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主を待ち望むキリストの証人

  • 7月11日
  • 読了時間: 10分

2026.7.5 豊川の家の教会礼拝メッセージ

イザヤ書40章31節

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。

走っても力衰えず、歩いても疲れない。」

 この預言は、新約において御霊によるキリストの証人の姿として成就し、今日も神の民のうちに成就し続けている。 それはイザヤが約束した『主を待ち望む者』は、新約において聖霊によってキリストの証人として歩む神の民のうちに、その約束の実現を見る。

 このみことばは、使徒の働き1章8節と「力を得る」と言うみことばにおいて深く結びついている。

 

主イエスは弟子たちに言われた。

 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 

 イザヤ書40章31節は、「主を待ち望む者は新しく力を得る」と語る。使徒の働き1章8節は、「聖霊が臨むとき、あなたがたは力を受け、キリストの証人となる」と語る。

 

 つまり、この二つのみことばは別々のことを語っているのではない。イザヤが預言した「主を待ち望む者に与えられる新しい力」は、新約において聖霊によって与えられる力として現され、その力によって信仰者はキリストの証人として歩むのである。

 

 したがって、この預言は、単に疲れた人を励ますことばではない。また、「苦しみがなくなる」「問題が解決する」「人生が楽になる」という約束でもない。

 これは、神によって試練の中に置かれた神の民が、その試練の中で新しい力を受け、最後までキリストの証人として歩み続けることを語る預言である。

 すなわち、ペンテコステ以降、神は聖霊によって、すべてのご自身の民をイザヤが約束した『主を待ち望む者』として歩ませておられる。


 主イエスは、使徒の働き1章8節で弟子たちに言われた。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」


 ここで約束された「力」は、人間の勇気でも能力でもない。聖霊によって与えられる新しい力である。その力は、使徒たちの生涯にどのように現れたのか。

 

 使徒の働きを読むと、そこには試練のない人生は一つもない。しかし同時に、そこに登場する人々は決して特別な人間ではない。彼らは私たちと同じ人間である。空腹になれば食事をする。疲れれば眠る。悲しみ、涙を流し、恐れ、悩み、互いに語り合い、励まし合いながら生きた。肉体を持ち、この地上を生きる、ごく普通の人々であった。

 

 ペテロは主を三度否んだ。人を恐れる弱さを持っていた。それでも復活の主は彼を見捨てず、聖霊によって立ち上がらせ、最後までキリストの証人として歩ませた。

 ステパノは、石を投げられれば痛みを感じる肉体を持っていた。それでも彼は、聖霊に満たされ、天を見上げ、栄光のキリストを見つめながら証を続けた。

 パウロもまた、決して鋼鉄の人間ではなかった。彼は苦しみを苦しみとして感じた。飢えも寒さも、鞭打ちの痛みも、投獄の孤独も味わった。仲間との別れには涙を流し、自らの弱さを隠さず、「私は弱いときにこそ強い」と告白した。

 

 また、使徒たちだけではない。エルサレム教会の兄弟姉妹も、家を失い、迫害によって散らされた。ピリポは故郷を離れた。パウロとシラスは獄中で鎖につながれた。彼らは痛みを感じない人々ではなかった。恐れを知らない人々でもなかった。疲れない人々でもなかった。

 

 それでも彼らは、自分の十字架を背負い、キリストの後に従って最後まで歩み続けた。なぜか。彼らが強かったからではない。聖霊が彼らをキリストへと向け続けられたからである。

 

 試練、苦しみ、痛み、悲しみの中で、自分への望みは砕かれた。自分の力では前に進めないことを知った。自分の知恵では道を切り開けないことを知った。自分の義では神の前に立てないことを知った。そして、キリストだけが最後の望みとなった。キリストだけを待ち望む。彼らは、主を待ち望む者とされたのである。

 

 彼らの生活は、食べること、眠ること、働くこと、人と交わること、そのすべてが私たちと同じであった。

違いは一つだけである。彼らは、その日々の生活のただ中で、御霊によって歩み、御霊に満たされ、試練の中でキリストだけを最後の望みとして生きたのである。イザヤ書40章31節が描く「主を待ち望む者」である。

 

 そして、この歩みの源泉は栄光の望みキリストである。「鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない」という預言が、新約において御霊によるキリストの証人として現れた姿なのである。

 その「新しい力」とはそれは人間の能力でも、精神力でも、熱心さでもない。その源泉は、人間の内側にはない。栄光の望みキリストである。

 

 父なる神は、時の始まる前にご自身の民を御子キリストと結び合わせ、選んでくださった。キリストとの結合こそ、すべての救いの源泉である。聖霊は、その結合を私たちに実際のものとして与えるために、時の中で私たちを再生された。その結果として、私たちは信仰へと導かれ、悔い改めへと導かれる。神はキリストの信仰と通して義を私たちに与え、私たちを義と宣言された。そして現在、聖霊は、私たちをキリストの御姿へと造り変えていかれる。この聖化とは、人間が努力して自分を変えることではない。キリストとの結合に生きる者のうちに、神の新しい創造がこの地上に現れていく神ご自身の御業である。神は、ご自身の民を試練の中に置かれて育てられる。

 

 苦しみの中に置かれる。痛みの中に置かれる。その中で、自分の力は砕かれる。自分の知恵は尽きる。自分の義は打ち砕かれる。そして、神は信仰を創造される「キリストこそが最後の望み」神はご自分の民をキリストだけを最後の望みとする人々へと造り変えられる。これはイザヤが預言した「主を待ち望む者たち」である。

 

 主を待ち望むとは、自分で考え方を変え、勇敢になり、忍耐して時を待つことではない。神が試練の中に神の民をおかれ、自分への望みを失い、それでもなおキリストだけに最後の望みを置かされることである。神を待ち望む心は、個人の決心、一時的な感情や神学知識ではない。それは神が聖霊によって造り出される、信仰者の生き方に結びつく。

 

 神に再生された神の民はやがて照明を与えられる。再生される前は問題に直面するたびに試練は嫌だ、苦しみ、悲しみは嫌だ。逃げたい。それらの問題は悪魔から来ている。呪いや罪から来ていると信じていた。

 

 しかし、再生された神の民は御霊によって教えられる。照明を与える。神の民の人生、その信仰の人生とは、試練のない人生ではない。信仰の人生そのものが、神によって導かれる試練の歩みである。その試練を通して、神は肉を砕き、自分への望みを取り去り、キリストだけを最後の望みとする者へと造り変えられる。だから、「主を待ち望む者は新しく力を得る」と。

 

 この「新しい力」とは、人間が新たな気力や精神力を得ることではない。キリストとの結合から流れ出る復活のいのちが、聖霊によって信仰者のうちに働き続けることである。その力によって、信仰者は試練の中を歩み続ける。苦しみの中を走り続ける。罪との戦いを続ける。キリストだけを望みとし続ける。神が定められた道を最後まで歩み続ける。

 

  そして、このキリストの証人としての生き方を、神はイザヤ書40章31節で次のように表された。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」 神は信仰者を鷲のように描かれた。それは、試練のない空を自由に喜び飛ぶ姿ではない。ユダヤ人にとって鷲は、神に支えられ、高く保たれ、困難の中でも前へ進み続ける鳥であった。神はその鷲の姿を用いて、信仰者の歩みを描かれたのである。

 

 信仰者は、神によって試練の中へ導かれる。その中で肉は砕かれる。自分への望みは失われる。しかし、その試練の中で、神は聖霊によって新しい力を与え、キリストだけを最後の望みとして歩ませてくださる。

 

 だから、「鷲のように翼を広げて上ることができる」とは、困難のない人生ではない。神に支えられ、試練の中でなお高く保たれ、最後までキリストの証人として歩み続ける姿なのである。神によって試練の中へと導かれ、その試練の中で肉が砕かれ、自分への望みが取り去られ、それでもなおキリストだけを最後の望みとして歩み続ける姿である。「主を待ち望む者」とは、そのような者である。

 

 試練の中で、自分の力では前に進めないことを知る。自分の知恵では道を切り開けないことを知る。自分の義では神の前に立てないことを知る。そのようにして、自分への望みは失われ、キリストだけが最後の望みとなる。そのとき、「主を待ち望む者は新しく力を得る」という預言が、その人の歩みの中で現実となる。

 

 その新しい力とは、苦しみを取り除く力ではない。痛みを取り除く力でも、神秘的な力でもない。試練の中を最後まで歩ませる力である。倒れそうになっても立ち上がらせる力である。絶望の中でもキリストを見上げ続けさせる力である。それは、キリストとの結合から流れ出る復活のいのちが、聖霊によって絶えず信仰者のうちに働く力である。「鷲のように、翼を広げて上ることができる」とは、困難から逃れることではない。神が備えられた試練の中で、聖霊によって支えられ、キリストだけを最後の望みとして歩み続ける姿である「走っても力衰えず、歩いても疲れない」とは、苦しみ、痛みをどれほど感じたとしても、どれほど試練が続いても、神が与えられた使命を、キリストだけを望みとして最後まで歩み続けるということである。

 

 これこそ、使徒の働きで約束されたキリストの証人の姿である。

 

 ペテロも、パウロも、すべての使徒たちも、そして神に救われた真の信仰者である兄弟姉妹たちも、苦しみや迫害を避けたのではない。神によって試練の中に置かれ、その中で肉は砕かれ、自分への望みを失い、その中で主を待ち望み、その中で聖霊による新しい力を受け、最後までキリストを証しし続ける者とされたのである。この歩みは、使徒たちだけに与えられた特別な歩みではない。

 

 キリストとの結合によって新しい創造とされた、すべての神の民に与えられた歩みである。イザヤ書40章31節は、神に救われたすべての兄弟姉妹たちの望みでもある。神は信仰者を試練の中に置き、その中で肉を砕き、自分への望みを取り去り、キリストだけを最後の望みとする者へと造り変えられる。そして、聖霊によって新しい力を与え続け、最後までキリストの証人として歩ませてくださる。

 

 それゆえ、イザヤ書40章31節は、単なる慰めのことばではない。神が、ご自身の民をキリストとの結合へと召し、再生し、信仰と悔い改めへ導き、義と認め、聖化し、試練を通して肉を砕き、主を待ち望む者へと造り変え、御霊によって歩ませ、最後までキリストの証人として生かされるという、救いの全体構造を指し示す預言なのである。この預言は、使徒たちだけに成就したのではない。今日も、キリストとの結合によって新しい創造とされたすべての信仰者のうちに、聖霊によって成就し続けている。

 

 信仰者は今日も食べ、眠り、働き、家族と語り、涙を流し、ときには恐れ、弱さを覚え、時には倒れ生きている。しかし、その日常のただ中で神は試練を与え、その試練を通して肉を砕き、キリストだけを最後の望みとする者へと造り変えられる。

 

 そして神は、聖霊によって信仰者を新しく生まれさせた時に与えられた新しい創造のいのちを、この地上の歩みの中で、その信仰者の心に現し続け、最後まで守り、歩ませてくださるのである。

 

 ガラテヤ6章で語られる新しい創造とは、神が信仰者を再生された時に与えられた新しいいのちである。神は御霊の働きによって、試練を通して、「栄光のキリストこそ最後の望みである」と信頼する信仰を、信仰者の心に現してくださる。

 

 これは聖化の中核である。

 

 そして、この本物の信仰は、神によって信仰者の内に保たれ、永遠に消えることはない。

 

 神の民は「走っても力衰えず、歩いても疲れない」。それはキリストの強さである。キリストとの結合から流れ出る復活のいのちが、聖霊によって絶えず支え続けておられるからである。

 

 イザヤ書40章31節の預言は、新約において御霊によるキリストの証人として成就した姿である。

 

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