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試練の中におけるキリストとの結合と聖化の現実

  • 6 日前
  • 読了時間: 9分

2026.4.4 豊川の家の教会礼拝メッセージ

 

エペソ4章22〜24節は、救われた者の現実を明確に示しています。

 

「すなわち、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。」(エペソ4:22–24)

 

これは単なる倫理や努力の話ではありません。

すべてはキリストとの結合から流れ出ている神の働きです。

神がキリストにあって与えられた新しい存在が、時間の中で現れていく現実です。

 

「結合から流れ出る」とは何か 

「結合から流れ出る」とは、神が、永遠において

キリストと一つに結びつけておられる者に対して、その結合を源泉として、

救いのすべてを時間の中に実際に現されることです。


聖書はこの結合をこう語ります。

「神は、私たちをキリストにあって選び…」(エペソ1:4)

「あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。」(Ⅰコリント1:30)

まず神が、永遠の過去において、信仰者をキリストのうちに置かれます。

これが、キリストとの結合であり、源泉です。

そこから、再生、信仰、義認、聖化、保守、栄化に至るまで、すべてが流れ出ます。

「神は、あらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々を義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ8:30)

したがって、「流れ出る」とは、人が何かを生み出すことではなく、

すでにキリストとの結合において与えられている救いが、

神の働きによって時間の中で現れてくることです。

 

このため、

  • 信仰は人が作るものではなく現れるもの

  • 従順は努力の産物ではなく現れ

  • 聖化は積み上げではなく顕れ

となります

「私はぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人のうちにとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」(ヨハネ15:5)

枝は実を生み出すのではなく、木から流れるいのちによって実が現れます。

結論として、

「結合から流れ出る」とは、キリストとの結合という源泉から、

神ご自身が救いのすべてを実際に現される働きです。

人が起点ではありません。神が源泉であり、神が働かれます。

 

 1.エペソ4章22〜24節の具体的内容

 

パウロは、

 

「古い人を脱ぎ捨てる」

「霊と心において新しくされ続ける」

「新しい人を着る」

 と語ります。

 

しかしこれは、人が自分で切り替える話ではありません。神によって、古い人に属するあり方が終わらされ、神によって、キリストにある新しい人として生かされるという現実です。

 

古い人とは、アダムにある存在です。罪に支配され、自分を源泉として生きる構造です。

 

新しい人とは、キリストにある者です。神にかたどり造られ、真理に基づく義と聖に生かされる存在です。

したがってここで語られているのは、行動の改善ではなく、神が行う源泉の転換です。

23節の「霊と心において新しくされ続け」が中心です。

 

それは神が御言葉と御霊によって内なる人を新しくされ続けます。だから外側の歩みも変えられていきます。

 

ここで言われているのは、単なる行動の変化ではありません。

 

エペソ4章28、29節でパウロはこう語ります。

 「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。

 

盗む → 働く

取る → 与える

悪い言葉→成長に役立つ言葉、恵みを与える

 

しかしこの変化は、人が良くなろうとして起こるのではありません。神が内側の源泉を変えられることによって起こるのです。したがって、「奪う者が与える者へと変えられる」とは、単なる行動の変化ではなく、源泉の転換によって現れる新しい人の具体的な現れです。

 

奪う者が与える者へと変えられる。これが新しい人の現れです。そしてその土台は、人間の決意ではありません。

 

もともと人は、アダムにある存在として、

  •  自分のために取る

  • 自分を守るために確保する

  • 自分を中心として生きる

 という構造の中にあります。 これが「奪う」というあり方です。

 しかし神は、キリストとの結合の中にある者を、その源泉から変えられます。

 

つまり、自分を源泉として生きる構造を終わらせ、キリストを源泉として生きる者へと造り変えられます。

 

その結果として、同じ行為の領域においても、

  •  自分のために取る者が

  • 他者に与える者へと

 変えられていきます。

これは倫理的、道徳的努力ではありません。結合から流れ出る新しいいのちの現れです。

 

 すべてはキリストとの結合から流れ出る神の働きです。神が志を与え、試練を与え、神に頼るものとし、従う者へと変え続けておられるのです。

 

2.神が、キリストとの結合の中に置かれている者を、試練の中に置いておられる

 

苦しみ、痛み、不安は現実に存在します。しかし、それらが出発点ではありません。また、試練の中にキリストがいるという構造でもありません。

 

神が、キリストとの結合の中に置かれている者を、試練の中に置いておられる。これが聖書の語る現実です。

 

主はこう語られます。

「世にあっては苦難があります。しかし、わたしにあって平安があります」(ヨハネ16:33)

ここでの順序は明確です。

 

まず、「わたしにあって」。すなわちキリストとの結合が先にあり、その中で、「世にあっては苦難がある」のです。試練が外側にあって、そこにキリストが関与するのではありません。結合の中にある者が、神によって試練の中に置かれているのです。

 

 3.神が導かれるという本質

 

主はこう語られます。 「主は愛する者を懲らしめる」(ヘブル12:6)苦しみは偶然ではありません。神が、キリストとの結合の中にある者を、試練の中へ導いておられる現実です。これもまた、結合から流れ出る神の働きです。


 4.重荷の本質

 

主はこう語られます。「すべて疲れた者、重荷を負っている者は、わたしのもとに来なさい」(マタイ11:28)

ここで言われている「重荷」とは何か。それは単なる苦しみや問題そのものではありません。

 人が自分で自分を支配し、自分で自分を守り、自分で正しくあろうとし、自分で人生を担おうとする、その構造そのものです。


 5.「担う」とは何か

 

「重荷を負っている」とは、

 単に問題を抱えていることではありません。

 自分が源泉となり、自分で判断し、自分で支え、自分で責任を引き受ける構造そのものです。

 すなわち、自分で決める、自分で守る、自分で正しくあろうとする、自分で結果を背負う、この構造です。

 これが古い人のあり方です。

 

 6.神が担う構造を終わらせる

 

神は試練の中で、この「自分で担う構造」を終わらせられます。人がやめるのではありません。神が終わらせられます。そして、キリストとの結合の現実の中に置き直されます。

 

 7.従順と安息の本質

 主はこう語られます。

「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、あなたがたのたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:29)

ここで主が語っておられるのは、重荷がなくなることではありません。「くびき」は存在しています。 では何が変わるのか。それは、くびきの下にある関係と支配です。

人はもともと、自分で自分を支配し、自分で自分を守り、自分で正しくあろうとするこのくびきの下にあります。

 

しかし主は言われます。「わたしのくびきを負って」 これは、支配が移ることを意味します。さらに、「わたしから学びなさい」これは単なる知識ではなく、キリストのもとで生かされる在り方に置かれることです。


その結果として、「あなたがたのたましいに安らぎが来ます」 と語られます。なぜ安らぎが来るのか。

それは、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:30)

とある通り、重荷が消えるからではなく、担い手が変わるからです。

聖書はこの現実をこう語ります。

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)

 すべては、キリストとの結合から流れ出る神の働きです。

わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」(マタイ11:29)

 

ここでの「負う」とは、人が自分の力で担うことではありません。

 神が、

  • 自分を源泉とする構造を終わらせ

  • キリストとの結合の中に置き

  • その中で歩ませておられる

 ということです。

 

なぜ従順が安息につながるのか。それは、重荷が軽くなるからではありません。重荷の源泉と担い手が変えられるからです。

 人が源泉である限り、常に不安が生まれます。なぜなら、自分がすべてを支えなければならないからです。

 人が自分で自分を支配し、自分で自分を守り、自分で正しくあろうとするところに、重荷の本質があるからです。

 

しかし神が、

  • 源泉を変え

  • 担い手を変えられるとき、

すなわち、神が人を試練の中において砕き、自分をあきらめさせ、キリスト以外に頼る方がいない状態に置き続ける。

神はキリストご自身が支配し、キリストが守り、キリストが正義、聖さであると言う事実を照明として与えます。

その時、人は自分が支える必要がなくなります。

 

だから、重荷は存在していても、人の性質が変わるのです。これが安息です。

 

8.試練の中で神に頼る者へと造り変えられる

 

ここが核心です。「自分で担うことをやめる」とは、人の決断ではありません。神が試練の中に置き、神に頼らざるを得ない者へと造り変えられるという現実です。

 

聖書はこう語ります。

 「私たちは、自分自身に頼らないで、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためでした。」(Ⅱコリント1:9)

 

ここで明確なのは、

  • 頼ることすら人の働きではない

  • 神が頼る者へと造り変えておられる

 ということです。


 9.表面的キリスト教との違い

 

表面的キリスト教は、自分が主体で、自分が信じ、自分が従う、という形を取ります。しかし本質はそこではありません。人が源泉になっている構造です。

 

しかし聖書は違います。神が主体です。神が志を与え、神が行わせ、神が保たれます。

 決定的な違いはここです。人が頼るのではなく、神が頼る者へと造り変えられるのです。


 10.信仰の継続の本質

 「良い働きを始められた方が、それを完成してくださいます」(ピリピ1:6)

 信じ続けることそのものが、神の働きです。

 11.聖化の現実(継続)

 

試練の中で起きていることは、神が、

  • 置き

  • 導き

  • 砕き

  • 変え

  • 生かし

  • 保ち

 続けておられるという現実です。ここで重要なのは、この働きは一度の出来事ではないということです。

 **神が、キリストとの結合の中にある者を、試練の中に置き続け、造り変え続け、神に頼る者として生かし続けておられる**

これが聖化です。

聖化とは、人が続けるものではありません。神が続けておられる働きです。したがって、従順も、信仰も、歩みも、すべては 神によって続けられているのです。

 

 <まとめ>

試練の中で起きていることは、

 **神が、自分を源泉とする者を終わらせ、神を源泉とする者へと造り変えておられる現実です。**

 そしてそのすべては、**キリストとの結合から流れ出ています。**

 さらにそれは、一度で終わる働きではなく、 神が続けておられる働きです。

 

 「神は御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」(ローマ8:29)

 

神が始め、神が続け、神が保ち、神が完成されます。これが、試練の中におけるキリストとの結合と聖化の現実です。

 

以上です。

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