ローマ人への手紙 8章26節 祈り2
- thewordforyoujapan
- 9月6日
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ローマ人への手紙 8章26節 祈り2 2025.8.29 The Word for you
それでは始めます。
火曜日に祈りについて話しましたが、今日もキリストとの結合と祈りについて、さらに学んでいきます。
火曜日には、ローマ書8章26節で「私たちは何を祈ったらよいのかわからないのですが、御霊ご自身が言葉に表せないうめきをもって取り成してくださいます」と学びました。
この「私たちは何を祈ったらよいのかわからないのですが」というのは、「私たちが何を祈ったらよいのかわからない時に、聖霊様は言葉に表せないうめきをもって取り成してくださる」という意味ではありません。
それは「わからない時」ではなく、「私たち自身が何を祈ったらよいのか分からない者である」ということなのです。
私たちはこれをどのように学んだかといえば、「自分が完全に罪によって汚れ、心の奥底まで腐っている」ということを話しました。
ローマ書7章と8章のメインテーマは「私はみじめな人間です」というところから始まります。
この「私はみじめな人間です」から、深いうめきが起こってくる、とパウロは言っています。
この「うめき」とは何でしょうか。
キリストを知らない人、再生していない人は、このうめきを「人生の苦しみ」と捉えます。
自分が抱えている問題に自分を重ね合わせ、そこから脱出したい、その問題から逃れたいという思いを「深いうめき」だと思い込み、聖書にかぶせてしまいます。
そして次に何が起こるかというと、聖霊の取りなしを「自分のことを自分の言葉で代弁すること」と考え、異言の形で心からひねり出す訓練をしてしまいます。
それは完全に聖書から離れています。なぜかといえば、その聖句の一部分だけを取り出して、文脈を見ていないからです。
しかし聖霊は、文脈に基づいてここを読むように真の信仰者に教えます。
では文脈で見るとどうなるでしょうか。
パウロは8章26節の前、18節から「うめき」について話しています。
もっと前から「うめきの原因」を述べていますが、特に18節から本格的に語っています。
「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば取るに足らない」とパウロは言います。
つまり「栄光の体が必ず与えられる」ということを語っています。
まず、被造物のうめきから始まります。
「被造物は切実な思いで神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。」
被造物は虚無に服し、滅びの束縛にあります。
これは「神の呪いの下にある」という意味です。
創世記でアダムが神に背いたとき、地全体も呪われました。
その結果、アダムは祝福された存在から呪われた存在となり、本性は心の奥底まで腐ったものになりました。
「私はみじめな人間です」というパウロの嘆きは、被造物全体の嘆きでもあるのです。
しかしパウロは続けてこう言います。
「被造物も神の子どもたちの栄光の自由にあずかれる。」
つまり被造物もうめいているのは「贖いの完成を待っているから」なのです。
この「うめき」とは「創造の最終ステージ」を指します。
信仰者には新しい体が与えられ、古い天と地は新しい天と地に造り替えられます。
それを待ち望む希望のうめきなのです。
だから聖書が言う「うめき」は、単なる「苦しみからの脱出願望」ではありません。
それは「新しい創造を待ち望む希望」なのです。
そしてその根底には、常に「私は心の奥底まで腐っている」「みじめな人間だ」という認識があるのです。
この「腐敗とみじめさ」は人だけではなく、天と地も同じです。
私たちは「祈りさえ自分の力ではできない」というほどに無力です。
しかし、それゆえに私たちは「キリストの義」に希望を置きます。
「キリストが私たちの内に住み、私たちと結合しておられる」――これが希望なのです。
だから私たちの祈りは不完全です。
完全な祈りをできる人は誰もいません。
むしろ、みんなポンコツなのです。
祈りをスラスラと流れるように言えても、それは本当の祈りではありません。
祈りはもっとドロドロとしていて、肉的なものに引っ張られてしまいます。
それが私たちの現実です。
しかし神はその中で働かれ、私たちの祈りを変えてくださいます。
御言葉を通して心を内側から少しずつ変え、従順の思いを起こさせてくださいます。
それは私たちの本性にはないものです。
そして次に、ローマ8章34節。
「キリスト・イエスは死に、よみがえり、神の右に座し、私たちのために取り成しておられる。」
この御子のとりなしは「二重の救いの保障」です。
内において聖霊が祈りを取りなしてくださり、外においてキリストが御座から守ってくださいます。
だからローマ8章は冒頭から「キリストにある者は決して罪に定められない」と宣言します。
その理由は、この「ダブルの保障」、さらに「三位一体の保障」があるからです。
そして最後に、ローマ8章29–30節。
「神はあらかじめ定めた人々を召し、義と認め、栄光を与えられた。」
これは「選び、召し、義認、聖化、栄化」という救いの完成の保証です。
これがローマ7章8章のフィナーレです。
こうして父なる神が計画され、御子が実行され、御霊が守り続けてくださいます。
三位一体の壮大な救いの計画が、ここにあるのです。
最後にパウロはこう言います。
「神は、世界の基が据えられる前から、私たちをキリストにあって選び、御前で聖なる者、傷のない者としようとされました。」(エペソ1:4)
そして「それは私たちが神の栄光を褒めたたえるためです」(エペソ1:12)。
これはすべて神の御業です。
父なる神が決め、計画され、御子キリストが贖いを実行し、聖霊が保証として守ってくださいます。
三位一体の神の臨在は、あなたを守り続けて、永遠の御国にまで保障してくださるのです。
これこそが、ローマ7章8章が語る壮大な福音の全体像であり、エペソ1章において賛美へと結実する救いの確証なのです。
愛する天のお父様。
このローマ書7章8章の深さ、高さ、広さ、長さが、どれほど私たちの心を癒してくださるかを感謝します。
また、私たちが自分の目の前のことしか見ていないことをも教えてくださいます。
パウロが語った「御霊のうめき、被造物のうめき、私たちのうめき」は、この世の悲しみや苦しみではなく、体の贖いを待ち望む希望のうめきです。
それは選ばれた者にしか与えられない救いの保証であり、聖霊の証印であることを感謝します。
愛するイエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りします。
アーメン。
