午後3時の祈りの時間とキリストの証人
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2026.6.17 The Word for you
午後3時の祈りの時間とキリストの証人という、またキリストの証人シリーズです。
使徒の働きの3章1節は、すごい短い聖句です。ペテロとヨハネは午後3時の祈りの時間に宮に上って行った。ペテロとヨハネは午後3時の祈りの時間に宮に上がっていきました。
この1節は単なる時間の記録ではありません。初代教会の姿と救済史の転換を示、大変重要な意味を持っています。今日はこの1節だけを講解します。
午後3時の祈りの時間について。ユダヤ人、ユダヤ教は祈りの時間を持っていて、そのうちの1つです。午前の9時頃と正午頃、そして午後3時頃で、この表現は現代の時間で書いてあるので、午前9時、正午、午後3時頃となりますが、ユダヤ時間で言うと第3時、第6時、第9時となります。
この、午後3時というのは、ユダヤ教では神殿で夕方の生贄が毎日犠牲として捧げられる、そういう時でした。出エジプト記の29章の39節ではこう書いてあります。1匹は朝に捧げ、もう1匹は夕暮れに捧げなさい。ですから、この午後3時の祈りの時間は、個人的な黙想の時間、嘆きの壁のように祈るといった時間ではなく、生贄を捧げるというのは贖い、贖罪の時間です。贖罪と礼拝を象徴する時間。そういう意味があります。
では、なぜペテロとヨハネは神殿に行ったのか。皆さんこの3章の1節をそんな風に掘り下げて読む人はいない、あまりいないですよね。私は掘り下げて読む人なので、掘り下げて掘り下げて解析しました。ペテロとヨハネはなぜ神殿に行ったのか。
日曜日に聖霊降臨の話をしました。聖霊が降臨して、異言のしるしも見た後です。でも、使徒たちは宮に上がっていった。ここではペテロとヨハネです。なぜ上っていったのか。彼らは神殿礼拝で救われようと思って行ったわけではありません。彼らは啓示を受けてキリストの証人となっています。神殿制度が示してきたものがキリストであるという啓示を受けています。そのキリストがすでに十字架で完全な生贄になっているということ、動物の生贄では、何も収まらない、キリストご自身が生贄となられたこと、彼らは、この復活したキリストを証しするため、神殿というユダヤ教の中心に上って行きました。そのように解釈します。まだ教会とユダヤ教の会堂が完全に分離する前の過渡期です。
使徒たちはイスラエルに対して最後の証を続けていました。このように聖書は語ってます。午後3時の持つ意味はとても深いです。この午後3時は主イエスの十字架の死と結びついています。はっきりと分かります。マタイの福音書27章45節から50節を見てください。この箇所はとても有名です。
さて、12時から午後3時まで闇が全地をおおった。3時頃イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。これは、「わが神、わが神、どうして私をおみすてになったのですか」という意味である。
そして27章の50節。「しかしイエスは再び大声で叫んで霊を渡された。」
ユダヤ教の教えでは、午後3時は本来、生贄が捧げられる時でした、動物の。しかし、それは完全に罪を取り除くことができなかった。しかしこの午後3時に、神は、まことの子羊であるキリストが十字架でご自身を捧げられるという、この御子を犠牲にしました、小羊として。すごいでしょう。
そこで、使徒の3章で午後3時に宮殿に向かうペテロとヨハネの姿を思ってください。彼らは何をしに行ったのか。旧約の生贄の時代が、キリストにおいて成就したということを彼らは証ししに行きました。そして、そのなされた救い、イエス・キリストの福音を述べ伝える、新しい時代に移ったという姿を表しています。これが午後3時の姿、使徒3章の1節。
そして、その直後に起こる出来事は何ですか、知ってますよね。美しの門に、生まれつきの足の不自由な人がいました。使徒の3章の2から10節。この祈りの時間に神殿に向かった結果、美しの門で生まれつき足の不十の人が癒されるという、私たちは聖書のそういう光景の中にいます。そして、いいですか、この癒しの中で奇跡が起こります。しかし、奇跡に目をやる人はいっぱいいます。奇跡にしか目をやりませんが。
ですが、重要なのは癒しそのものではありません。いつもそうです。聖書が語るのはキリストです。キリストですよ。癒しそのものではありません。聖霊が舌の形で下ってくることでもありません。異言をガリラヤなまりで喋ってる人たちではありません。これらの出来事は、全てキリストを証しするための印として用いられました。ペテロは、こう言いました。3章の6節で、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、その後でペテロは15節、16節でこう言います。「しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。このイエスの名がその名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。」いいですか、「イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」福音がここで語られています。イエス・キリストが証しされています。信仰はイエスによって与えられます。
つまり、祈りの時間、神殿、癒しの印、そしてキリストの復活の証言という流れになっています。使徒の働きの中心は、奇跡や癒しやスーパーナチュラルではないです。常にキリストの証人です。皆さんこの観点で「使徒の働き」を読んだことがありますか、ないですよね。それは神が中心でなければこの形にならないからです。使徒たちを通して、復活のキリストを明しさせるために聖霊は働いています。聖霊は今も働いていて、復活のキリストを証しさせます。
使徒の3章の1節は本当に何気ない時間の記録のように見えます。しかしそこには深い意味があります。旧約の礼拝が終わり、そして新約の礼拝に入ること、十字架の成就、神殿への最後の証、復活のキリストの宣教です。この1節には救済的な意味がそのように凝縮されています。中心なのは奇跡ではなくて常にキリストの証人、そしてキリストが、旧約の時代の午後3時に捧げられていた不完全な生贄ではなく、完全な生贄であるということを、ペテロとヨハネは語っています。
そして、ペテロは宣言します。「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上り、歩きなさい。」「神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です」。これは、午後3時の祈りの時間のパッセージにおいて、キリストの証人がはっきりと語られている。救済史の意味が凝縮された1節でした。
お祈りします。愛する天のお父様。午後3時に捧げられた御子イエス、私たちの罪のゆえに、ご自身の命で私たちの罪、そして神の怒り、律法の呪から私たちを救い出し、神の御国に移してくださいました。この贖いの業を、主よ、感謝します。
そして、私たちの内に信仰を与えてくださいました。誰1人とも自分の行いによって救われることはない。
主よ、私たちは自分の行いでは義とされることがない。私たちは何も自分で貢献するものなく、自分を誇るものはありません。使徒たちは御子イエスを信じる信仰を与えられ、主よ、義とされました。この素晴らしい救いが、こののように凝縮されて使徒の3章1節に現れてることを、本当にびっくりします。愛するイエスキリストの御名をとおして、感謝してお祈りします。アーメン。
