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ヘブル書講解 第3回

  • 3月21日
  • 読了時間: 15分

2026.3.15 豊川の家の教会礼拝メッセージ

 へブル書は 完成へ向かう者たちと、完成者キリスト がテーマです。

 

 ヘブル書は、多くの困難の中にいる信仰者たちに語られています。

 迫害、疲労、疑い、揺らぎ、その中で著者はまず言います。12章は言います。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1)

 

 へブル書は私たちがまだ完成していない、だから競走の中にいると語ります。11章の証人たちは、神が再生させ、信仰を与えられた者たちでした。しかし彼らは完成しませんでした。著者は言います。

「私たちを抜きにしては、彼らが完全とされることはなかった。」(11:40)

 救いは信仰を通して恵みによります。それが旧約と新約を貫く、原則です。そして旧約の信仰の証人たちは、私たちと一緒に完成すると宣言します。完成はキリストの再臨の時に起こります。

 

 そして、著者は言います。「私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

 わたしたちも一切の重荷とまとわりつく罪を捨ててとはどういう意味でしょうか。一切の重荷とは何か、まとわりつく罪とは何か、それらを捨てるとはどういうことか?また、私たちはまとわりつく罪を捨てなければなりません。

 

「一切の重荷を捨てなさい。」

 その答えは、すぐ次の節にあります。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」(12:2)

神は試練、苦しみの中で信仰者の目を、キリストに向けるように導きます。

 

 ここで聖書は、二つのものを区別しています。「重荷」と「まとわりつく罪」です。つまり、聖書は 重荷と罪を同じものとして語っていません。重荷とは必ずしも、すぐに「罪」と呼ばれるものではありません。しかし、それは信仰の競走を遅らせるものです。 では、重荷とは何でしょうか。それは 信仰者の視線をキリストから逸らすものです。

  たとえば、

  • 将来への不安

  • 人の評価への恐れ

  • 世への執着

 このようなものは、最初から明確な罪として見えるとは限りません。しかし、それが心を占めるとき、信仰の競走は鈍くなります。なぜなら、そのとき 心の中心がキリストから移るからです。そして、その状態が進むと、それは単なる重荷ではなくなります。偶像になります。

 

 聖書における偶像とは、単に像を拝むことではありません。仏像や神像のことだけではありません。聖書は、偶像をもっと深いところで語ります。

 

コロサイ3章5節は言います。

 「貪欲は偶像礼拝です。」つまり、偶像とは神よりも重くなるものです。神よりも重く心を占めるもの、それが偶像です。ヘブル書の読者たちにも、この問題がありました。彼らが抱えていた重荷は、ユダヤ教への回帰でした。彼らは迫害の中で、神殿、律法、祭司制度に戻ろうとしていました。それは一見、敬虔に見えるものです。しかしそれは、キリストよりも旧制度を重くすることでした。つまり、それは偶像化です。だからヘブル書は繰り返し語ります。

 ヘブル3章1節 「イエスのことを考えなさい。」

 ヘブル12章2節 「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」

 信仰の競走は、行動の競走ではありません。 心の視線の競走です。だから聖書は言います。「一切の重荷を捨てなさい。」これは単なる心理的な改善の命令ではありません。それは「心の王座」を戻すことです。

「キリストより重くなっていたものが取り除かれ、心の中心に再びキリストが置かれることです。

それが、重荷を捨てるということです。」

 信仰の競走とは、「神の主権とキリストとの永遠の結合」を見続けながら走る競走です。だから著者は言います。

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」

 そしてキリストの卓越性を語ります。それは心の本心までに進む深い部分でのとり扱いです。

 

 また、罪についてヨハネは言います。

ヨハネ第一1:8-10

"もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。"

 

 罪を告白しながらすでに十字架で成し遂げられた赦しに立つのです。私たち信仰者はこの時の流れの中で完全ではなりません。そして、完成に向かって進んでいます。罪との戦いは続きます。しかし、そのとき信仰者が向かう先は決まっています。父なる神のもとです。ここでは、罪を隠さない、神に告白するという姿が示されています。この罪は原罪、心の中、実際の罪、人生における罪の歴史、これらの罪を心から認め、父なる神にキリストの御名により、告白をしていくことがまとわりつく罪をすてるということです。

 

 信仰者は結局、すべてはここに戻ります。罪は十字架で処理され、義はキリストにあります。罪の告白は

  • 十字架を繰り返すためではない

  • 救いを取り戻すためでもない

  信仰者が自分は罪人であり救いはキリストにある、罪人であり、義人である。という位置に立ち続けるためです。だから信仰者は罪を犯すたびに 絶えず父なる神に告白し、キリストの十字架に立ち返るのです。福音の全体構造の中心、完成は歴史の終わりに突然生まれるのではありません。完成は、すでに一人の方のうちにあります。

「時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、

一切のものがキリストにあって、一つに集められることです。」(エペソ1:10)

 ヘブル書は、完成している信仰者の話をしているのではありません。まだ競走の途中にいる者たちに語っています。

 

 私たちはまだ完成していません。試練が続きます。弱さが続きます。罪との戦いが続きます。


 しかし、この競走には、すでに完成している方がおられます。「信仰の創始者であり完成者であるイエス」です。キリストは、十字架の苦しみを忍び、今、神の御座の右に座しておられます。だから信仰者は、重荷と罪を捨てて、自分の力によってではなく、キリストを見続けながら、忍耐をもってこの競走を走り続けるのです。

 

 完成とは、天と地の統合、旧約と新約の統合、歴史全体の統合が、キリストにあって一つに集められることです。そして著者は視線を定めます。

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」(12:2)

「キリストを見る」とは何かここで言う「見る」とは、感情的に励まされることでもありません。聖書知識を学ぶことでもありません。心の中で必死に思うことではありません。それは、神によって示されている福音の全体構造の中心におられるキリストの真理、キリストの卓越性を知り、信仰に結びつけられることです。

 

 わたしたちはキリストが、

  • 永遠の御子であり

  • 真の神であり

  • 真の人として来られ

  • 十字架で贖いを成し遂げ

  • 復活し

  • 御座に着座され

  • 信仰者と聖霊によって結び合わされた方です。

と学んでいます。

 そして著者はさらにこの卓越したキリストの知識が試練の中で信仰に結びつけられていくように信仰者を励まします。

「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヘブル13:5)

 この神は信仰者を決して見捨てません。信仰者は、神であり人であるキリストと、聖霊によって永遠に結び付けられています。この結合は全人格的、約束であり、救済構造の源泉です。それは永遠にある生ける命の泉です。

 

未完成から完成へ

ヘブル人への手紙 12章18~21節

"あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、

ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。

また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。

 

 この箇所は律法の恐怖の支配を語っています。この ヘブル人への手紙 12章18–20節 は、22–24節で語られる「近づいている現実」を理解するための対照を語っているところです。

 ここで描かれているのは、誰も旧契約と神に近づくとは出来ないという宣言です。18節「あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません」 

 

  • 「神の恐ろしさに近づいてはいない」 「手でさわれるもの」ではない。

それは神に近づける手段ではない

→ 人間の感覚・経験・到達可能性ではない。

 

  • 「燃える火、黒雲、暗闇、嵐」

→ 神の臨在の象徴 ただし、恵みとしてではなく、裁きと隔絶として現れている。神は近くにおられるが、近づくことは許されない。

 

  • 「ラッパの響き、ことばのとどろき」

→ 神が語っておられる 

しかし、いのちを与える声ではなく、裁き、耐えられない声として聞かれています。

 

  • 「それ以上語らないでくださいと懇願した」

→ 罪ある人間が、直接の神の語りに耐えられないという現実

→ これは反抗ではなく、裁きの前に立たされた者の必然的反応

 

  • 「彼らは命令に耐えることができなかった」

→ 神は正しい、律法は正しい

しかし、人はその正しさの前に立ち続けることができない

 

  • 「たとえ獣でも…石で打ち殺される」

→ 問題は動機や意図ではありません

聖なる神と被造物との分離が、絶対的な境界として示されています。シナイでは、神に近づくこと自体が死を意味しました。

 

ここで語られている本質 

 旧い契約の下では、神に近づくことそのものが不可能だったという事実。だから、著者はこの節の初めに「あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。」

 このように、明確に新しい契約にいる人々について語ります。古い契約の下にいる人々は神に近づくことはできない。しかし、私たちは恵みの下におり、新しい契約の下にいます。

 

ヘブル人への手紙 10章14~22節

"なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。

聖霊もまた、私たちに証ししておられます。というのも、

「これらの日の後に、わたしが彼らと結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにこれを書き記す」と言った後で、

「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」と言われるからです。

罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、

心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。"

 

 私たちは再生され、悔い改め、信仰を与えられて神の前で正しいとされています。すべて神の御業です。罪の告白をしっかり保ち、キリストの御業に感謝して神に近づくのです。

  

へブル書12章22–24節

わたしたちは完成に向かって近づいています。

 「しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。

 

地上において、警告を与える方を拒んだ彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、なおのこと処罰を免れられません。あのときは御声が地を揺り動かしましたが、今は、こう約束しておられます。「もう一度、わたしは、地だけではなく天も揺り動かす。」

この「もう一度」ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが取り除かれることを示しています。

 

このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。

私たちの神は焼き尽くす火なのです。"

 

 ここで語られているのは、今、天で礼拝している天の教会と地の教会が融合している。という現象描写ではありません。語られているのは、信仰者がどこに属しているか信仰者がどこに向かっているかという終末的所属の宣言です。信仰者が未完成から完成に向かっており、彼らは天に属するもとと宣言されているのです。

 

 列挙されるのは、天にあるエルサレム、天に登録された教会、万民の審判者である神、全うされた義人たち

仲介者イエスすべて終末再臨後の御国にある完成の姿です。

 それはすでにあり、信仰者がそこに属しており、完成に向かっているのです。著者は、地のシオンの山と天のエルサレムを比較させながら未完成から完成を語っています。

 死者が日曜日の礼拝に天で参与して、地上にある教会と聖餐で死者と生きている者が交わっているという教えは成立しません。

 

 この ヘブル人への手紙 12章22–24節 は、シナイ契約(震え・恐れ・近づけなさ)と対照して、新しい契約の下で、すでに信仰者が置かれている永遠と現実を、描写しています。

 

22節

「あなたがたが近づいているのは」

→ 未来の出来事ではなく、現在進行形で近づいているのはと語っています。

信仰者は、地上の感覚ではなく、天上の現実に結合されて進んでいると宣言

 

「生ける神の都/天上のエルサレム」

  • 物理的地点ではなく、神の支配と臨在の中心

  • 信仰者は今すでに天の御国に属しているという告白

→ 「すでに/いまだ」の「すでに」の側面です。

 

「無数の御使いたちの喜びの集い」

  • 礼拝の主体は人間ではない

  • 天全体が神の救いの御業を喜んでいる礼拝の只中に、教会は置かれている。

 

「天に登録されている長子たちの教会」

  • 「登録」は、選び。神がキリストにあって永遠の昔に選んだことによるもの

  • 「長子たち」は、特別な者という意味ではなく、御国を相続する選ばれた人々

キリストにあって相続者とされた者たち全体。すなわち、旧約、新約において歴史の全体の中で選ばれた人々です。

 

「すべての人の主である神」

  • 裁き主としての神

  • キリストにより正しく近づける神

 

「完全な者とされた義人たちの霊」

  • 「完全」は道徳的完成ではなく、義認の完成

  • 旧約・新約を含む、すべての義人が同一の完成に置かれている

→ 救いに差別はない

 

「新しい契約の仲介者イエス」

  • モーセではなく、イエス

  • 十字架の御業により、神が人を神に結びつける仲介者です。

 

「注ぎかけられたイエスの血」

  • 契約を成立させる血

  • アベルの血(復讐を叫ぶ血)と対比され、

→ 恵み(赦し・義・和解)を語る血として描かれています。

 

この箇所は、永遠の時の始まる前に選ばれた人々は

信仰者であり 今「すでに」

  • 完成された、天上のエルサレムに属し

  • 登録された長子たちの教会に数えられ

  • 義認の完成に置かれ

  • 新しい契約、すなわち、再生、信仰義認、聖化、栄化がイエスの血に保証されている。

という事実を、感情でも体験でもなく、神の宣言として示しています。

 

 だから直後に続く結論は、「感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげよ」となります。すでに与えられている立場を感謝しつつ、敬虔と恐れをもって心から神を礼拝する姿勢が必然的に信仰者から起こると語ります。

 

12章25–27節 「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」

 これは終末における再臨の出来事です。目的は「揺り動かされないものが残るため」つまり、今はまだ揺り動かされる時代完成前の世界です。

 

ヘブル人への手紙12章28–29節

「こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、

感謝しようではありませんか。

こうして私たちは、慎みと恐れをもって、

神に喜ばれるように仕えていこうではありませんか。

私たちの神は焼き尽くす火です。」

 

 ここで聖書は、「御国を受けている」と語ります。私たちは揺り動かされない御国を受けているとは、救いは絶対に失われることはない。それは神の絶対的な約束です。この言葉は「御国を受けている」 それは信仰者の位置を表しています。これは、御国の相続がすでに確定しているという意味です。神がキリストにあって定めた救いは永遠です。

 

 今、私たちはまだこの世界の中に生きています。試練があります。苦しみがあります。信仰の競争の途中にあります。この世界は揺り動かされます。歴史も揺り動かされます。人の国も、制度も、力も、すべて揺り動かされます。

 しかし、揺り動かされないものがあります。それは御国です。信仰者は、まだこの世界に生きながら、すでにその揺り動かされない御国に属する者とされています。

 

 だから聖書は言います。「感謝しようではありませんか。」そして続けてこう語ります。

「慎みと恐れをもって、神に喜ばれるように仕えていこうではありませんか。」

 御国に属している者には信仰がその人の生き様に現れます。なぜなら、最後にこう言われているからです。

「私たちの神は焼き尽くす火です。」

 裁き主への畏れです。神は聖なる方です。神はすべてをご覧になる方です。そして神は、最後にすべてを揺り動かされます。そのとき、揺り動かされるものは取り除かれます。残るのはただ一つ、御国だけです。

 

 神を信じない者にとってこの火は滅びの火です。しかし、真の信仰者にとって、この火は滅びの火ではありません。

 しかし神は聖なる方であり、その聖さの前で私たちは軽々しく立つことはできません。神はご自分の民を導き、試練の中を通して整え、完成へと導かれます。信仰の競争の中で、神はご自分の民を訓練しておられます。

 

 それぞれの信仰はその人の生き様となって現れます。11章の信仰の証人たちはその生き様をもってその信仰を証しました。だからヘブル書は語ります。わたしたちも忍耐をもって走り続けましょう。揺り動かされない御国を受けているのだから、感謝し、慎みと恐れをもって神に仕えていこう。神は聖なる方です。私たちの神は焼き尽くす火だからです。

 

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