7章3節)。

 

 この箇所を読む鍵は、黙示録21章12節から14節です。

  城には十二の門があり、門にはイスラエルの子らの十二部族の名が記されています。

 城壁には十二の土台石があり、そこには子羊の十二使徒の名が記されています。

  ここで門は旧約の十二部族、土台は新約の十二使徒です。旧約の約束の民と、新約の完成された民が、一つの神の都に組み込まれていることが示されています。

  神の民は、全てのユダヤ人ではありません。ユダヤ人の中で選ばれた者であり、異邦人の中で選ばれた者です。旧約も新約も同じく、選びによって形成される民です。

  十二は約束の民の完全形を表す象徴です。

 そこに千が掛けられます。千は数量の上限ではなく、神の完全性・十分性・永続性を示す象徴数です。

 

 12 × 12 × 1000 が十四万四千です。

 

 「千の山の獣はわたしのものだ」という表現は、神が全てを所有することを示します。

 「千代まで契約を守る」も、千代で終わるという意味ではなく、永遠の契約の確かさを示します。

 第二ペテロが「一日は千年のよう、千年は一日のよう」と語るのも、時間計算を拒否する文脈であり、神の支配の超越性を示します。

  したがって十四万四千は、完全で欠けのない全体の象徴です。十二が二重になるのは、神の民が救済史の中で完全に成立していることを示します。選ばれた者が漏れなく救いの中にあることを示します。

  なぜこの極限表現が必要か。

 それは、大患難のただ中にある教会に対して、「神の民は途中で崩壊しない」という保証を与えるためです。 神の計画に賭けはありません。見える現実に左右されず、神の民は完全に守られます。

  ここは人数ではなく身分の宣言です。人数として読むと、救いの限定や霊的階級化へ流れやすくなります。それは福音と一致しません。

  象徴として読むなら、「神の民は誰一人漏れない」という宣言になります。結合は絶たれません。これはローマ書8章と一致します。

  「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができるでしょうか。」

 

 黙示録はこの神学を、象徴と言語構造で語っています。

  そして黙示録7章9節では、天上に「すべての国民、部族、民族、国語からなる数えきれない大群衆」が描かれます。これは別集団ではありません。十四万四千と同一の教会です。地上の視点と天上の視点の違いに過ぎません。

  したがってローマ書11章の「残りの者」、マタイ福音書の弟子共同体、黙示録7章の十四万四千は、すべて同一の神の民を指しています。キリストに結ばれている、時の始まる前に選ばれた民です。

 

 今日はイントロダクションが長くなりましたが、概ねこのような全体像です。あと2、3週ほどかけて、ゆっくり話していきます。よろしくお願いいたします。


 

最後に祈ります。

祈り

 愛する天の父なる神様。

 この黙示録へ私たちを導いてくださったことを感謝します。 

十四万四千、それは選ばれた民が完全に守られるという身分の宣言です。

 私たちが時の始まる前からキリストにあって選ばれ、地上において象徴として示され、あなたが最後まで守り続けられることを感謝します。

  天上において、すべての部族、すべての国、すべてのところから集められる大群衆として、同一の民が示されることを感謝します。

  私たちは永遠の中で生かされ、現在において試練と困難を通りますが、御霊によって導かれ、あなたが守り抜かれることを感謝します。

  初臨からすでに患難は始まり、再臨によりすべてが完成することを感謝します。

 その完成の時、私たちの体が栄光の体へ変えられ、永遠の御国へ導かれることを感謝します。

 愛する主イエス・キリストの御名によって感謝して祈ります。アーメン。

 

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