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十字架の御業と本当の救い
「十字架の御業」、また「あがない」は救いにおける中心教義です。
これをわかっていないということは、その人は救われていないのか?
ここについて少し話したいと思います。
救いというのは、どのように私たちに来るのか?
聖書をしっかりと見つめて考えていくと、聖書はこのように言っています。
救いにおける一番重要な部分、それは「選び」です。
そして選びに基づいて何が行われているかというと、イエス・キリストとの結合の中において選びが行われているのです。
この選びの現れは、神の御指によって行われています。
決して私たちの意思によるものではありません。
また、決して私たちの知識によるものでもないということを理解する必要があります。


ローマ人への手紙 8章26節 祈り2
ローマ書7章と8章のメインテーマは「私はみじめな人間です」というところから始まります。
この「私はみじめな人間です」から、深いうめきが起こってくる、とパウロは言っています。
この「うめき」とは何でしょうか。
キリストを知らない人、再生していない人は、このうめきを「人生の苦しみ」と捉えます。
自分が抱えている問題に自分を重ね合わせ、そこから脱出したい、その問題から逃れたいという思いを「深いうめき」だと思い込み、聖書にかぶせてしまいます。


ローマ人への手紙 8章26節 祈り
キリストとの結合と祈りについて更に学んでいきたいと思います。
ローマ8:26はこう言います:
「私たちは何を祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が言葉に表せないうめきをもって、私たちのためにとりなしてくださる。」
この聖句をよく見ると、何を祈ったら良いかわからない時に御霊ご人身が信仰者のためにうめきとりなすと言っていません。注意して読んでください。
→ 何を祈ったら良いかとは「信仰者がある特定の状況の時に何を祈ったらよいかと言う意味ではありません」 また、「特別に何か意識して」「何を祈ったら良いのか」と言うことでもありません。
むしろ「ただ、信仰者は何を祈ったらよいか分からない」 信仰者が何を祈ったらよいのかと言うことはその人の状態を表しています。つまり、実際に、神の御前にあって、ただ、わたしたちは何を祈ったらよいかわからない、そう言う人なのです。


祈りは依存 ― 再生前から始まっている主の訓練
みなさん、「祈り」ってなんでしょうか?
「祈れば神さまが動いてくれる」「祈れば問題が解決する」――そう思っていませんか?
でも、それは聖書が教える祈りではありません。
祈りは、神を動かして自分の願いを叶えるための手段ではありません。
祈りとは、神にすがり、神の御心に従う者へと変えられていく「信仰の応答」そのものです。


広さ、長さ、高さ、深さ
パウロは、エペソの信徒たちのためにこう祈りました。
「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、
あなたがたに知恵と啓示の御霊を与えて、神を知ることができるようにし、
心の目をはっきり見えるようにしてくださいますように。」
(エペソ1:17–18)
この「知る」とは、ただ情報を得ることではありません。
それは、心の目が開かれ、神の救いのご計画を全体として御霊により啓示され悟ると言うことです。
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