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「聖化とは何か―結合に基づく神の主権と全存在(体を含む)の聖別」

  • 2月21日
  • 読了時間: 15分

2026.2.15 豊川の家の教会 礼拝メッセージ

「聖化とは何か――結合に基づく神の主権と全存在(体を含む)の聖別」

 

「信仰は新しく生まれた結果であって、決して信仰によって新しく生まれるのではない」という真理は、福音の中心を貫く極めて純粋な福音の理解です。

この真理にたち、神の御業と信仰者の生き方との関係について「聖化(主の似姿に変えられる)」を講解します。


 

1.「主の似姿へ変えられる」

  創世記において人間が神に似せて造られたという「神の似姿」には、実は2つの層があります。アダムの堕落によって「残ったもの」と「失われたもの」があります。

 1) 残った似姿:人としての「器」

これは人間が人間であるための「機能的」な能力です。

  • 内容: 理性、意志、人格、責任能力など。

  • 状態: 堕落後も、人間は動物とは異なり、理性や意志を持ち続けています(ただし、罪によって死んでいます)。

  • 意味: 私たちは堕落しても、依然として「人間」です。

 

2) 失われた似姿:神の「性質」

これはその器に入っていた「聖さ、義、愛」 神の御性質、輝きです。

  • 内容: 聖さ、真の義、愛、神を知る真理(エペソ4:24)。

  • 状態: 堕落によって完全に失われました。

  • 意味: アダム以降、人間は生まれながらにして、神の聖なる性質を一切持っていません。

 

聖化とは、人間が自力で改良することではなく、神が失われた「失われた似姿」を再び創造されることです。

 

3) 「罪の性質」の残骸とその支配権の喪失

罪の性質はすでに支配権を失い、残骸となっています。

再生(新しく生まれること)において、罪の支配的な力は打ち砕かれます。

信仰者はもはや罪の奴隷ではありません。

しかし、罪の『残骸』は、栄化(復活の体が与えられる)まで信仰者に留まり続けます。

聖化とは「人間が自分を磨くこと」ではなく、

「聖霊が、信仰者の内にある罪の残骸に対して日々、神の支配が現れ、キリストの義を具体化させていく過程」です。

 

4) 「主語は神」である聖化の構造

スプロールは聖化について、しばしば「協働(synergism)」という言葉を使いますが、それは人間が神と対等に協力するという意味ではありません。

 

「私たちが働くのは、神が私たちの内に働き、志を立てさせ、事を行わせてくださるからである。

(ピリピ2:12-13)

"こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。"

 

私たちの働きは、神の先行的かつ能動的な働きの『結果』であり、

神の恵みに対する応答です。

つまり、「神が成しておられる(主語:神)」からこそ、

その結果として「人が歩む(述語:人の行為)」

という順序で起こります。

 

これは聖書の原則は「人の行為は結果であり源泉ではない」

 

聖霊の宮としての「体の贖い」は重要な教理です。この「似姿への変えられる」ことは精神的な領域に留まらず、「体の復活」において完成します。「キリストの救済は、魂だけの救済ではありません。それは全人格、すなわち肉体をも含めた救済です。聖霊が私たちの内に住まわれるということは、神が私たちの肉体を将来の復活のために『聖霊の証印』をおされたことを意味します。

 

三部分説は「肉体が結合の重要な対象である」ことを話さない、しかし、聖書では「体はすでに聖霊によって占有された聖域」と強調しています。

 

5) まとめ: 信仰者が主の似姿に変えられることを以下のようにまとめる。

  • 根拠: 聖霊の内住

  • 主体: 聖霊(神)

  • 内容: 堕落で失われた「真の義と聖」の回復

  • 範囲: 霊的感覚だけでなく、肉体を含む存在の全領域

 

この変貌は、「神が、その主権によって、選ばれた者の全存在をキリストに適合するように再創造している現実」そのものであると言えます。


 

2.神が行われる再創造について

 

1) 再生における「一方的な主の働き(Monergism)」

永遠の結合の顕現である「再生(新しく生まれること)」は神によって行われます。ここでは神のよる一方的な働き(Monergism)のみが真理です。「再生は神の業です。それは、神お一人の力によってなされる。そこには、神の恵みに対する人間の事前の協力も、意志の働きも存在しない。人が自らの誕生に協力できないのと同様です」

 

ここで「主語は神」であり、人間は「死体」として描かれます。再生におけるいかなる人間の貢献についていかなる考えも、「福音の破壊」として退けられなければなりません。

 

2) 聖化における「協働(Synergism)」の定義

一方で、救われた後のプロセスである「聖化(キリストの似姿に変えられること)」について、スプロールは「協働」という言葉を用います。しかし、その中身は「神の主権に支えられた依存的協働」です。「聖化は協働的(Synergistic)である。つまり、それは神の業であると同時に、私たちの業でもある。しかし、私たちが働くのは、神が私たちの内に働いておられるからに他ならない。」 —— R.C. Sproul, "Essential Truths of the Christian Faith" (Tyndale House, 1992)

 

スプロールによる協働の3つの核心(出典:Faith Alone

  1. 能動的な服従:信仰者はロボットではなく、実際に考え、決断し、歩む。しかし、その    

「歩み」のは、内住される聖霊にある。

  1. 非対等性:神と人間が対等なパートナーとして働くのではない。神が「主」であり、人

間は「従」である。

  1. 恵み:人間のいかなる善き業も、神の恵みに対する「結果」であり「応答」である。


 

3. 祈りに見える命令 ― 三部分説が生む人間中心主義の構造

 

「私の霊に住む聖霊が私の思い、感情、意思へと浸透し、広がってください」という祈りをする人たちがいます。無意識のうちに三部分説(人間の心の中をいくつも部屋に例える、コンパートメント化する考え方)に基づいています。

 

この祈りは、まるで聖霊を「特定の部屋(霊)に閉じ込められた力」のように扱い、人間が許可を与えたり祈ったりすることで他の部屋(意志や感情)へ「流れ込む」かのような、人間中心的かつ操作的な構造を持っています。

この祈りは一見、内住と聖化を求める祈りに聞こえますが、以下の祈りと全く同じ構造です。

 

<これは神への祈りではなく捻じれた命令である>

「主イエス様。今、私はあなたをキリストとして、救い主として、心にお迎えします。私の人生に来てください。私を闇から光に導いてください。主イエス様だけを神として信じ進んでいきます。主イエス様・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン」

 

<宗教的な装飾、一見、敬虔に見える言葉をはぎ取るとこの祈りの本質が見える>神よ、 私は人間である。 私があなたを救い主として認めるから入れ。主と言うが、主語は私である。 私の人生を、私が望む方向に変えよ。私は決心し、努力していく。 

 

これは、

  • 神中心ではなく

  • キリスト中心でもなく

  • 完全に人間中心

しかも、「神学的自覚を持たない自己崇拝」です。

 

「私の霊に住む聖霊が私の思い、感情、意思へと浸透し、広がってください」という祈りはこれと全く同じ原理です。無意識のうちに三部分説(人間の心の中をいくつも部屋に例える、コンパートメント化する考え方)に基づいています。

 

4.主語は神 ― 全人格的再生に立つ祈り

 

三部分説的な祈りは、人間を意志・感情・思考という区画に分け、聖霊の支配がまだ及んでいない領域があるかのように扱います。しかし、聖書が語る「心」は分割された部分ではありません。聖書において「心」とは、思い・意志・感情を含む全人格の中心です。それは人間存在の中枢であり、一部ではありません。

 

むしろ、祈りは次のようになります。

主よ、あなたはすでにキリストとの結合と再生によって、私の全存在を御支配の下に置いておられます。あなたの御旨に逆らう肉の思いを日々砕き、あなたの御心に絶えず感謝し、喜びをもって聞き従う者として保ち、立たせてください。

 

祈りは神の支配を成立させる行為ではありません。神がすでに確立しておられる主権が、歩みの中で具体的に現されることを神に求めるものです。

 

主語は常に神です。

再生は全人格に及ぶ神の働きです。

神の支配は既に確立されています。

 

5. 祈りは「降伏」である

スプロールは祈りにおいて人間が神を動かそうとする、あるいは聖霊を自分で移動させよう依頼する愚かな態度を厳しく戒めます。

「祈りの目的は、神の意志を私の意志に合わせることではない。私の意志を神の意志に服従させることである。神は、私たちが祈る前から、私たちに何が必要か、そして私たちの全存在が神のものであることをご存じである。」

 

砕かれる意味の照明を受けた者の祈りはこうなります。

「主よ、あなたは私の感情も意志も、十字架の血によって買い取られました。主よ、あなたの所有権の事実が、私の感情においても現れるようにしてください。」


 

6. 再生(新しく生まれる) 神の一方的な働きの再確認

 

「神が人の意志を再生させるとき、神はその意志を単に『励ます』のではありません。神は、死んでいた意志を『生かされる』。新しくされた意志は、神の恵みによって、必然的に神を追い求めるようになります。」

 

三部分説的な「私の内に広がってください」を求める祈りは、この結合の現実に立っていません。真の信仰者は祈ります。

「私の内にある罪の残骸が、すでに完成している御霊の統治を拒もうとする時、私のその思いを砕いてください。どうぞ主の主権を私の意識に現してください」と祈ります。

 

7.祈りの言葉の検証

三部分説的・体験中心的な祈りと神の主権」に基づく祈りの対照表

誤った祈り(三部分説・人間中心)

神の主権・結合にある祈り

「聖霊様、私の感情の領域にまで入ってきてください」

「主よ、あなたは私の感情の所有者です。私の不信仰を砕き、あなたの支配を認めさせてください」

「私の霊と魂が一つになりますように」

「キリストと結合された私は、すでに全存在において一つです。この現実が、私の生活の細部にまで現れますように」

「御霊の力で私の意志を変えて(操作して)ください」

「主よ、あなたが与えられた従順として、今日はこの命令に歩ませてください」

 

「Coram Deo(神の御前)」の祈り

クリスチャンは「Coram Deo(神の御前で、神の主権の下で、神の栄光のために)」生きることです。

 

祈りにおいて「聖霊を内面で操作しようとする」試みは、神を「利用可能なエネルギー」と見なす冒涜的な態度です。聖霊の内住とは、神の全人格が、あなたの全人格(体を含む)を「原罪の不法占拠から解放し、ご自身の宮とされた」という救済史的な事件です。

 

信仰者は、イエス様さまが、王がすでに到着し、玉座に座っておられます。 それまで自分と言う人間が主権を持ちその王座に座っていました。この「主権の交代」という客観的な事実に立つ時、祈りは「自分の心理的な作業」から、「偉大な神への礼拝と服従」へと変貌します。

 

8.真理は行いとして必ず現れる

マルコ14:8-9

"彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」"

 

1) 「自分にできることをした」という神が起こされた従順

イエス様はマリアの行為を「彼女は、自分にできることをした」と評されました。ギリシャ語のニュアンスは「彼女が持っていたものを、彼女はなした」という事実の確認です。これは、多くの教会で教えられるような「頑張って捧げた」という人間中心的な功績の話ではありません。

 

  • 三部分説的・律法的な誤解:

「祈りや捧げ物をすることで、神を動かし、聖められようとする」(祈り=手段)

 

  • マリアの姿(聖化の結果):

彼女はすでにキリストと深く結ばれており(結合)、その結果として、内から溢れ出る愛と啓示に押し出されて行動しました。

 

香油を注ぐという行為(祈り)が彼女を聖くしたのではなく、彼女がすでに神によって聖別(聖化)されていたからこそ、この決定的な瞬間に、神の御心(埋葬の準備)がマリアの行動を通して現れました。これは「再生した者の必然的な応答」です。彼女の意志は、聖霊によってすでにキリストの死という神の計画に準備されていました。

 

2) マリアの「全存在」による祈り

マリアの「祈り」は、言葉による内面的なものではなく、

• 高価な香油(物質・経済)

• 壺を割る音(物理現象)

• 彼女の髪と涙、イエス様の足(肉体と肉体の接触)

によって表現されました。

 

もし三部分説が正しければ、彼女は静かに霊の中で祈るべきでした。しかし彼女は「壺を割り」ました。これは「心の殻(全人格の保身)」を砕き、その中身をすべて主の肉体に注ぎ出すという、全存在をかけた礼拝です。

「神は魂だけでなく、身体も、物質も創造された。したがって、真の霊性は肉体を通して表現される」。マリアの行為は、内住する聖霊が、彼女の「体」と「持ち物」を使って、キリストへの愛を具体化した「御霊の実」なのです。

 

3) 神の主権的計画としての「埋葬の準備」

弟子たち(特にユダ)は「無駄使いだ」と怒りました。彼らの目は「人間的な有用性(貧しい人への施し)」に向いていました。

しかしイエス様は「埋葬に備えて……前もって」と言われました。

当時、弟子たちは誰もイエス様が本当に死ぬとは思っていませんでした。しかしマリアだけが、聖霊の導きによって(あるいは主の言葉を真に聞いていた結果として)、「イエス様の死」という神の救済計画の核心をイエス様の言葉によって照明を受け、それに従いました。

 

• 祈りとは: 自分の願いを神にねじ込むことではありません。

• マリアの祈りとは: 神がなそうとしていること(十字架と埋葬)に、

聖霊によって自分の存在を巻き込んでいただくことでした。

 

つまり、この香油注ぎは、神が彼女を用いて、御子の埋葬の準備をさせたという、神の主権的働きだったのです。彼女の行為は、神の意志が彼女を通して地上に現れた「結果」に他なりません。

 

4) 祈りは「香りが溢れる」こと:

この出来事の後、「家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネ12:3)とあります。

 

4-1)結合が源泉、祈りは結果:

聖霊が内住し、人の心を支配(聖化)して初めて、人に神の御心にかなう祈り(行為)が現れる。マリアの行為は、彼女の内にあった「キリストとの結合」が外に溢れ出たものである。

 

4-2) 祈りは「同意」である:

祈りとは、神の主権的な計画(ここでは埋葬)に対し、自分の最も大切なもの(香油=命)を差し出して「アーメン(その通りになりますように)」と体で同意することです。

 

4-3) 無駄に見える献身:

人間中心主義(ユダの視点)からは「無駄」に見える行為こそが、神中心主義(イエス様の視点)では「永遠に残る記念」(14:9)それはすべての選ばれた者への神からのメッセージでした。

 

「彼女は自分にできることをした」

この言葉は、聖霊に満たされた者が、無理に背伸びをするのでもなく、神秘的な体験を誇るのでもなく、「ただ、神に捕らえられた全存在を、あるがままに、神のタイミングで注ぎ出す」という、真の「聖化の結果としての祈り」を表しています。

私たちは、「私たちは祈って聖くなるのではありません。                       祈りを神に近づく『手段』に変えてはいけません。

 

もし祈りが「聖くなるための手段」なら、祈りの量が足りない日は「汚れた日」になり、たくさん祈った日は「聖い日」になります。 それはキリストの十字架ではなく、「自分の行為(祈りのパフォーマンス)」に依存する別の宗教です。 それは「恵み」ではなく「取引」です。

 

4-4) 真理(源泉と結果の逆転)

「私たちが祈るのは、神がすでに私たちをキリストにあって聖なるもの(聖徒)とされたからです。」死人は呼吸しません。生きているから呼吸をするのです。 同じように、聖くない人は真に祈りません。 「聖くされるために祈る」のではなく、「聖くされた(結合した)から、その命の現れとして祈りが溢れる」のです。 祈りは「聖さを獲得する苦行」ではなく、「与えられた聖さの呼吸」です。

 

4-5) 適用(結合の現実)

「祈りとは、遠くにいる神に近づくハシゴではありません。すでに内に住んでおられる神との、圧倒的な『近さ』の確認です。」

神は、あなたの祈りの熱心さにほだされて近づくのではありません。 神は、一方的な契約と愛によって、すでにあなたを捕らえ、あなたの内に住んでおられます。 だから祈りとは、「頑張って神を呼ぶこと」ではなく、「すでに共におられる神に、全存在で応答すること」です。

 

もし「祈って聖くなる」と教えれば、祈りは「功績」になります。 しかし、祈りは功績ではなく「恵みの手段」です。 神が私たちを聖化のプロセスの中に置くために、神が私たちの内に祈りを起こさせているのです。


 

9. 肉体は「神の私有地」である

 

三部分説では、肉体は「いつか脱ぎ捨てるテント」のように扱われがちですが、1コリント6章19–20節はこれを真っ向から否定します。「あなたがたの体は、神から受けた聖霊の宮です。……あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」

救いは「主権の移転」です。

 

 信仰者の肉体は、サタンや「自己」という不法占拠者から、キリストの血という正当な代価によって「神の私有地」として買い戻されました。したがって、健康管理や生活習慣の主体は「私」ではなく「所有者である神」にあります。

 

10.管理は「結果」であり「源泉」ではない

 

●人間中心主義的な健康観:

 「私が」体を整えることで、神に喜ばれ、霊性を高める(=自己努力が源泉)。

●聖書的な所有権の理解:

「神が」私の体を買い取られた。ゆえに、この体において神の栄光が現れるのは当然の結果である(=神の所有が源泉、管理は結果)。

 

クリスチャンの節制(セルフコントロール)は、自分の力で自分を縛ることではなく、「自分の内にある神の所有権を認めること」です。信仰者の肉体は神の聖なる宮であり、神が住んでおられるのです。


 

11. 「体の救済」という広大な福音

 

スプロールは、キリストの受肉と復活を重視します。

もし霊だけが大切なら、キリストが肉体を持って復活する必要はありませんでした。

神は物質の創造主であり、その贖い主でもある。神が肉体を軽蔑されることはない。

むしろ、肉体は将来、栄光の姿へと変えられるための『種』です。

この視点に立つと、日々の食事、睡眠、運動といった「肉体的な営み」は、単なる世俗的な事柄ではなく、「神が所有された宮を、神が整えておられる過程」へと神の所有の現れとして位置づけられます。

 

聖書ははっきりと言います。あなたがたは神の宮です。

「あなたの体は、あなたの意志でどうこうしていい『自分のもの』ではありません。

キリストが最高値で買い取られた『神の所有物』です。

神はご自身の所有物を決して見捨てず、御霊によって管理されます。

今、あなたの内に働く罪の残骸ではなく、真の持ち主である主の主権の下に歩みなさい。主がそのように歩ませておられるからです。

 

<結合の現れとしての肉体>

聖霊の内住とは、神が私たちの肉体と結合し、所有されているという聖霊による証印ことです。 「健康にならなければならない」という律法主義的な重荷ではなく、

神が与える「私の全存在は神の宝物として管理されている」という確信と安息です。

その中にこそ、真の節制、自己管理、セルフコントロールが御霊の実として現れるのです。

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