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十字架の御業と本当の救い

  • thewordforyoujapan
  • 9月20日
  • 読了時間: 5分

十字架の御業と本当の救い 2025.9.17 The Word for you

「十字架の御業」、また「あがない」は救いにおける中心教義です。

これをわかっていないということは、その人は救われていないのか?

ここについて少し話したいと思います。

救いというのは、どのように私たちに来るのか?

聖書をしっかりと見つめて考えていくと、聖書はこのように言っています。

救いにおける一番重要な部分、それは「選び」です。

そして選びに基づいて何が行われているかというと、イエス・キリストとの結合の中において選びが行われているのです。

この選びの現れは、神の御指によって行われています。

決して私たちの意思によるものではありません。

また、決して私たちの知識によるものでもないということを理解する必要があります。

取税人が救われたときのことです(ルカによる福音書18章)。

パリサイ人は胸を張って「自分は正しい」と祈りました。

彼はユダヤ教の知識に長けており、立法をしっかり守っているという自負がありました。

しかし取税人は立法も知らず、日々悪いことをしていました。

それでも彼は神の憐れみにより、このように祈りました。胸を打ち叩きながら――

「神様、こんな罪人の私はあわれんでください。私は全くダメです。神様、助けてください。」

この心は、神がこの取税人に与えた心です。

聖書はこれを「悔い改め」、そして「信仰」と呼びます。

それ以外に何もありません。

この悔い改めと信仰は、十字架のキリストと結合しているのです。

日本の有名な牧師(私は全く尊敬しませんが、多くの人が尊敬している人)がいます。

彼はディスペンセーション主義に立ち、「字義通りに聖書を解釈する」と宣伝してネットで発信しています。

その牧師が「三分聖書」というシリーズの中で、取税人の祈りについて次のようなやり取りをしていました。

ある視聴者がこう質問したのです。

「なぜ取税人の祈りは、十字架の死・葬り・復活を信じていないのに、この人は救われたのですか?」

彼は答えました。

「旧約の時代の救いと新約の時代の救いは違うのです。旧約の人々はイエスの十字架の死と復活を知りませんでした。だから『私は罪人です。助けてください、神様。』と言うだけで救われたのです。しかし新約の時代には、歴史的な事実が明かされました。ですから皆さんが十字架の死と復活を事実として認めれば、救われるのです。

これは一見もっともらしいですが、イエス様が語られたことと違うのです。

この牧師の言っていることは、「歴史的知識を事実として認めれば救われる」というものです。

これはパリサイ人と同じです。

「私は聖書をよく知っている。献金も十分の一している。私はこれをしている。」――これは行いです。

しかし、取税人の祈りは違います。

「私はダメです。神様、助けてください。」

これこそが聖書のいう信仰、悔い改めと信仰なのです。

この有名牧師の言葉には「悔い改め」がありません。

「新しく生まれさせる神の御業」もありません。

「神の選び」もありません。

「神の主権」もありません。

ただ「自分で決断すれば救われる」と言っているのです。

つまり「十字架+行い」を語っているのです。

私は昨日、泣いていた一人の男を見ました。

彼は「私はこれがよくわからない」と言って泣いていた。

しかし私は彼に言いたいのです。

「あなたの涙は、十字架の強盗、また取税人の涙と何一つ変わらない。

あなたはわからないかもしれないけれど、あなたの心は十字架のキリストに結びついている。

それがあなたの救いの証なのです。」

「私は全くダメだ」という心。

「どうか助けてください」という心。

そこからあふれる涙は、キリストとの結合のしるしです。

それは、時の始まる前に神があなたを選び、新しく生まれさせてくださった結果なのです。

すなわち、これが悔い改めと信仰です。

そしてそれは十字架の御業にそのまま結合しています。

   • 罪の代わりに死んでくださったこと

   • 神の怒りを鎮めてくださったこと

   • 神と和解させてくださったこと

   • 永遠の命を与えてくださったこと

これが十字架の御業です。

贖いとは、その御業の中で、神が罪に対して代価を払い、罪の奴隷から買い取ってくださることです。

子どものたとえで言えば――

子どもが大きな借金をした。

しかしイエス様が全部払ってくださり、完済してくださった。

しかし、もしその子がこう言ったらどうでしょう。

「僕は十字架の御業をよく覚えていないからダメなんじゃないか。覚えなきゃ。」

また別の子はこう言うかもしれません。

「私は十字架の御業も贖いも全部暗記した。イエス様が死んで、葬られて、三日目によみがえったことを信じます。」

けれども、表面的にただそう言うだけで、心が悔い改めていなければ――それは天と地ほどの差があります。

涙は決して無駄ではありません。

「助けてください」という祈りは、取税人の祈りと同じです。

では祈ります。

愛する天のお父様。

私たちが絶えずあなたの十字架とあなたの命によって結ばれていること、選びと再生によって私たちの救いが現実に心に来ることを感謝します。

「私は何もできない罪人です。御言葉も覚えられません。どうかこんな私を憐れんでください。」

イエス様はこう言いました――「この男が救われている」。

この取税人が救われています。

彼はパリサイ人のように知恵もなく、お金もなく、ただのボンクラでした。

しかしこの男の心はキリストと結びついたのです。


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